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水曜日, 7月 07, 2021

自転車の効用を見直す

 私には70歳代後半から80歳代にかけての姉が3人いるが、少なくとも脚の健康度において最上の状態を維持しているのは一番年上の姉である。電車やバスは使うが、そのための徒歩移動や日常の徒歩移動には何も問題がない。彼女はそもそも最初から自転車は使ったことがなく、電車やバスを使えない部分はいつも歩いてとおしてきた。

それに対して二番目の姉は大の自転車好きであり、ここ数年は脚が弱って普通に歩くことも覚束なくなってしまったので、もっぱら近隣への移動も自転車だけが頼りで、自転車なら片道3キロくらいのところでも苦にならないという。ちなみに肥満体でかなりの高血圧症でもある。

三番目の姉は自転車は使わないが、夫や子供が自動車に乗るので、結構自動車に乗る機会が多かったように思われ、長距離を歩くことは苦手であったようだ。最近は脚以外の何らかの健康上の原因で歩けなくなり現在治療とリハビリ中であり、なんとか元に戻ることを願うばかりである。

私自身は生来、体力が平均よりも劣り、健康面でも若い頃は風邪を引きやすく毎年のように一度は風邪で数日間にわたって寝込むことも多く、今もその影響で慢性鼻炎が直らないのだが、最近は風邪を引くことも少なくなり、若い頃よりもむしろ健康になったきた自覚があるのは、やはり若い頃からスポーツは苦手であっても歩くことだけは好きで、都会に住んでいるときもできるだけ地下鉄やバスを使わず、1~3駅くらいの距離は歩くことの方が多かったほど、歩くことが好きであったことが大きく寄与しているものと思う。学生時代は自転車を使い、田舎地方で勤務しているときは小さな中古自動車を所有していた時期もあるが、一度首都圏に転居してから後は自動車も自転車も全く使わなくなった。

自動車を使わないのは、まずコストがかかることが理由であることは言うまでもない。自転車を使わないのは、使い方が煩わしいことに尽きる。田舎住まいなら良いが、郊外を含めて都会で自転車を使うのは煩わしく、自分で言うのもなんだが、繊細な神経の持ち主である私には向かないのである。逆に、それだけ他人の自転車のマナーの悪さには毎日辟易している。

自転車は社会的にも称揚されることが多い。理由としていろいろ挙げられるが、人力で動くということから、「人間的」とか「ヒューマン」だとかの表現で良い意味で称揚されている。しかし、人力で機能するというなら、ナイフや金槌も人力で使う道具であり、役に立つ目的で使うこともできれば、人を殺すために使うことも簡単である。人力ということと人間性や倫理的な価値とは何の関係もない。一方、でエコとか省エネという意味で自転車が称揚されることも多いが、この点の欺瞞性については、ここでは取り上げる必要もないだろう。

そもそも自転車を好んで使用する人にはもともと大雑把で無遠慮で、あえて言えば自己中心的な傾向の人が多い可能性が考えられないこともない。こう考えてくると、社会的に自転車を特に称揚する理由はあまりないと思われる。健康増進の点では歩くことの方がよほど優れていることは専門的にもいわれているし、冒頭に述べたように個人的な経験からはほとんど自明といっても良い。もちろん自転車もマナーさえ守れば経済性の面で庶民の見方であることには変わりないので、自転車道路の整備や歩道での走行許可も可能な範囲で進めるのは悪いことではないが、歩行者にしわ寄せがくることが無いように進めて欲しいものである。

さらに重要なことは健康と長寿において歩くことの重要さをもっと社会的にも称揚すべきだろう。もはや歩くことが困難で自転車なら使えるという状態になってしまったご老人などは仕方がないが、都会においては自転車は買い物や荷物運び、あるいはある程度の長距離使用にとどめるという節度を称揚すべきであり、右側通行や歩道での高速運転などの法律違反は厳重に取り締まるのは悪いことではないと思う。

木曜日, 6月 24, 2021

ワクチンと人々の世代、そして階層 ― ワクチンへの依存心という問題

 先月の初めか中頃だったが、仕事の件で私と同年の友人に電話したときにワクチンの話にになり、彼がこの問題で子供達と対立関係にあることを知った。当時その友人はワクチン待望派であり、その時すでにワクチンを打つことに決めていた。この点で私とも意見が対立していたわけだが、彼はそもそもワクチン好きで、これまでも毎年インフルエンザワクチンを打ちつづけ、近年には年配者に案内が来る肺炎のワクチンも打ってきたそうである。そして娘さんにも子宮頸がんのワクチンを打つことを勧めているというのである。その娘さんはワクチン忌避派であるとのこと。もちろん、その娘さんも立派な成人だから、彼も無理に子宮頸がんワクチンを押し付けるようなことまではしないとは思っている。

