木曜日, 1月 03, 2013

タブレット機の使用、現在は殆ど休止中。ノートPCの目につく問題点

前回、読書の姿勢に関してネットでアンケートを取ったことで記事を書きました。引き続いてアンケートを取り直したり、考察を続けるつもりのところ、一時的な多忙をきっかけに中断中ですが、いずれ再開したいと思っています。ちなみに、アンケートは、はてなアンケートを使用したのですが、最初、読書スタイルに関するアンケートは有料のポイント付きで行い、すぐに100人の回答が集まりました。しかし次にタブレットの目的についてのアンケートを無料のポイントなしで行ったところ、回答をしてくださったのは一人でした。次回以降おこなうとすれば有料のポイント付きでおこなわざるを得ないようです。


同じ流れでパソコン系メディアに関する体験談というか批評のような一連の記事を書いていますが、今回はその系列のひとつという結果になりました。


タブレットに引き続いてのノートPCの導入
当時、と言っても去年ですが、タブレットを購入した際の複数の目的の中で、最も切実であったのはパソコンで行う仕事の補助でした。具体的に言えば翻訳作業で、それまで1台のデスクトップに2台のディスプレイを接続してマルチディスプレイで使用していたのですが、それでも画面がまだ不足傾向であったことに加え、PC用ディスプレイよりももっと低角度で、本を読むような角度で見られるディスプレイが使いたかったからでもありました。


この点で、10インチのタブレットは十分に目的をかなえてくれたと思います。もっともよい点は画面の精細度―今は解像度と言えば画素数のことになってしまうので、精細度と言えばよいのでしょうか。印刷と同様にDPIで表現できれば良いと思うのですが―が高く、フォントも美しくきれいに出ることです。今の携帯はもっと精細度が高いし、スマートフォンもそうだと思うのですが、一応10インチタブレットの精細度はフォントと相まってパソコンのディスプレイに比べて格段に目に優しいように思われました。


という次第で、PDFの原稿を表示するには快適でした。具体的には正面のPCディスプレイのすぐ下に接触させて低角度でPDF原稿を表示させ、正面のPCディスプレイで入力作業を行うわけですが、できれば位置的には逆の方が良かったのです。入力作業を行うメインの画面が下の方、うつむき加減で入力したかったのです。

そういう次第で、他にもいくらかの理由があり、それから数か月もたたない時点で新たにノートPCを購入することになってしまいました。他の理由というのは、主に、一時的に遠隔地の移動先でメインの仕事をする可能性への備えだったのですが、それ以外に、やはり、タブレットでの入力難しさ、あるいは煩わしさだったと言えそうです。というのはタブレットの購入目的の一つに、自宅内で場所を変えての、入力作業を含むような利用の仕方もあったのですが、入力の煩わしさでそれが満たされなかった次第です。ノートPCでこの点も満たせるという目論見がありました。

要するにノートPCで移動先を含めてあらゆる場合の入力作業を含むメインのPCに据え、従来のデスクトップと必要に応じてタブレットを補助的に使用するというスタイルが一応の理想ではないかという期待があったわけです。ただしノートPCを選択する時点でもう一つ期待することがありました。それは、少なくともタブレットPC程度の精細さ、がその密度を期待したのですが、スペックを見た時点で、標準的な通常のノートPCの大きさでは無理であることが分かり、それは諦めざるを得ませんでした。

とにもかくにもそのような次第で16.5インチのノートPCを購入し、上述のような使い方で現在に至っています。基本的に、ノートPCを入力作業の中心に据えてデスクトップPCを補助的に使用する方法は、私の場合は正解であったように思います。ただしこの初めて使うノートへの不満も大きく、この件はこの記事の後の方で検討したいと思います。

以上のような経緯からそれ以後、仕事上でデスクトップの補助としてタブレットを使用することは事実上なくなりました。ただし机上にもう少し余裕があればさらにタブレットも併用できないわけでもありません。しかし、辞書として使うには問題がありました。パソコン用の辞書は使用できないし、使用できたとしても、検索するための文字入力がしづらそうです。実は初めての電子書籍としてタブレット用の医学事典を購入したのですが、どうもタブレットに適した設計になっていなかったようです。相性の良い機種とそうでない機種があるのかもしれませんが、購入した機種では非常に検索がしづらいものでした。スライダーでは大まかにしかページの移動ができないので1ページづつ移動しようとしても1ページに1項目しか表示されず、1項目ずつページを移動するのは大変時間がかかります。10インチの広いスペースにわずか数行の1項目しか表示されないというのは設計上の大きな欠陥またはミスではないかと思います。



という次第で、現在タブレットは休眠中です。というのも、もう一つの目的であった電子書籍としても今のところ殆ど用無しという状況であるからです。その理由を改めて考えて見ましたが、理由を分析し始めるとそれだけで結構な時間がかかってしまいそうなので、またの機会があれば分析してみたいと思います。ただ、無料の電子書籍、青空文庫や、グーグルからダウンロードできる本が必要な場合は無条件でタブレットを使いたいし、何冊かダウンロードしましたが、この種の本はなかなか落ち着いて読む機会に恵まれないものです。他方、近所や歩いて行ける範囲内に中型や大型書店があり、書店に行く楽しみは結構大きく、書店で買いたい本が見つかればどうしてもそこで購入したいのは人情というもので、最近はアマゾンなどのネット販売もなるべく利用せずに済ませています。とは言ってもまったく電子書籍を購入する気が無くなったわけでもなく、今のところ機会に恵まれないということですが、それでもやはり、タブレットを購入する以前に想定していたよりも電子書籍に対する期待感は薄れているといった状況でしょうか。


ノートPCへの不満点
さて、先ほど述べたとおり、現在、入力作業を行うメインのパソコンは仕事と仕事以外を問わず、ノートパソコンになってしまいましたが、それだけにノートパソコンへの不満も結構大きなものがあります。まあ高級機ではないので高級機では解決できる点もあるかもしれませんが、とにかく感じている不満を列挙してみたいと思います。

1.現在のタブレットと同等以上の精細さが欲しい。これは絵よりも文字表示の上で言えることです。

2.OSはWindows 7 ですが、フォントの表示がWindows XPのデスクトップに比べてむしろ見にくくなっている。

フォントはソフトとによっては選択の自由があり、ある程度きれいに表示設定できる場合もあるが、自由にならないソフトの方が多く、特にユーザーインターフェースの文字は自由にならない。ワードの場合、MS 明朝でもMS ゴシックでも、かなりの大きさにしても殆どドット一つ幅の繊維のような細い細い文字で本当に眼が疲れる。

3.キーボードの左右中心と画面の左右中心の位置がかなりずれる。


という次第で、せっかく画面の角度や位置が見やすくなったものの、文字表示の見やすさ、美しさという点で、現在のデスクトップよりもむしろ劣る場合があり、これにはソフトの問題もあろうと思いますが、やはりノートPCの画面精細度がまだ不十分であるためのように思います。またキーボードの左右の中心が画面とずれるのもかなり大きな欠点であるように思われます。この点では、基本的に画面とキーボードは切り離せられるのが良いので、この点では結局のところデスクトップと一部のタブレットでは早くから実現しているわけで、ノートPCにはないデスクトップとタブレットの共通のメリットとも言えそうです。


こうしてみると、ただ全体の大きさと持ち運び性という点とタッチ操作によって差別化されがちなデスクトップ、ノートPC、タブレット、スマートフォン等のモバイル端末には、実に様々な点で長所と短所が複雑に交錯しているような気がしてきます。そういう中で、タブレット機の持つ長所がデスクトップやノートに還元されても良いのではと思われるのですが、現在、Windows 8 ですか、ノートPCやデスクトップにタッチ操作を取り入れるということがそれにあたると言えるのかもしれません。しかし、個人的には、それよりも画面の精細さとフォントの美しさ、読みやすさ、という点で優れているタブレットの長所をこそノートPCやデスクトップに還元して欲しいと思うものです。

開発の順序からいえばデスクトップパソコンからノートパソコンへ、さらにタブレットとスマートフォンという順序で技術点に発展してきた、というより、技術の発展によってこのデスクトップからノート、タブレット、スマートフォンへの進化が可能になったということなのでしょうが、それに伴ってデスクトップとノートPC自体の進化が取り残されているような気もします。

パソコンの時代が終わってタブレットの時代に入ったというような専門家の意見をよく聞きますが、一面、デスクトップやノートPCの改善に注ぐべき努力をもタブレットやスマートフォンの方に振り向けてしまっているのでは、と思わないでもない次第です。


個人的に、特にPCに詳しいわけでも、もちろん専門家でもないわけですが、かなり切実なユーザーの立場で、引き続き、考察を続けてゆきたいと思っています。

日曜日, 12月 23, 2012

「ウソも方便」と「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」、仏教と儒教 ― 脱原発

ことわざ、と言ってよいのかどうか、ちょっとわからないが、「ウソも方便」と「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」という二つのことわざを比較してみることは非常に興味深いことのように思われる。まず、この両者の由来するソースが大きな意味を持つことに気づく。というのは、前者は仏教経典の法華経に由来しているのに対し、後者は儒教の始祖である孔子の言葉である。

「ウソも方便」の方は法華経の方便品からきている。個人的には昔現代語訳を一読したこともあるが、たいていの人は何らかの機会に聞かされている常識でもあると思う。「過ぎたるは」の方は自分でソースを読んだことはなくこれまで知らなかったが、漢文調でもあり、孔子あたりの言葉ではないかと思ってネット検索してみたら、確かに孔子の言葉とされている。

端的に言って、この文脈での仏教と儒教の違いは、「仏、または悟りを開いた覚者」と、「君子または聖人」との違いと言えそうである。

方便品の内容は、火事で燃えている家から子供を助け出すために、子供にウソをついて家の中から誘い出すという話である。この場合、重要なことは、相手が幼い子供であるということだ。そして、大人対子供という関係から、仏のような覚者対凡人という関係への類推という形で、このたとえ話が利用されている。ここで言われる仏や悟りを開いた覚者と一般人との隔たりは非常に大きい筈である。隔たりというよりも次元が違うという表現が適切かもしれない。

一方の「過ぎたるは」の方は、一般人への教訓ないしは警告であって、こういう教訓や警告を理解して実行しながら人は段々と君子、聖人に近づいて行くべしということだろう。

こういったところから仏とか覚者の意味や人間性について考えを進めてゆくことは興味深く思われるが、実のところこの一文を書き始めた動機はそんな高尚なことではなかった。


実は「ウソも方便」と「過ぎたるは」という一見別のことを語っていることわざが同じ場面で浮かび上がってきたその場面はというのは脱原発運動の現状の一部分のことである。この選挙前のいつか、ツイッターに次のような投稿をした。

――脱または卒原発を一つの旗印にするのは結構だし歓迎するけれども、相変わらず微量の放射線や内部被ばくの害を過大あるいは誇大に強調する人が多いのには本当に残念な思いがする。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。――

はっきり言って現在の時点で内部被ばくも含めて年間100ミリシーベルト以下の被爆の有害性を強調してこれを政治的な運動の根拠にするのはもうすでに時代錯誤になっているのではないかと思えるし、そうでなっていないとすれば、そうあるべきだと思う。今筆者がこれを言う根拠は当ブログの過去の記事に書いたとおりである。http://takaragaku.blogspot.com/2011/04/u3.html
さらに言えば、この問題では何かとチェルノブイリの例だとか、まだ「解っていないことが多い」ことについて言及される。チェルノブイリの事例を参考にすべきことや、まだ解っていないことを専門的に、さらに追及することはもちろん必要なことだろうけれども、この問題に関して言えば、基本的には統計情報を判断の基準とすべき問題で、それはもうだいたい決着がついているといっても良いことである。

