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水曜日, 2月 15, 2012

俳優と作家

俳優はもちろん、立派な職業である。ただあくまで職業であり、職業以上の立場になるケースは稀ではないかと思う昨今である。俳優という仕事はやはり創造的な芸術や文芸とは基本的に一線を画すということだろうかといったことを考えている。あくまでも基本的にということではあるけれども。

というのは、俳優の渡辺謙さんがダボス会議という、政治家や政治学者などが集うという世界会議でスピーチを行ったその内容が、盛んにマスコミや言論界で賞賛されているのをみて、個人的には相当強い違和感を持ったことから考え始めたことによる。

そのスピーチを簡単に読ませてもらったが、要するに日本の文化の特長であったとされる「絆」の大切さを説くことと、エネルギー政策として「再生エネルギー」への転換を主張したという二点である。これを件の国際会議で立派にスピーチしたということで、渡辺謙氏がマスコミやネットを含む言論界で賞賛を浴びているということのようだ。

内容を見ると、結局のところ、彼は一部の政治経済的勢力と一部世論の主張を代読したに過ぎず、職業俳優としての職責を立派に果たしたということ以上でも以下でもないように思える。

「絆」については、すでにマスコミなどで盛んに話題にされているような事柄を一つの短い文脈に手際よくまとめたに過ぎない。

もう一方の「再生エネルギー」については文字通り、一部の政治経済勢力の代読に過ぎないと考える。ご自身の頭から出てきたものではないだろう。そうであるとすれば、私に言わせれば不勉強である。不勉強でなければ自己欺瞞である。(少なくとも現時点での「再生エネルギー、自然エネルギー」の問題点と欺瞞とには、ネット検索で誰でも容易にアクセスできる。「再生可能エネルギー」という言葉のもつ問題については拙ブログhttp://imimemo.blogspot.com/にも書いています)


ここで思い出したのは先回このブログでも書いた、今年の芥川賞受賞作家の田中慎也氏の会見である。あのような、社会性という観点から見ればとんでもないと思われるような会見が成立したということを思うと、純文学という世界はやはり芸能界というか、俳優、タレントの世界(演劇という意味ではなく)とは一線を画した可能性を秘めていることが確認できたような気がする。

個人的に、現代文学にあまり興味をもつゆとりを持たないけれども、こういう世界はなくなって欲しくはないし存続して欲しいと思われるのである。訳のわからない前衛芸術にしてもそうだ。ただ蛇足ながら、最近はいやにエコロジー運動に媚びた芸術が幅を利かせているのが気になる。

芸術にしても文学、文芸にしてもやはりそこに新しさというか創造性とともにある程度以上のレベルで真実に迫るものを持たなければいけない。自己欺瞞を持たないことである。それは時に社会性とは両立しない場合もあり得る。


社会的に影響力を持つ人物の評価は様々な面から多面的に評価されるべきだと思うが、とりあえず今、次の三点で評価しても良いのではないかと思う。

ひとつ、社会性。
ひとつ、専門性、職業性。
ひとつ、文化人としての責任。(適当な言葉がみつからないので文化人としましたが、社会的な影響力に対しての責任とでもいう意味で)

最初の二点については今ここで改めて考える必要も必要はないと思う。3つ目の文化人としての評価について考えてみたい。

文化人としての重要な要件のひとつは自分の専門外あるいは確信を持って言える根拠を持たない事を無責任に主張しないことである。そうすることは不勉強であるか自己欺瞞を抱えることの何れかとなり、要するに不誠実を抱えることである。

この誠実さという点は一つ目の社会性の要件でもあろうと思うが、社会性を超えた高次の誠実さというものがここでは求められると思う。この点で、渡辺謙氏よりも田中慎也氏が高く評価されるべきと思う。


火曜日, 1月 31, 2012

芥川賞受賞作家、会見の反響に思う ― 職業論と性格論


現代小説を読む習慣がなかったというべきか、特に純文学と言われる分野はめったに読まないので長年、芥川賞にも直木賞にもあまり興味を持たず、また持たないようにしていた。そんな筆者がこの先の土日、今回の受賞者の一人(田中慎弥氏)の個性がマスコミで取り上げられているのを見た。具体的には受賞会見の一部の映像と、ニュースショーでのコメンテーターのコメントなどである。当然、会見の際の「不貞腐れた」態度や、賞を「もらっといてやる」と発言したことなどが話題になっていたが、そのTV番組のコメンテーターで特に非難する人はいなかった。また選考委員の一人であった石原都知事もそのことを非難することはなかったらしい。