一方、私は、インフルエンザワクチンは、たぶん中学校で集団接種して以来、打ったことがなかったし、何年か前に来た肺炎のワクチンも、初めてのことで少々気にはなったが、申し込まなかった。一つの理由はもちろんこれらのワクチンは有料であったことも理由のひとつである。ということで、この友人の家庭では親子の世代間で対立があり、この友人と私は、ワクチンを打つという習慣において対立とは言えないが、受け止め方にかなり大きな差があるといえる。

一方、ごく最近私は東京から大阪府内に引っ越し、もともとこちらの出身だから知り合いのワクチン対応ついても色々と情報が入るようになった。

1つの顕著な状況として、私より一回り上の世代では、上記の友人のような親子間の意見の対立は表面には現れず、むしろ子供達からワクチン接種を勧められたり、懇願されたりというケースが目立った。どうも子供たちにとって親がワクチンを打たなくては肩身が狭いという面があるらしい。その子供達は、世代的には、先ほどの東京の友人の子供達よりは一回り上であって、もう50歳代でそろそろ60歳にさしかかりそうな年齢である。

その50歳代の知り合いの女性の話だが、最近大学生になったばかりの息子から、ワクチンを打つな、とせがまれているという。本人がどうするつもりなのかについては聞かずにいるが。

先に触れた、私より一回り上の世代には当然、もう十分に成人となった孫がいる、その孫は先の50歳代の女性の子供と同世代である。彼らがどう考えているかについては大いに興味があるが、残念なが私とは直接の面識もなく、少なくとも直接には知る由もない。

また私たちを取り巻く情報空間の状況も刻々と変化する。もっともテレビと新聞についてはそう変わりそうもないように思えるが。

何れにしても世代間の違いは相当にあることは確かである。一方で経済的な階層間の違いもあるように思われる。ある程度以上裕福な層はワクチン接種の費用など惜しむ必要はないので、毎回、当然のように打つ習慣が出来上がっている人々も多いだろうと思う。そういう世代ではワクチンへの依存心もできているのではないだろうか?一方、裕福ではない階層の場合、ワクチンを打たない習慣が出来上がっている人々も多く、そのような階層では、ワクチンを打たなくても病気にかかっていないのであれば、ワクチンへの依存心自体も高くはないのではないだろうか?

ここで一つ、ワクチンに関して新たなキーワードが浮かび上がってきたように思う。それは「ワクチンへの依存心」という問題である。一方でワクチンの信頼度という問題があり、現在主に議論の対象になっているのはワクチンの信頼度あるいは危険度とでもいう問題だろうと思われ、これが飛び交う議論の大部分はこれであるけれども、一方でワクチンへの依存心という心理的な問題にもスポットをあてるべきではないかと思われる。また、若い世代のようにワクチンに対して懐疑心が強まれば、必然的に依存心も弱まることが、十分に考えられる。これは古くから言われる「病は気から」に関係することでもあり、また自己免疫力、抵抗力の問題にも関わる問題ではないかと思うのである。



水曜日, 1月 06, 2021

心の四つの機能と感染症対策 ― ブログ・発見の発見の記事採録

以下の記事は筆者の別ブログ『発見の発見』の最新記事の再録です。ブログ・発見の発見は、一応何らかの学問分野に該当するような、多少は体系的なタイトルと内容で記事を書いています。ただ、今回の記事は本ブログで最近の一連記事のテーマであるCOVID-19感染症対策とマスクの問題に関係していますので、こちらの方にもそのまま再録することにしました。

タイトル:心の四つの機能と感染症対策

 COVID-19感染症対策については、オーソリティ側を含め多くの専門家のコメントがマスコミやネットを通じて日々伝えられている。ただし、意外でもあり不満でもあることのひとつは、心理学者や脳科学者などからの発信が少ないように見受けられることである。というのは、病気の予防対策というものは多分に精神面との係わりが大きいし、さらに免疫機能にも関わる問題であり、免疫機能については精神面との強い関係に言及されることが多い。一言でいって心身相間に深く関わっていると思われるけれども、この心身相間の問題は話題に上されるようになって久しいが、最近に至って権威筋の方で話題になる機会が少なくなってきているように思われる。もちろんマスコミや一般教育を通じて一般人に伝わる限りにおいての話である。今般のCOVID-19感染症対策においてはロックダウン、三蜜、マスク着用といった極めて心理的、あるいはメンタルな、それも個人的のみならず人間関係において影響力の大きな対策が中心となっている。こういう場面においてこそ心理学者や、医学においても心身医学といった分野の専門家の出番ではないかと思うのだが、特にオーソリティの側ではそういう動向が見られないことに不満が持たれる。世界的にその傾向があるのではないだろうか?