たとえば地球温暖化問題の場合、人々が知りたいこと、知るべきことは温暖化や寒冷化の原因ないしメカニズムなのであって、統計的データはそのための資料の一部に過ぎない。しかし、放射線リスクの問題では統計情報こそが一般人の知りたいことなのであって、知るべき一応の目標なのである。この意味では、チェルノブイリの事例や今後の研究を待つまでもなく、広島の原爆被害者の追跡調査でもうだいたい明らかになっている。これがいつまでも生かされないとなると、原爆犠牲者も浮かばれないだろう。

その他に医療用放射線の例や自然放射線の多い地域の例、放射線温泉治療の例などもあり、過去の核実験の降下物の例など、多少でも自分の頭で考える一般人の多くにはもうすでに低線量放射線が無害であることは常識になりつつあるのではないだろうか。この点で、放射線の有害性を微量の線量にまで強調するのは明らかに「過ぎたる」ことなのであり、場合によっては虚偽になる場合もあると言えよう。

一方、原発事故現場からまだ放射性物質が危険なほど漏れ続けているのではないかという心配がある。

当然その大本である原発事故現場の状況、メルトダウンがどういうことで、現実にはどうなっっているのか、使用済み核燃料の状況とか、そのようなことが知らされず、判らないままに、その後の情報も真剣に追求されないままになっていることこそが最も重要な問題だろうと思う。そんな状態だから推測情報や憶測情報が当然の真実であるかのように流される。当然その中には真実に近いものから完全な憶測、さらには虚偽に至るものまでいろいろなものが含まれている。

しかし、現実の問題として、上記の閾値下低線量効果の問題を考慮して、国民に有害な程度の放射性物質が、垂れ流され続けているのかどうかと言えば、現在の一般に得られる情報から推察して危険な状態にあるとは考えにくい。現在の政府の基準が内部被ばくも含めて年間100ミリシーベルト以内に収まっているはずだから、内部被ばくに関係するような放射性物質にしても、問題はないと考えるべきだろう。

政府や専門家学者、脱原発派の科学者も含めた専門家に要求すべきはむしろ、事故現場の正確なその後の状況と、その後の核反応物質の状況、何が分かって何が分かっていないのか、また過去には何が分かっていなかったのか、過去の認識を変更すべき新事実はなかったのか、そして今後の見通しなどの説明であって、現状で危険でもない汚染物質の除去とか、避難の要求とかではないはずである。このような状況で、微量線量リスクを誇張したり、危険な汚染が拡散し続けているというようなことを既定の事実であるかのように叫び続けるのは、かえって真実の究明を妨げることになるのである。

このような現状で、憶測や欺瞞による扇動的な発言が脱原発論者の一部で飛び交っていると思えるのである。そこには意識的なウソではなく、本当に自らの信じるところを述べている向きも多いと思われるけれども、意識的なウソではなくとも自己欺瞞の可能性もある。また心からそう信じて言っているとすれば勉強不足であろう。

今の時代、法華経の方便本で説かれているような幼児と大人の関係、凡人と覚者との関係が、一般大衆と政治家や活動家との間に存在するわけがない。とくに科学的な問題に関しては、むしろ一般大衆の方に専門家が含まれているはずである。

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個人的に仏教についても、儒教についてはさらに知識はないけれども、少なくとも仏教でいう覚者と儒教的な君子というような概念を比較した場合、現在の社会的、政治的な文脈では仏教的な知恵、教説よりも儒教的教説の方が適切ではないかという気がする。もちろん個人的なレベルでは、政治家を含め、話はまた別である。


補足

もちろん、このテーマの問題がこれで尽くされたなどと思っているわけではない。特にウソの問題について言えば、ウソをつくことというより、逆に、真実を語ることが危険な場合があることは言うまでもないことである。そういう場合は真実を語る代わりにウソをつかないわけには行かない場合や、沈黙せざるを得ない場合がある。当たり前のことだが、法華経でも、儒教でも、もちろんキリスト教でも、現実のウソの問題が尽くされているわけではないということだろう。



金曜日, 10月 05, 2012

読書スタイルについてのアンケート結果

パソコンとの個人的な関わりを通じて何度か、パソコンなどの(特に文字による)視覚メディアとの付き合い方や問題点などについてあれこれと考えたことなど、このブログで記事にしてきましたが、それらと関連の深い紙媒体の代表である書物とのかかわりについても考える必要があると思います。あるいは改めて問い直すというか、反省してみる必要もあるように思います。とくに使用環境と姿勢、あるいは視力や照明との関係など、人間工学の問題と言えるかもしれませんが、まだまだ未解決の問題があるように思います。もちろん、文字や印刷書体の問題など、もっと専門的に、あるいは専門領域でいろいろ研究や開発が進められていることはわかっています。ちなみにこの方面では筆者も素人ながら別のブログ(意味の周辺)にて、縦書きと横書きの問題について考察、発言しています(縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その4 (まとめ))。


以上のような次第で、ちょっとした思い付きで―他に目的もありましたが―、「人力検索はてな」のアンケートを利用し、読書スタイルのアンケートを取ってみました。結果は次のリンクをご覧ください。
「読書スタイル(環境と姿勢)について(業務、研究、学習、娯楽等の目的を問わない)」
http://q.hatena.ne.jp/1349248673

後になってみると設問に不備があったように思いますが、これについてはまた繰り返して何度も実施してゆきたいと思います。とりあえず断片的にでも、現状で思いついた感想をメモしておきます。

◆ 100人の方から回答をいただきましたが、年代は30代と40代で75%でした。50代が6人、60歳超が2人で、人口構成率に比べてかなり少ないと思います。特に視力に関するデータに関しては、50歳以上の方々のデータを集めるには年代を指定して収集し直す必要がありそうです。

◆ 男性対女性の比率は2:1です。これは「はてな」のユーザー比率に対応するのでしょうか。またはインターネットのユーザー、あるいは読書に対する関心度の差であるのか、ちょっとわかりませんが相当な差であるように言えると思います。

◆ 男女差で目についたことの一つは、机の上で読む場合、水平に広げて読む人と、見やすい角度に傾けて読む人の比率が、男性では同数であったのに対して女性では、読みやすい角度に傾ける人がそうしない人の倍であったことが挙げられます。この程度の人数で判断できるかどうかは問題ですが、そういう傾向はありそうな気はします。

◆ 地域差は今回のような小規模の調査ではあまり意味がないように思われました。

◆ 自宅などの自由にできる環境を条件にしたため、「寝転んで読む」と「背もたれにもたれて読む」が圧倒的に多かったのは自然なことかもしれません。しかしその対極ともいえる「床(畳)に座って専用の書見台で読む」という、江戸時代の侍や学者のようなスタイルの方が二人おられたのもちょっと意外でした。しかし、畳に座って読むのなら机よりも書見台の方が場合によっては読みやすいことも多いはずで、こういうスタイルは今後も続いてゆく可能性があるように思われました。椅子を使用して専用の書見台を使う方も一人だけおられましたので、現在、普通の家庭ではあまり見かけない家具である書見台も、需要はあることがわかります。


◆ 複数回答可能に設定したにもかかわらず、最初の読書姿勢に関するアンケートでは、複数回答をした人がいなかったのは意外でした。かなりワンパターンということですね。


◆ 二つ目の、視力と読書に関する質問では、50歳以上の回答者が少なかったため、あまり興味深い情報は得られませんでした。


◆ 三つ目の、道具に関する質問では、もともと質問の意図は、現在入手できるような機能では求められない機能を持つような道具への期待、あるいは現在の機能では満足できないような種類の道具への期待を調査したかったのですが、質問の表現が単純であったため、そのように受け取ってもらえなかった可能性があります。この点はまた改めて調査したいと思いますが、それでも次のような印象を持ちました。

1、いずれのカテゴリーに該当する道具についても一定以上の要望はあるといえますが、少ない順に並べると、机→ルーペ→書見台→椅子→照明器具の順になっています。

2、ルーペを使用することがあると回答されたのは60歳超の方一人だけでしたが、ルーペに該当する道具があればよいという意見が総数は少ないものの、20代から50代までに広がりがあったのは印象的でした。

以上、とりあえずの断片的な印象です。

また引き続きアンケートと考察を続けてゆきたいと思っています。


月曜日, 6月 25, 2012

初めてのノートPC、眼のためにはひとまず正解。次に、何か眼によいサプリメントはないものか?

(PCやモバイルなどとのつきあい方、特に眼の健康との関連などを中心に、何度か、このブログで書いてきました。この記事に興味を持たれる方は是非、少し以前の関連記事もお読みください。)


この種の記事で前回だったか、その前だったか、今後はノートパソコンをメインにしてPC作業してゆくつもりであることを書いた。今月の初めにそれを実行に移し、パソコンを使い始めて以来始めてノートPCを使い始めた。これまでノートPCを使わなかった理由はまず価格の問題だったが、他にできるだけ大きなディスプレイが良いと単純に思っていたこともあるかもしれない。一種の欲張りである。

(特に位置と角度の問題に関して)
現在のところ、ノートPCに期待したところの一番のメリットは間違いなく得られたようだ。姿勢による疲労と眼そのものの疲労が、デスクトップPCのディスプレイだけを見ていた頃に比べてずっと楽になったように思う。この間、一時的にタブレットを併用していた。たとえば翻訳作業の際に、PDFの原文をタブレットに表示させ、PC用ディスプレイの手前に、ちょうどキーボードとディスプレイの中間にノートPCのような角度で設置して、上のPCディスプレイに入力用のソフトなどを表示させ、右側のもう一つのディスプレイに他の資料などを表示させていた。この場合もタブレットを使わなかった時に比べて、かなり楽になっていたと言える。


タブレットに関心を寄せたきっかけは昨年、携帯電話の機種変更をした事が一つのきっかけになっている。というのは、携帯の機種を変更した結果、カメラの質が格段に向上していた事とともに画質が印刷画面以上に精細になっていることに感動し、タブレットにもこの程度の画質を期待したことにもある。とにかく読みやすい書体がきれいに表示される事が眼の疲労を軽減する条件の一つだろうと考えていたもので、タブレットもこれに近い解像度(普通言われる画素数の意味ではなくDPI、つまり画素の小ささ)であるなら、ずっと見やすいだろうし、もちろん見る角度の問題もある。しかしタブレットでは、どうしてもメインの作業に使うわけにはゆかず、ノートPCを考えていた次第である。


ノートパソコンを導入して半月ほど使用してみた結果、見る角度と位置の問題では期待どおり、デスクトップのディスプレイに比べて格段に楽になったと言える。もちろんこれには個人的な問題、体質や体格の問題と関係する面も大きいことは承知している。


長時間PCのディスプレイで文字を見ていると目が疲れるのは誰でもそうだが、特に私の場合、最近は上下に二重に見えるようになる現象に悩まされていて、それが特に真正面に近い位置の画面を見据えながらの作業に起因しているのではないかと推測するに至ったのだが、それが証明されたように思われる。個人的な要素は大いにあるとは思うけれども。もちろん、長時間の使用で視力が低下するという現象が全くなくなったわけでもないけれども、少なくとも二重に見えることが少なくなった事によるメリットは大きいように思う。


(特に解像度の問題に関して)
ただ、画面の精細度については、だいたいデスクトップPCのディスプレイとはそれほど変わらないようで、これはちょっと期待はずれだった。今回初めてノートPCの基本サイズはおおよそ15.6インチで横長の「解像度」(個人的に、この縦横の画素数が解像度とされているのには違和感がある)にほぼ統一されていることがわかり、17インチも同じような縦横比で統一されていることがわかった。個人的にはもう少し縦の長さがあれば文字をもっと大きく表示させられるのだがという印象を持つ。