私は芥川賞事体にあまり興味がなかったこともあってまあそんなものかな、と思い、それ以上考えることはなかったのだが、その後、たまたまネットで訪れたブログを見ると、ちょうどこの件が取り上げられていて、そのブログの筆者としてはかなり自然なことだと思うのだが、手厳しくその受賞者の無礼な態度はもちろん、その作品や人柄にいたるまで批判を加えていた。その批判は関連メディア関係者や日本の文学にまで及ぶ。彼本人への批判としては、甘ったれている、ふてくされている、社会性がない、発達障害ではないか、精神病院に入院治療すれば矯正される、自衛隊に入っても矯正されるだろう、等々というものである。

作品の評価や現代文学、日本の小説家全般の評価はともかく、このブログの筆者の個性から言えば当然と思われるし、またある一般的な、常識的な見方からもごく自然で当然とも言える意見である。

しかし尊敬すべきこのブログ筆者の意見を読むに及んで、私自身でももう少し突っ込んで考えてみようかと思い、考えてみたのである。しばらく考えた結果・・・・

とにもかくにも、当の受賞作家はかなり早い段階で作家になる決心をし、これまで迷わずにその道に励んできた結果、何回かノミネートされるまでになり、今回めでたく芥川賞を受賞するに至ったのである。それはそれで立派なことではないかと思う。

少なくとも局外者が「甘ったれるな」と言うのは当を得ていないのではないだろうか。

ある人が自ら選んだ自らの性にあった仕事を持つことができるということは、本人にとってより以上にむしろ社会にとって望ましいことであり、めでたいことなのである。これはその仕事が社会的にそれほど成功しなかった場合でもそう言えると思う。

就職難のこの時代、多くの人々が自分の性に合わない仕事、能力に合わない仕事を獲得すべく激しい競争をしている。

すでにある多くの仕事、中でもある程度社会的地位や、やりがいが満たされる仕事にはそれにふさわしい能力と社会性が求められることは当然であるが、残念ながらすでにある仕事、要するに企業の求人に対しては社会性も能力もある応募者が十分に沢山いて、そのなかで激しい競争をしている状態のように思われる。

そうした中でそのような真っ当と思われる職種に就く意欲を持てない人物が自分の性にあった職業を見出して成功したということは、それだけで本人の幸福にとってより以上に社会にとって喜ばしいことだといえる。


以上は彼の生き方の問題。他方、今回の受賞会見の件で彼の態度のことが非難されているのは確かに常識的に見ても当然のように思われる。しかし、現実に当のブログ作者のような非難が一般に沸き起こっているとは言えない。むしろ石原都知事のように「生意気でいいじゃないか」といった見方も多いようにみえる。そのこと事体がまた非難されるべき、また嘆かわしい社会風潮だということになるのだろう。

これは私が考えるに、二通りの可能性が考えられる。ひとつは本人の自制心の不足である。自分の感情を自制できずに礼儀にもとる発言をしてしまうということで、これはまさしく社会性のなさ、人間的な未熟さ、甘えには違いないが、他方、これは正直さの現れと見ることともできる。作家や芸術家にとっては自己に忠実であるという正直さが命であるとも言えるという考えから、こういうことは許されるものと見る人も結構多いのではないだろうか。

もう一つ可能性は、御本人は慣れない冗談を言ったつもりだったではないかということである。もちろん冗談は言って良い時と場所とがある。それを判断するのが社会性というものだろう。ただ結果的に、これは冗談のつもりが冗談として通ったということかも知れない。誰もが笑わなかったにしても。

正直なところ私はこの件ではなんとも言えない、というか、正当に評価できる自信がない。ただこれも局外者がそれほど怒ることでもないだろう。では怒るのではなく叱るべきか。本人のために忠言すべきか・・・。ただ、叱る場合は本人に伝わらなければ・・・。

以上、とりあえず考えた次第であるが、改めて考え始めると、この2つの問題は人生における大問題であることがわかる。二つの問題というのは、端的に二つの言葉によって二つに問題に整理するとすれば、職業選択の問題と人間の性格の問題と言える。広い意味で性格というのが適切だろう。そして、この職業選択の問題と性格の問題は確かに文学、特に近代小説の主要テーマの二つといっても良いのではないか。当然この御本人の仕事、課題そのものである。