私はかなり若い頃、20代の頃に、心の四機能について説かれた有名なユングの著作『心理学的類型』を読んで感銘を受けたことが消えない記憶として残っている。感覚、感情、思考、直観、という四つの概念はそれ以前から当然あり、哲学的または心理学的に考究されていたには違いないが、この著作ではそれらが心の四つの機能として体系的に概念化されていたこと、そして特に直観について印象的な考察が行われていたことに強い印象を受けた。その後私自身は心理学を専攻することも、歴史的に研究することもなかったが、ときおり心理学方面の話題に触れる機会はあった。この期に及んで思うに、この間この点におけるユングのこの業績(あくまで心の四つの機能に限定した業績)がどのように受け継がれ、進展させられたのかが気になることもあったが、その後の、学問研究とは無縁な経歴上、学問的な動向については通暁していない。しかしメディアや書籍情報を通じて漏れ伝わってくる限り、あまりこの点では進展がないような印象がある。

最近の傾向として感じられることは、以前は心理学の問題として心理学者によって、特に一般向けメディアを通じて話題に上されてきた問題が、心理学者ではなく脳科学者によって脳科学の業績として語られることである。脳科学と心理学はどう違うのかと考えて見ると、字面上、脳科学は臓器としての脳を対象とした生理学的研究を重視しているらしいことは見当がつく。しかし脳科学とは異なる印象がある精神分析学の開祖であるフロイトは神経科学の研究からスタートしたのであり、精神分析学を樹立した後も神経科学を捨象したわけではないと思う。であるから、現代の脳科学は精神分析学とは別系統であるとは言えず、一面で言えば、研究分野の名前が変わっただけという見方もできる。

フロイトは『精神分析学』という名称を商標のように、自説ないし自説に追随する言説に限定したので、ユングは自説を『分析心理学』と呼んだと言われている。この伝で言えば『脳科学』も、そういうブランド名のように考えることもできる。とはいえ脳科学はその言葉の本来の概念を適用すればもっと広範な領域を含意しているような印象を受ける。いずれにせよ問題なのはこのように学問の分野名ないし分類名が変わることによって、それまでのその分野の成果から大切な要素が忘れ去られたり、はじき出されたりするのではないかという危惧である。その意味で、ユングの『心の四つの機能』はもっと応用され、再検討され、多面的に展開されるべきではないかと考えている。

そこでこの心の四機能を、タイトルと冒頭で言及したCOVID-19感染症対策の問題に適用してみたい。この感染症対策としてはいろいろ問題にされているが、代表例として最も目立つマスク着用の判断という問題との関連で少し考察してみたい。もっともユングの『心理学的類型』における理論は心の四機能と外向的、内向的という概念と結びついているので複雑であるし、私はそれを総合的に理解しているわけでもない。以下の考察は単にマスク着用の是非判断にこれらの四機能がどのように寄与しているかという大雑把な考察のみである。当然、医学専門家、法律家、行政側、一般公衆、等々といった立場の違いなども考慮できるようなゆとりもない。

【感覚との関わり】
まず第一に、視覚、聴覚、触覚、その他の身体感覚、どの種の感覚によってもウィルスの挙動はもちろん、存在すらも知覚できないという基本事実を無視することはできない。したがって、感覚的にはマスク着用が快適であるか不快であるかが判断できるのみであって、感覚を元にその着用の是非を判断できるわけではない。

マスク着用では不快感の方が大きいことはまず間違いがない。寒い季節には身体に暖かさが得られるのでこれは快感といえるが、鼻まで覆うと冬季でも呼吸に悪影響が及ぶし、口の周囲がじめじめして不快である。またメガネをかけていれば視覚にも悪影響を及ぼす。

一方、これは感覚だけではなく感情にも関わっていると思われ、微妙なところだが、視覚に限らず身体感覚を考慮しても、感情的にはマスク着用で自らは守られているような安心感が得られることは確かであろう。ただしそのような安心感がメリットであるかデメリットであるかは別の問題である。


【思考との関わり】
ウィルスはいかなる感覚でも直接感知できないものである。ウィルスによる感染という状態、感染や発病のメカニズムなどはすべて長い歴史上に積み重ねられた膨大な医学的研究成果に基づいているのであって、ウィルスやそれによる感染症という概念自体が感覚でも感情でも直観でもなく思考機能に基づいている。とはいえ、思考のプロセス中に感覚は欠かせないものであり、また感情や直観が影響を及ぼす可能性はある。ウィルスによる感染症の概念と、その感染拡大に対する防衛としてマスクを着用するということ、それも感染症の症状を持つ患者や特定の検査結果の陽性者のみならず国民全体が常にマスクを着用して生活すべきだという現在の国家的方針との関係が科学的思考のみに基づいているとは常識的にも到底想像できないことは言うまでもないことだろう。

一つの問題として、ウィルス感染とか感染拡大、何らかの検査における陽性反応、等々、諸々の概念自体にどれほどの確実性があるのかが心許ないといえるが、当面はそれらの概念のいわば言葉の土俵の上で考察するしかない。

