水曜日, 6月 22, 2022

口だけマスク(鼻出しマスク)に適したデザイン

 理由についてはいろいろと考えられるが、多くの日本人が、義務ではなく薄弱な根拠で推奨されているだけのマスクをする習慣から離れられないでいる。個人的には、(と言っても信頼できる専門家や識者の意見に従っているわけだが、)全体としてはメリットは殆どなく、いろんな面で弊害の方が大きいと思うし、そういう意見を持つ専門家や識者も多いことは明白である。ただ、多数の専門家が述べているように、ウィルスを含んだ飛沫の飛散をある程度は防止できるという点においてはだいたい合意されているので、マスクを着けたい人あるいは他人にマスクを要求する場合は鼻出しマスクあるいは口だけマスクで十分であるという考えが成り立つし、実際、そういう使い方をしている人も多いのが現実である。そこで、そういう使い方をし易いようなマスクのデザインが望まれるとも言えるのである。

そういう考え方からいえば、テレビで時々見られるように一部の芸能人などがプラスチック製の最も簡単で小型のタイプなども意味があるが、やはり日常的には使いにくいだろう。今最もよく使われている大きな紙マスクなど、適当に変形させて使えるようにも思われる。ただしそれでも横幅が広すぎるように思えるが。

とくに鼻に密着して鼻呼吸に対応するようなデザインも何種類かあるように思えるが、そういうものも鼻呼吸に障害が生じないような開放的なデザインに変えることもできるように思われる。

個人的で多少は感情的な意見で恐縮だが、あの目から下を完全に覆うようなバカでかいマスクや見るだけで窒息しそうな気分になる密着デザイン、あるいは、これは呼吸には楽かもしれないが覆面のように下に垂らした黒いマスク姿などを見ていると本当に気が滅入ること限りない。

逆にこちらが偏狭なのかなと思うこともある。あれだけ不快なマスクを着けながら明るく楽しそうに、屈託なく振舞っている人たちを見ると、尊敬の念さえ生じるときも無きにしも非ずである。とはいえ、今の現状は、心身の健康と良俗にとって、それ以上に子供の教育にとって好ましいものではない習慣であるとの考えは、変わらない。多くの信頼できる専門家、識者、常識人と同様に。

月曜日, 6月 20, 2022

本ブログ更新記事の特定カテゴリーにつき公開サイトを移転しました

 2022年6月20日より下記ブログサイトで一部(心身、すなわち人間について)の新規記事を更新しています。過去記事も転載しています。こちらでは物品や技術に関する内容に限って更新することとしました。新規サイトの名称は本サイトと似ています。「人生と日々の宝物」:

https://yaguruma.cocolog-nifty.com/takara/


水曜日, 5月 11, 2022

ゲーテが飲んだアルカリ性の味がする塩類―重曹か?

 最近よくUチューブ動画で重炭酸ナトリウムとクエン酸の健康効果を謳う動画を見る。肯定的な経験談が多いので試してみることにした。

ところで、思い出したことがあって確かめてみた。それは去年から読み始めたゲーテの『詩と真実』にそれらしきものについて書かれていたことである。次に潮出版社刊、山崎章甫訳から引用してみる。ゲーテが神秘主義や錬金術の研究をしていた若いころの話である。

「私ははげしい不安を感じて、生命の危険をおそれ、どんな医薬ももはや効果をあげえないように思えた。こんな危急の場合に不安でたまらなくなった母は、当惑する医者にむかって、あの万能薬をもってきてくれるように激しく迫った。医者は長いあいだ反対したあとで、深夜自分の家にとってかえし、結晶して乾燥している塩類を入れた小さなコップを持ってきた。そして、これを水に溶かして病人の私に飲ませたが、この水ははっきりアルカリ性の味がした。この塩類を服用するとすぐさま私の容態は軽くなって、病勢は次第に快方に向かった。この事実が私の医者に対する信用と、このような霊薬をともどもに所有しようとする努力とをどんなに強め、かつ高めたかはいうまでもない。」

ちなみに病状の原因は「首にできた腫れもの」と書かれている。

(以下12日追記)

「首にできた腫物」を簡単にネット検索で調べてみた。部位や性質を合わせて様々な病気が挙げられている。ゲーテの腫物の正体についてはこれだけで知る由もないが、検索で紹介さてている中には咽頭がんの一種で、ごく若い時期に発症するようなものもある。ゲーテの場合はまだ若いころで、病状も相当に深刻であったことから推して、がんの一種であった可能性も考えられるのではないかな。もしそうだとすれば、重炭酸ナトリウムがガンの治療に使えるという、最近、一部で話題の説は、もしゲーテが飲んだものが重曹であったとすればの話だが、すでにゲーテの治療で効果が立証されていたことになる。ゲーテの生涯におけるいろいろな挿話はよく語られていると思われ、有名で良く語られるいくつかのエピソードは私も知っている。簡単な伝記も読んだ記憶があるが、これほど深刻な病気にかかったことは、この有名な自伝を読むまで全く知らなかった。この日本語訳には注釈がたくさんついているが、この箇所には何の注釈もなかったことを思うと、この点についてはゲーテの研究者にもまだ興味の対象になっていないのだろうか?もっとも刊行年は1980年ではあるけれども。


月曜日, 4月 18, 2022

二年以上にも及ぶマスク生活の弊害が顕在化し始めたのではないかという不安

 先日、知り合いの90歳代の女性が、肺のレントゲン写真で白い影が見つかって心配しているという話を姉から聞かされていたところ、その女性と直接電話をする機会があって、姉からは結核かとも聞かされていたがそうではなく、軽い肺炎であるらしいことがわかった。結核にしても軽度の肺炎にしても、このような感染症は個人の免疫力の低下が大いに関係するように、この数年来に得られた知識からすぐさま判断して、この2年間以上にも及ぶコロナ対策で繰り返し喧伝されている『基本的な対策』として真っ先に挙げられるマスク着用の弊害について、当初から一部の医学専門家が警告してきたことが思い起こされたのである。ユーチューブ動画で見たのだが、その先生は当初から、多分もう二年以上は前になると思うが、数年後(2,3年後だったかもしれない)にはマスク着用の弊害が顕在化して、国民の免疫力が平均的に、大幅に低下しているだろうと予測していた。そうこうしているうちに実際に2年以上が経過した今の身近に起きた話なので、当然その電話で私からそのような話をしたところ、彼女の方も、今回診断を受けたお医者さんからも同じようなことを言われたそうである。担当のお医者様からもそういわれたとのことで、その点では安心したが、一方、現実にマスク着用の弊害がこのような形で表れてきているとすれば、それは今後ますます、実に心配なことである。もちろん、今回のコロナ騒ぎ以前から老人の肺炎は年々増加してきているわけで、彼女の今回の発病が2年間にも及ぶマスク着用の弊害による免疫力低下が原因とは断定できないが、マスク着用以外の原因があったとしても、現実にマスク着用のデメリットがそれに付加されていることには間違いがないわけであるし、一方、彼女自身90歳を超えているとはいえ人一倍健康で、毎日結構な距離を歩きつづけてきたような人で、少なくとも同年代の人並み以上の抵抗力を持つ人であったことを考えても、長期のマスク着用がなければ今回の発病は避けられた可能性も十分に考えられると思っている。

最近になって、限定つきではあれ、マスクを外すことを勧めるような政府機関がソースのテレビ放送を聞く機会も出てきている。頻度は少ないが。まあいろいろせめぎ合いもあるのだろう。電車や駅の構内でも、マスク着用を要求する貼り紙は殆どなくなっているし、そういう構内放送や車内放送の頻度も格段に少なくなってきているようである。

それにしても、今日の午後も天気が良かったから公園を散歩をしてきたが、 大半の人々が頑なまでに、とあえて言いたいが、マスクをとらないで散策したり、自転車に乗ったり、走ったり、ウォーキングと言うのだろうか、競歩のような歩き方をしたりしている。まあ顎にかけているだけとか鼻を丸出しにしている人たちも含めると、着実に外している人が増えているようには思えるが、一方では呆れるほど目深に、殆ど眼の下にまでマスクをかけているかなり多くの人達を見ると、やはり本心から被感染防止を考えてのことかとも思われる。もう暗くなって、歩く人もまばらな広大な公園の中でもそうなのだからもう、殆ど本能のようになってしまったのだろうか?日本ではマスク着用が法律で義務化されるようなことはなかったとはいえ、マスク着用の義務化を解かれたイギリスでは、屋外で義務化が解除されたと報道されている。まして義務化もされていない日本では一刻も早く屋外でのマスク着用を止め、低下した免疫力を取り戻すようにしたいものだと思う。(4月17日に記述開始)

日曜日, 4月 03, 2022

いまこそマスクの効果を再検証すべき(比較の重要性)

 新型コロナ感染症対策として公共の場とプライベートの場でマスク着用が日常的になって3年ほど経過した。緊急事態宣言も蔓延防止何とかも解除された今、あらためてマスク着用の効果や弊害を検証し、再検討すべき時期に来ているのではないだろうか?国や自治体やマスコミがそれをしないのなら、各々の個人が自分でそれを行うよりほかはないだろうと思う。

再検証を行うにはいろいろな切り口、あるいは筋道があるが、極めて基本的でありながら、意外と無視あるいは軽視されていた点は、他の感染経路との比較という切り口である。もちろん比較には意味的な比較と量的な比較が含まれる。とくに精度はともかく、大雑把でも量的な比較は重要だろう。

比較的最近だが、某テレビ局の賢明なる女性アナウンサーが次のような意味の発言をしていた:マスクよりも手洗いあるいは消毒の方が有効な対策であるはずなのに、現実のにはマスク着用ばかりが喧伝されるのは本末転倒ではないかと。これには私も我が意を得た発言だと思ったのである。

 

 パンデミックが始まった当初は手洗いの必要性が強調されていた。それに対してマスクの効果は疑問視される見解が多かったように思う。これはテレビなどのマスコミにおいてもそうであった。この時点では、結構、手洗いの効果とマスクの効果が比較されていたとはいえる。しかしその後、マスク着用の推奨や義務化ばかりが自治体の広報やマスコミで話題として盛り上がり、広い屋外においてもマスク着用が当然のエチケットないし義務のようになってしまい、定着してしまった感がある。この間、マスクにも感染防止効果があるという研究などが紹介されたこともあるが、それらの研究は、マスクによるウィルスのフィルター効果という一点に焦点を当てて調査されたものであって、マスク着用の総合的で包括的な効果とは言い難いものであったように思われた。

いま改めて振り返ってみると、この頃を過ぎるともう、マスクの効果は手洗いの効果との比較という観点が全く抜け落ちてしまい、単にマスクにも一定の効果があるという一点のみでマスクが前面に押し出されるようになり、広報や報道による注意の呼びかけが行われる際も必ず「マスク着用や手洗いなど」と、マスク着用が優先的に喧伝されるに至っている。実際当初から、店舗や公共施設に入る際の人々は、マスクはほぼ100パーセント着用しているのに、アルコールで手洗いを実行している人はそれほど多くはなく、店によってはアルコール瓶が空のままで放置されてあったり、どこに置いてあるのかわからなかったり、そもそも入口に置いていないケースも見られたのである。この間、マスク着用の効果が認められたからと言って、手洗いないし消毒の重要性が低下したという報告があったわけではないにも関わらずである。

ここで改めて両者の効果を比較してみると、私自身はこれに関する専門知識は持たないが、そもそも最初の経緯からして、手洗いないし消毒によって防止できる感染経路の方が圧倒的に確実で可能性が高いことは明らかであったように思われる。

重要で見逃されがちな一つの要素は、マスクで防止できるとされる感染経路と手洗いないし消毒で防止できるとされる感染経路とは、完全に同じではなく、異なる部分が多いという点である。この点が事実上、全くなおざりにされてきたように思われる。

手洗いないし消毒で防止できる可能性のある経路として有力視されている重要な経路はトイレである。 ネットを通じてではあるが、複数の専門家が、コロナ患者から排出されるウィルスの圧倒的大部分は腸から排泄物を通じてであるという知識を得ている。この経路の場合、マスクは何の効果ももたらしていないことは明らかだろう。むしろマスクに新たなウィルスが付着する可能性すら考えられる。もっとも水洗トイレの場合は水流による飛沫が考えられるが、飛沫が発生するのは自分の排泄物を流すときだから、やはりトイレ感染の場合はマスクは意味がないことになるだろう。