とくに教養小説と呼ばれる種類の小説では職業選択の問題そのものではもちろんないが、職業選択の問題がかなりの比重を持って扱われる場合が多い。そうでなくとも多くの小説では多少とも職業選択の問題が絡んでいる。

一方の、人間の性格の問題は改めて言うまでもなく、近代小説のメーンテーマであり続けている。個人的に全く詳しくはないが、世界文学でも日本文学でもそれは同じだろう。世界の大文学と言われる嵐が丘にしてもカラマーゾフの兄弟にしても、人間の性格の問題が少なくとも重要な部分を占めていると言えると思う。


最初に述べたように、私自身は現代小説は殆ど読まない。人生のある時期から小説一般もあまり読まなくなった。それは、ひとつには、小説で人間の性格のことを考えさせられるのが嫌になってきたから、ということもあったような気がする。

そのかわり精神分析などを多少読むようになった。最初はフロイトの有名な2冊だけだったが、フロイトはそれらにとどまり、なぜかそれ以上は読めなかった。その後ユング関連は結構読んだが今だに積んどく状態のものもある。「心理学と錬金術」などは翻訳の初版を買い求めてよく内容も理解出来ないまま一応は通読はしたように思う。できれば読み直したいものだが、そのゆとりがない。ただ現代の世界的な精神分析学者と呼ばれる学者たちの本は難しそうで手が出ない。文化人類学なども同様。

しかし、性格の問題はすなわち心の問題であり、やはり、宗教的なものに行き着かざるを得ないのではないだろうか。宗教的なもの、というのは特定の宗教を信仰すべきであるとか、何らかの宗教を信仰すべきとかではなく、「宗教的なもの」、あるいは多くの宗教に共通するようなものという意味である。

簡単に言ってしまえば神秘的なもの、神秘主義、といえるかも知れないが、神秘主義といえば色々と専門的な定義があるようで問題であるとすれば、神秘思想とでも言えば良いのだろうか。こういう言葉を避けるのであれば科学を超えた問題、あるいは科学で扱えない問題に答える思想のことである。

心の問題は科学では、あるいは科学的なだけでは所詮限界がある。科学で、あるいは科学的に扱えるのは物質の問題だけである。当然本来の科学は自然科学そのものである。その意味で生物学は純粋な自然科学とは言えない。ちなみに生物学者ダーウィンは自然科学者の代表のような扱いを受けている。そして自然淘汰説はあたかも科学の勝利を示すものであるかのような扱いを受けている。どうもあまり純粋な科学ではないような気もするのだが。

「神秘思想」に戻って・・具体的に言えば心的なエネルギーとか精神でも物質でもあり、どちらとも言えないような存在、常人の感覚を超えたような存在、心と身体や物質との関係の問題。心身相関の問題、カルマの思想等々になるだろうか。


自然科学でも最終的には科学を超えたものに至る、あるいは科学を超えたところに譲るべき地点がある。

今のエコロジー思想ないし運動はそれがあまりにも安直で粗雑、妥協的、ご都合主義、見せかけ、誤解と欺瞞に満ちた形で進行しているように見えるのである。

少なくとも哲学は科学よりも上位にある。これは現在では大方の合意とでも言えると思う。
ところが、宗教、神秘思想となると、いろいろと混乱、誤解、が生じてくるのが現状なのだ。

(いつのまにやら途中でテーマが変わってしまったようです。このままさらに続けるとまた別の問題に移行してしまいそうなので、この辺りで切り上げることにします。いつもながら・・『あやしうこそものぐるほしけれ』)

月曜日, 11月 28, 2011

野口悠紀雄著『クラウド「超」仕事法』と個人的問題および日本の問題

土曜日の夕方、表記の本を購入してその夜から読み始め、日曜の午後に読み終わった。この種の新刊書を発刊後すぐに購入して読むのは、貧乏でけちな私にしては珍しい。特に最近は文庫本か安い古本ぐらいしか購入しなくなっている。また野口悠紀雄氏の著書を購入するのも始めてである。

実は最近、PC関連機器の使用方法や購入について悩んでいたところなのだ。それにスマートフォンの事も含まれていた。

今月の始め、もう何ヶ月かにもわたって携帯電話会社から催促されていたこともあって携帯電話の機種変更をした。その時、スマートフォンという選択肢をも考えていたのだが、個人的な用途を考えて10インチのタブレット端末とか7インチの電子書籍端末とか色々迷っていたのである。結局、携帯電話の機種変更の時は、スマートフォンを有効に使うには自分には小さすぎるだろうと思い、選択肢から外した。その日はカメラ機能を重視することにしてそれを店員さんに伝えたところ、それに応じてすぐに選んでくれた機種にあまり迷わず、手っ取り早く決めてしまったのである。