(フォントの問題)
私の場合、もうパソコン初心者ではないが、フォントに関する知識、とくにアンチエイリアスに関する基本的な知識を得たのは比較的あとの事である。最初の頃はもっぱらソフトに付属するヘルプで使い方を勉強したのだが、フォントに関する知識はあまりそこからは得られなかったように記憶している。フォントに関する知識はもっぱらメールマガジンとか、ネットに散在する親切なサイトやブログなどから得たように思う。しかしフォントに関する知識は初心者にとってきわめて大切なものである筈だ。


今回のノートPCは東芝製だが、付属のマニュアルやPCの初期画面はきわめて初心者向けに構成されている。初期画面にはパラちゃんという風船のようなキャラクターが動き回り、子供相手のような話し方で説明をする。しかし、初心者、特に年配の初心者にこそ重要だと思われるフォント、なめらかに表示できるアンチエイリアスに関する知識など、全く触れていないというのはどうしたことだろうか?付属しているインターネットエクスプローラにしてもそうだが、「パソコンで見るマニュアル」で表示されるのは小さくざらざらとした、初心者や特に年配者には不親切なフォントなのである。


年配者をターゲットにしている側面もあるアンドロイドなどのタブレットPCがフォントを重視しているように見えるのは、その意味で正しいと言える。

(その他の問題とまとめ)
基本的な問題としてノートPCに期待した根拠と言えば、2011/12/12の記事に書いた内容のとおりだが、特に次の箇所を、ここにもう一度引用したいと思う。
「一般に、物事を考えながら文字を書いたり入力したりする場合は、下を向くほうが集中できるのではないか。そして紙なり、画面なりから眼を解放する場合は顔を上げて遠くを見たりする。その方が自然なのではなかろうか。デスクトップのパソコン画面ではそれが逆になる場合が多いのである。
教師や学者が学生に講義する場合は、伝統的に黒板の類を使うものだが、自分自身の研究では机の上に本やノートをおいて作業をするのが普通であった。個人的な研究室や書斎に黒板などをおいて研究する研究者の話などはあまり聞かない。」

ここで言っていることの一つは、文字を読んだり書いたりする場合のように近距離の対象を注意してみる場合、人間の姿勢は下向きに近いのが自然であり、正面を見るのはある程度遠距離の場合が多いのが自然な状態ではないかということである。これが正しいとすると、せっかく入力作業用にノートPCを据えても、その向こうにさらに参照用のデスクトップディスプレイの画面があり、さらに右側にもマルチスクリーンのデスクトップディスプレイがあるのでは、あまり遠くに眼をやることもできないのではということになる。しかし、これは仕方のないことで、まだ真正面が巨大なディスプレイでふさがれているより、マルチスクリーンで分断されている方が救いがあるように思われる。仮に、三つのソフトによる三つの画面が必要な場合、巨大な画面にすべてが表示されるよりも、それぞれの画面が別々のディスプレイで表示される方が自然で眼にも良いのではないかと思う。


(スクロールの問題)
もう一つ、眼のために良くないと思われるPC画面の特徴に、これも文字の場合だけだが、縦のスクロールがある。PCでは殆どの場合横書きなのでスクロールは縦方向になるが、この横並びの文字列が上下方向にスクロールされる場合の視覚の混乱が視力と注意力の低下につながっている事は容易に推察できる。事実スクロール時の認視の混乱が原因で生じた読み間違いなど、きわめて重要なミスを犯したことがしばしばあるのは私だけだろうか。

この問題は縦書きを横にスクロールする場合にも生じる問題であろうと思われるが、しかし、伝統的に昔の巻物は横スクロールであった。これはネットでも調べてみるとわかるが、横書き文字の巻物でもそうだった。聖書の死海写本の写真などを見ても横スクロールになっている。まだよく考えていないけれども、どうもスクロールは横の方が自然な感じがする。もちろん横書きが主流の現在、縦のスクロールは避けることができないし、それに横スクロールが加わるとなおさら不便であることは当然である。


(眼によいサプリメントはあるだろうか)
数ヶ月前、置き薬のセールスマンに説得されてあまり聞いたことのないアミノ酸のサプリメントを購入してみた。運動能力を高めるというので、関係あるかどうかはわからないが、当時特に眼の事で悩んでいたこともあり、眼に何らかの効果があればもうけものと思ったのだが、短期間ではあったが効果がないものとしてそれは打ち切った。

現在のところ2,3年前から冷凍のブルーベリーを欠かさないようにし、ナッツ類とともにヨーグルトに混ぜて朝食代わりにしているが、まあ気休め程度だろう。

今回、スピルリナと、試しにコラーゲンを某所に注文して送られてきた。スピルリナはクロレラのような藻類で、錠剤に固めたものである。これは過去に一度利用していたことがあり、感触は良かった。一度その代替にクロレラを試したことがあったが、これは体質に合わず、消化できなくてもうこりごりである。スピルリナにはフィコシアニンという青い色素が多いというので、同じ青い色素で名前も似ている、ブルーベリーのアントシアニンと同じ効果があるのではと期待して調べてみたが、そういう記事は見つからなかった。しかしまあ栄養バランスということで、眼にも良いだろうという意味で、勧められる某所の宣伝に期待して購入した次第。コラーゲンも眼に悪いはずはないだろうとの期待である。


送られてきた箱の中にヒアルロン酸の効能を説明したビラが入っていた。それによると、眼の硝子体の形を保つために欠かせない物質とある。硝子体の形を保つと言うことは、アントシアニンの効果よりもむしろ当面の当方のニーズに合っているように思われる。改めてネットで調べてみると、ヒアルロン酸を主成分とするサプリメントの広告は多数あり、テレビなどで老化防止と美容の効果をうたって宣伝している某栄養剤もヒアルロン酸を主成分にしていることに始めて気がついた。これではなんとしてもヒアルロン酸を試してみる他はあるまい。何しろ眼の健康の問題は死活問題と言えるほど切実な問題なので。







水曜日, 2月 15, 2012

俳優と作家

俳優はもちろん、立派な職業である。ただあくまで職業であり、職業以上の立場になるケースは稀ではないかと思う昨今である。俳優という仕事はやはり創造的な芸術や文芸とは基本的に一線を画すということだろうかといったことを考えている。あくまでも基本的にということではあるけれども。

というのは、俳優の渡辺謙さんがダボス会議という、政治家や政治学者などが集うという世界会議でスピーチを行ったその内容が、盛んにマスコミや言論界で賞賛されているのをみて、個人的には相当強い違和感を持ったことから考え始めたことによる。

そのスピーチを簡単に読ませてもらったが、要するに日本の文化の特長であったとされる「絆」の大切さを説くことと、エネルギー政策として「再生エネルギー」への転換を主張したという二点である。これを件の国際会議で立派にスピーチしたということで、渡辺謙氏がマスコミやネットを含む言論界で賞賛を浴びているということのようだ。

内容を見ると、結局のところ、彼は一部の政治経済的勢力と一部世論の主張を代読したに過ぎず、職業俳優としての職責を立派に果たしたということ以上でも以下でもないように思える。

「絆」については、すでにマスコミなどで盛んに話題にされているような事柄を一つの短い文脈に手際よくまとめたに過ぎない。

もう一方の「再生エネルギー」については文字通り、一部の政治経済勢力の代読に過ぎないと考える。ご自身の頭から出てきたものではないだろう。そうであるとすれば、私に言わせれば不勉強である。不勉強でなければ自己欺瞞である。(少なくとも現時点での「再生エネルギー、自然エネルギー」の問題点と欺瞞とには、ネット検索で誰でも容易にアクセスできる。「再生可能エネルギー」という言葉のもつ問題については拙ブログhttp://imimemo.blogspot.com/にも書いています)


ここで思い出したのは先回このブログでも書いた、今年の芥川賞受賞作家の田中慎也氏の会見である。あのような、社会性という観点から見ればとんでもないと思われるような会見が成立したということを思うと、純文学という世界はやはり芸能界というか、俳優、タレントの世界(演劇という意味ではなく)とは一線を画した可能性を秘めていることが確認できたような気がする。

個人的に、現代文学にあまり興味をもつゆとりを持たないけれども、こういう世界はなくなって欲しくはないし存続して欲しいと思われるのである。訳のわからない前衛芸術にしてもそうだ。ただ蛇足ながら、最近はいやにエコロジー運動に媚びた芸術が幅を利かせているのが気になる。

芸術にしても文学、文芸にしてもやはりそこに新しさというか創造性とともにある程度以上のレベルで真実に迫るものを持たなければいけない。自己欺瞞を持たないことである。それは時に社会性とは両立しない場合もあり得る。


社会的に影響力を持つ人物の評価は様々な面から多面的に評価されるべきだと思うが、とりあえず今、次の三点で評価しても良いのではないかと思う。

ひとつ、社会性。
ひとつ、専門性、職業性。
ひとつ、文化人としての責任。(適当な言葉がみつからないので文化人としましたが、社会的な影響力に対しての責任とでもいう意味で)

最初の二点については今ここで改めて考える必要も必要はないと思う。3つ目の文化人としての評価について考えてみたい。

文化人としての重要な要件のひとつは自分の専門外あるいは確信を持って言える根拠を持たない事を無責任に主張しないことである。そうすることは不勉強であるか自己欺瞞を抱えることの何れかとなり、要するに不誠実を抱えることである。

この誠実さという点は一つ目の社会性の要件でもあろうと思うが、社会性を超えた高次の誠実さというものがここでは求められると思う。この点で、渡辺謙氏よりも田中慎也氏が高く評価されるべきと思う。


日曜日, 2月 05, 2012

ノートPC型のデスクトップPC(ディスプレイ)が欲しい

先回に書いたように、眼の健康と作業性から考えて現在のデスクトップ型PCよりも、解像度の高いノートPCが優れているように思い、今日、プリンタインクを買いに電気店に行った際、今買い換える予定は全くないが、ノートパソコンの売り場によって見ていたら、店員に話しかけられたので、少しこんな話をして聞いてみた。それによると、昨今、17インチを越えるノートPCになるともう、テレビチューナー付きの高級機種しかないそうだ。ビジネス向けというか、実用的なPCにはメーカーはあまり力を入れていないように見える。

もちろん、外国製を含めて探せばあるだろうが、日本の大きな電機メーカーの考え方はそんなところのようだ。思い返してみるとデスクトップPCも日本の大メーカーの製品は購入したことがない。値段が高かったせいである。かつてのワープロは東芝製だったが。PCの最初はIBM製、次に日本の秋葉原メーカーの格安品だったがファンの音が異常に大きかった。次は通販のデル製品。ディスプレイも追加を含め安価なデル製だったが画質はあまりよくない。その後、TVのデジタル化にあわせてテレビと音楽向けにエイサーのディスプレイとオンキョーのPCを購入した。このディスプレイは安かったが画質は良く、テレビにも向いている。ただ、PCの方はテレビを見るには少々力不足で、PCのスイッチを入れてからテレビを立ち上げるまでに5分くらいかかる上にエラーが頻発し、再起動させられることもしばしば。それでもテレビをつけながらネットを見ることもPC作業も一応はできる。

その後、最近になってやはりエイサーのタブレットを購入したことは先般の記事に書いたとおり。

このような次第で、日本の大メーカーは安価で実用的なPCはもうあまり生産する気がないように見受けられるので、期待できないかもしれないが、表記のような製品を切に望むものである。つまり、ノートPC型のパソコンないしディスプレイである。