一方、当初からこのウィルスは細菌兵器であるという噂がある。細菌兵器と言えば人工ウィルスという可能性に言及される場合が多いが、細菌兵器と人工ウィルスとはまた別の概念であって、感染経路としてはやはりこの場合も手洗いと消毒で対応すべき経路にならざるを得ない。ウィルスは目に見えないのである。マスクという目に見える対策品で防げるような細菌兵器の使われ方が行われるとは思えない。

 このようにいろいろな局面から分析してみると、マスクの効果は手洗いや消毒に比べて圧倒的に低いと考えざるを得ないが、現実にはその逆を想定するようなマスク対策が行われている。他方でマスク着用のデメリットや弊害もますます顕著になってきているように思われる。

弊害についても考察したいが、取りあえず今回は『比較』の重要性に焦点をあてて考えてみた。かの有名な哲学的科学者のマッハは、比較することこそが科学の始まりであると言っている。この考えには大いに賛同すべき内容が含まれていると思うものである。

水曜日, 7月 07, 2021

自転車の効用を見直す

 私には70歳代後半から80歳代にかけての姉が3人いるが、少なくとも脚の健康度において最上の状態を維持しているのは一番年上の姉である。電車やバスは使うが、そのための徒歩移動や日常の徒歩移動には何も問題がない。彼女はそもそも最初から自転車は使ったことがなく、電車やバスを使えない部分はいつも歩いてとおしてきた。

それに対して二番目の姉は大の自転車好きであり、ここ数年は脚が弱って普通に歩くことも覚束なくなってしまったので、もっぱら近隣への移動も自転車だけが頼りで、自転車なら片道3キロくらいのところでも苦にならないという。ちなみに肥満体でかなりの高血圧症でもある。

三番目の姉は自転車は使わないが、夫や子供が自動車に乗るので、結構自動車に乗る機会が多かったように思われ、長距離を歩くことは苦手であったようだ。最近は脚以外の何らかの健康上の原因で歩けなくなり現在治療とリハビリ中であり、なんとか元に戻ることを願うばかりである。

私自身は生来、体力が平均よりも劣り、健康面でも若い頃は風邪を引きやすく毎年のように一度は風邪で数日間にわたって寝込むことも多く、今もその影響で慢性鼻炎が直らないのだが、最近は風邪を引くことも少なくなり、若い頃よりもむしろ健康になったきた自覚があるのは、やはり若い頃からスポーツは苦手であっても歩くことだけは好きで、都会に住んでいるときもできるだけ地下鉄やバスを使わず、1~3駅くらいの距離は歩くことの方が多かったほど、歩くことが好きであったことが大きく寄与しているものと思う。学生時代は自転車を使い、田舎地方で勤務しているときは小さな中古自動車を所有していた時期もあるが、一度首都圏に転居してから後は自動車も自転車も全く使わなくなった。

自動車を使わないのは、まずコストがかかることが理由であることは言うまでもない。自転車を使わないのは、使い方が煩わしいことに尽きる。田舎住まいなら良いが、郊外を含めて都会で自転車を使うのは煩わしく、自分で言うのもなんだが、繊細な神経の持ち主である私には向かないのである。逆に、それだけ他人の自転車のマナーの悪さには毎日辟易している。

自転車は社会的にも称揚されることが多い。理由としていろいろ挙げられるが、人力で動くということから、「人間的」とか「ヒューマン」だとかの表現で良い意味で称揚されている。しかし、人力で機能するというなら、ナイフや金槌も人力で使う道具であり、役に立つ目的で使うこともできれば、人を殺すために使うことも簡単である。人力ということと人間性や倫理的な価値とは何の関係もない。一方、でエコとか省エネという意味で自転車が称揚されることも多いが、この点の欺瞞性については、ここでは取り上げる必要もないだろう。

そもそも自転車を好んで使用する人にはもともと大雑把で無遠慮で、あえて言えば自己中心的な傾向の人が多い可能性が考えられないこともない。こう考えてくると、社会的に自転車を特に称揚する理由はあまりないと思われる。健康増進の点では歩くことの方がよほど優れていることは専門的にもいわれているし、冒頭に述べたように個人的な経験からはほとんど自明といっても良い。もちろん自転車もマナーさえ守れば経済性の面で庶民の見方であることには変わりないので、自転車道路の整備や歩道での走行許可も可能な範囲で進めるのは悪いことではないが、歩行者にしわ寄せがくることが無いように進めて欲しいものである。

さらに重要なことは健康と長寿において歩くことの重要さをもっと社会的にも称揚すべきだろう。もはや歩くことが困難で自転車なら使えるという状態になってしまったご老人などは仕方がないが、都会においては自転車は買い物や荷物運び、あるいはある程度の長距離使用にとどめるという節度を称揚すべきであり、右側通行や歩道での高速運転などの法律違反は厳重に取り締まるのは悪いことではないと思う。

木曜日, 6月 24, 2021

ワクチンと人々の世代、そして階層 ― ワクチンへの依存心という問題

 先月の初めか中頃だったが、仕事の件で私と同年の友人に電話したときにワクチンの話にになり、彼がこの問題で子供達と対立関係にあることを知った。当時その友人はワクチン待望派であり、その時すでにワクチンを打つことに決めていた。この点で私とも意見が対立していたわけだが、彼はそもそもワクチン好きで、これまでも毎年インフルエンザワクチンを打ちつづけ、近年には年配者に案内が来る肺炎のワクチンも打ってきたそうである。そして娘さんにも子宮頸がんのワクチンを打つことを勧めているというのである。その娘さんはワクチン忌避派であるとのこと。もちろん、その娘さんも立派な成人だから、彼も無理に子宮頸がんワクチンを押し付けるようなことまではしないとは思っている。

一方、私は、インフルエンザワクチンは、たぶん中学校で集団接種して以来、打ったことがなかったし、何年か前に来た肺炎のワクチンも、初めてのことで少々気にはなったが、申し込まなかった。一つの理由はもちろんこれらのワクチンは有料であったことも理由のひとつである。ということで、この友人の家庭では親子の世代間で対立があり、この友人と私は、ワクチンを打つという習慣において対立とは言えないが、受け止め方にかなり大きな差があるといえる。

一方、ごく最近私は東京から大阪府内に引っ越し、もともとこちらの出身だから知り合いのワクチン対応ついても色々と情報が入るようになった。

1つの顕著な状況として、私より一回り上の世代では、上記の友人のような親子間の意見の対立は表面には現れず、むしろ子供達からワクチン接種を勧められたり、懇願されたりというケースが目立った。どうも子供たちにとって親がワクチンを打たなくては肩身が狭いという面があるらしい。その子供達は、世代的には、先ほどの東京の友人の子供達よりは一回り上であって、もう50歳代でそろそろ60歳にさしかかりそうな年齢である。

その50歳代の知り合いの女性の話だが、最近大学生になったばかりの息子から、ワクチンを打つな、とせがまれているという。本人がどうするつもりなのかについては聞かずにいるが。

先に触れた、私より一回り上の世代には当然、もう十分に成人となった孫がいる、その孫は先の50歳代の女性の子供と同世代である。彼らがどう考えているかについては大いに興味があるが、残念なが私とは直接の面識もなく、少なくとも直接には知る由もない。

また私たちを取り巻く情報空間の状況も刻々と変化する。もっともテレビと新聞についてはそう変わりそうもないように思えるが。

何れにしても世代間の違いは相当にあることは確かである。一方で経済的な階層間の違いもあるように思われる。ある程度以上裕福な層はワクチン接種の費用など惜しむ必要はないので、毎回、当然のように打つ習慣が出来上がっている人々も多いだろうと思う。そういう世代ではワクチンへの依存心もできているのではないだろうか?一方、裕福ではない階層の場合、ワクチンを打たない習慣が出来上がっている人々も多く、そのような階層では、ワクチンを打たなくても病気にかかっていないのであれば、ワクチンへの依存心自体も高くはないのではないだろうか?

ここで一つ、ワクチンに関して新たなキーワードが浮かび上がってきたように思う。それは「ワクチンへの依存心」という問題である。一方でワクチンの信頼度という問題があり、現在主に議論の対象になっているのはワクチンの信頼度あるいは危険度とでもいう問題だろうと思われ、これが飛び交う議論の大部分はこれであるけれども、一方でワクチンへの依存心という心理的な問題にもスポットをあてるべきではないかと思われる。また、若い世代のようにワクチンに対して懐疑心が強まれば、必然的に依存心も弱まることが、十分に考えられる。これは古くから言われる「病は気から」に関係することでもあり、また自己免疫力、抵抗力の問題にも関わる問題ではないかと思うのである。



水曜日, 3月 10, 2021

ある噂(新型コロナウィルス関連の)の、ひとつの真相


 少し前、大阪府の身内者と電話話をしたとき、知り合いの掛かりつけのお医者さんがコロナで死んだという噂があって非常に怖がっている様子だったので、近くに住んでいる親戚の者にラインで確認してみたら、その話は「デマでした」という返事で、まあ一安心した一件があった。しかし身辺でもそんなデマが飛び交っているということ自体は余計に大きな心配事ではあった。つい先日、当地へ帰省した際にもう少し詳しい実情を聞くことができた。

 今回の話では、後で分かったところによると、「コロナで死んだ」とされたお医者様の診療所の玄関に「新型コロナに感染したので15日間休診します」という趣旨の張り紙があったというだけの話らしかった。誰かがそれだけで、「コロナで死んだ」と言いふらしたらしいので、これもその日に聞いたところでは、あとからそれを言いふらした人は平謝りだとのことである。とはいえそれが誰であるとか、誰に平謝りであったのかまでは具体的な話は聞けなかった。

15日間の休診後に受診に行ったある人が「先生、大丈夫ですか?」と聞いたところ、その先生は笑って「何もないない」とこともなげに答えたらしい。それが本当なら、おそらくそのお医者様はただPCR検査を受けて陽性と診断されただけで、症状もなかったのではあるまいか、というのが私の推測である。というのも、昔から風邪をこじらせたりすると結構大変で、私の子供の時や若い頃の経験から言っても一月間くらいは咳が出続けたり、頭痛が続いたり、といった経験は少なくないので、それを思えば当のお医者様も何の症状もなかった可能性は高いと思われた。

以上は4人で話をしていたときのことだが、その中の一人はそれでもまだ「コロナ」を怖がっていて、ワクチンを打ちたいとまで言っていた。というのも仲の良い友達がワクチンを打つ気になり始めたらしいのである。もともと彼女は物事を大げさにとらえ勝ちの感情的な人だから、こういうこともあり勝ちで、他の会話メンバーはそうでもなかった。とはいえ、休診の貼り紙を見ただけでお医者様がなくなったと思い込んでしまった人物もそれに輪をかけて情報に過剰反応していたのだから、こういうことはいたるところでありそうで、いわゆる流言飛語の力を痛感すると同時に、マスコミ情報との相乗効果に改めて恐怖を感じてしまうのである。

ちなみに、

本記事では「真相」というタイトルを使ったが、もちろんこれは私にとっての、あるいは私が感じ取ったところの、私が伝える真相であり、抽象的な事実といったものではない。ところが最近は事実を英語のファクトという言葉で置き換え、抽象的な「事実」というものがあるかのような表現が、マスコミやツイッターなどのネット空間で横行しているのが、非常に気がかりなのである。そうして「ファクトチェック」といった客観性あるいは権威性を装うような概念や「ファクトチェックサイト」というような、何らかの権威を持つかのようなウェブサイトのネーミングなど、言葉の問題として危惧されるのである。




水曜日, 1月 06, 2021

心の四つの機能と感染症対策 ― ブログ・発見の発見の記事採録

以下の記事は筆者の別ブログ『発見の発見』の最新記事の再録です。ブログ・発見の発見は、一応何らかの学問分野に該当するような、多少は体系的なタイトルと内容で記事を書いています。ただ、今回の記事は本ブログで最近の一連記事のテーマであるCOVID-19感染症対策とマスクの問題に関係していますので、こちらの方にもそのまま再録することにしました。

タイトル:心の四つの機能と感染症対策

 COVID-19感染症対策については、オーソリティ側を含め多くの専門家のコメントがマスコミやネットを通じて日々伝えられている。ただし、意外でもあり不満でもあることのひとつは、心理学者や脳科学者などからの発信が少ないように見受けられることである。というのは、病気の予防対策というものは多分に精神面との係わりが大きいし、さらに免疫機能にも関わる問題であり、免疫機能については精神面との強い関係に言及されることが多い。一言でいって心身相間に深く関わっていると思われるけれども、この心身相間の問題は話題に上されるようになって久しいが、最近に至って権威筋の方で話題になる機会が少なくなってきているように思われる。もちろんマスコミや一般教育を通じて一般人に伝わる限りにおいての話である。今般のCOVID-19感染症対策においてはロックダウン、三蜜、マスク着用といった極めて心理的、あるいはメンタルな、それも個人的のみならず人間関係において影響力の大きな対策が中心となっている。こういう場面においてこそ心理学者や、医学においても心身医学といった分野の専門家の出番ではないかと思うのだが、特にオーソリティの側ではそういう動向が見られないことに不満が持たれる。世界的にその傾向があるのではないだろうか?