その結果、確かにカメラ機能の高さに驚いたのだけれども、それは他の機種も大して変わらなかったかも知れない。それ以上にインパクトがあったのは液晶の画質、特に解像度が高くなっていることだった。これはある程度予想がついていた。自分では持っていなかったが、電車の中などで他人がこの種のモバイルを扱っているのを垣間見るにつけてもこういう小画面液晶の解像度が著しく高くなっていることに気づいてはいた。しかし実際に今度の新しい携帯の画面を見て、カラー印刷以上の解像度(この場合解像度を画素数つまり表示範囲の広さのことではなくむしろDPI、つまり精細さの意味で言っている)を持っている。そして文字表示も印刷に劣らず、小さな文字もはっきりと読める。これならスマートフォンの画面の大きさがあれば十分にウェブ閲覧にも、PC画面の表示にも使えそうだということがわかり、スマートフォンを選択しなかったことを幾分後悔していたところなのだった。


パソコンなどで仕事をする際いろいろと問題があるが、最近とくに悩んでいたのは眼の疲労の事だった。私の場合パソコンを使用しての作業で主要なものは翻訳作業なのだが、現在では事実上この仕事はパソコンとインターネット環境がなければ不可能であるし、逆にこの仕事ほどパソコンとインターネット環境が有利に働き、その恩恵に浴している仕事も少ないのではないかとも思っている。しかしデメリットも当然あるので、その中でも眼にかかる負担は最大のものだと思う。

そこで今年のある時期、メインのディスプレイの位置、特に高さが特に問題なのではないかと考え、高さを低く調節できるという30インチ近い大型のディスプレイを購入してみた。その結果、確かに高さを少し低くできたのは良かったが、満足できるほど十分に低くできたわけでもなかった。それよりもこんなに大きなディスプレイが目の前を塞いでしまうことで、それがむしろ眼を圧迫するような感じになってしまった。さらに画像の場合は問題ないとしても文字の表示に問題が出てきた。かなり大きく表示しても文字の線がか細く表示され、読みづらく眼の負担になる。文字の表示とディスプレイの解像度(画素数)にはどうやら相性がありそうだ。単純に画面が大きい程よいというわけでもないことに始めて気がついた。その時も2つのディスプレイを使ってはいたが、画面を大きくするよりも小さいディスプレイを幾つも使うほうが良いということに気づいたのである。そんな時期にスマートフォンとタブレットPCに関する興味が加わった。要するにPC作業の補助ウィンドウという目的と、タブレットやスマートフォン独自の目的、電子書籍的な目的、すべての目的機能を1台で併せせ持つような機種がないものかと欲張った事を考えていた。しかしどうやらスマートフォンはタブレットPCとは別ものと考えた方がよさそうだ。それに気づいて上述の通り、携帯電話機の更新の際にスマートフォンを選択しなかった事を少々後悔し始めていたときであり、同時にタブレットPCの選択に迷っていたときにこの本に遭遇した次第であった。

この「超仕事法」という本のテーマの中でスマートフォンが重要な意義を占めていることが特に、珍しくもこういう新刊書を即購入して即読了したことの動機になっているは上述のとおりであるが、もちろんこの本のテーマは仕事法であり「クラウド」を活用する仕事法のことである。そこのこの著者独自の「超整理手帳」術が加わる。

個人的に、複雑なスケジュール管理を強いられるような社会的な立場にいるわけではないし、これまで手帳でスケジュール管理をするようなことはして来なかったが、やはり自分なりに、個人的にもいろいろ計画はあるし、外から仕事が入ってこないわけではない。普通の会社では定年になる年齢にもすでに到達済みであるが、収入を得るための仕事は是が非でも続けなければならないし、個人的にやりたいこともまだ模索中である。そんな時期、やはりスケジュール管理もまじめに考えなければと思い始めていたところでもあった。折しも少し前、友人から「yPad」という手帳のことを教えられ、勧められていた。大型書店で見つけられなかったが、近所の中型書店で見つかり、ハーフサイズ版をとりあえず購入した。なるほど従来の手帳とは一味違っている。何よりも日付が印刷されていないのが良い。ただ、今のところまだ使い始めてはいない。