単にノートパソコン型のキーボードとディスプレイが一緒になったものがあれば良いのである。それなら今のデスクトップPCにも接続できる。画面は17インチ位で解像度は高いほど良く、スマートフォン程度の精細さがあれば申し分ない。必要に応じてデスクトップのディスプレイを追加してマルチディスプレイにし、タブレットも必要に応じて追加すれば良い。

眼の健康と作業性には以上のような設定がもっとも望ましいように思われる。




































火曜日, 1月 31, 2012

芥川賞受賞作家、会見の反響に思う ― 職業論と性格論


現代小説を読む習慣がなかったというべきか、特に純文学と言われる分野はめったに読まないので長年、芥川賞にも直木賞にもあまり興味を持たず、また持たないようにしていた。そんな筆者がこの先の土日、今回の受賞者の一人(田中慎弥氏)の個性がマスコミで取り上げられているのを見た。具体的には受賞会見の一部の映像と、ニュースショーでのコメンテーターのコメントなどである。当然、会見の際の「不貞腐れた」態度や、賞を「もらっといてやる」と発言したことなどが話題になっていたが、そのTV番組のコメンテーターで特に非難する人はいなかった。また選考委員の一人であった石原都知事もそのことを非難することはなかったらしい。

私は芥川賞事体にあまり興味がなかったこともあってまあそんなものかな、と思い、それ以上考えることはなかったのだが、その後、たまたまネットで訪れたブログを見ると、ちょうどこの件が取り上げられていて、そのブログの筆者としてはかなり自然なことだと思うのだが、手厳しくその受賞者の無礼な態度はもちろん、その作品や人柄にいたるまで批判を加えていた。その批判は関連メディア関係者や日本の文学にまで及ぶ。彼本人への批判としては、甘ったれている、ふてくされている、社会性がない、発達障害ではないか、精神病院に入院治療すれば矯正される、自衛隊に入っても矯正されるだろう、等々というものである。

作品の評価や現代文学、日本の小説家全般の評価はともかく、このブログの筆者の個性から言えば当然と思われるし、またある一般的な、常識的な見方からもごく自然で当然とも言える意見である。

しかし尊敬すべきこのブログ筆者の意見を読むに及んで、私自身でももう少し突っ込んで考えてみようかと思い、考えてみたのである。しばらく考えた結果・・・・

とにもかくにも、当の受賞作家はかなり早い段階で作家になる決心をし、これまで迷わずにその道に励んできた結果、何回かノミネートされるまでになり、今回めでたく芥川賞を受賞するに至ったのである。それはそれで立派なことではないかと思う。

少なくとも局外者が「甘ったれるな」と言うのは当を得ていないのではないだろうか。

ある人が自ら選んだ自らの性にあった仕事を持つことができるということは、本人にとってより以上にむしろ社会にとって望ましいことであり、めでたいことなのである。これはその仕事が社会的にそれほど成功しなかった場合でもそう言えると思う。

就職難のこの時代、多くの人々が自分の性に合わない仕事、能力に合わない仕事を獲得すべく激しい競争をしている。

すでにある多くの仕事、中でもある程度社会的地位や、やりがいが満たされる仕事にはそれにふさわしい能力と社会性が求められることは当然であるが、残念ながらすでにある仕事、要するに企業の求人に対しては社会性も能力もある応募者が十分に沢山いて、そのなかで激しい競争をしている状態のように思われる。

そうした中でそのような真っ当と思われる職種に就く意欲を持てない人物が自分の性にあった職業を見出して成功したということは、それだけで本人の幸福にとってより以上に社会にとって喜ばしいことだといえる。


以上は彼の生き方の問題。他方、今回の受賞会見の件で彼の態度のことが非難されているのは確かに常識的に見ても当然のように思われる。しかし、現実に当のブログ作者のような非難が一般に沸き起こっているとは言えない。むしろ石原都知事のように「生意気でいいじゃないか」といった見方も多いようにみえる。そのこと事体がまた非難されるべき、また嘆かわしい社会風潮だということになるのだろう。

これは私が考えるに、二通りの可能性が考えられる。ひとつは本人の自制心の不足である。自分の感情を自制できずに礼儀にもとる発言をしてしまうということで、これはまさしく社会性のなさ、人間的な未熟さ、甘えには違いないが、他方、これは正直さの現れと見ることともできる。作家や芸術家にとっては自己に忠実であるという正直さが命であるとも言えるという考えから、こういうことは許されるものと見る人も結構多いのではないだろうか。

もう一つ可能性は、御本人は慣れない冗談を言ったつもりだったではないかということである。もちろん冗談は言って良い時と場所とがある。それを判断するのが社会性というものだろう。ただ結果的に、これは冗談のつもりが冗談として通ったということかも知れない。誰もが笑わなかったにしても。

正直なところ私はこの件ではなんとも言えない、というか、正当に評価できる自信がない。ただこれも局外者がそれほど怒ることでもないだろう。では怒るのではなく叱るべきか。本人のために忠言すべきか・・・。ただ、叱る場合は本人に伝わらなければ・・・。

以上、とりあえず考えた次第であるが、改めて考え始めると、この2つの問題は人生における大問題であることがわかる。二つの問題というのは、端的に二つの言葉によって二つに問題に整理するとすれば、職業選択の問題と人間の性格の問題と言える。広い意味で性格というのが適切だろう。そして、この職業選択の問題と性格の問題は確かに文学、特に近代小説の主要テーマの二つといっても良いのではないか。当然この御本人の仕事、課題そのものである。

とくに教養小説と呼ばれる種類の小説では職業選択の問題そのものではもちろんないが、職業選択の問題がかなりの比重を持って扱われる場合が多い。そうでなくとも多くの小説では多少とも職業選択の問題が絡んでいる。

一方の、人間の性格の問題は改めて言うまでもなく、近代小説のメーンテーマであり続けている。個人的に全く詳しくはないが、世界文学でも日本文学でもそれは同じだろう。世界の大文学と言われる嵐が丘にしてもカラマーゾフの兄弟にしても、人間の性格の問題が少なくとも重要な部分を占めていると言えると思う。


最初に述べたように、私自身は現代小説は殆ど読まない。人生のある時期から小説一般もあまり読まなくなった。それは、ひとつには、小説で人間の性格のことを考えさせられるのが嫌になってきたから、ということもあったような気がする。

そのかわり精神分析などを多少読むようになった。最初はフロイトの有名な2冊だけだったが、フロイトはそれらにとどまり、なぜかそれ以上は読めなかった。その後ユング関連は結構読んだが今だに積んどく状態のものもある。「心理学と錬金術」などは翻訳の初版を買い求めてよく内容も理解出来ないまま一応は通読はしたように思う。できれば読み直したいものだが、そのゆとりがない。ただ現代の世界的な精神分析学者と呼ばれる学者たちの本は難しそうで手が出ない。文化人類学なども同様。

しかし、性格の問題はすなわち心の問題であり、やはり、宗教的なものに行き着かざるを得ないのではないだろうか。宗教的なもの、というのは特定の宗教を信仰すべきであるとか、何らかの宗教を信仰すべきとかではなく、「宗教的なもの」、あるいは多くの宗教に共通するようなものという意味である。

簡単に言ってしまえば神秘的なもの、神秘主義、といえるかも知れないが、神秘主義といえば色々と専門的な定義があるようで問題であるとすれば、神秘思想とでも言えば良いのだろうか。こういう言葉を避けるのであれば科学を超えた問題、あるいは科学で扱えない問題に答える思想のことである。

心の問題は科学では、あるいは科学的なだけでは所詮限界がある。科学で、あるいは科学的に扱えるのは物質の問題だけである。当然本来の科学は自然科学そのものである。その意味で生物学は純粋な自然科学とは言えない。ちなみに生物学者ダーウィンは自然科学者の代表のような扱いを受けている。そして自然淘汰説はあたかも科学の勝利を示すものであるかのような扱いを受けている。どうもあまり純粋な科学ではないような気もするのだが。

「神秘思想」に戻って・・具体的に言えば心的なエネルギーとか精神でも物質でもあり、どちらとも言えないような存在、常人の感覚を超えたような存在、心と身体や物質との関係の問題。心身相関の問題、カルマの思想等々になるだろうか。


自然科学でも最終的には科学を超えたものに至る、あるいは科学を超えたところに譲るべき地点がある。

今のエコロジー思想ないし運動はそれがあまりにも安直で粗雑、妥協的、ご都合主義、見せかけ、誤解と欺瞞に満ちた形で進行しているように見えるのである。

少なくとも哲学は科学よりも上位にある。これは現在では大方の合意とでも言えると思う。
ところが、宗教、神秘思想となると、いろいろと混乱、誤解、が生じてくるのが現状なのだ。

(いつのまにやら途中でテーマが変わってしまったようです。このままさらに続けるとまた別の問題に移行してしまいそうなので、この辺りで切り上げることにします。いつもながら・・『あやしうこそものぐるほしけれ』)

月曜日, 1月 09, 2012

タブレットPCその後と今後のPCとの付き合い

(今回も前回に引き続きタブレットPCの使い勝っての報告のような形で、PCに関するあれこれを、特に視覚に関わる作業性にこだわってメモしておきたいと思います。)


これまでのところ、タブレットPCの入力にはまだまだ問題が多く、思うようにならない点が色いろあることは確かだ。困ったのはグーグルクロームでブロッガーの記事を入力中は、日本語を一文字づつしか確定入力できないことである。これは何なのだろう。同じクロームでもG-メールではそんなことにならなかったのだが。これはタブレット付属のsimejiという入力ソフトでもグーグルの日本語入力システムβでも同じである。ちなみにATOKの試用版はもう期限が切れたので確認しなかったが、多分同じことだろう。原因は入力システムの方ではなさそうだから。

ただ、このように使用中ソフトの影響を受けやすいのはやはりまだ問題が多いということだろうか。

さらにそれ以前の問題としてやはり10インチタブレットでも画面のキーボードはやはり小さくて縦にすると両手では無理である。片手で入力せざるを得ないが、片手で入力することはメリットでもある。筆記用具は片手で使うのが本来の姿である。手書き入力は試したことがないのでわからない。


こんな訳で、入力に関しては問題があるものの、画面の見やすさ、読みやすさは、今では断然タブレットPC、あるいはスマートフォンなどの携帯端末が優れていると思う。ノートパソコンでも同じくらいの解像度、この場合DPIの意味での解像度であれば断然従来のデスクトップPCディスプレイよりも優れている。これはフォントのデザインなども含めてそのように思う。ただ、この辺とところ、フォントの問題は専門知識がないのでよくわからないのだが。

ここに来て改めてデスクトップ型ディスプレイの問題が浮き彫りにされて来たように思う。
筆者は特に眼に対する負担の面と、文章や画像で作業をする場合ならイメージの発想に及ぼすディスプレイの影響の面でこの問題をいつも考えている。

これらの点で、前回も述べたように従来のデスクトップ型ディスプレイに比べてタブレットPCやノートパソコンの方が優れた点が多いことは少しづつ明らかになってきたのではないかと思う。

眼の疲労に関しては眼の医学的に色々言われているが、どうも決定的な原因が良くわからない。しかしよく言われる発光画面の明るさや反射、チラツキなどもさることながら、画質、解像度、この場合絶対的な画素数のことではなく大きさに対する画素数つまり精細さ、DPIの重要性、あるいはフォントの滑らかさ、美しさがさらにもっと重要なのではないかということだ。

またこれも前回に触れたが、姿勢の問題もある。

だいたい、近距離で文字を読んだり文章を作成したりする場合に正面を向くというのは不自然なのである。画像の場合は必ずしもそうではないかもしれないが。このことについてはまた別の場所で検討してみたい。