私はかなり若い頃、20代の頃に、心の四機能について説かれた有名なユングの著作『心理学的類型』を読んで感銘を受けたことが消えない記憶として残っている。感覚、感情、思考、直観、という四つの概念はそれ以前から当然あり、哲学的または心理学的に考究されていたには違いないが、この著作ではそれらが心の四つの機能として体系的に概念化されていたこと、そして特に直観について印象的な考察が行われていたことに強い印象を受けた。その後私自身は心理学を専攻することも、歴史的に研究することもなかったが、ときおり心理学方面の話題に触れる機会はあった。この期に及んで思うに、この間この点におけるユングのこの業績(あくまで心の四つの機能に限定した業績)がどのように受け継がれ、進展させられたのかが気になることもあったが、その後の、学問研究とは無縁な経歴上、学問的な動向については通暁していない。しかしメディアや書籍情報を通じて漏れ伝わってくる限り、あまりこの点では進展がないような印象がある。

最近の傾向として感じられることは、以前は心理学の問題として心理学者によって、特に一般向けメディアを通じて話題に上されてきた問題が、心理学者ではなく脳科学者によって脳科学の業績として語られることである。脳科学と心理学はどう違うのかと考えて見ると、字面上、脳科学は臓器としての脳を対象とした生理学的研究を重視しているらしいことは見当がつく。しかし脳科学とは異なる印象がある精神分析学の開祖であるフロイトは神経科学の研究からスタートしたのであり、精神分析学を樹立した後も神経科学を捨象したわけではないと思う。であるから、現代の脳科学は精神分析学とは別系統であるとは言えず、一面で言えば、研究分野の名前が変わっただけという見方もできる。

フロイトは『精神分析学』という名称を商標のように、自説ないし自説に追随する言説に限定したので、ユングは自説を『分析心理学』と呼んだと言われている。この伝で言えば『脳科学』も、そういうブランド名のように考えることもできる。とはいえ脳科学はその言葉の本来の概念を適用すればもっと広範な領域を含意しているような印象を受ける。いずれにせよ問題なのはこのように学問の分野名ないし分類名が変わることによって、それまでのその分野の成果から大切な要素が忘れ去られたり、はじき出されたりするのではないかという危惧である。その意味で、ユングの『心の四つの機能』はもっと応用され、再検討され、多面的に展開されるべきではないかと考えている。

そこでこの心の四機能を、タイトルと冒頭で言及したCOVID-19感染症対策の問題に適用してみたい。この感染症対策としてはいろいろ問題にされているが、代表例として最も目立つマスク着用の判断という問題との関連で少し考察してみたい。もっともユングの『心理学的類型』における理論は心の四機能と外向的、内向的という概念と結びついているので複雑であるし、私はそれを総合的に理解しているわけでもない。以下の考察は単にマスク着用の是非判断にこれらの四機能がどのように寄与しているかという大雑把な考察のみである。当然、医学専門家、法律家、行政側、一般公衆、等々といった立場の違いなども考慮できるようなゆとりもない。

【感覚との関わり】
まず第一に、視覚、聴覚、触覚、その他の身体感覚、どの種の感覚によってもウィルスの挙動はもちろん、存在すらも知覚できないという基本事実を無視することはできない。したがって、感覚的にはマスク着用が快適であるか不快であるかが判断できるのみであって、感覚を元にその着用の是非を判断できるわけではない。

マスク着用では不快感の方が大きいことはまず間違いがない。寒い季節には身体に暖かさが得られるのでこれは快感といえるが、鼻まで覆うと冬季でも呼吸に悪影響が及ぶし、口の周囲がじめじめして不快である。またメガネをかけていれば視覚にも悪影響を及ぼす。

一方、これは感覚だけではなく感情にも関わっていると思われ、微妙なところだが、視覚に限らず身体感覚を考慮しても、感情的にはマスク着用で自らは守られているような安心感が得られることは確かであろう。ただしそのような安心感がメリットであるかデメリットであるかは別の問題である。


【思考との関わり】
ウィルスはいかなる感覚でも直接感知できないものである。ウィルスによる感染という状態、感染や発病のメカニズムなどはすべて長い歴史上に積み重ねられた膨大な医学的研究成果に基づいているのであって、ウィルスやそれによる感染症という概念自体が感覚でも感情でも直観でもなく思考機能に基づいている。とはいえ、思考のプロセス中に感覚は欠かせないものであり、また感情や直観が影響を及ぼす可能性はある。ウィルスによる感染症の概念と、その感染拡大に対する防衛としてマスクを着用するということ、それも感染症の症状を持つ患者や特定の検査結果の陽性者のみならず国民全体が常にマスクを着用して生活すべきだという現在の国家的方針との関係が科学的思考のみに基づいているとは常識的にも到底想像できないことは言うまでもないことだろう。

一つの問題として、ウィルス感染とか感染拡大、何らかの検査における陽性反応、等々、諸々の概念自体にどれほどの確実性があるのかが心許ないといえるが、当面はそれらの概念のいわば言葉の土俵の上で考察するしかない。

科学的な考察を進めるうえでは大きく分けて次の二つの異なる方向性がある。①一方は実験を含めたメカニズムの理論的考察であり、②もう一方は過去のデータによる統計的な分析である。ここでこれ以上考察を進めるいとまはないが、現実問題として②の方向性をとらざるを得ないのではないだろうか。個人的には結論としてマスク着用、正確に言えば全国民的なマスク着用の感染防止効果は確認できていない印象を持っている。

【感情との関わり】
マスク着用に関する感情的な反応は、自分自身のマスク着用に対する判断における動機と、他人のマスク着用に対する印象とに分けられると言える。第一に挙げられる要素は『恐怖』、すなわちウィルス感染と重症化、さらには死に対する恐怖であることには間違いがない。しかし、病気や死に対する恐怖心はだれにでもあり、一方に安心感というものもある。恐怖と言うのは潜在的には常にあるが、恐怖の原因によって呼び覚まされるものである。恐怖にしても安心感にしても、それらを呼び起こすものはウィルス感染症とマスク着用効果に対する知識であり、それは思考作用の結果とはいえるが、その結果は自分自身の思考による場合と他者の思考による場合がある。もちろん純粋にその両者の一方だけということはあり得ない。また自分以外の他者は多人数であり、メディアを通じてさらに多人数である。それぞれ思考の特性、端的に言って考え方も違っていれば利害関係もある。

【直観との関わり】
直観について考察するのは難しい。今の私はユングが述べている直観についてよく理解しているわけでもないし、ユングが影響を受けたカント哲学にさかのぼって考察できるような素養も持ち合わせていない。ただ、これはカントでもユングでもないが、カッシーラーが『シンボル形式の哲学』の最終巻で、『表情機能』というものについて述べていることが思い起こされるのである。この辺りはこの著作の中でも最も難解かつ深遠な部分のように思われ、私に十分理解できたとも思えないが、直感に最も関係があるようにも思われる。一方、人がマスクをしている他人を見て大いに気になることの一つは表情の問題である。顔の下半分、特に口元が隠されることにより表情が読み取りにくくなったり、悪い印象を受けたりすることによる弊害が指摘されている。これは立場によりメリットともデメリットともなり得るが、この表情を表現したり、表情を読み取る心の機能は感情機能とも思考機能とも感覚機能とも異なるが、直感ともっとも関係が深いようにも思われる。この場合は感覚機能の中では視覚と関係が深いが、視覚以外の身体感覚にも関係がないとも思えない。この問題は少なくとも個人的に、今後の課題となりそうな予感がしている。

金曜日, 10月 23, 2020

ウィルス感染対策としてのマスク(非)着用の論理

 前回と前々回の記事で、ウィルス感染対策として、少なくとも国レベルでマスク着用を義務化あるいは要請することに意味がないことが、スウェーデンの経験から判明しているという考えを述べた。もちろんそれは国のようなレベルで、全体として統計的な結果が意味を持つ単位での対策としてであって、個々の環境や個人的なレベルでの是非はまた別の問題である。それについては同記事で引き続いて考察し、述べている。また、上記は統計的な結果にのみ基づくもので、具体的なメカニズムや個々のメリット、デメリットについては詳しく考察していないので、もとより専門的な知見からでは全くないが、日常的な言葉で可能な論理の範囲から考察してみたい。

【スウェーデンの実績が持つ意義と重要性】
その前にまず、スウェーデンの実績から国家的なレベルでマスク着用を求める必要がないという結論を導き出すという、一見単純な論理の重さをもう少し強調したいと思う。一般にマスク着用やロックダウンなど三蜜対策を要求する論理は感覚的な直観のみに訴えるのみであって正確で具体的な論理を欠いている場合が多い。例えばつい最近ツイッターで見られた次のような主張である。

「オランダ人もあまり規制を好まない。そこで、コロナ感染が急増しており、病院がパンク状態になりつつある。」

ここでは単純に、[オランダ人が規制を好まない]という事実認識と[コロナ感染急増]という事実認識を恣意的に結び付けているだけであって論理が何もない。感覚的な印象に訴えるだけである。この論者は同じようなツイートを沢山しているが、いずれも個々のケースの印象だけで単純に結論を述べているだけであって、2つ以上のケースを比較するという視点が全く見られない。科学的な論理は「比較」から始まるのである。スウェーデンのケースから結論を導いた私の論理は一見、スウェーデンの実績のみに基づいているように見えるが、実際にはスウェーデンと他の諸国との比較に基づいているのである。


ここで今回の本題に戻りたい。まずいくつかの前提事項を整理してみたい。

【他のウィルス感染対策と比較した場合のマスク着用の際立った特徴】
マスク着用には他の個人的ウィルス感染対策とは明らかに異なる際立った特徴がある。それは視覚的に、その個人が対策を行っていることが一目瞭然であることに尽きるといえる。これは実際の対策の効果とは無関係であることに注目すべきである。それは、マスクは眼に見えるがウィルスは眼に見えないという事実に他ならない。つまり、マスク着用自体は一目瞭然であるが、その効果については他の対策と同様に一目瞭然では全くないのである。

【専門家の知見に基づいて一般にも通用しているマスクの効果】
これには、科学的にもいろいろな意見があると思うが、まず次の2点が一般的に合意されていると考えられる。
(1)普通のマスクはウィルスを通過させる。
(2)マスクは着用者が鼻や口から飛沫が飛ぶことを防止する。

注意すべきことは、いずれもウィルスによる感染とは関係がありそうではあるが、本来は別の問題であるということである。問題なのはこの時点で思考が停止してしまい、ここから直接ウィルス感染の議論に飛躍してしまうことだ。そして、(1)はマスク無用論の論拠となり、(2)はマスク有用論の根拠となる。そこで誰もがウィルス感染者である可能性があることから、(2)の論拠が優先され、マスク有用論が優勢になっていると言える。

しかしここには前述のとおり、ウィルス感染とは何かという、考察すべき問題の飛躍があることに加え、マスク着用に伴うその他のメリットやデメリットが、全く考慮されていないという問題がある。

【マスク着用のその他のメリット】
取り合えず次の点は私の個人的体験からも確実に言えると思われる。
(A)寒冷時に呼吸器内の温度と湿度の低下を緩和する。これは免疫作用にも良い影響を与えるかもしれない。
(B)着用している側では心理的な安心感が得られる。

【マスク着用のデメリット】
個人的に気付いたり、教えられたりした範囲でデメリットを列挙してみたい。
(a)寒冷期以外では上記(A)と逆の結果となる。呼吸機能の低下や夏季における体温の過剰な上昇や湿気による不快感が原因で免疫力の低下につながる恐れがある。
(b)マスクにはウィルスが滞留するがマスクには手を触れざるを得ない。マスクによって接触によるウィルスの移動可能性がむしろ増えるのではないか?これはあまり指摘されることがないが、実は誰もが内心気になっているのではないだろうか?他の人が実際に清潔なマスクをしているかなど、誰もチェックしていないし、できもしない。
(c)マスクは一種の覆面であり、公共の場でマスクをした姿が普通の状況になることによる心理的な影響については深刻な危惧がもたれる。例えばつい最近、Twitterで次のような投稿に遭遇した:https://twitter.com/GodChild_jp/status/1319171122336722944
何よりもマスク姿は心理的に気分を低下させるし、それが免疫力にも悪影響を与えると言われている。
(d)メガネが曇る。これは私が個人的にも最も困っているデメリットであるけれども強度の近視や乱視でメガネなしでは外出できないような人たちにとっては切実な問題で、深刻な危険を伴うものである筈である。