科学的な考察を進めるうえでは大きく分けて次の二つの異なる方向性がある。①一方は実験を含めたメカニズムの理論的考察であり、②もう一方は過去のデータによる統計的な分析である。ここでこれ以上考察を進めるいとまはないが、現実問題として②の方向性をとらざるを得ないのではないだろうか。個人的には結論としてマスク着用、正確に言えば全国民的なマスク着用の感染防止効果は確認できていない印象を持っている。

【感情との関わり】
マスク着用に関する感情的な反応は、自分自身のマスク着用に対する判断における動機と、他人のマスク着用に対する印象とに分けられると言える。第一に挙げられる要素は『恐怖』、すなわちウィルス感染と重症化、さらには死に対する恐怖であることには間違いがない。しかし、病気や死に対する恐怖心はだれにでもあり、一方に安心感というものもある。恐怖と言うのは潜在的には常にあるが、恐怖の原因によって呼び覚まされるものである。恐怖にしても安心感にしても、それらを呼び起こすものはウィルス感染症とマスク着用効果に対する知識であり、それは思考作用の結果とはいえるが、その結果は自分自身の思考による場合と他者の思考による場合がある。もちろん純粋にその両者の一方だけということはあり得ない。また自分以外の他者は多人数であり、メディアを通じてさらに多人数である。それぞれ思考の特性、端的に言って考え方も違っていれば利害関係もある。

【直観との関わり】
直観について考察するのは難しい。今の私はユングが述べている直観についてよく理解しているわけでもないし、ユングが影響を受けたカント哲学にさかのぼって考察できるような素養も持ち合わせていない。ただ、これはカントでもユングでもないが、カッシーラーが『シンボル形式の哲学』の最終巻で、『表情機能』というものについて述べていることが思い起こされるのである。この辺りはこの著作の中でも最も難解かつ深遠な部分のように思われ、私に十分理解できたとも思えないが、直感に最も関係があるようにも思われる。一方、人がマスクをしている他人を見て大いに気になることの一つは表情の問題である。顔の下半分、特に口元が隠されることにより表情が読み取りにくくなったり、悪い印象を受けたりすることによる弊害が指摘されている。これは立場によりメリットともデメリットともなり得るが、この表情を表現したり、表情を読み取る心の機能は感情機能とも思考機能とも感覚機能とも異なるが、直感ともっとも関係が深いようにも思われる。この場合は感覚機能の中では視覚と関係が深いが、視覚以外の身体感覚にも関係がないとも思えない。この問題は少なくとも個人的に、今後の課題となりそうな予感がしている。

金曜日, 10月 23, 2020

ウィルス感染対策としてのマスク(非)着用の論理

 前回と前々回の記事で、ウィルス感染対策として、少なくとも国レベルでマスク着用を義務化あるいは要請することに意味がないことが、スウェーデンの経験から判明しているという考えを述べた。もちろんそれは国のようなレベルで、全体として統計的な結果が意味を持つ単位での対策としてであって、個々の環境や個人的なレベルでの是非はまた別の問題である。それについては同記事で引き続いて考察し、述べている。また、上記は統計的な結果にのみ基づくもので、具体的なメカニズムや個々のメリット、デメリットについては詳しく考察していないので、もとより専門的な知見からでは全くないが、日常的な言葉で可能な論理の範囲から考察してみたい。

【スウェーデンの実績が持つ意義と重要性】
その前にまず、スウェーデンの実績から国家的なレベルでマスク着用を求める必要がないという結論を導き出すという、一見単純な論理の重さをもう少し強調したいと思う。一般にマスク着用やロックダウンなど三蜜対策を要求する論理は感覚的な直観のみに訴えるのみであって正確で具体的な論理を欠いている場合が多い。例えばつい最近ツイッターで見られた次のような主張である。

「オランダ人もあまり規制を好まない。そこで、コロナ感染が急増しており、病院がパンク状態になりつつある。」

ここでは単純に、[オランダ人が規制を好まない]という事実認識と[コロナ感染急増]という事実認識を恣意的に結び付けているだけであって論理が何もない。感覚的な印象に訴えるだけである。この論者は同じようなツイートを沢山しているが、いずれも個々のケースの印象だけで単純に結論を述べているだけであって、2つ以上のケースを比較するという視点が全く見られない。科学的な論理は「比較」から始まるのである。スウェーデンのケースから結論を導いた私の論理は一見、スウェーデンの実績のみに基づいているように見えるが、実際にはスウェーデンと他の諸国との比較に基づいているのである。