そんなこんなで、この本に興味を持って読了した次第であるが、野口悠紀雄氏の著書を購入して読むのはこれが始めてである。けれども著者にはこれまでにも結構関心があり、ホームページや、雑誌の記事など、ネットで良く読ませてもらっていた。ただ当方は経済音痴である上に著者の金融業重視とアメリカ文化への傾倒の深さにはかなりの反感を持っていたから、その考えを受け入れるつもりでいたわけではない。ただ、他の多くの親アメリカ的経済コメンテーターに比べては好感度は高い方だった。


この本の内容は2つに分けることができるように思う。もちろん、主要なのは技術的なもので、表題どおりクラウドを利用した仕事術である。ここで「クラウド」とはいわゆる「ネット」のことであるとも言えるが、さらに具体的には当面、グーグルのGメールのことである。他の著者の本に「Gメール仕事術」という本があったように思う。読んではいないがかなり重なる部分がありそうである。

個人的にGメールはかなり以前からバックアップ用に取得はしていたがメインには使っては来なかった。使用しているメールソフトに馴染んでいたこともあるし、Gメールの使い方を覚えるのが面倒だったこともある。ただ、最近、別のコンピュータ、別の部屋にあって主にテレビと音楽用に使っているコンピュータからメールを見るために、時どき使うようにはなっていた。今後、もしも自宅以外からPCのメールを見る必要が生じるようなことがあれば確かにGメールしかないと思っていたし、Gメールの特徴も少しづつ気づくようになってきてはいた。著者の、Gメールを個人データベースとして使用するやり方は確かによさそうで私個人的にも役立たせられそうである。まず、Gメールの「下書き」機能を、メモやGメール以外の何らかの下書きに利用するという利用方法から始めることにした。検索やラベルを貼って後から利用できるというわけである。もちろんこの場合のクラウドはグーグルのことである。


さて、このような形でグーグルに依存することへの危惧について、著者は心配するに及ばないと考えているようだ。この問題は「クラウドは民主主義と両立するか」という第7章のテーマになっている。そこで著者はグーグルは「ビッグブラザーになるだろうか」という設問に対して、「恐らくそうはならないだろう」と言っている。その直接的な理由は経済的なものである。すなわち、そういうことにはコストがかかりすぎる上に得られる利益が少ないという理由。もうひとつはアメリカの民主主義に対する信頼感である。

このあたりの著者の認識には私はついて行けない所がある。まず、グーグルは単に利益をあげることを至高の目的とする人たちだけで成立したとも思えないし、いつまでも経済的な意図だけで運営され続けるという保証もないからである。今後の、発展段階においてどの様な意図が入り込んでくるかも分からない。理想主義もあると思えるし、宗教的信念も含まれる可能性もある。当然権力志向的な悪魔的な動機も入り込み得ると思えるのである。

一方、グーグルやマイクロソフトやアップルなど、個々の企業とアメリカ民主主義とを単純に同質のものと見なして良いのかどうかも分からない。またアメリカ民主主義とアメリカ国家を同一視しして良いとも思えない。アメリカ国家が本当にアメリカ民主主義だけで動かされているのであればイラク戦争のような戦争ばかり起こしているはずがない。


先に述べたように、この本の内容は2つに分けられる。というか、メインテーマである仕事術の具体的な技術の他に思想的な部分が付加されている。一方で仕事術の部分にもその基底にそういう思想的なものがある。何といっていいのか分からないがアメリカ思想とでも言えば良いのか、アメリカ的知性と文化に対する信頼感とでも言うのだろうか。とはいってもできればアメリカの国籍をとり、アメリカ人の立場で発言するという立場ではなく、あくまで日本の国益を考えてのことであることは判る。その思想的な部分には納得できる面はあっても、やはり反感を覚えざるを得ない所がある。