【東京大学で行われたマスク防御効果の実験について】
実は、以上の記述内容はだいたい昨日に書いたものである。昨日の深夜、テレビ東京のWBSニュースを見ていたら、実際の新型コロナウィルスを使ってマスクの防御効果をテストしたという東京大学で行われた実験結果が伝えられた。それによると、得られた数値は飛沫状の水に含まれた新型コロナウィルスのマスクによる透過率と言うべきもので、それらの数値は正確に記憶していないが、総合的に50%前後であった。しかしその数値がそのまま防御率という概念につながるいうことは難しいと思う。早い話が、マスク着用によってマスクにウィルスが滞留するので、皮膚接触によるリスクが逆に増えることすら考えられるのである。根本的には、次に述べるように、ウィルスの存在や移動とウィルスに感染するということはまた別の概念である。結局のところこの結果はマスク着用の1つのメリットと言える範囲であり、「防御効果」という、ある意味総合的で定義の難しい概念に帰着させるべきではないと思う。


詰まるところ、最も基本的な問題は、単なるウィルスの存在や移動と、ウィルス感染との関係性が明確ではないことにある。もっと端的に言えばウィルス感染、具体的に言えば新型ウィルス感染とは一体どういうことなのか、そもそも感染あるいは感染者の定義はどういうことであるのかという問題に尽きるのではないだろうか。現在、毎日「感染者」という言葉がニュースで発せられる。しかしこの新型コロナ事件が問題になる以前に感染者という言葉はそんなに聞いた記憶がない。似た言葉で患者や罹患者、あるいは保菌者というような言葉はよく聞いたことがある。ウィルスと細菌の場合で、あるいはウィルスにしても細菌にしてもその種類によって性質はさまざまであることは分かるが、今回ほど感染者と言う一つの言葉に日々政府関係者やマスコミが一喜一憂しているような経験は初めてである。そこで私は今年の四月に別ブログ「意味の周辺」で次のような記事を書いた。「感染者という言葉の一人歩き」という記事である。その後数か月経ってから今ではかなり知られるようになったあの大橋眞・徳島大学名誉教授のユーチューブ抗議シリーズに遭遇して、改めて感染という概念についてかなり理解を深めることができたと考えている。この先生は「新型コロナウィルスの存在自体の懐疑論者」として言及されることが多いように見受けられるが、例のユーチューブシリーズで説かれていることはそれ以上にPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)検査の本質や感染、感染者の概念と言った基本的な認識についての説明であり、私達は新型コロナウィルスの存在自体の問題よりもまず、それらの説明について耳を傾けるべきである。そこで私達は、ウィルスに感染するということはウィルスが我々の身体の細胞に入って増殖することであって、それは何らかの症状となって現れるはずであり、無症状の人からウィルスが検出されたとしても、それでその人がウィルスに感染しているとは言えないのではということを教えられる。改めて自分で考えて見ても、それはもっともな話である。そもそも人は四六時中呼吸をして息を吐き続けている。一時的に呼吸器内にウィルスが侵入したとしても、それが体内で増殖しなければ、絶えず吐き続ける息からウィルスを拡散し続けるようなことができるわけはないのである。これは専門家にとっては常識であったのだろう。だからこそ、はじめは、症状のある人に対してのみマスク着用を求める意見が多かったのである。それが先にも述べたように「マスクは飛沫の拡散を防ぐ」という、一つの分かりやすい説明だけで多くの人々が思考を停止してしまったようなものである。

【病原体の存在や移動と個人の抵抗力(免疫力)との二面性】
ある程度でも感染の概念に気が付くようになれば、ウィルスへの感染について考える場合、常に病原体の存在や移動と個人の免疫力との二面性を考慮すべきことに気づく。ウィルスの存在と移動の原因は多分に不可抗力によるが、個人の免疫力についてはもちろん天性にもよるが、かなりの程度は各自の心掛けと努力次第でもある。上記のような様々なメリット、デメリットを勘案する場合にはまず免疫力に関わる要素を重視すべきであろう。

【まとめ】
という次第で、マスク着用または非着用については上記のようないくつもの前提事項、メリットやデメリットを個人個人が総合的に判断して、各自が判断すべき問題であると言える。国のような全体的なレベルで全員に着用を要請することには、上記スウェーデンの景観からも意味がないというべきである。もちろん、顕著な症状を持つ本来の意味での感染が疑われる個人についてはこれは該当しない。


水曜日, 10月 14, 2020

前回に続けて ― メディアの一部から垣間見えるマスク非着用デモンストレーションのサイン

前回の記事で、新型コロナ感染症対策として、国のような全体的なレベルでマスク着用の強制あるいは要請が意味がないことを理解するにはスウェーデンの経験を参考にするだけで十分だという考えを述べた。スウェーデンではマスクを強制も要請もしなかったにも関わらずほかのヨーロッパ諸国を上回るような「感染拡大」が生じなかった理由としては「集団免疫」ということがよく言われている。私はもちろん専門家でもなく個人的にもそこまで勉強していないので集団免疫の理論が正しいのかどうかはよくわからないが、何れにしても、このような結果を示すデータだけで十分であろうと思う。当面のマスク着用を考えるという目的では、理詰めで追究しなくても、単なる実証結果としてみるだけで充分であると思う。

というのも、この問題を理詰めで、理論的に議論しようとしても、マスク着用が不要であるかデメリットの方が大きいと考える私のような立場から、他の反対の考えを持つ人人に直接問題を投げかけると、必ず何らかの反論が提起される。そこで冷静に議論できれば良いけれども、普通はそうはゆかない。根拠を理論的なものではなくスウェーデンにおける経験のようなデータだけにとどめて置けば、そういう勝敗のような感情的な傷は少なく済む。

また最近はアメリカでも日本でも、米大統領選でトランプ氏を批判する目的でマスクを引き合いに出す有名無名のジャーナリストやツイッターが多い。そういう人達は最初からマスク着用の義務を前提として議論しているから、そもそもこの問題で議論を深める気は最初からない。

 

マスク着用への圧力は殆どメディアから、それも大部分はテレビを通してだろう。政府の広報も殆どテレビを通してである。ネットではツイッターからも相当なものである。昨日だったが、プロのダンサー達がマスクを着用して集団で踊っている外国の動画が単純にリツイートされていたが、このような職業ジャーナリストでもないツイッターも多い。このようにマスコミで伝わる情報の大部分は視覚を通じた印象によるもので、理詰めのものではないことは明らかである。マスクにはそういう視覚を通じた印象効果の部分が多いところが手洗いや消毒とは違うところだろう。本来的には手洗いや消毒の徹底ということが初期から言われており、初期にはマスクの効果はそれに比べて疑問視される傾向が強かったのである。それが今では手洗いや消毒とマスクの話題が逆転し、現実に街のスーパーやコンビニなどに入る人を見てもマスクをしても手の消毒は省略する人が多いということは視覚的な印象効果の大きさを物語っているといえる。

 

先日の日曜の夜、久しぶりにNHKテレビで『クラシック音楽館』を見た。実のところ最近はこの番組でN響の演奏を聴こうとしても、楽員のマスク姿を見るだけでそれ以上視聴を続ける気をそがれてしまうので、残念だけれども視聴することは避けていた。しかし、この日の最初のプログラムはシューマンの「四つのホルンのための協奏曲」である。四人のホルン奏者がマスクをすることはあり得ないので、この夜は期待してこの番組にチャンネルを合わせてみたところ、この日は楽員のほぼ全員がマスクを着用していなかった。最後列の目立たない位置に、申し訳程度にわずか数名の楽員がマスクを着用していただけだった。ただし、後に放映されたリハーサルでは識者を含めて見事に全員が、マスクなり透明シールドなりを着用していた。

本番においてマスクを外すことは、演奏者の見栄えという観点からは当然である。しかしマスク着用の本来の目的から言えば、リハーサルと本番で異なってよいということはあり得ない。つまるところ、N響の責任者とメンバーはほぼ全員が、マスク着用に意味がなく、少なくとも音楽演奏の場ではむしろ着用しない方が良いことを確信しているとしか思えないのである。

上記は、建前とは別に、本音でのマスク非着用デモンストレーションの意図の表れではないかと、個人的には思っている。この時期にホルンのような金管楽器が四つ並んで主役を務めるような曲を冒頭に持ってくるようなプログラミング自体にそれを感じる。

このような例は他の一般のテレビ番組にも垣間見られる。例の三蜜防止は事実上、出演者間では解除されているとも受け取れる。私はニュース番組ではテレビ東京のWBSを割とよく見るが、時々キャスターが政治家やビジネス界の要人にインタビューすることが多い。そのようなインタビューで、キャスターの方はマスクを着用してはいるが、インタビューされる側の政治家やビジネス界の要人はマスクを着用していないケースは多い。そのような要人たちが特権的にマスク着用を免除されてよいということはあり得ない。やはり、着用していない人は、マスクをしない方が良いと確信しているとしか思えないのである。

テレビニュースにおけるこのような状況はかなり以前から、垣間見えることがあった。街の光景を映し出す際に、マスクをしていない人にかなりの長時間スポットを当てたり、 メガネをかけた人がマスクを外す様子を何気なく映し出したりしているのに気づいたことがある。私の場合はマスク着用の最大のデメリットはメガネの曇りであり、これは1つのデメリットであることを超えて重大な危険要素である。ということで、こういうシーンは大いに共感を覚えたことであった。

前回も述べたように、地下鉄駅の構内放送や、大型店舗内の放送などでもマスク着用の要請は緩んできたような印象もある。私たちも、このようなサインには敏感に反応すべきであると思う。

木曜日, 10月 08, 2020

新型コロナ対策とマスク着用について、私の経験と考え

(この記事は私の別ブログ『矢車SITE』の最新(10月2日)記事から一部を多少編集して転載したものです。)

新型コロナ対策とマスク着用について、私の経験と考え

【これまでの体験】

さて、今回の帰郷でも所用以外で気になっていたことや考え続けたことは、言うまでもなく、新型コロナ騒動の事であった。何しろ道程中の殆どを四六時中、殆どがマスクをした群衆の中を通り抜けなければならないのだから。新型コロナ対策では、いまや個人的には全く心配していないのだが、こういう外出や旅行、さらに人に会うことで問題になることは、まずマスク着用の問題である。そこでマスク着用の問題について個人的な履歴と考えについてまとめておこうかと思う。

昨年暮れから今年にかけての冬の間、この問題がニュースに登場し始めた頃、私はやはり新型コロナ感染を恐れて、最初はよく行く上野方面に出かけることも避け、マスクも着用したかったのだが、あいにくすでに、どこに行ってもマスクは買えなかった。でもマスクでウィルス感染は防げないとは、昔からよく言われていたことなので、そんなに極端に恐れてインターネット経由で高額で入手しようとまでは思わず、マスクなしで外を歩いていたが、当時はすでに外を歩く人々の大半はマスクを着用していたので困りながら歩いていた。やがて、置き薬の箱に花粉症用のマスクが三枚入りの袋で入っていたことに気が付き、外出するときには着用するようになった。

もともと私は風邪をひきやすい方で、かつては毎年のように相当ひどい風邪を引いていたが、数年、四五年前になるかな、インターネット上の多用なサイトから得られる知識のおかげもあり(もちろんそれだけではないが)、もっぱら免疫力を高めることの重要さに目覚め、それまで無精でで週に一回程度であった入浴も毎日欠かさないようになって今に至っている。また、慢性鼻炎で鼻が詰まりやすく口呼吸をすることが多いせいか、扁桃腺から風邪を引きやすく、冬には加湿器を使うようになり、それ以来、重度の風邪を引かなくなったように思う。特に冬の加湿器の効果は大きいと感じられる。ちなみに風邪は専門家にもいまだによくわかっていないと言われるが、それは最もだと思う。個人によって、また年齢においても、症状にも個性があるように思われる。私の場合は大抵は扁桃腺の痛みから始まり、やがていつも同じような場所に蕁麻疹が生じて、腸の調子が悪くなり、下痢症状を引き起こすパターンが多い。ひどいときは筋肉痛や頭痛が起きる。ただ、上記のような免疫力対策を功を奏したのか、ここ数年間、寝込むほど症状が悪化することはなくなった。免疫力と言うものは未だに専門的にもよく分かっていないと言われるが、それはそうだろうと思う。また多様な風邪の症状にしても、お医者様にも本当のところはどれだけわかっているのか、結構怪しまれる。これまで医師の診断を受けた経験上、お医者様には申し訳ないが、そう思わざるを得ない。そんなわけで、新型コロナの症状にしても診断にしても、専門医自体がどこまでわかっているのやら、失礼ながら心もとない気がするのである。