ここで今回の本題に戻りたい。まずいくつかの前提事項を整理してみたい。

【他のウィルス感染対策と比較した場合のマスク着用の際立った特徴】
マスク着用には他の個人的ウィルス感染対策とは明らかに異なる際立った特徴がある。それは視覚的に、その個人が対策を行っていることが一目瞭然であることに尽きるといえる。これは実際の対策の効果とは無関係であることに注目すべきである。それは、マスクは眼に見えるがウィルスは眼に見えないという事実に他ならない。つまり、マスク着用自体は一目瞭然であるが、その効果については他の対策と同様に一目瞭然では全くないのである。

【専門家の知見に基づいて一般にも通用しているマスクの効果】
これには、科学的にもいろいろな意見があると思うが、まず次の2点が一般的に合意されていると考えられる。
(1)普通のマスクはウィルスを通過させる。
(2)マスクは着用者が鼻や口から飛沫が飛ぶことを防止する。

注意すべきことは、いずれもウィルスによる感染とは関係がありそうではあるが、本来は別の問題であるということである。問題なのはこの時点で思考が停止してしまい、ここから直接ウィルス感染の議論に飛躍してしまうことだ。そして、(1)はマスク無用論の論拠となり、(2)はマスク有用論の根拠となる。そこで誰もがウィルス感染者である可能性があることから、(2)の論拠が優先され、マスク有用論が優勢になっていると言える。

しかしここには前述のとおり、ウィルス感染とは何かという、考察すべき問題の飛躍があることに加え、マスク着用に伴うその他のメリットやデメリットが、全く考慮されていないという問題がある。

【マスク着用のその他のメリット】
取り合えず次の点は私の個人的体験からも確実に言えると思われる。
(A)寒冷時に呼吸器内の温度と湿度の低下を緩和する。これは免疫作用にも良い影響を与えるかもしれない。
(B)着用している側では心理的な安心感が得られる。

【マスク着用のデメリット】
個人的に気付いたり、教えられたりした範囲でデメリットを列挙してみたい。
(a)寒冷期以外では上記(A)と逆の結果となる。呼吸機能の低下や夏季における体温の過剰な上昇や湿気による不快感が原因で免疫力の低下につながる恐れがある。
(b)マスクにはウィルスが滞留するがマスクには手を触れざるを得ない。マスクによって接触によるウィルスの移動可能性がむしろ増えるのではないか?これはあまり指摘されることがないが、実は誰もが内心気になっているのではないだろうか?他の人が実際に清潔なマスクをしているかなど、誰もチェックしていないし、できもしない。
(c)マスクは一種の覆面であり、公共の場でマスクをした姿が普通の状況になることによる心理的な影響については深刻な危惧がもたれる。例えばつい最近、Twitterで次のような投稿に遭遇した:https://twitter.com/GodChild_jp/status/1319171122336722944
何よりもマスク姿は心理的に気分を低下させるし、それが免疫力にも悪影響を与えると言われている。
(d)メガネが曇る。これは私が個人的にも最も困っているデメリットであるけれども強度の近視や乱視でメガネなしでは外出できないような人たちにとっては切実な問題で、深刻な危険を伴うものである筈である。

【東京大学で行われたマスク防御効果の実験について】
実は、以上の記述内容はだいたい昨日に書いたものである。昨日の深夜、テレビ東京のWBSニュースを見ていたら、実際の新型コロナウィルスを使ってマスクの防御効果をテストしたという東京大学で行われた実験結果が伝えられた。それによると、得られた数値は飛沫状の水に含まれた新型コロナウィルスのマスクによる透過率と言うべきもので、それらの数値は正確に記憶していないが、総合的に50%前後であった。しかしその数値がそのまま防御率という概念につながるいうことは難しいと思う。早い話が、マスク着用によってマスクにウィルスが滞留するので、皮膚接触によるリスクが逆に増えることすら考えられるのである。根本的には、次に述べるように、ウィルスの存在や移動とウィルスに感染するということはまた別の概念である。結局のところこの結果はマスク着用の1つのメリットと言える範囲であり、「防御効果」という、ある意味総合的で定義の難しい概念に帰着させるべきではないと思う。