現在、筆者にとって理想の次世代のPC環境は次のようなものと考えている。

1.メイン機をノートパソコンにする。ノートパソコンと同じような位置で使用できるデスクトップがあればその方が望ましい。但し17~19インチ程度の大きさで横長。今よりも解像度が高く画素数も多いパネルとシステムが欲しい。できれば今の携帯やスマートフォンと同じくらいのDPIが欲しい。

2.メイン機にUSBで1台か二台のあまり大きくないデスクトップ型ディスプレイを接続してマルチディスプレイにする。これは上下位置を可能な限り広く調節できるものが望ましい。

3.タブレットPCや電子書籍型端末の必要な台数を追加する。


土曜日, 12月 31, 2011

タブレットPC用の辞書を購入してみた


(このとこころタブレットPCのことを書いていますので引き続いて書きます)

タブレット購入の目的は前回書いたとおりだが、電子書籍として利用したいj気持ちももちろんあった。もともと電子書籍だけが目的というわけではなかったのでグーグルや青空文庫のように無料で読める電子書籍が利用できるだけでも不満はなかったのだが、もちろん電子書籍を購入することも興味はあった。機種はAcerのアイコニアというもので、これにも電子書籍を購入できるサイトは組み込まれているが、日本のサイトではない。しかしガラパゴスストアにつらなるガラパゴスアプリがダウンロードできることがわかり、即ダウンロードしてみた。


という次第でアプリをダウンロードはしたが、実際にすぐに飛びついて書籍を購入するまでにはいたらなかった。やはり、いまのところ紙の本と同じくらいの価格なのでどうしてもそう気軽に購入する気にはなれない。あるいは雑誌、週刊誌など、購入する習慣がついてしまえばいくらでも無制限に購入してしまいそうになるという恐れもある。

そんなとき先日、はじめて辞書、研究者の「医学英語辞典」を購入してみた。別に医学の勉強をするわけでも医学の翻訳をするわけでもないのだが、医学に関わる分析装置や畜産関連の仕事が入ることもあり、また生物学など、他の専門分野の語彙も含まれていることもありで、購入を決心した次第。

購入したもう一つの大きな理由は、購入時点で来年、いまはもう今年の10日まで辞書の半額セールをやっていてその中にこの辞書も含まれていたからである。半額で実質3000円であった。内容は多少異なるかもしれないが紙の本では1万円以上するようだから、相当な割安感がある。

タブレットの機種はエイサー製でガラパゴスアプリの動作が保障されている製品ではなく不安だったが試し読みで一応は使えそうだったので、とりあえずこの一冊を購入してみたわけである。

いろいろ不安な点や問題点ももちろんある。例えば、シャープの専用端末では可能なパソコンへのバックアップができなかったり、動作にもかなり制限があるような気がする。しかし一応、すべての内容は表示されるので、まあ購入してよかったと思っている。

このアプリ自体にもいろいろ不満や気に入らないところもあるが、しかし、この辞書半額セールには1万円以上の高額な辞書もいくつか含まれているので、それらが欲しい人には魅力的だと思う。


宣伝する意図はないけれども、半額セールは1月10日まででもうすぐ終了するので、参考になる人もいるかもしれないと思い、急いで書いてみた次第。

2013/1/4 追記
同日付の新しい記事にも書きましたが、この辞書のタブレット版には問題があるように思います。内容的な問題には触れませんが、設計上の問題として普通のPC辞書のような検索方法ができないことがかなりの欠点と感じられます。検索がまったくできないわけでもありませんが、かなり面倒で、見出しは基本的にブラウズすることで見つけることになりますが、スライダーでのブラウズはかなり大まかで、正確に目的のページにブラウズすることは難しく、必然的に1ページづつ移動する必要が出てきます。そのこと自体に問題はないのですが、10インチ以上の大きな画面にわずか2,3行の1項目しか表示されないことに大きな問題があります。ですから1ページづつ移動することで、1項目づつしか移動できないことになります。したがって目的の項目に移動するまで際限なくクリックし続ける必要が出てきます。項目によっては詳しい説明で行数の多い項目もありますが、殆どが2行程度の項目です。とにかく10インチタブレットの、せっかくの広い表示面積が無駄になり、実に効率の悪い設計となっていると言えます。もしかしたら、タブレットの機種にも依存することかもしれませんが。



月曜日, 12月 12, 2011

タブレットPCの良いところ

10インチのタブレットPCを購入して一週間程が過ぎた。

まずPC作業の補助として、PDFの翻訳原文やOFFICE系ファイルなどをタブレットに表示させるという当面の目的では実際に使って見ることができ、これは正解だった。大画面のデスクトップ型ディスプレイやマルチスクリーンに並べて表示させるよりも、ずっと見やすく操作しやすいと思う。その理由はおもに次の2つだといえる。

1.画面の位置。机の上に本やノートのような状態に置くことができるということ。
2.画面の精細さ。デスクトップディスプレイに比べて、大きさの割に解像度が高いこと。

つぎに、パスワードを入力する程度の事以外は、タブレットで入力する作業は、しばらくできなかった。しばらくは日本語入力ができるかどうかも分からなかったし、第一メモ帳のようなアプリケーションがプリインストールされていなかったからである。

ただ、AcerのこのタブレットではGメールが既定のメールソフトになっていて、Gメールの下書きをパソコンと共用できるメモとして使用できるという、前回の記事で書いた野口先生のアイデアは使えそうで、せいぜい利用したいと思っている。

昨日になってやっと、最初から日本語入力システムが入っていることが分かり、使ってみたが使いづらく、ATOKの評価版をダウンロードせざるを得なかった。また無料のテキストエディタをダウンロードし、パソコン作業に使っている机ではなく、畳の部屋でテレビを前にしながらテキストの入力を試みた。

実際にはキーボードをUSBでつないでやってみたが、予想外に良い感じである。少なくともデスクトップPCでの作業に比べて、紙に手書きしている感覚に近いと思われる。多少ともクリエーティブな作業、自分の考えをまとめるような作業の場合にはこちらの方が良いような気がする。

なぜかと考えてみると、やはり、上述の1.や2.のような要素も大きいが、それに加えて次のような違いが考えられる。

3.入力する場所と画面が距離的に近いこと。

これも結構重要なことだと思うのである。
普通、パソコンを使うにはブラインドタッチを覚えることが前提とされる。通常のデスクトップのディスプレイで効率を上げるにはそうせざるを得ない。

ノートパソコンではキーボードとディスプレイがずっと近くなる。ただ個人的に、ノートパソコンは殆ど使ったことがなかったのでこれまで気がつかなかったのだろう。

もちろんノートパソコンでもタブレットでもブラインドタッチはできる方が良いに決まっているが、距離的に入力画面に近く共に目に入るのは好ましいことなのだと思う。マウスを使わずに指を目的に位置にもってくるということも同じ意味で好ましいことだといえる。

以上の中でも、紙や画面を机上に広げて、下を向いて書いたり入力したりするというのは最も重要なことではないだろうか。

一般に、物事を考えながら文字を書いたり入力したりする場合は、下を向くほうが集中できるのではないか。そして紙なり、画面なりから眼を解放する場合は顔を上げて遠くを見たりする。その方が自然なのではなかろうか。デスクトップのパソコン画面ではそれが逆になる場合が多いのである。

教師や学者が学生に講義する場合は、伝統的に黒板の類を使うものだが、自分自身の研究では机の上に本やノートをおいて作業をするのが普通であった。個人的な研究室や書斎に黒板などをおいて研究する研究者の話などはあまり聞かない。

以上のような次第で、タブレットPCには結構期待している。

★縦書きのテキストエディタが欲しい。
★産経新聞のandroid版と同じような仕様で、内容の優れた新聞を安い価格で読みたい。
(今ちょっと思い出した要望)

月曜日, 11月 28, 2011

野口悠紀雄著『クラウド「超」仕事法』と個人的問題および日本の問題

土曜日の夕方、表記の本を購入してその夜から読み始め、日曜の午後に読み終わった。この種の新刊書を発刊後すぐに購入して読むのは、貧乏でけちな私にしては珍しい。特に最近は文庫本か安い古本ぐらいしか購入しなくなっている。また野口悠紀雄氏の著書を購入するのも始めてである。

実は最近、PC関連機器の使用方法や購入について悩んでいたところなのだ。それにスマートフォンの事も含まれていた。

今月の始め、もう何ヶ月かにもわたって携帯電話会社から催促されていたこともあって携帯電話の機種変更をした。その時、スマートフォンという選択肢をも考えていたのだが、個人的な用途を考えて10インチのタブレット端末とか7インチの電子書籍端末とか色々迷っていたのである。結局、携帯電話の機種変更の時は、スマートフォンを有効に使うには自分には小さすぎるだろうと思い、選択肢から外した。その日はカメラ機能を重視することにしてそれを店員さんに伝えたところ、それに応じてすぐに選んでくれた機種にあまり迷わず、手っ取り早く決めてしまったのである。

その結果、確かにカメラ機能の高さに驚いたのだけれども、それは他の機種も大して変わらなかったかも知れない。それ以上にインパクトがあったのは液晶の画質、特に解像度が高くなっていることだった。これはある程度予想がついていた。自分では持っていなかったが、電車の中などで他人がこの種のモバイルを扱っているのを垣間見るにつけてもこういう小画面液晶の解像度が著しく高くなっていることに気づいてはいた。しかし実際に今度の新しい携帯の画面を見て、カラー印刷以上の解像度(この場合解像度を画素数つまり表示範囲の広さのことではなくむしろDPI、つまり精細さの意味で言っている)を持っている。そして文字表示も印刷に劣らず、小さな文字もはっきりと読める。これならスマートフォンの画面の大きさがあれば十分にウェブ閲覧にも、PC画面の表示にも使えそうだということがわかり、スマートフォンを選択しなかったことを幾分後悔していたところなのだった。


パソコンなどで仕事をする際いろいろと問題があるが、最近とくに悩んでいたのは眼の疲労の事だった。私の場合パソコンを使用しての作業で主要なものは翻訳作業なのだが、現在では事実上この仕事はパソコンとインターネット環境がなければ不可能であるし、逆にこの仕事ほどパソコンとインターネット環境が有利に働き、その恩恵に浴している仕事も少ないのではないかとも思っている。しかしデメリットも当然あるので、その中でも眼にかかる負担は最大のものだと思う。

そこで今年のある時期、メインのディスプレイの位置、特に高さが特に問題なのではないかと考え、高さを低く調節できるという30インチ近い大型のディスプレイを購入してみた。その結果、確かに高さを少し低くできたのは良かったが、満足できるほど十分に低くできたわけでもなかった。それよりもこんなに大きなディスプレイが目の前を塞いでしまうことで、それがむしろ眼を圧迫するような感じになってしまった。さらに画像の場合は問題ないとしても文字の表示に問題が出てきた。かなり大きく表示しても文字の線がか細く表示され、読みづらく眼の負担になる。文字の表示とディスプレイの解像度(画素数)にはどうやら相性がありそうだ。単純に画面が大きい程よいというわけでもないことに始めて気がついた。その時も2つのディスプレイを使ってはいたが、画面を大きくするよりも小さいディスプレイを幾つも使うほうが良いということに気づいたのである。そんな時期にスマートフォンとタブレットPCに関する興味が加わった。要するにPC作業の補助ウィンドウという目的と、タブレットやスマートフォン独自の目的、電子書籍的な目的、すべての目的機能を1台で併せせ持つような機種がないものかと欲張った事を考えていた。しかしどうやらスマートフォンはタブレットPCとは別ものと考えた方がよさそうだ。それに気づいて上述の通り、携帯電話機の更新の際にスマートフォンを選択しなかった事を少々後悔し始めていたときであり、同時にタブレットPCの選択に迷っていたときにこの本に遭遇した次第であった。