そんなわけで、マスクをした場合には喉の乾燥と体温の低下防止に結構効果があるので、乾燥した寒いときにマスクを着用すると身体が守られているような安心感が得られ、寒いときにマスクを着用すのは嫌いではなかった。

しかし同時に私はかなり強い近視で、メガネなしで外を歩くのはやはり怖いのだが、マスクをすると見事にメガネが曇り、十分に危険なほどである。そういうわけで、室内ならいいのだが、交通量の多い外で、特に雨の日などはマスクをするのは危険と言っても間違いではなく、最初の頃からこの危険は風邪感染の危険よりは大きいのではないかと思っていた。そういうわけで、マスク着用を強く要請する向きには最初の、まだ寒い頃からかなりの不信感と反感を抱いていたことは確かである。

その後例によって猛暑を迎え、今や秋半ばにさしかかっているが、この間、行政側やジャーナリズム、インターネットの各種サイトを通して、様々な情報をえることができた今、マスク着用については次のような考えを持って対処してきた。

寒い間は外出時にマスクをしていたが、やはりメガネが曇ってくると外さざるを得なかった。

暖かく、さらに暑い時期が始まると外ではマスクを完全に着けないようになったが、店舗内に入ったり電車に乗ったりするするときだけ、胸ポケットに入れていた薄いマスクを着けるようにしていた。

この頃になると、街中を歩くときは完全にマスクを着用しなくなっていた。私の場合、出かけるのは大抵は夕方で4時半過ぎから5時半ころまでで、買い物であっても散歩を兼ねるものだから、外出時間は3時間に及ぶことがある。その時間帯の話になるが、一向にマスク着用者の数が減らないものだから、いらいらし、歩いている人たちに反感を感じるようにさえなってしまった。マスクの大きさや形状や色によっては不気味で気持ちが悪くなる場合さえある。しかし、日によって違うが、私が歩く範囲内では平均して1割程度の人たちがマスクなしで歩いていたような印象がある。年齢と性別、また風采や人相はあまり関係がないように思う。

以上のような中で先般、関西の方に帰郷してまた戻ってきたわけだが、この間、東京駅や新幹線の中などではマスク着用率は、近隣で体験していたよりは高かったことは確実である。非着用者は恐らく1パーセント以下だろう。

地元では滞在期間がわずかであったのでよくわからなかったが、東京の地元とはそう変わらない印象である。ただ、いわゆる「おっさん層」で非着用率が東京よりも高かったような印象がある。東京でもこの層では私を含め、比較的、非着用率が高く見えることは確かである。大阪の地元では近くに広い公園があるが、毎日のように公園に行くらしい姉の話では、その日の昼間、公園内ではだれもマスクをしていなかった、とのことであった。以前に一度電話で話した時に比べてかなり変化があるようだった。

ごく最近になって、私としては一つの決心をして、まず地下鉄に乗る時(最近は日常的に乗ることは少なくなったが)にマスクをしないようになり、つい最近に至ってはスーパーやコンビニでもマスクをしないようになった。ちょうど大阪からこちらに戻ったときから、地下鉄の構内放送ではマスク着用要請をアナウンスしなくなったように思う。もちろん、しょっちゅう乗っているわけではないので他の場合は分からない。一方、この一週間内に訪れた、近所にある2つのスーパーでは、マスク着用を要請する構内放送の内容が婉曲的になり、音量、頻度などが小さく、少なくなってきたように思う。これは行政側の変化の表れではないか、と思うのは考え過ぎだろうか?毎夕テレビニュースに現れる都知事の談話やその他のテレビニュースなどでは相変わらずのように思えるが。

例えば以前ある有名ドラッグストアに入ったとき、超有名店であるにも関わらず消毒用のアルコール瓶がごく小さく目立たないところに置いてあるうえ、空っぽだった記憶がある。マスクよりも消毒の方が、どちらかと言えばはっきりした効果があると思っていたので、少々腹が立ったのだが、今になってみるとそういういい加減さにむしろ好感を持つようになった。あまりマスク着用を厳しく要請するステッカーも目立たなかったし、こちらがマスク着用をしなくても店員の態度は全く変わらないし。

【私の考察と結論】

まず、新型コロナウィルス感染の実態とマスク着用の是非の問題は分けて考えるべきである。新型コロナウィルス感染状況の実態については素人でもあり、個人的に発言できるとしても、いまこのような形で総合的に判断することはできもしないし、したいとは思わない。しかしマスク着用の是非という問題については、に個人的に明確にしておきたいし、理解されることを望むからである。

  • 【スウェーデンの結果で十分】総合的な判断として、マスク着用を国民全体に要請することで新型コロナウィルス感染拡大防止効果がないことは、もうスウェーデンの経験との比較から明らかになっており、それでもう十分であると言える。これはマスク着用と三蜜の両方について言える。スウェーデンでも公表される「感染者数」が完全に抑えられたわけではないにしても、マスク着用とロックダウンを実施している他のヨーロッパ諸国を顕著に上回ることはなかった。それで十分である。少なくとも一般人向けにマスク着用と三蜜の要請には、今回の新型コロナウィルスの感染拡大対策としては不要である。
  • 個人的判断のレベルでは、常にメリットとデメリットの両方を考慮する必要がある。私の場合は気道の水分と体温維持の点で冬季には気分的にはかなりメリットを感じるが、屋外ではメガネが曇るというデメリットは非常に大きく、危険な場合さえある。気温が低くなくてもメガネが曇る時は多い。夏季には冬季に感じるメリットは全くなく、事実上はデメリットばかりである。
  • 一般的なレベルでは、マスクを着けた人の口や鼻から出る飛沫を飛ばさないことがメリットであるという考えが定着している。ただこれは、普通の健康な人が飛ばす飛沫にどれだけの危険性があるかという問題が不問に付されているので、不明な点が多い。デメリットとして言われていることは、暑い季節にマスクを着けることによる不快感で体力や免疫力が低下すると言われる問題である。重要なことは、こういった体力や免疫力の低下は、単に新型コロナウィルスの感染症だけではなく、あらゆる病気と健康に関わるという点である。この問題については、健常者が飛ばす飛沫にどれだけの危険性確率があるかという問題に帰着する。その点での専門家による考察はあるはずであるが、大勢はそこまで考えない。マスクの飛沫拡散防止効果という時点で思考が停止しているのである。
  • 社会的レベル、というと抽象的になるので、人間関係のレベルと言えばよいだろうか。このレベルで考える場合、マスクは自分が感染しないために着けるのか、相手に感染させないために着けるのかという、心理的に微妙な問題が関係してくる。実際のところどちらにも意味がないということを両者が確信している場合、それがお互いにわかっている場合は何の問題もなく、周囲への対応の問題だけとなる。しかし現実にはそうではない場合が多い。一般的によく言われているように、マスクで自分の感染は防げないが、自分が感染している場合に飛沫を飛ばさずに相手を守ることができる、という考えが正しいかまたは信じている場合。その目的で着けているつもりでも、本心では自分が相手に感染させられることを恐れている場合もあるだろうし、誰でもそういう立場や心持ちはコロコロと変わる。こういう場合、相手が新型コロナウィルス感染を恐れていることがわかれば、議論は避けてマスクを着用するのが順当というものだろう。しかし、それで終われば後は永遠の平行線である。マスクのデメリットは他にもある。人々の心理的距離を分断するということだ。その分断が維持される。感染健常者のマスク着用に意味がないことを信じている立場からすれば、相手との心理的距離を近づけるためにも、努力をして相手を説得したいと思うだろう。一般に説得というものは容易ではない。どちらにも不純な気持ちが入り込む。その先はここで論議しても仕方がない。

以上までの内容を昨日の夕方までに書き込んだ後、買い物を兼ねた散歩で外出したところ、マスクを着用していない人の割合は、一昨日に比べて圧倒的に減少していた。一昨日は10パーセント程度に思えたが、昨日は1パーセントにも満たないだろうと思われた。がっかりしながら歩いていたのだけれども、後から考えるとこれは時間帯によるところが大きいことに気が付いた。一昨日に外出したのは3時半だったが、昨日は5時半であった。通勤者の帰宅時間であったことを考えると納得がゆく。食品スーパーの中も同じ。

とはいえ、以前と同様、対向する歩行者に避けられたり、あるいは電車内、スーパーなど店舗の入口や中で警告されたような経験は私の過ごしてきた環境では殆どなかった。ちなみに食品スーパーのようなところではマスクを着けずに入っても手のアルコール消毒は、瓶が見つかればできるだけするようにしている。現実にはマスクを着用しても手の消毒をしない人の方が多い。

これから気温が下がってゆき、マスクを着用してもそれほど苦痛ではなくなるだろうから、個人的に寒さに弱く、また耳鼻咽喉系が弱い私としては、マスクを着用した方が良いと思われるような機会も出てくるかと思う。しかしメガネが曇ることは依然として非常に大きなデメリットであることを超え、危険性というべきである。この問題についてはマスコミで取り上げられなかったわけでもないが、重要性が全く強調されていない。という次第で、私の場合はこれからも原則的にマスク非着用を続けそうである。

金曜日, 8月 30, 2019

現今のバーチャルリアリティー(VR)概念についてのいくらかの分析と提案


 バーチャルリアリティー ― Virural reality (VR)― は結構多岐にわたる意味合いを持っていますが、基本的にはある種の技術の意味で用いられ、辞書的にも技術として定義されているようです。ウィキペディアには次のような記述があります:「バーチャル・リアリティ」という言葉は、ジャロン・ラニアーが設立したVPL Researchが、1989年に発表したVR製品のデータ・グローブ (Data Glove)・アイ・フォン(Eye Phone)・オーディオ・スフィア (Audio Sphere) の紹介から一般的に使われ始めた[6]。」
 私の記憶では当初、上記の類の製品については一般マスコミの他、特にオーディオヴィジュアル系の雑誌で取り上げられることが多かったように思いますが、この筋の評論家の間での評判はあまり芳しいものではなかったように記憶しています。そのVRの現状と将来性、発展性の一端について ― もちろん全面的ではなく私の視点と問題意識からですが ―、いくつかの局面で考察と主張を試みてみたいと思います。 

【1.立体映像に関して】
 一般に立体映像の技術は次のような要素技術の組合せと考えられます。
  1. 両眼視機能(視差と輻輳角度)の利用
  2. 普通に3Dと言われるもので、CADや3Dアニメーションのような三次元的座標データを使用するコンピュータないしソフトウェアの技術
  3. ゴーグルを用いるディスプレイ/表示技術
  4. ホログラムその他。
 当初、冒頭に述べたようなゴーグルを用いた製品との関連で、VR技術の概念がメディアに登場し始めた頃、私の受け止め方としては基本的に、従来からある(1)の立体映像技術をIT技術の進展を受けて高度化ないし精細化しただけであり ― 場合によっては触覚など、確かに従来技術にはなかった要素も追加されたりすることにもなりましたが ― 視覚に関する限り、コンセプトとして特に画期的なものとは思われませんでした。早い話が、立体写真は昔からあり、立体写真用のカメラも時折発売されていたように記憶しています。それでも、現今のように多機能なスマホカメラが普及して日常的に誰もが毎日のように写真撮影を行う時代になっても、立体写真を撮ろうとする人はあまりいないように思います。リアリティーを追求する向きはむしろ動画に向かっています ― ユーチューブの隆盛が示すように ―。
 元来が動画である映画やテレビについても、立体テレビの開発がプロモーションされ、商品化されるようになった時期がありましたが、これも殆ど不発に終わったのではないでしょうか。今、テレビは大画面と4Kや8Kといった高解像度あるいは高精細度に向かっているようで、今のところ消費者向けのテレビで立体映像機能は殆ど宣伝もされていないように見えます。
 