詰まるところ、最も基本的な問題は、単なるウィルスの存在や移動と、ウィルス感染との関係性が明確ではないことにある。もっと端的に言えばウィルス感染、具体的に言えば新型ウィルス感染とは一体どういうことなのか、そもそも感染あるいは感染者の定義はどういうことであるのかという問題に尽きるのではないだろうか。現在、毎日「感染者」という言葉がニュースで発せられる。しかしこの新型コロナ事件が問題になる以前に感染者という言葉はそんなに聞いた記憶がない。似た言葉で患者や罹患者、あるいは保菌者というような言葉はよく聞いたことがある。ウィルスと細菌の場合で、あるいはウィルスにしても細菌にしてもその種類によって性質はさまざまであることは分かるが、今回ほど感染者と言う一つの言葉に日々政府関係者やマスコミが一喜一憂しているような経験は初めてである。そこで私は今年の四月に別ブログ「意味の周辺」で次のような記事を書いた。「感染者という言葉の一人歩き」という記事である。その後数か月経ってから今ではかなり知られるようになったあの大橋眞・徳島大学名誉教授のユーチューブ抗議シリーズに遭遇して、改めて感染という概念についてかなり理解を深めることができたと考えている。この先生は「新型コロナウィルスの存在自体の懐疑論者」として言及されることが多いように見受けられるが、例のユーチューブシリーズで説かれていることはそれ以上にPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)検査の本質や感染、感染者の概念と言った基本的な認識についての説明であり、私達は新型コロナウィルスの存在自体の問題よりもまず、それらの説明について耳を傾けるべきである。そこで私達は、ウィルスに感染するということはウィルスが我々の身体の細胞に入って増殖することであって、それは何らかの症状となって現れるはずであり、無症状の人からウィルスが検出されたとしても、それでその人がウィルスに感染しているとは言えないのではということを教えられる。改めて自分で考えて見ても、それはもっともな話である。そもそも人は四六時中呼吸をして息を吐き続けている。一時的に呼吸器内にウィルスが侵入したとしても、それが体内で増殖しなければ、絶えず吐き続ける息からウィルスを拡散し続けるようなことができるわけはないのである。これは専門家にとっては常識であったのだろう。だからこそ、はじめは、症状のある人に対してのみマスク着用を求める意見が多かったのである。それが先にも述べたように「マスクは飛沫の拡散を防ぐ」という、一つの分かりやすい説明だけで多くの人々が思考を停止してしまったようなものである。

【病原体の存在や移動と個人の抵抗力(免疫力)との二面性】
ある程度でも感染の概念に気が付くようになれば、ウィルスへの感染について考える場合、常に病原体の存在や移動と個人の免疫力との二面性を考慮すべきことに気づく。ウィルスの存在と移動の原因は多分に不可抗力によるが、個人の免疫力についてはもちろん天性にもよるが、かなりの程度は各自の心掛けと努力次第でもある。上記のような様々なメリット、デメリットを勘案する場合にはまず免疫力に関わる要素を重視すべきであろう。

【まとめ】
という次第で、マスク着用または非着用については上記のようないくつもの前提事項、メリットやデメリットを個人個人が総合的に判断して、各自が判断すべき問題であると言える。国のような全体的なレベルで全員に着用を要請することには、上記スウェーデンの景観からも意味がないというべきである。もちろん、顕著な症状を持つ本来の意味での感染が疑われる個人についてはこれは該当しない。


水曜日, 10月 14, 2020

前回に続けて ― メディアの一部から垣間見えるマスク非着用デモンストレーションのサイン

前回の記事で、新型コロナ感染症対策として、国のような全体的なレベルでマスク着用の強制あるいは要請が意味がないことを理解するにはスウェーデンの経験を参考にするだけで十分だという考えを述べた。スウェーデンではマスクを強制も要請もしなかったにも関わらずほかのヨーロッパ諸国を上回るような「感染拡大」が生じなかった理由としては「集団免疫」ということがよく言われている。私はもちろん専門家でもなく個人的にもそこまで勉強していないので集団免疫の理論が正しいのかどうかはよくわからないが、何れにしても、このような結果を示すデータだけで十分であろうと思う。当面のマスク着用を考えるという目的では、理詰めで追究しなくても、単なる実証結果としてみるだけで充分であると思う。

というのも、この問題を理詰めで、理論的に議論しようとしても、マスク着用が不要であるかデメリットの方が大きいと考える私のような立場から、他の反対の考えを持つ人人に直接問題を投げかけると、必ず何らかの反論が提起される。そこで冷静に議論できれば良いけれども、普通はそうはゆかない。根拠を理論的なものではなくスウェーデンにおける経験のようなデータだけにとどめて置けば、そういう勝敗のような感情的な傷は少なく済む。

また最近はアメリカでも日本でも、米大統領選でトランプ氏を批判する目的でマスクを引き合いに出す有名無名のジャーナリストやツイッターが多い。そういう人達は最初からマスク着用の義務を前提として議論しているから、そもそもこの問題で議論を深める気は最初からない。

 

マスク着用への圧力は殆どメディアから、それも大部分はテレビを通してだろう。政府の広報も殆どテレビを通してである。ネットではツイッターからも相当なものである。昨日だったが、プロのダンサー達がマスクを着用して集団で踊っている外国の動画が単純にリツイートされていたが、このような職業ジャーナリストでもないツイッターも多い。このようにマスコミで伝わる情報の大部分は視覚を通じた印象によるもので、理詰めのものではないことは明らかである。マスクにはそういう視覚を通じた印象効果の部分が多いところが手洗いや消毒とは違うところだろう。本来的には手洗いや消毒の徹底ということが初期から言われており、初期にはマスクの効果はそれに比べて疑問視される傾向が強かったのである。それが今では手洗いや消毒とマスクの話題が逆転し、現実に街のスーパーやコンビニなどに入る人を見てもマスクをしても手の消毒は省略する人が多いということは視覚的な印象効果の大きさを物語っているといえる。