著者が学問的には金融の専門家であって、金融工学の重要性を説いていたことは経済金融音痴の私でも知っている。たとえ素人向けでも、その方面の著書を買ってまで読むことはなかったが、アマゾンの書評などを結構読んだ記憶はある。それによると、例のリーマン・ショックの後はやはり、痛烈に批判されていたようである。それに対して氏は金融工学と金融工学を使うこととは別のことであるという考え方を表明されていたようだ。金融工学自体は便利な道具に過ぎず、よく用いることも悪く用いることもできる。というものである。それに対してあるアマゾンの書評欄で、学問分野とその学問を作り、運用する人間とを切り離すことはできない。人間から切り離された抽象的な学問というようなものはあり得ないと批判されていたのを読んだ記憶がある。確かにその通りである。だいたい道具という概念自体、人間から切り離して考えることはできない。料理用に作られた包丁は確かに殺人の目的にも転用できる。しかし本来はあくまで料理目的に作られるものである。一方、刀剣は最初から武器としての使用を目的に作られるものである。金融工学は多分武器だったのではないかな。もちろん当初は武器として発明されたダイナマイトが産業用に使用されるようになったといった例も当然ある。という次第で、金融工学も使いようで社会のためになるという考えももちろん全否定する必要もないとは思う。

という訳で強いて言えば氏の立場は経済を純粋に経済として考えるというように言えるのではないだろうか。純粋な経済学とか金融工学とかいった枠があって、その枠とは別の枠に政治や歴史や心理などがある。つまり経済自体の中に政治や歴史やその他諸々を取り込まないといった印象である。

そんな著者が信頼を置くアメリカの知性の代表的なものがITと金融工学なのだろうと思う。この本ではもっぱら日本におけるIT使用の後進性が指摘されている。それら自体はどれももっともで納得できる事柄が多い。しかし、金融工学の場合と同じく、著者の捉え方は抽象的あるいは純粋経済的で、歴史的な文脈や政治的なものあるいは軍事的な問題などから切り離された文脈で比較しているように見える。

例えば携帯電話のいわゆる日本のガラパゴス化が批判されている。しかしガラパゴス島における生物のガラパゴス化は、ガラパゴスの生物自身がそれを望んだわけではなくガラパゴス島の地理と歴史的条件によってそうなったものである。日本の携帯電話のガラパゴス化も必ずしも日本の精神風土、文化や日本人のITセンスの欠如という問題ではなく、携帯電話の発展過程における1つの必然のような面もあったのではないだろうか。技術の世界では一番手を二番手が追い越すことはよくある事だ。個人的にこの方面に詳しい方ではないが、携帯メールも携帯にカメラを付けることも日本が最初だったと記憶している。著者も指摘しているように、スマートフォンには多くの日本の技術が取り入れられているのは当然だと思われる。そういうことを思えば日本の携帯電話をガラパゴスと批判するのは酷であると思う。もちろん著者の批判するような要素を否定するわけではない。


以下、(時間が無いので)著者の考えに対して素朴ながら、かなり疑問に思う個所を、2つほど列挙してみたい。
◆『1990年代以降の日本の停滞と衰退の大きな原因は、ITがもたらした大変化に、日本社会が対応できなかったことだ。そのことが、クラウド時代になってますます顕著になっている。』
これ自体にかなりの真実が含まれているかも知れない。しかし、いまや誰もが知る通り、衰退しているのはアメリカやイギリスといったIT先進国も含めて先進国全体であることは常識ではないのだろうか。国家の衰退といった大問題にIT(この本の範囲外だが、それと金融)だけで対応できるというのも非現実的で、現在の世界(経済)情勢から見てももはや一般人に対して説得力がないと思う。

◆『日本のエレクトロニクスメーカーは、機器の製造にとどまっている。・・・・「機械しか作れない日本企業に未来はない」と考えざるを得ないのである』
経済学者で金融の専門家である著者がIT技術とIT産業に対してどの程度精通されておられるのかは、私には知る由もないが、確かにスマートフォンなどを含めた世界のIT業界で覇権を競っているのは米国企業ばかりで日本の企業は「埒外に置かれている」ことは誰の目にも明らかである。しかし、それがアメリカの一部の企業の繁栄や国家のイメージにはつながっても、雇用にはつながっていないことに、一般人としてはどうしても眼が行くのである。ソフトウェアもインドなどにアウトソーシングされていると聞く。こういう国外へのアウトソーシングは製造業よりもソフトウェアの方がはるかに簡単にできそうだ。実際、IT産業だけではない国家の失業率の点でも常にアメリカが日本のずっと先を行っている。


以上を要するに、著者の技術、技法だけではなく思想をも含めて、各自が個人の問題として受け止めるには非常に有益で傾聴に値する内容だと思います。一方で日本の問題、あるいは世界の問題として受け止めるには相当問題があり、限定的に受け止めなければならないだろうというのが結論。

基本的に良書だと思います。読んでよかった。