 両眼視機能における開発者側の意欲と消費者の反応との上述のギャップは何に由来しているのかを考えてみると、私が考える最大の理由は、両眼視機能による立体視効果に対する開発者側の過大な期待にあるように思います。端的に言って人間の視覚は本質的に立体視であって、両眼視差による遠近感の知覚は多少の相対的な精度を付け加えるものに過ぎないと言えます。第一、現実の人間の両眼視差で識別できる遠近感は、常識的な判断で、100メートルを超えないのではないでしょうか。例えば雲と月、あるいは遠くの建物との距離感の差などを知覚するには、両眼視差は何の役にもたっていません。遠景の場合はむしろ動きによる遠近感の認知が有効になってきます。見方を変えると、三次元的視覚、立体形状の把握、および遠近感の3つにおける意味上の区別を明確に理解する必要があるように思います。端的にいって視差による両眼視機能は、三次元的視覚において立体形状の把握と遠近感を強化し正確さを付け加えるものに過ぎず、「二次元的視覚」を「三次元的視覚」に変えるものと考えるべきではないと思うのです。言い方を変えると、視覚は本質的に三次元的であって、二次元的な視覚というものはないということさえできると思います。
 例えば、マンガのように平面的に描かれた人の顔の像があるとします。顔は常に頭部の前面を表すものです。平面の画像であっても人がその画像を認識する場合はその画面は見る人の方に向けられていなければなりません。当然描かれた顔は見る人の方を向いています。後姿の場合も同じことですね。要するに平面の画像は三次元空間の中で常に一定の向きを持っているのであって、向きを持っている以上は平面画像であっても三次元的なイメージとみなされるべきです。
 以上のような次第で、少なくとも芸術的な目的では両眼視機能を使用したいわゆる立体映像技術は期待されたほどの効果はなかったと言えます。これは視覚芸術の歴史をみてもわかることです。歴史的に、再現的な視覚芸術の主流は洋の東西を問わず絵画でした。彫刻は事実上、神像や人物像に限られ、それも現実に見られる位置は殆ど定まっています。今後においても、技術的な目的以外では、立体映像は主流にはならないように思います。


【2.現実と虚構という文脈で語られるヴァーチャルリアリティー(VR)の問題】
 VRに関する議論でよく話題になる議論のひとつが、VRが現実と虚構の区別に対する人々の認識と正しい判断に悪影響を与えるのではないか、という問題で、これは犯罪にも関わる社会問題として語られる場合が多いようです。端的に言ってこの問題も、次のように2つの異なる問題に分けて考察すべきかと思います。
  1. 感覚的な知覚における現実と虚構(この場合は「虚構」よりも「虚像」の方が適当か)の取り違え。これについては、早い話が、鏡の向こうに見える空間を現実の空間と間違えることは現実にあり得る話で、多少の間違えた経験はだれにもあるのではないでしょうか。絵や写真についてもそうで、昔からだまし絵なるものもありました。触覚までが加わることで、VR技術の進展に伴ってこの種の問題が深刻化することは明らかで、問題視されているのは当然の事でしょう。
  2. 作為的な虚構(フィクション、演技、演出、虚偽)と現実との取り違え。これも、今のVR技術はもちろん映像技術もなかった昔からある話です。物語や小説が現実のように受け取られる可能性については、歴史小説や物語を思い起こすだけでも十分でしょう。この問題は感性的知覚を超えた意味的な認識と解釈の問題であって、本質的に感覚的な知覚の範囲内である(1)とは別次元の問題であるといえます。ただ数年前に出現したポケモンゴーは立体映像技術ではないものの、公共空間に虚構を混ぜ込むような形式であって、コンセプトとしては一種のVR技術とも考えられ、使用環境によっては他人の権利侵害にもなりえるもので、良識を逸脱した技術ではないかと、個人的には考えています。いずれにせよ現実と虚構の文脈は、被害妄想のような精神的傾向や障害の問題にも関わってくる話です。
以上のように、どちらも重要な問題ではありますが、2つを分けて考えることが大切だと思います。問題としてはむしろ、本来のVR技術に限定されるものではない(2)の方が重要な問題なのではないでしょうか。とくに昨今ではマスコミあるいはメディアとの関わりが重要性を増しているように思われます。
 アメリカ、トランプ政権の誕生以来問題にされ始めた「フェイクニュース」は、メディアにおける現実と虚構の問題そのものですが、最近ますます気になることのひとつは、ニュースがフィクションのような様式で語られる場合が多いことです。ドラマ仕立ての現場の再現やドラマのナレーションのようなニュースの説明、演技過剰な声優の多用、声優による外国語の吹き替え等々。考えようによってはこういうニュースの表現は逆に、ニュースそのもののフィクション的側面をもあらわにし始めているとも言えますが、いずれにしても居心地が悪く、あまり気持ちの良いものではないと思います。
 
 以上の【1】と【2】を併せて、ひとつの結論として言えることは、VRの技術は技術的な目的では大いに期待は持てるとしても、芸術と娯楽の目的では従来の技術に付け加えるだけのメリットは少なく、むしろデメリットが大きいのではないかということです。

【3.ノイズ除去によるリアリティーの強化】
 上記【1】で述べたように、最近の映像技術では両眼視による立体映像技術よりもむしろ大画面や解像度向上などの画質の改善の方向に重点が置かれているように見えます。これは従来からある技術の拡大強化と精細化といえますが、言い換えると再現技術におけるノイズの除去ないし低減であるとみなすことができます。これは音響技術の歴史を見ても明らかで、音響技術の歴史は事実上、ノイズ低減技術に尽きると言っていも良いのではないでしょうか。もちろん原音を加工したり、音響自体を合成するような場合もありますが、加工もそれ自体は一つの表現であり、表現の意図を正確に伝えるにはノイズは除去する必要があります。画像の場合で解像度を例にとってみれば、解像度が低い場合に見えるドットはノイズとして作用し、色再現の精度をとってみれば、期待通りの色再現ができない場合はノイズ色の混入と見ることができます。
 この項で私がお伝えしたいことの要点は、ノイズ除去によるリアリティーの強化は、再現イメージを現実の何ものかと誤認させたり、錯覚させたりということではなく、むしろ表現された芸術的意図そのものの忠実な再現を指向するという点にあります。この意味で芸術の再現や複製技術におけるノイズ除去によるリアリティーの強化は、VR技術よりも文化的に有意義であり、映像技術において立体映像技術から4Kや8Kなどの高精細化に重点が移行してきたことはある意味で当然であったように思います。

【4.画像におけるもう一つのノイズ除去(筆者の特許の紹介)】
 画像の場合のノイズで、非常に重要な要素でありながら対策が遅れている問題が、画像や映像の表面反射などの表面効果ではないでしょうか。ゴーグル式の没入型VR技術ではこの点は解消されているのかもしれません。特に問題になるのは、印刷の場合は紙の材質であり、映像の場合は表面素材の材質となりますが、しかし印刷物の場合は全面的な解決は殆ど不可能と言ってよく、従来型の映像ディスプレイの場合でも、室内を消灯する以外に手はないでしょう。
 表面の効果において気付かれることの少ない要素がもう一つあります。それは画像表面の距離感です。画像の場合は絵に表現されているイメージの距離感は絵の表面の距離感とは全く異なるものです。画材を使用して描かれる絵の場合、表面は画材の材質感やタッチなどを含めてそれらも一つの表現効果となっていますが、絵の複製写真を含めて写真やビデオなどの画像では、表面の距離感は完全なノイズとみなすことができます。両眼視による距離感の知覚はこの表面の距離感に寄与しています。したがって、写真などの映像の場合、絵画の複製写真を含めて、両眼視機能はむしろ有害なのです。これは大画面を遠くから眺める場合には殆ど無視できますが、普通の室内や机上で見る映像や書物、写真などでは無視できないものです。
 上述のノイズ(平面性ノイズまたは画像距離ノイズと呼べると思います) を完全除去する方法としては両眼視差を取り除く以外にはありません。片眼で見ることで両眼視差は取り除くことはできます。しかし片眼で見ることには両眼視差が得られないこと以外のデメリットもあり、両眼視機能には両眼視差が得られること以外のメリットもあると考えられます。また両眼視差を完全除去するのではなく縮小することによるメリットも考慮する必要もあります。つぎにそれを整理してみます。
  1. 片目では視点が身体の左右の中心から外れて片側に移動することによる不安定感が避けられない
  2. 2つの眼を使うことにより、視力そのものが、強化されている
  3. 小さな立体物を近距離で見る場合は、両眼の瞳孔間距離は大きすぎるので、視差を無くすのではなく縮小することで両眼視機能が強化できる。(実験によれば、視差を1/2程度にすることで通常の2倍程度の大きさに見え、観察力が強化される印象があります。)
以上の観点から、筆者は反射鏡を使用する視差縮小メガネを考案して特許を取得しています。実を言えば最初はかなり昔にいったん出願したのですが、コンセプトに問題があって審査請求をせずに取り下げ、かなり後年になってからコンセプトを変えて反射鏡の角度範囲と瞳孔間距離の調節機構に重点を移して再出願し、審査請求を経て登録に至ったものです。これについては次のウェブサイトで詳しく説明していますのでご参照いただければ幸いです。
http://www.te-kogei.com/patent/koho_imageglass.html
 
 これまで私自身で商品化を試みたことはありましたが、ひとえに私自身の能力不足の点でできなかったもので、今後も私自身で商品化を試みる予定はありません。
 経緯や問題点についてはすべて上記ウェブサイトで説明していますので、興味を持たれた方には参照して頂けると幸いです。ただ、上記の特許取得とウェブサイトを作成した時点の社会環境において、タブレットPCは実用化されていましたが、スマホについてはまだ実現されていませんでした。

 以上。最後の項目は当方の宣伝になりますが、今回のヴァーチャルリアリティに関する考察の一つの帰結とも言えないこともないと考え、今回記事で取り上げさせていただきました。




金曜日, 5月 17, 2019

デスクトップ型PCディスプレイ新方式の提案

今回は筆者の登録済み特許案件に関わるもので、端的にいって宣伝です。
正規の紹介ページは下記URLです:
http://www.te-kogei.com/patent/koho_shomidai.html
従来、デスクトップ用パソコンとしては旧来のディスプレイが付属しないパソコンの他にノート型パソコンとディスプレイ一体型と呼ばれるパソコンがあります。この提案はそれらに対して【ディスプレイ接合型(方式)のパソコン】 と呼べると思います。




筆者は現在、実はノートパソコンに大型のディスプレイをつないでデュアルディスプレイとして使用しているのですが、必ずしも快適な使いよさが実現できていません。角度の調節範囲も狭いうえ、何よりも机の上がケーブル類で占領されるのが最も煩わしいところですね。


ケーブル類が柱体部分に接続できるうえ、ディスプレイと柱体部分の位置関係や設置方法で多様な置き方と角度が可能になるものと考えられます。詳しくは上記URLをご覧いただけると幸いです。

日曜日, 9月 09, 2018

眼の健康とPCディスプレイ ― その3 ― やはり視距離と面積の関係が最重要

このタイトルの前回記事まではディスプレイ表面の性質に関して目の疲労に及ぼす効果を考えたり、いろいろ試して見たりし、結局光沢塗装に落ち着いたわけで、それはそれで結構、効果があったように思いますが、それでもやはり効果は部分的で、せいぜい全体の10~20パーセント程度ではなかったかなと思います。それでついに、最初から気になってはいたものの、対策が面倒なために今まで放置していた問題に対処してみました。それはディスプレイと眼の距離の問題です。
 実は、現在のPCディスプレイは27インチなのですが、それ以前は19インチでした。普通PCディスプレイの距離は眼から40cm以上とされていたように記憶しています。ところが現在の机は奥行きが小さいため、PCディスプレイを眼から40cm以上に離すには机の端まで離す必要があり、実際にぎりぎりの端まで離してはいました。しかしそれが27インチになり面積が大幅に増加するとさすがに光の刺激が厳しくなり、圧迫感を感じましたが、何分場所も狭いし机も変えられないので板を使って多少ごまかす程度で今までしのいできたというわけです。しかし視力自体も低下する一方で、前回の表面塗装のような効果も試して多少の効果はあったものの、せいぜい冒頭のとおり、10~20パーセント程度でしょう。