 

先日の日曜の夜、久しぶりにNHKテレビで『クラシック音楽館』を見た。実のところ最近はこの番組でN響の演奏を聴こうとしても、楽員のマスク姿を見るだけでそれ以上視聴を続ける気をそがれてしまうので、残念だけれども視聴することは避けていた。しかし、この日の最初のプログラムはシューマンの「四つのホルンのための協奏曲」である。四人のホルン奏者がマスクをすることはあり得ないので、この夜は期待してこの番組にチャンネルを合わせてみたところ、この日は楽員のほぼ全員がマスクを着用していなかった。最後列の目立たない位置に、申し訳程度にわずか数名の楽員がマスクを着用していただけだった。ただし、後に放映されたリハーサルでは識者を含めて見事に全員が、マスクなり透明シールドなりを着用していた。

本番においてマスクを外すことは、演奏者の見栄えという観点からは当然である。しかしマスク着用の本来の目的から言えば、リハーサルと本番で異なってよいということはあり得ない。つまるところ、N響の責任者とメンバーはほぼ全員が、マスク着用に意味がなく、少なくとも音楽演奏の場ではむしろ着用しない方が良いことを確信しているとしか思えないのである。

上記は、建前とは別に、本音でのマスク非着用デモンストレーションの意図の表れではないかと、個人的には思っている。この時期にホルンのような金管楽器が四つ並んで主役を務めるような曲を冒頭に持ってくるようなプログラミング自体にそれを感じる。

このような例は他の一般のテレビ番組にも垣間見られる。例の三蜜防止は事実上、出演者間では解除されているとも受け取れる。私はニュース番組ではテレビ東京のWBSを割とよく見るが、時々キャスターが政治家やビジネス界の要人にインタビューすることが多い。そのようなインタビューで、キャスターの方はマスクを着用してはいるが、インタビューされる側の政治家やビジネス界の要人はマスクを着用していないケースは多い。そのような要人たちが特権的にマスク着用を免除されてよいということはあり得ない。やはり、着用していない人は、マスクをしない方が良いと確信しているとしか思えないのである。

テレビニュースにおけるこのような状況はかなり以前から、垣間見えることがあった。街の光景を映し出す際に、マスクをしていない人にかなりの長時間スポットを当てたり、 メガネをかけた人がマスクを外す様子を何気なく映し出したりしているのに気づいたことがある。私の場合はマスク着用の最大のデメリットはメガネの曇りであり、これは1つのデメリットであることを超えて重大な危険要素である。ということで、こういうシーンは大いに共感を覚えたことであった。

前回も述べたように、地下鉄駅の構内放送や、大型店舗内の放送などでもマスク着用の要請は緩んできたような印象もある。私たちも、このようなサインには敏感に反応すべきであると思う。

日曜日, 9月 09, 2018

眼の健康とPCディスプレイ ― その3 ― やはり視距離と面積の関係が最重要

このタイトルの前回記事まではディスプレイ表面の性質に関して目の疲労に及ぼす効果を考えたり、いろいろ試して見たりし、結局光沢塗装に落ち着いたわけで、それはそれで結構、効果があったように思いますが、それでもやはり効果は部分的で、せいぜい全体の10~20パーセント程度ではなかったかなと思います。それでついに、最初から気になってはいたものの、対策が面倒なために今まで放置していた問題に対処してみました。それはディスプレイと眼の距離の問題です。
 実は、現在のPCディスプレイは27インチなのですが、それ以前は19インチでした。普通PCディスプレイの距離は眼から40cm以上とされていたように記憶しています。ところが現在の机は奥行きが小さいため、PCディスプレイを眼から40cm以上に離すには机の端まで離す必要があり、実際にぎりぎりの端まで離してはいました。しかしそれが27インチになり面積が大幅に増加するとさすがに光の刺激が厳しくなり、圧迫感を感じましたが、何分場所も狭いし机も変えられないので板を使って多少ごまかす程度で今までしのいできたというわけです。しかし視力自体も低下する一方で、前回の表面塗装のような効果も試して多少の効果はあったものの、せいぜい冒頭のとおり、10~20パーセント程度でしょう。