この「超仕事法」という本のテーマの中でスマートフォンが重要な意義を占めていることが特に、珍しくもこういう新刊書を即購入して即読了したことの動機になっているは上述のとおりであるが、もちろんこの本のテーマは仕事法であり「クラウド」を活用する仕事法のことである。そこのこの著者独自の「超整理手帳」術が加わる。

個人的に、複雑なスケジュール管理を強いられるような社会的な立場にいるわけではないし、これまで手帳でスケジュール管理をするようなことはして来なかったが、やはり自分なりに、個人的にもいろいろ計画はあるし、外から仕事が入ってこないわけではない。普通の会社では定年になる年齢にもすでに到達済みであるが、収入を得るための仕事は是が非でも続けなければならないし、個人的にやりたいこともまだ模索中である。そんな時期、やはりスケジュール管理もまじめに考えなければと思い始めていたところでもあった。折しも少し前、友人から「yPad」という手帳のことを教えられ、勧められていた。大型書店で見つけられなかったが、近所の中型書店で見つかり、ハーフサイズ版をとりあえず購入した。なるほど従来の手帳とは一味違っている。何よりも日付が印刷されていないのが良い。ただ、今のところまだ使い始めてはいない。

そんなこんなで、この本に興味を持って読了した次第であるが、野口悠紀雄氏の著書を購入して読むのはこれが始めてである。けれども著者にはこれまでにも結構関心があり、ホームページや、雑誌の記事など、ネットで良く読ませてもらっていた。ただ当方は経済音痴である上に著者の金融業重視とアメリカ文化への傾倒の深さにはかなりの反感を持っていたから、その考えを受け入れるつもりでいたわけではない。ただ、他の多くの親アメリカ的経済コメンテーターに比べては好感度は高い方だった。


この本の内容は2つに分けることができるように思う。もちろん、主要なのは技術的なもので、表題どおりクラウドを利用した仕事術である。ここで「クラウド」とはいわゆる「ネット」のことであるとも言えるが、さらに具体的には当面、グーグルのGメールのことである。他の著者の本に「Gメール仕事術」という本があったように思う。読んではいないがかなり重なる部分がありそうである。

個人的にGメールはかなり以前からバックアップ用に取得はしていたがメインには使っては来なかった。使用しているメールソフトに馴染んでいたこともあるし、Gメールの使い方を覚えるのが面倒だったこともある。ただ、最近、別のコンピュータ、別の部屋にあって主にテレビと音楽用に使っているコンピュータからメールを見るために、時どき使うようにはなっていた。今後、もしも自宅以外からPCのメールを見る必要が生じるようなことがあれば確かにGメールしかないと思っていたし、Gメールの特徴も少しづつ気づくようになってきてはいた。著者の、Gメールを個人データベースとして使用するやり方は確かによさそうで私個人的にも役立たせられそうである。まず、Gメールの「下書き」機能を、メモやGメール以外の何らかの下書きに利用するという利用方法から始めることにした。検索やラベルを貼って後から利用できるというわけである。もちろんこの場合のクラウドはグーグルのことである。


さて、このような形でグーグルに依存することへの危惧について、著者は心配するに及ばないと考えているようだ。この問題は「クラウドは民主主義と両立するか」という第7章のテーマになっている。そこで著者はグーグルは「ビッグブラザーになるだろうか」という設問に対して、「恐らくそうはならないだろう」と言っている。その直接的な理由は経済的なものである。すなわち、そういうことにはコストがかかりすぎる上に得られる利益が少ないという理由。もうひとつはアメリカの民主主義に対する信頼感である。

このあたりの著者の認識には私はついて行けない所がある。まず、グーグルは単に利益をあげることを至高の目的とする人たちだけで成立したとも思えないし、いつまでも経済的な意図だけで運営され続けるという保証もないからである。今後の、発展段階においてどの様な意図が入り込んでくるかも分からない。理想主義もあると思えるし、宗教的信念も含まれる可能性もある。当然権力志向的な悪魔的な動機も入り込み得ると思えるのである。

一方、グーグルやマイクロソフトやアップルなど、個々の企業とアメリカ民主主義とを単純に同質のものと見なして良いのかどうかも分からない。またアメリカ民主主義とアメリカ国家を同一視しして良いとも思えない。アメリカ国家が本当にアメリカ民主主義だけで動かされているのであればイラク戦争のような戦争ばかり起こしているはずがない。


先に述べたように、この本の内容は2つに分けられる。というか、メインテーマである仕事術の具体的な技術の他に思想的な部分が付加されている。一方で仕事術の部分にもその基底にそういう思想的なものがある。何といっていいのか分からないがアメリカ思想とでも言えば良いのか、アメリカ的知性と文化に対する信頼感とでも言うのだろうか。とはいってもできればアメリカの国籍をとり、アメリカ人の立場で発言するという立場ではなく、あくまで日本の国益を考えてのことであることは判る。その思想的な部分には納得できる面はあっても、やはり反感を覚えざるを得ない所がある。

著者が学問的には金融の専門家であって、金融工学の重要性を説いていたことは経済金融音痴の私でも知っている。たとえ素人向けでも、その方面の著書を買ってまで読むことはなかったが、アマゾンの書評などを結構読んだ記憶はある。それによると、例のリーマン・ショックの後はやはり、痛烈に批判されていたようである。それに対して氏は金融工学と金融工学を使うこととは別のことであるという考え方を表明されていたようだ。金融工学自体は便利な道具に過ぎず、よく用いることも悪く用いることもできる。というものである。それに対してあるアマゾンの書評欄で、学問分野とその学問を作り、運用する人間とを切り離すことはできない。人間から切り離された抽象的な学問というようなものはあり得ないと批判されていたのを読んだ記憶がある。確かにその通りである。だいたい道具という概念自体、人間から切り離して考えることはできない。料理用に作られた包丁は確かに殺人の目的にも転用できる。しかし本来はあくまで料理目的に作られるものである。一方、刀剣は最初から武器としての使用を目的に作られるものである。金融工学は多分武器だったのではないかな。もちろん当初は武器として発明されたダイナマイトが産業用に使用されるようになったといった例も当然ある。という次第で、金融工学も使いようで社会のためになるという考えももちろん全否定する必要もないとは思う。

という訳で強いて言えば氏の立場は経済を純粋に経済として考えるというように言えるのではないだろうか。純粋な経済学とか金融工学とかいった枠があって、その枠とは別の枠に政治や歴史や心理などがある。つまり経済自体の中に政治や歴史やその他諸々を取り込まないといった印象である。

そんな著者が信頼を置くアメリカの知性の代表的なものがITと金融工学なのだろうと思う。この本ではもっぱら日本におけるIT使用の後進性が指摘されている。それら自体はどれももっともで納得できる事柄が多い。しかし、金融工学の場合と同じく、著者の捉え方は抽象的あるいは純粋経済的で、歴史的な文脈や政治的なものあるいは軍事的な問題などから切り離された文脈で比較しているように見える。

例えば携帯電話のいわゆる日本のガラパゴス化が批判されている。しかしガラパゴス島における生物のガラパゴス化は、ガラパゴスの生物自身がそれを望んだわけではなくガラパゴス島の地理と歴史的条件によってそうなったものである。日本の携帯電話のガラパゴス化も必ずしも日本の精神風土、文化や日本人のITセンスの欠如という問題ではなく、携帯電話の発展過程における1つの必然のような面もあったのではないだろうか。技術の世界では一番手を二番手が追い越すことはよくある事だ。個人的にこの方面に詳しい方ではないが、携帯メールも携帯にカメラを付けることも日本が最初だったと記憶している。著者も指摘しているように、スマートフォンには多くの日本の技術が取り入れられているのは当然だと思われる。そういうことを思えば日本の携帯電話をガラパゴスと批判するのは酷であると思う。もちろん著者の批判するような要素を否定するわけではない。


以下、(時間が無いので)著者の考えに対して素朴ながら、かなり疑問に思う個所を、2つほど列挙してみたい。
◆『1990年代以降の日本の停滞と衰退の大きな原因は、ITがもたらした大変化に、日本社会が対応できなかったことだ。そのことが、クラウド時代になってますます顕著になっている。』
これ自体にかなりの真実が含まれているかも知れない。しかし、いまや誰もが知る通り、衰退しているのはアメリカやイギリスといったIT先進国も含めて先進国全体であることは常識ではないのだろうか。国家の衰退といった大問題にIT(この本の範囲外だが、それと金融)だけで対応できるというのも非現実的で、現在の世界(経済)情勢から見てももはや一般人に対して説得力がないと思う。

◆『日本のエレクトロニクスメーカーは、機器の製造にとどまっている。・・・・「機械しか作れない日本企業に未来はない」と考えざるを得ないのである』
経済学者で金融の専門家である著者がIT技術とIT産業に対してどの程度精通されておられるのかは、私には知る由もないが、確かにスマートフォンなどを含めた世界のIT業界で覇権を競っているのは米国企業ばかりで日本の企業は「埒外に置かれている」ことは誰の目にも明らかである。しかし、それがアメリカの一部の企業の繁栄や国家のイメージにはつながっても、雇用にはつながっていないことに、一般人としてはどうしても眼が行くのである。ソフトウェアもインドなどにアウトソーシングされていると聞く。こういう国外へのアウトソーシングは製造業よりもソフトウェアの方がはるかに簡単にできそうだ。実際、IT産業だけではない国家の失業率の点でも常にアメリカが日本のずっと先を行っている。


以上を要するに、著者の技術、技法だけではなく思想をも含めて、各自が個人の問題として受け止めるには非常に有益で傾聴に値する内容だと思います。一方で日本の問題、あるいは世界の問題として受け止めるには相当問題があり、限定的に受け止めなければならないだろうというのが結論。

基本的に良書だと思います。読んでよかった。

土曜日, 11月 26, 2011

科学の神様

NHKの番組で「アインシュタインの眼」というのがある。また以前から「ダーウィンが来た」という生物の生態を紹介する番組があり、一時、見ていたことがある。こういったように科学や生物の番組のタイトルに、このような超有名な科学者個人の名前を安直に使うのは非常に良くないことだと思う。

昔、教養物理の先生が講義中によく言っていた発言が頭に残っている。「科学では神様を作ってはいけない」。

まさに現在なお、ダーウィンとアインシュタインが科学の神様になっている。テレビなどのマスコミがそれを助長している。このような一般向けのテレビ番組などがなくてもこのような神様を作る傾向はアカデミズムの中にもあるように言われている。その傾向をマスコミが拡大、助長してゆくことは報道の使命を放棄するものではないのだろうか。

アインシュタインの眼は科学の神様の眼ではないし、ダーウィンが来たから生物進化の事実が明らかになったわけでも、すべての生物の生態が明らかになるわけでもない。

少なくともこの2つの番組タイトルは止めてもらいたい。今彼でも変更するようにお願いしたい。


11/29 追記
もちろんアインシュタインやダーウィンを讃えてはいけないとか、称える番組があってはいけないなどと言えるわけはない。ただ、ダーウィンともアインシュタインとも直接関係のない内容の番組に安直にこういう個人名を使うことは良くないことだと思うのである。