そこでいよいよ思い立ってディスプレイをさらに離す工夫をしてみました。その方法は、私の場合、たまたまこれも部屋の狭さゆえのことですが、机の向こう側に本棚を配置して使用していたのです。その本棚の棚に合わせて板で橋を渡してその板橋の上にディスプレイを乗せることにしました。
これで結果的に視距離を70cmにすることができました。やはり効果は他の要因に比べて大きいですね。単に光の量だけではなく、視角や視差の要因大きいことは当然ですが。前回の表面塗装の効果が15パーセントくらいとすれば、40~50パーセント位の効果はあるように思います。
結論として、27インチのディスプレイでは少なくとも60cmは必要でしょう。私の場合は今の70cm程度が限度のようです。もちろん前回の表面効果も大きいし、その前のダイナミックレンジの効果も大きいでしょうね。ダイナミックレンジの効果は有機ELに期待したいところですが、ネット検索してみたところ、PCディスプレイではまだ発売されていないようで残念です。テレビよりもこちらの方を優先すべきだと思うんですがね。

月曜日, 3月 05, 2018

散歩またはウォーキングの効用 — 免疫力とストレス

散歩とウォーキングとはまた違うのでしょうが、どうもウォーキングという英語を使うのは気がすすみません。とはいえ医学的な効用などを云々する場合はウォーキングといった方が適切そうだし、ウォーキングシューズなどになると日本語は使えないというのももっともです。ここで、ついでに余計なことを言うと、「リスペクトする」というあまりにも耳障りな言い方だけは断固拒否したいですね。だいたい日本語でパ行の音はあまり良い意味の言葉には入らないと思うのですが。あ、散歩にはパ行が入っていましたか(笑)。
 
さて、最近ネット情報でウォーキングによる免疫力強化についての専門家サイトによる記事を見ました。それによるとウォーキングで免疫力が向上できるので毎日歩くことは非常に良いことだが、一定の限度を超えると逆に免疫力が低下するとのことでした。最初この記事を読んだときは少々反感を感じてしまいました。というのも当方、もともとスポーツには殆ど縁がないものの歩くことだけは好きで、買い物などの用であってもいったん外に歩きに出ると大抵は往復で2時間くらい、時には3時間くらいも歩くことが多く、1時間以内では物足らない場合が多いのです。そういうことで、この種の研究方法や統計手法などに文句をつけたいような気持もあったのですが、その数日後に多分、正味で3時間ぐらい歩いたと思われる日があったのですが、確かにそれ以前の記憶も含めて3時間程度も歩いた後の疲労感は必ずしも気持ちの良いものではなく、かなり不快な場合も多かったことに改めて気づきました。足腰の疲れはどうということもないのですが、身体の調子や気分的な疲労感、さらには目の疲れがかなり、時にはどっぷりと溜まっていることが多かったことに気づきました。特に寒いときには風邪の引き金になったり、お腹の調子が悪くなったりしていたようです。そういえば、もう十年以上も前の話ですが、顔面神経麻痺にかかった時も寒い中を長時間歩いたことがきっかけだったように思われます。

以下はネットの記事で読んだことではなく勝手な想像ですが、歩きすぎによる免疫力低下というのは精神的なストレスにも起因するのではないでしょうかね。というのも歩くということは一方で気晴らしになり、思索にインスピレーションを得るきっかけにもなるものですが、他方で精神的なストレスもそれだけ溜まるものです。特に東京のようなところではまず車に気をつけなければならないし、歩ける道も限られます。それにたいていの時間は自転車が無遠慮に歩道を走り回っています。人がすれ違うことがやっとという狭い歩道にでも平気で、時によっては二人が横並び運転しているのに遭遇することもしばしばです。加えて人同士のすれ違い方、場合によっては譲り合いどころか邪魔しあいになるときもありますね。これはまあ、お互い様なのでここではこれ以上は言わないことにしましょう。もう一つ、特に東京では道路が不規則で道を間違えやすいことも挙げられます。このリスクは東京の場合、京都や大阪に比べて格段に大きいですね。これは起伏と坂道が多いことにも関係しています。坂道自体には潤いがあって楽しいもので、特に見晴らしのよい広い坂道を下るときは例え都心の低い坂であっても何か下界に降りてゆくような、山を下山するような感動を覚えます。しかし巨大なビルが密集した見晴らしの悪い坂道は道を間違えるリスクも大きく、ストレスが加わるように思えます。

というわけで、ストレスの面から考えても散歩に時間をかけすぎるのは良くはなさそうです。とはいっても歩くことの効用は、健康面だけからいっても免疫力だけが目的でもないし、免疫力の強化方法はほかにもあり、入浴で体を温めるという方法ははまず間違いなく良い方法のようです。以前は無精であまり入浴しなかったのですが一昨年の暮れから健康法を意識し出して毎日欠かさず15分間以上の入浴を実行するようになってからは、現実に本格的な風邪を引かなくなったし、ほかの点でも健康増進につながっているように思います。歩きすぎた結果の免疫力低下もこれで何とか補えることでしょう。ありがたいことです。結局はなんでも程々に、というところでしょうか。

水曜日, 12月 06, 2017

眼の健康とPCディスプレイーその2

前回、このタイトルで記事を書きましたが、同じテーマで別のブログ(ブログ「発見の発見」)に新しい記事を書きましたので、こちらからもリンクしておきます。

当該記事の内容というのは、繰り返しになりますが、私が個人的に使っているPCディスプレイで実験的にやってみたことで、27インチ4Kの艶消しPCディスプレイに水溶性のつやだしニスを刷毛で塗ってみただけのことです。この種の塗装を行っている人はすでに沢山いるのではないかと思います。現にディスプレイ用の光沢シートはいろいろと販売されています。しかしスマホやタブレット用ならいいのですがサイズが大きくなると非常に選択肢が少ないばかりか非常に高額になり、また貼るのも難しくなってくるので、あまり普及はしていないように思います。またスマホやタブレット用はつや出しというよりも元々光沢のあるガラスの保護用と考えられていますからね。ということで、現在艶消しガラスのPCディスプレイをわざわざ光沢面にする需要は少ないのかもしれません。それは最初からわざわざ艶消しガラスを使用している製品がたくさんあり、艶消しガラスのメリットが信じられているからでしょう。とはいえ最初から艶消しを望む人だけが艶消しタイプを購入しているとは限りません。製品の色と同様、消費者が選択できない場合も多いのです。私の場合、昨年の初め頃に購入したのですが、最初から光沢ガラスタイプが欲しかったものの、当時は目的の性能と予算との関係で選んだ機種に艶消しタイプしかなかったのです。

というわけで、艶消しにはそれなりのメリットがあると考えられているのは確かですが、では実際に、想定されているほどのメリットがあるのか、またデメリットがどれ程のものなのかについて十分に研究され、最適化されているとは到底思えないのです。 そのような不満から、特に、現在PCディスプレイの艶消しガラスに使われている艶消し処理には大いに問題があるのではないかという疑問から、高価で使い方に難しいところもある光沢シート以外に艶消し方法はないものかいろいろ思案した上、ネットの通販サイトの宣伝や、とくにカスタマーレビューなどを参考にどのような選択肢があるものかを考えたうえで、近くのホームセンターで最も手頃、つまり安価で使いやすそうな塗料製品を見つけて試してみたという次第なのです。そしてその結果は、上記ブログで報告しているとおり上々で予想以上でした。

もう一つ繰り返し強調したいことは、現在の艶消しガラスはメリットよりもデメリットの方がずっと大きいのではないかということです。特に文字の場合に言えることですが、現在の艶消しガラス特有のノイズ感が眼の疲労に及ぼす影響が大きいのではないかということです。個人的にですが、最近に至って年齢のせいも加わり、PC作業による眼の疲労が耐えられないくらいに顕著になってきたため、仕事の将来について不安に思われるほどにさえなっていたところでした。遅寝遅起きという生活習慣の問題もあったようですが、その問題はさておき、眼の疲労が、特にPC画面を見始めて1時間ほど経過するだけで文字が二重に見え始める傾向が顕著になってきていました。眼が疲労するにしてもそのような不快な疲労の仕方に、この艶消しガラスの特殊な効果が関係しているのではないかという疑いを以前から持っていとところ、それに結構根拠があるのではないかという結論も今回の成果の一つです。というのは、上述のとおり、光沢ニスの塗装でディスプレイの使用感が改善した結果、眼の疲労自体が解消したわけではないにしても、今述べたような不快な眼の疲労感、二重に見えるような不快感はなくなっています。

眼の疲労に関してはこの種の問題以外に身体的な健康の問題が絡むことはもちろんです。特に睡眠時間とか遅寝遅起き、また食生活や栄養の面でも努力が必要なことは言うまでもありませんが、このようなディスプレイの問題が、単に明るさとかブルーライトといった問題以外に、潜んでいることは間違いないように思います。

メーカーの方にもこの面で研究と改善をお願いしたいものですが、ただしこの件では安価な塗料を自分自身で手塗りするだけで済むので、それで良いのかもしれませんね。上記のブログでも書いていますが、塗り方が下手でも汚くても効果に問題がありません。刷毛ムラや塗りムラもむしろ手作り感の温もりが加わって、少なくとも自分で塗ったのであれば愛着も出てくるというものです。光沢自体も透明ガラスのきつい光沢に比べて柔らかみがあり、塗装面独特の心地よさがあります。こういった点でも、実に興味深い多様な問題を含んでいるように思います。

月曜日, 9月 18, 2017

目の健康とPCディスプレイ ― 個人的には有機ELに期待したいのだが

眼の健康と視力低下への対処の問題は現代社会が取り組むべき最重要な課題のひとつだと思う。もちろん、言わずと知れた人口高齢化の傾向ともかかわりが深い。端的に言って高齢化に伴う視力の劣化の問題は、がんなどの全身病や体力低下の問題にも増して重要だと思っている。何はともあれ視力さえ維持できれば仕事であれ楽しみであれ、個人を超えたもっと大きな目的であっても、何とかなることが多いのだから。それに、視力は聴力などに比べても比較的若いころから老化しやすいし、私もそうだが近視や乱視の人は多いから、老化による劣化は大幅に助長されることが多いということになる。

このような意味で視力自体や眼精疲労の医学はもちろんだが、環境的な問題、とくに視覚メディア、中でも文字を主体とする視覚メディア、端的に言ってPCディスプレイへの取り組みはその重要性から言って、日本のみならず世界的にも、他の分野に比べて大幅に遅れを取っているのではないかと思う。

私くらいの年になると、すでに若いころから、周辺には、歳をとって視力が落ちたために本を殆ど読まなくなったという人も多かった。今となっては私自身、もうその人たちの年齢を超えているから、当然その状況はよくわかる。今もPCを使って文字を読み書きする仕事をしているけれども、本当に日ごとに眼が疲れやすくなり、1日に作業に耐えられる時間も大幅に減っている。年齢の近い身内や友人知人たちも当然そのようになっている。特に、本はまだしもパソコンの画面はもう見なくなったという人は多い。もっとも、元来がパソコンを日常的に使っていたという人たちではないのだけれども。

本とパソコンを比べると、当然パソコンの方が格段に目が疲れるというのは常識というよりも、殆どの人にとって体験済みの事実で、直観的にも自明ともいえる。しかし小さなスマホや携帯電話や、逆に大画面のテレビなども、原理的にはパソコンの画面と同じ性質を持つものなのだが、目の疲れ具合や使用感は異なっている。例えば私とかなり年の離れた姉はもう80歳くらいだが携帯のメールは結構よく使っているみたいで、タブレットPCも時にはみているらしい。私は逆に使いかっての点でPCメールに慣れているから携帯メールは苦手で、使うときは苦労するし、多少長文になるとPCから転送して使うこともある。ただ、携帯やスマホの画面自体は文字でもPCで作業するときよりも目が楽である。大画面のテレビはそもそも文字を見ることは主目的ではないし、見る距離も離れている。

というわけで目の疲れと劣化に最も寄与しているのがパソコンディスプレイであることは確実といえるが、他方、紙の印刷物に比べて文字をいくらでも大きくできることや明るい画面で見られるということで、一面では目に優しい面もあるといえるのは皮肉ともいえる。いずれにしても文字の読み書きが主体になる作業では現在でも依然としてパソコン画面が最も大なる視力劣化の元凶であることに間違いがなく、それがために多くの人にとって年を重ねるにしたがってパソコンがもたらす恩恵から遠ざからざるを得ない状況が生じているのである。それにも関わらず、業界も政治家も本気でこの問題に取り組もうとしていないのではないかと思わざるを得ないのである。

最近、有名なオーディオ評論家がネット記事で有機ELのテレビを比較評価し、また有機ELの優位性を喧伝している記事を見て興味深かった。ある程度はすでに知られていることだったが、有機ELは基本的に明るさでは現状で液晶に比べて劣っているものの、ダイナミックレンジでは圧倒的に優れている、つまり黒が本当に真っ黒に表示できるという点で圧倒的に優れ、それがまた解像感や立体感、つまり奥行きの表現力にもつながっているということなのである。

このように明るさではそれほどでもないがダイナミックレンジで優れているという点は、本当のところテレビ以上に、PCディスプレイに望まれる特徴ではないのだろうか?