そこでいよいよ思い立ってディスプレイをさらに離す工夫をしてみました。その方法は、私の場合、たまたまこれも部屋の狭さゆえのことですが、机の向こう側に本棚を配置して使用していたのです。その本棚の棚に合わせて板で橋を渡してその板橋の上にディスプレイを乗せることにしました。
これで結果的に視距離を70cmにすることができました。やはり効果は他の要因に比べて大きいですね。単に光の量だけではなく、視角や視差の要因大きいことは当然ですが。前回の表面塗装の効果が15パーセントくらいとすれば、40~50パーセント位の効果はあるように思います。
結論として、27インチのディスプレイでは少なくとも60cmは必要でしょう。私の場合は今の70cm程度が限度のようです。もちろん前回の表面効果も大きいし、その前のダイナミックレンジの効果も大きいでしょうね。ダイナミックレンジの効果は有機ELに期待したいところですが、ネット検索してみたところ、PCディスプレイではまだ発売されていないようで残念です。テレビよりもこちらの方を優先すべきだと思うんですがね。

月曜日, 3月 05, 2018

散歩またはウォーキングの効用 — 免疫力とストレス

散歩とウォーキングとはまた違うのでしょうが、どうもウォーキングという英語を使うのは気がすすみません。とはいえ医学的な効用などを云々する場合はウォーキングといった方が適切そうだし、ウォーキングシューズなどになると日本語は使えないというのももっともです。ここで、ついでに余計なことを言うと、「リスペクトする」というあまりにも耳障りな言い方だけは断固拒否したいですね。だいたい日本語でパ行の音はあまり良い意味の言葉には入らないと思うのですが。あ、散歩にはパ行が入っていましたか(笑)。
 
さて、最近ネット情報でウォーキングによる免疫力強化についての専門家サイトによる記事を見ました。それによるとウォーキングで免疫力が向上できるので毎日歩くことは非常に良いことだが、一定の限度を超えると逆に免疫力が低下するとのことでした。最初この記事を読んだときは少々反感を感じてしまいました。というのも当方、もともとスポーツには殆ど縁がないものの歩くことだけは好きで、買い物などの用であってもいったん外に歩きに出ると大抵は往復で2時間くらい、時には3時間くらいも歩くことが多く、1時間以内では物足らない場合が多いのです。そういうことで、この種の研究方法や統計手法などに文句をつけたいような気持もあったのですが、その数日後に多分、正味で3時間ぐらい歩いたと思われる日があったのですが、確かにそれ以前の記憶も含めて3時間程度も歩いた後の疲労感は必ずしも気持ちの良いものではなく、かなり不快な場合も多かったことに改めて気づきました。足腰の疲れはどうということもないのですが、身体の調子や気分的な疲労感、さらには目の疲れがかなり、時にはどっぷりと溜まっていることが多かったことに気づきました。特に寒いときには風邪の引き金になったり、お腹の調子が悪くなったりしていたようです。そういえば、もう十年以上も前の話ですが、顔面神経麻痺にかかった時も寒い中を長時間歩いたことがきっかけだったように思われます。

以下はネットの記事で読んだことではなく勝手な想像ですが、歩きすぎによる免疫力低下というのは精神的なストレスにも起因するのではないでしょうかね。というのも歩くということは一方で気晴らしになり、思索にインスピレーションを得るきっかけにもなるものですが、他方で精神的なストレスもそれだけ溜まるものです。特に東京のようなところではまず車に気をつけなければならないし、歩ける道も限られます。それにたいていの時間は自転車が無遠慮に歩道を走り回っています。人がすれ違うことがやっとという狭い歩道にでも平気で、時によっては二人が横並び運転しているのに遭遇することもしばしばです。加えて人同士のすれ違い方、場合によっては譲り合いどころか邪魔しあいになるときもありますね。これはまあ、お互い様なのでここではこれ以上は言わないことにしましょう。もう一つ、特に東京では道路が不規則で道を間違えやすいことも挙げられます。このリスクは東京の場合、京都や大阪に比べて格段に大きいですね。これは起伏と坂道が多いことにも関係しています。坂道自体には潤いがあって楽しいもので、特に見晴らしのよい広い坂道を下るときは例え都心の低い坂であっても何か下界に降りてゆくような、山を下山するような感動を覚えます。しかし巨大なビルが密集した見晴らしの悪い坂道は道を間違えるリスクも大きく、ストレスが加わるように思えます。

というわけで、ストレスの面から考えても散歩に時間をかけすぎるのは良くはなさそうです。とはいっても歩くことの効用は、健康面だけからいっても免疫力だけが目的でもないし、免疫力の強化方法はほかにもあり、入浴で体を温めるという方法ははまず間違いなく良い方法のようです。以前は無精であまり入浴しなかったのですが一昨年の暮れから健康法を意識し出して毎日欠かさず15分間以上の入浴を実行するようになってからは、現実に本格的な風邪を引かなくなったし、ほかの点でも健康増進につながっているように思います。歩きすぎた結果の免疫力低下もこれで何とか補えることでしょう。ありがたいことです。結局はなんでも程々に、というところでしょうか。