日曜日, 11月 29, 2009

「坂の上の雲」について思うこと―前回に続けて

前回同様、この書物を過去に一度読んだままで、書棚にまだある本で目次だけでも確認したりすることもなく書いている。

記憶にある限り、この何分冊にも分かれた長編の可成りの部分、恐らく半分以上は日露戦争に関わる内容であったように記憶している。だから当然といってもいいが、この小説のテーマは日露戦争という相場になっているし、もちろんそれはそれでいいのだが、しかしこの作品から日露戦争に直接関わる時期の部分のみを取り出した場合、それはそれで興味深く読むことは可能だろうが、やはりそれでこの小説を読んだことにはならないだろう。すくなくとも私にはそういう読み方はできないだろう。

時間的には日露戦争に直接関わる時期よりも、小説の書き出しからその時期に至までの時間の方が当然、ずっと長い。そして私がこの小説から受けたインパクトの時間的な比率からいっても実際の現実の時間的比率に比例していると言える。要するに登場人物の年齢というか、登場人物達の過ごした時間に比例する割合に近い比率での印象、インパクトを受けていると言える。もう一度言い直せば、登場人物達の過ごした各時期の比重が実際の時間に比例しているとも言える。

確かにクライマックスは日露戦争の期間にある。しかし作品の中でそのクライマックスが半分以上を占めているというのは、クライマックスの概念には反するとまでは行かないが、例外的かも知れない。

そういう意味であくまでこの作品は個人、複数の、それぞれの個人を描いた小説であり、日本という国の明治の一時期、日露戦争の時期を含めた歴史はあくまで背景であり、各個人の外側にある環境としてして捉えられているように思われた。その環境自体は非常に重要であることは当然ながら。

すぐれた歴史小説はやはりそういうものでなければならないだろう。もちろんそこには多くの問題、矛盾が見いだされるであろうが。

今回のように映画やテレビドラマになる場合、したがって現実の時間に比例して描かれることが理想なのだと思われるが、しかし、それはまず無理だろう。しかし、そういう制作の仕方も考えられるのでは、と思う。具体的には、戦争に突入する段階でドラマを終える事である。あるいは戦争に突入する段階から後を省略し、最後に戦争の終結時点の描写を簡単に付け加えることである。今回のNHKドラマがどのようなものになるかはわからないが、そのような行き方もあるのではないか、と今になって思いついたので、めもしておいた次第だ。

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