PCディスプレイで目が疲れるのはやはり、何といっても画面が明るすぎるからである。表面反射の問題もあるが、有機ELとの比較でいえば、端的に言ってダイナミックレンジが狭いからということになろう。つまり液晶では白い部分を暗くすると、文字の黒い部分とのコントラストが低下するから明るくせざるを得ないということになる。こうしてみると、有機ELの、明るさは十分ではなくとも黒が真っ黒に表示できる性質は、PCディスプレイに使うことによって、大幅に目の健康に寄与できると思うのである。これは大画面テレビの画質向上よりもはるかに有意義な使い方で、開発も優先すべきではないかと思うのである。

繰り返しになるが、PCディスプレイが目を疲れさせる原因の基本は白が明るすぎることに尽きるのではないか。数年前からブルーライトの弊害が喧伝され始めたが、結局ブルーライト対策などそれほど有効ではないか、そもそも有効になるほどだと画面の色調が変に変わってしまうので実用にならない。ブルーライトの有害性というのは確かにあると思う。例えば目に良いといわれる植物葉緑素の性質を調べてみると、確かに青色光線の吸収が大きいことに気づく。もう数年前になるが、それに気づいて急いで観葉植物を購入してPC周りに置いたりし始めたが、それでPC画面を見ずに済むわけではないのでほんの気休め、ブルーライト保護シートも同じようなものだろう。

ハードとソフトのメーカーも、これまでどこまで本腰を入れてこの問題に取り組んできたのだろうか?
かつてはホームページの背景なども目の保護を慮って色やテクスチャーをつけるのが一般的だったように思うが、今はポータルサイトや企業のホームページの殆どは背景が白になっている。個人設定で背景色を選択できる場合もあり、ファイアフォックスでも多少は設定できるが、個人的に使えるような色が少ないし、どのページでも有効に使えるわけでもない。ソフトウェアについてもそういう傾向があり、例えばこれまで普通の黒い文字が使われていたメニューや設定項目などに見づらい灰色の文字が使われていたりする。やたらに見栄えを目新しくしたいという意図だけを見るのは思い過ごしだろうか?

ウィンドウズのフォントについてもそういうことが言える。例えばMS明朝は白っぽくて大いに目の疲労に寄与している。だから用途によってMSゴシックを使用するが、ごつごつして流れが感じられず、美しくない。他のフォントも使えないこともないが、これらが標準として通用してしまっているからどうしても使わざるを得ない。

キーボードにもそういう傾向がある。最近はなぜか黒いものが主流になっているようだ。白いものもなくはないので白いのを選ぶと、文字が灰色になっていたりする。どうしてわざわざこんなところでデザインをいじるのだろうか?普通の本の文字を灰色にしたりするだろうか。そんなことをしたところで美しいデザインにはつながっていないように思う。


・・・・・・・・・・そんなわけで、当面、個人的には有機ELに大いに期待しています。その他、当然ですが眼の医学を含め、高齢者にも若い人にも関係なく眼に優しく、眼が疲れずに読み書きできる社会が到来してほしいものです。これも夢物語なのかな。

金曜日, 9月 16, 2016

不忍池とスマートフォン、そしてポケモンGO


不忍池とスマートフォン、全く異なるものだが、どちらも最近の私にとってちょっとした宝物といえるかもしれない。といっても唯一無二でも最上の宝物という程のものでもない。もちろん「お宝」などではない。もともと宝物というものはたいてい、人生にとって必ずしも不可欠といえるようなものではない。あるいは代替が効かないようなものでもない。文字どおりの宝物である宝石にしても多くの女性にとって、無くしたからといって、あるいは身につけられなくなったからといって、絶望するほどのものでも無いだろう。とはいっても人生の一時期には他に代え難い有り難みをもたらしてくれるものといえるかもしれない。



不忍池によく足を運ぶようになったのはこの2、3 年のことである。今の住居から 2キロぐらいしか離れていないから格好の散歩コースである。かつて仕事で御徒町の方によく通っていた頃は御徒町の方から上野公園に足をのばしたとき、たまに不忍池まで立ち寄ることがあった程度だったが、2年ほど前からそのようなコースよりも自宅からは随分と近道になる東大の裏門あたりの道、弥生町のあたり、竹久夢二美術館の前などを通る道や、近辺の複雑な小道、あるいはやや遠回りをして根津駅あたりの方を回ったり、いろいろなコースから歩いてゆくようになった。現在、一応は自宅で仕事をしているから、平日はどうしても、仕事が無くても5時か6時頃になるまでは外に出る気にはならない。仕事の連絡はすべてメールで来るからである。今年の初めにスマホを購入したきっかけの1つは、外でいつでもメールチェックをしたかったからだが、しかし冷静に考えてみればせいぜい3時間程度の外出で、メールチェックが絶対必要だというほどでもない。携帯電話があれば十分だろう。そんなわけでいったんはドコモのスマホ契約をしたが、あまりにも不経済な通信料とソフトの使用料に辟易して3ヶ月程で解約し、普通の携帯電話に戻してしまった。この間、かなり無駄な出費をしてしまう。ただスマホ自体は自宅で結構便利に使っている。やはり自宅でもパソコンだけでなくスマホがあると便利ではある。片手の手の中に収まるという点、確かに宝物という感触はある。外ではもっぱら散歩中に写真を撮ったり、不忍池のベンチで電子書籍の読書をしたりしていた。夕方暗くなってからでも読めるのでスマホの電子書籍はなかなか気に入っている。文字が多少小さくても書体はパソコンよりも読みやすい。もちろん紙の本も不忍池のベンチで読むのは快適である。以前から、外が明るいうちは、自宅の狭い空間ではあまり読書をする気にならないのである。読書をする場所として不忍池のベンチはまたとない場所になっていた。



この間、外出中にスマホでのデータ通信をあきらめたわけでもなく、いろいろ対応を考えてはいた。ワイマックスの古い契約が残っていて月390円で多少のデータ通信ができるはずだったのだが、実際にスマホで使用してみて通信量など、機能性の問題で使い物にならないことが判明。こちらも今更ながら解約し、現在最終的に、ワイヤ・アンド・ワイヤレスという公衆無線LANサービスに加入してみた。その結果、利用可能エリアは限られるが、一応使えることは確認できた。ただし、殆どの利用可能エリアはオプションエリアと呼ばれて追加料金が必要なエリアである。看板に偽りありの感が無くもない。日本の通信会社はすべてこんなものなのだろう。月に税込み390円だから、今のところもっとも安い選択肢ではあるようだ。しかし上野駅で一カ所、無料で無線LANを提供しているところもあるにはある。他にも探せばいろいろありそうだ。







道路の向こうは横山大観記念館




こんなわけで、 不忍池のベンチでスマホのデータ通信をするわけには行かないが、スマホは持ち歩いてはいる。ちょうどそんな時期にポケモンGOの騒ぎが始まり、急にこのエリアが騒々しくなったのであった。もともと不忍池のエリアではスマホを手にしながら歩いている人は多かった。カップルなどはスマホで写真を取り合っていたし、年寄りでもスマホで写真を撮り歩いている人は結構多かった。そんな次第でポケモンGO以前にこの場所がそれほど閑散としたいたわけでもない。桜の花見頃はもちろん、アジサイやハスの時期には花見の見物人も多く、外国人観光客も多かった。特に中国語は日本語と同じくらいの頻度で耳に飛び込んでくる。ただやはり暗くなる頃にはかなり閑散としていたが、それでもかなり遅くまで散策する人は結構いた。しかしポケモンGOが始まってからの騒々しさはレベルが異なる。まあ夕方の5時頃まではそれほどでもないが、5時半頃を過ぎると、二つの池の間の遊歩道で波のように通勤ラッシュさながらの混雑が 現出する。池に面したベンチに座っていると後ろの方で急に聞こえだした足音はまるで歩兵の進軍ではないかと思われるほどざわざわ慌ただしい。そろそろ帰ろうかと思って歩き出したが、彼らと反対方向に歩くのが困難なほどだった。その後も何度か同じ頃、同じ場所に行っているが、だいたい同じような状態が続いている。あるとき、当方もベンチに座りながらスマホを持って電子書籍を見たり、写真を撮ったりしていると、ポケモン仲間と思われるらしく、その場所でポケモンが獲れると思ったのか、すぐ隣まで来てポケモンをする若い人たちもいる。そして実際にポケモンが獲れたらしい会話が聞こえる。






このような、多くは少年とはいえ、大人も少なくない、あたかも歩兵の進軍のような慌ただしい群衆の動きを見ていると、どうしても何者かに動かされているか操られているような、不気味な印象を免れ得ない。実際にゲーム会社に動かされている訳だが、こんなゲームを通常のプライドを持つはずの大人が嬉々として遊んでいるというのは本当に信じがたい気がする。童心に帰るのもいいが、時と場所とする事を選んだ上で童心に帰ってもらいたいものだ。流行とはこのようなものかもしれないが。
いずれにしても、このようなゲームは例えばディズニーランドなど、特定の場所を限定した上で実施すべきものである。


 ポケモンGOの流行で、厭なというか、不安に思われることの一つに、このゲームを批判する意見が不当に無視されているのではないかという印象である。第一、政府もマスコミもこのゲームをバックアップしているのではないかとさえ思われる。こんな、道路や公共の場所にバーチャルとはいえエサ、ではないが、獲物のようなものを勝手にばらまき、人々を招き寄せるようなゲームが何の障害もなく通用する事態そのものが異常ではないのだろうか。ゲームのようなバーチャルな環境を公共の場に持ち込むことは関係のない人を巻き込むことになる。事実、死亡事故まで起きているというのに。




このゲームにも当然、賛否両論があり、マスコミでも両方が取り上げられてはいるが、どちらかと言えば否定派の意見が片隅に追いやられている傾向がある。特に肯定派の意見に特徴的なこととして単にこのゲームのメリットを主張すると言うよりも否定派の批判や否定派の人物を批判するような傾向が見られるのは特に厭な感じがする。たとえば次のような内容の記事があったのには驚いたのである。

このゲームが一つの原因で死亡事故があったことについて、その論者が言うには、すでに歩きスマホが原因で起きた交通事故は沢山ある。それらは沢山あるので報道されていないだけである。たまたまポケモンGOが流行し始めたので改めて事故が取り上げられたに過ぎない。だから特に問題にするほどのことでもない、ということらしい。こういう考え方を倒錯した論理というのだろう。すでに歩きスマホが原因の事故が多発しているのなら、新たに歩きスマホが前提となるようなゲームの導入にはことさら慎重になるべきではないのか。実際に死亡事故が起きたのは歩きスマホどころか、自動車の運転をしながらのポケモンGOだったはずである。そんなことを知ってか知らずかその論者は道路でこのゲームで遊ぶことを批判するのは自動車側の横暴だなどと書いていたように記憶している。このような見当外れで無神経な論理がまかり通るというのはまさに異常事態のように思われ、不気味でさえある。

今日の夕方にまた散歩でいつもの場所に立ち寄ってみた。日が暮れ、暗くなると、最近には珍しく、人が少なくなっていった。6時を過ぎてもいつものようにゾロゾロと大挙して慌ただしく群れてくるようなことはない。この場所にポケモンが出現しなくなったのか、あるいはこのゲーム自体が下火になったのか?しかし弁天堂の前は相変わらずごった返している。まあ波があることだし、実際にこのゲームも下火になってきたのかもしれない。このゲームもすぐに流行らなくなるさ、という人も多いが、確かにそうなるだろうとは思う。しかしゲーム会社や利権側も新たな手を打ってくるだろうし、同じように公共の場にバーチャル環境を持ち込むようなものがゲームに現出する可能性がある。何よりも心配なのは政府も産業界もマスコミも挙ってこのようなゲームを後押しし、社会全体としても抵抗もなくすぐに受け入れるような風潮なのである。

  それにしても携帯電話会社のパケット定額制や「かけ放題」 の強制には困ったものだ。せっかくのスマホのメリットを大きく損ねている。変なゲームを後押ししたりするのではなく、こういう問題を改善することこそが、真にスマホを多くの人々にとっての宝物に変えるのだと思うのですがね。