金曜日, 11月 04, 2011

「坂の上の雲」 ― 言葉のイメージ ― 仰視的イメージと鳥瞰的イメージの両面

書店に行くと、今年もまた年末近くになって「坂の上の雲」特集本が並び始めたようだ。本のタイトルとして「坂の上の雲」は非常に意味深かつイメージ的な言葉であると思う。かつその喚起するイメージはかなり多義的というか、多層的と言うか、そういう面があるように思う。

以前このブログで書いたことだけれども、「坂の上の雲」が「丘の上の硝煙」というような意味も込められているような気がしたことがある。今回の場合は昨日、書店で「坂の上の雲」特集本を見ているうちに気づいたことの一つで、「坂の上の雲」というフレーズが持つイメージには仰視的なイメージと俯瞰的あるいは鳥瞰的なイメージとを同時に喚起するようなところがあるように思う。

一つは、坂の上の雲を見上げながら坂道を登ってゆく人物から見たイメージ。もうひとつは坂を登ってゆく人々と坂道全体、そして雲をも含めて遥か上方から見下ろしているようなイメージである。「坂の上の雲」というフレーズは、こういう多層的なイメージを喚起する言葉であると思う。多少似た言葉で、例えば「青雲」とか「青雲の志」といった言葉がある。こちらの方は視覚イメージからかなり離れていて、「坂の上の雲」のように具体的な視覚的イメージから遠いが、やはり、多少の視覚的なイメージはある。そのイメージは人物の視点で上方を見上げる仰視的イメージのみであって俯瞰的なイメージが殆どない点で、「坂の上の雲」とは異なるように思う。


「現代の坂の上の雲を見つけなければならない」という人は結構多い。もちろん比喩であるが、この比喩は適切だろうか?この場合の比喩は仰視的イメージに基づいているといえる。それはそれで一定の意味はあると思う。しかし、俯瞰的なイメージに基づいた比喩としてもそのようなことが言えるだろうか。


遥か上方から雲やその下方の山や丘、坂道を登ってゆく人物などを同時に俯瞰する立場からすれば、雲が何処で発生し、何処を通ってどう変化しながら、どのように流れてゆくのかが見えてくるだろう。もちろんそれでも雲の正体までは、それだけでは解らないのだろうが。

火曜日, 9月 20, 2011

現実のドラマ化と音楽、ナレーション

最近、NHKテレビ(Eテレを含め)でよくあるドキュメンタリー番組で音楽が使われることに違和感を感じることが多くなった。

ドラマ以外のテレビで音楽が使われる場合の違和感というのは以前から気になることが多かった。特に最近のニュース番組でそれが言える。そういえば音楽だけではなくナレーション自体もそうである。ナレーションの声調や表情なども音楽と考えれば、これも音楽に含めて考えることができる。通常のアナウンスのように視聴者に向かって語るのではなく、1つの表現行為としてのナレーションになっているのである。

テレビラジオを含めて放送のニュースというものはアナンサーが局を代表してリアルタイムで原稿を読み、語るのが本来のスタイルであったと思うけれども、テレビニュースではいつの頃からか、録画を構成した画面にナレーションが付けられたドラマ仕立ての断片が挿入されるようになっていた。個人的な記憶では、テレビ朝日のニュースステーションでこの傾向が気になり始め、次第にこういうのを見聞きするのが気持悪くなり、このニュース番組を見るのをやめて以前見ていたNHKのニュースを見てみたが、ニュースキャスターの態度もさることながら、NHKのニュースもこの傾向が強まってきたので、夜9時から10時台のニュースで見るものはなくなってきた感じである。この気持の悪さは、現実がドラマ化、それもドラマと意識されずにドラマ化されている気持ちの悪さである。

今はあまり使われなくなったが、かつてバーチャルリアリティーという言葉がよく使われた。そして現実と虚構との区別がつかなくなることの弊害などがよく議論されたものだ。そういう現実と虚構あるいは捏造との区別が曖昧にされるという手法がまさにテレビニュースで使われているのではないかという気持ちの悪さである。

端的に、人間性悪説に立って製作者の意図を意地悪く推し量るとすれば、理性的な内容の不足あるいは誤りを感情的な効果で埋め合わせようと言うか誤魔化そうという意図で簡単に説明してしまうこともできる。

【科学的な問題を感情に訴える議論で扱う傾向】
この、感情に訴えるという傾向は単に音楽を利用するというような次元をこえて、言語表現自体の次元でもマスコミ、ネットを問わず、言論、議論の場で幅をきかせるようになってきているのではないかという思いがある。それが普通の政治問題や社会問題であるなら昔からそう変わっていないともいえるが、科学の問題においてもその傾向が顕著になってきたような気がする。もっとも科学の問題も現実の社会で論じられる場合はもうすでに純粋な科学の問題を超えていることには違いない。特に自然現象や科学技術に関わる問題が政治問題化する機会が増してきたことも大きく関係している。311地震と原発事故以後、特にそうである。

もう今では古くなりつつある(ことを希望するが)CO2温暖化問題にも感情的なものが関わっていることは明白だと思っているけれども、原発事故後の放射線問題では特に科学的で客観的であるべき問題に感情に訴える議論が専門の科学者や技術者にも目立つようになってきたように思う。もちろんジャーナリストやコメンテーター、あるいは個人の活動家やネットの一般人もそうである。

例えば、科学者の誠実さといった側面が問題にされ、それが主張の正しさを保証する条件のように言われる。誠実さとか正直さ、人格などを拠り所にその人物の主張を信頼するというのは各個人レベルの問題である。信仰と同じことであって、ジャーナリスト的立場の人物(個人であろうとメディア団体であろうと)がそういうことを根拠に科学的な問題を論じたり報道したりすべきではないと思う。当然反対の主張をする科学者を誠実な人格者であると見る人もいるわけである。もちろん、個人的な印象としてそういう気持ちを表明することが悪いわけではないが、それを科学的な問題の判断の論拠にするべきではない。

私自身、このブログの先回の記事で稲恭宏博士のビデオを見て氏の科学者としての態度に感銘を受けたことを書いた。しかしそれは私個人レベルのことであって、そのことに触発されて、低線量放射線問題の資料や論文をネットで調べた結果、放射線リスクの閾値説の正しさに確信を持ったわけである。あくまでも触発された結果として資料にあたったわけであって、彼の博士が誠実に思われるからという理由で閾値説を支持したわけではなかった。

声高に叫んでいるとか、熱心さとか、情熱的であるとか、献身的に見える活動をしているとか、そのようなことは外面的なことであって、実際に誠実であるかどうかは最終的な情報の受け取り手自信が判断することである。

そういう個人的な印象を伝えたいと思うのは人情であってそれ自体は非難すべきことでも何でもないが、それだけで終わって肝心の事実問題、科学的な事実と理性的な判断に影響しては何にもならない。

ともかく、特に放射線問題では言葉での議論自体の中に感情的な要素が大きいのである。テレビの場合はそこへ持ってきて映像の他に音楽による演出まで加わると感情的なノイズが増幅されるばかりである。

テレビのドキュメンタリーに音楽が使われることへの不快感を強く意識し始めたのは6月に放送されたETV特集を見た時からである。いまNHKホームページで確認してみると、その時のタイトルは「続報ネットワークでつくる放射能汚染地図」とそれに引き続いて放送された「暗黒の彼方の光明~文明学者~梅棹忠夫」である。最初の番組の冒頭から、気を滅入らす不気味な音響が用いられて嫌な予感がしたが、内容的には情報量としても密度が低い印象であった。次の梅棹忠夫の業績をテーマにした番組も同様である。不気味な音楽をバックに何人かの学者コメンテータの単なる印象や抽象的な絶望感といった程度のコメントを話しているだけの具体性の乏しい内容だった。去年になるかもしれないが、筆者も梅棹忠夫に興味を持って「梅棹忠夫語る」という、晩年の対話本を読んだのだが、その内容の中でもっとも印象に残っていたのが、氏の放送、ラジオも含めた放送一般への失望感である。初期には自らも積極的に参加していた放送に対して晩年は絶望し、「放送は人間を悪くする」と言い切っていた。NHKを含めた放送マスコミが梅棹忠夫の業績を特集するのであれば、この問題を避けることは許されないだろう。

音楽の話に戻ると、この日のこの一連のドキュメンタリーの直前の番組はN響アワーだったのだが、その日はチャイコフスキーの悲愴交響曲全曲。その解説も含め、後の番組への演出効果として意図されていたことは誰にも気づいた人も多いだろうとおもう。


音楽が必要以上に使われることが気になってきたのはこういったドキュメンタリーばかりではなく、例えば最近教育テレビで放送され始めた「さかのぼり日本史」という歴史の番組でもそうである。この番組も音楽が邪魔に感じられて仕方がない。また日曜美術館などもそうだ。ちょうど一昨日も見たが音楽を使い過ぎではないかと思う。一昨日は音楽がうるさすぎて話の内容を聴きとる邪魔になったほどである。


同じNHKで長く続いていた歴史番組に「その時歴史は動いた」という番組があった。今はそれが「歴史秘話ヒストリア」に引き継がれたようだ。これらの番組でも音楽が派手に使われていたし今も使われているが、こちらの場合はあまり音楽が邪魔になるというか、気になることはなかったのは何故なのか、と考えてみた。それは結局、これらの番組では歴史といっても特定の個人あるいは集団の人間ドラマとして描いているからだと言える。

【映像番組のドラマ化】

ドラマは絶対に音楽を必要とするとまでは言えないとしてもドラマと音楽との親和性は誰もが認めるところだろうと思う。それで少なくともこういうことは言えるだろう。つまり、普通はドラマとは見做されないようなテレビ番組に音楽を使うことは多少ともその番組をドラマ化すると言えるだろうということである。

ドラマには必ず作者がいる。必ずしも個人ではなく神話のように民族全体というほかない場合もあるにしても、作者がいる。そういう作者の表現であるという暗黙の了解がある。

何かをドラマ化するという言い方ができるとすれば、元のドラマ化される前のものは何なのかということになるが、もちろんそれは現実そのものではなく、すでに映像と言葉によるテレビ番組である。ドラマ以外の、この種のドキュメンタリーとかルポルタージュ、ニュースや歴史番組を含めると、報道という範疇になるのだろうか。しかし新聞や雑誌、あるいはラジオに比べてもテレビの場合はどうしてもドラマ化されやすい題材が取り上げられることになってしまう傾向も否定できない。

先にあげたETV特集の「続報ネットワークでつくる放射能汚染地図」の場合、直接には放射線汚染地図を作成する科学者たちの活動を取材したものであった。あくまで特定の「科学者達」であって「科学」ではない。すでにここで、現実のドラマ化が始まっているとも言える。この番組に引き続いて放映された「暗黒の彼方の光明~文明学者~梅棹忠夫」のほうは、タイトルを見ると梅棹忠夫という学者が主人公であるように思われるが、見た印象は全くそうではなく、何か日本という国か日本民族そのものを主人公に見立ててその行く末を悲観するというような、抽象的、観念的な発言を映像と音楽で色付けしていたような印象を受けたことを記憶している。これもドラマ化である。

どちらの番組でも科学的な問題を直接取り扱い、解説したり議論したりということは全くなかったように記憶している。

テレビ、というより、正確に言って映像と音によるメディア自体が科学や論理的な教育や議論に適さないということはないだろうと思う。現に放送大学などもあり、大学教育でもビデオやインターネット教育に利用されて一定の効果を揚げているのではないだろうか。梅棹忠夫が失望し、批判したのも放送としてのテレビとラジオである。


【少なくともニュースやレポートあるいはドキュメンタリーなどの映像作品は音楽の
使用を制限することによって内容の向上、少なくとも質の低下を抑止できるのではないだろうか】

1. 音楽を除くことによって、その分、視聴者の注意力を理性的な内容の方に振り向けることができる。

2. 製作者もその分、音楽に頼らない分を理性的な内容の充実に努力を注がざるを得なくなる。

何か大きな災害や事故があった場合でも、人の興味はどうしても個人のドラマに向かいがちであり、テレビ放送に限らず、新聞、雑誌を含めても、報道が多少ともドラマ化するのは避けられないことであろうと思う。テレビ放送の場合は音楽を控えることによって、多少ともドラマ化の弊害が拡大されることを防止できるのではないだろうか。


わざわざ付け加えるまでもないかもしれないが、個人的にドラマや音楽が嫌いなわけでも、低く見ているわけでも、理性と対立するものだと思っているわけではない。実をいうとドラマと音楽の関係とか、使われる音楽の様式とか行った方面にむしろ興味がある。と言ってもこの方面は古来、多くの優れた人物によって多くが語られてきたことだろう。

以上。

日曜日, 6月 12, 2011

LED電球についての実感

LED電球。何時かはこの言葉もなくなるだろうけれども、日本語として納まりの悪い言葉である。
それはそれとして、白熱電球への代替がかなりの急ピッチで進んでいるとのこと。最も省エネ効果が期待される分野だけに良い傾向かも知れない。私はこれまでに電気スタンド用として2個を購入して使っている。最初からスタンド向きにデザインされたLED発光体を組み込んだスタンドも沢山販売されているが、光量の多いタイプは値段が高くかつ場所を取りそうなデザインなので敬遠し、いずれも白熱灯用のスタンドやスポットライトと口金の小さいタイプのLED電球との組み合わせで使用している。

いずれも白色だが、色調には一応満足している。少なくとも蛍光灯の白色よりは気持ちの良い白色である。蛍光灯の色は最近は昔に比べてずいぶんとよくなったが、それでも独特の陰気な雰囲気からは完全に開放されることがなかった。それは水銀の輝線スペクトルに起因しているのに決まっている。LED電球の白色もいわば合成された白色であるから、自然光のようにはゆかず、「演色性」が悪いといった批判があり、確かに多少はそういう印象もある。しかし、総合的な評価はどうであれ、水銀の輝線がなくなったことのメリットの方が大きいような気がする。

という次第で、個人的には白熱灯よりも蛍光灯の代替が早く進んで欲しいと思っているのだが、色々な理由から、なかなかそうはゆかないようだ。少なくとも節電効果は白熱灯の代替の方が大きいことは確かである。それに従来蛍光灯が使われていた場所の代替は照明器具との兼ね合いもあって難しいのだろう。個人的にも現在の天井灯に使われている蛍光灯の代替にはまだ無理なところがある。

現在販売されている主流は従来の白熱灯の口金に合う電球タイプである。しかし日本の場合、天井灯には家庭でも蛍光灯が使われている場合が多い。事務所や公共の場ではもちろんそうである。また天井灯などの室内のメインの照明として、従来の電球用の照明器具が、LED発光体に相応しいかどうかとう問題もある。要するにまだLED照明によるデザインの基本形が確立していないということだろう。今はまさに照明デザイナーや照明技術者の出番であろうと思う。

先日、小田急デパートで開かれた展示会に行ったときのこと。下からエスカレーターで9階まで上がって行ったので各階の様子が垣間見られたが、宝石売り場の階に上がってきたとき、宝石の陳列ケースに真っ白い光のスポットライトが手前から奥の方まで、ずらっと並んでいるのが見えた。もちろんLEDランプの色であるが今までになかった新しい光景であった。近くによって見なかったが、宝石類がどのように見えたか、気になるところである。


いずれにせよ蛍光灯への代替が進み、1日も早く日本の公共の場から陰鬱な水銀の輝線が消えてゆくことを期待したい。

火曜日, 4月 26, 2011

稲恭宏博士の講演をUチューブで聞き、考えたこと(その3―最終)

先般、2回にわたってこのテーマでメモを公開しました。それからもうそろそろ3週間になろうとしてますが、その間も私の立場と境遇から言えば他の事に時間を使うべきとの気持ちを抑えて、この問題に時間を割くことを余儀なくさせられる気分から逃れることができず、自分なりにネットで放射線に関する勉強と調査を続けました。その結果を ― 今度は少々長くなり、内容的にもこのブログよりも別のブログに相応しいように思えましたので、次の別サイトに掲載しました。

この問題を勉強して考える前にまず、私が稲博士に好感を持ったことが影響を及ぼしていることは間違いありません。但し単に印象的、直感的にそう思ったというだけでもなく、かなり正当な理由もあります。それは、博士が遺伝子治療技術に成果をあげながら、それが科学を超えて倫理的に問題がある技術であることが解ったために継続する事を断念したという経歴をお持ちであるという事でした。これは、科学者であるならば科学的に主張できることは断固として主張し、科学的手法を超えた問題からはそれが個人的に利益になることであっても科学者としてそこからは身を引くという姿勢に感銘を受けたからです。


そういう博士への好感はありましたが、それだけで博士の言説を信じるというのでは個人的にはともかく、他の人に訴えるにはやはりそれなりに可能な範囲で検証しなければなりません。検証に当たっては、放射線と健康を考える会ホームページを主として参考にしましたが、それ以外では、稲博士とは反対意見である3人の諸先生方の準拠される資料には特に丹念に参照したつもりです。勿論素人に可能な範囲内ではあります。蛇足ながら、この専門外という意味では、原子物理学者や原子力専門家も一般人と同列ではないものの、やはり医学のこの分野の専門家ではないということは認識しておく必要があるかもしれません。

その結果が上記ブログ記事ですのでご高覧頂ければ幸いです。

残念ながらツイッターにはやはり間違った言説や他人の言説を鵜呑みにした言説、悪く言えば流言飛語というような言説もあるように思えます。もちろん統制には絶対反対です。だいいち自分自身でさえ意識せずに流言飛語を放っている可能性がないとも言えないのに一体だれがすべての流言飛語を公平に判定できるのでしょうか。

結局のところ、基本的には誰もが可能な限り元の情報源、原典に自分自身でアプローチして自分自身で考えるしか道はありません。一般人のみならずどのような専門家でも専門外の情報に当たらなければならないわけですから、これは限定付きで、不可能なことではないと思います。この点にこそインターネットの最大の恩恵があるのではないでしょうか?


現在の閉塞状態から抜け出すには・・・、個人的にはCO2温暖化説が通用している限り突破口はないようない印象をもっています。具体的にはそういう世論調査でCO2温暖化説を信じない割合が高まることではないかと考えています。昨年のBBCニュースでによれば、英国ではもう国民の過半数がCO2温暖化説を信じていないという結果が出ていたと記憶しています。日本ではそういう世論調査が行われていないのは残念ですが。今日改めて調べて見たのですが小出裕章氏もまたCO2温暖化説の誤りを指摘しておられる事を知り、この点で安心していました。http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/kouen/JCC100119.pdf 私はこれらの諸先生方にはもっとCO2温暖化説の誤りについて声を大にして発言して頂きたいと思うものです。今の閉塞状態から脱出するにはCO2温暖化説から開放される以外の突破口は考えられないと思います。http://d.hatena.ne.jp/quarta/20110401#1301656569

以上、この問題でお付き合い頂き、有難うございました。


4/27 追記
ちなみに、現在CO2温暖化説への批判の多くは間違いではないと思いますが、少々ポイントがずれているような気がします。言い方を変えれば、意図的かどうかはともかく、CO2温暖化論の土俵に乗せられた上で反論を述べているような論調が多いように思います。季候モデルとか季候感度といった概念を使わされているようですが、その種の複雑なモデルなどを使う必然性についての議論が抜けているような気がします。そのような込み入った議論に加わらなくても、それ以前にCO2温暖化説が間違いであることを証明できるのになぜそのような相手の土俵に乗るのか不可解です。

CO2温暖化説が間違いである事を理解するのは少しも難しいことではないはずなのですがね。それをことさら難しいことにしてしまっている。

それは海には空気中の40倍以上のCO2が含まれていて、空気中のCO2とバランスが取れていること、そしてその割合が温度によって変動することをを理解するだけで十分なはずなのです。温度が上昇すれば人間がCO2を排出しなくてもCO2が海から放出され、温度が降下すれば空気中のCO2が海に吸収されるだけの事です。そして実際、気温と海水温の変化に遅れてCO2濃度が変化している。分かってみれば少しも難しいことではないはずなのですが。

日曜日, 4月 24, 2011

プルト君のことはよく知らないけれど・・・・

プルト君のことはよく知らないけれど・・・
こんなにも長い間、迫害され続けてきたCO2君にはまったく同情に堪えない。
痛めつけられ、耐え続けているCO2君の事を思うと泣けてくるよ
みんないい加減に彼をいじめるのをやめ給え

聞くところによれば日本人は、またまたCO2君を無理矢理地下深くに圧入するという。
これで地震が誘発されるのではと心配する声もある。
そんなことをして何が自然との調和、自然の尊重と言えるのだろう。

CO2君が一体何をしたというのだ?
空気中に含まれるのはわずか0.03%。
呼吸の邪魔をするわけでもない。
むしろみんな、贅沢にもわざわざ飲み物にまでCO2を入れて楽しんでいるではないか
CO2君がなくなれば植物も動物も一日たりとも生きてゆくことができない。

今度の地震と原発事故もきっと神様がCO2君の事を不憫におもって、人間を罰したのだ。
いつまで彼に濡れ衣を着せ続けるつもりなのだ?と

もともとそんな罪自体が存在しない。
前世紀後半から温帯の一部が暑かっただけではないか。
それももう収まりつつあり、寒冷化が始まっている。
温暖化がなくても干ばつは起きるし嵐も起きる。
まあ化石燃料の使いすぎや使い方の悪さはあったかも知れない。
空気を汚したし、発がん物質もまき散らしたかも知れない。
でも「CO2対策」で本当に化石燃料を減らせたのか?
いずれにせよすべて人間の罪でCO2君にはなんの関係もない。

そんなことを言っていてもあと数年の中に大気中CO2君の一部は空気中から撤退し始め、海の中に入って行くだろう。
もともと海の中には空気中の40倍くらいのCO2君が控えているのだ。
海中のCO2君はもちろん植物の栄養となるが、珊瑚や貝殻の中に入って堆積する。
堆積したCO2君はもう、そう簡単には戻ってこない。
まあすべて大気中から消えてしまうわけではないから、別に心配する必要もないのだが、
地上の寒冷化がさらに進むことは間違いが無い。
気候変動もまたあるだろうし、引き続き世界各地で大地震もおきると言われている。
そんな大変な時代に入ってなおCO2君をいじめ続けて何になるのだ。
なんという無駄、浪費、罪悪。

土曜日, 4月 16, 2011

無題

このたびの地震に関連して天罰という言葉が波紋を呼んだが、一方で自然のしっぺ返しという表現を使う人がいる。天と自然とは同じではないのでかなりニュアンスが異なるが、そこに共通する意識があることは間違いが無い。それはやはり人間には何らかの責めを負うべきものがあるのではないかという意識である。

端的に言って私は科学と科学技術者の責任が大きいと思う。何と言っても、とにかくここまで現在の文明をここまで牽引してきたのは近代科学技術だからである。それが部分的に挫折したのである。やはり科学信仰という一種の信仰であったというべきではないかと思う。


科学で解ること、科学的に解明できることは断固として主張すべきであり、一方で科学で理解できないこと、科学技術でできないこと、無理があることは科学としては沈黙し、無謀で人道に外れるような技術の開発はすべきではなかったのに、往々にしてその反対が行われてきたのではなかったかということだと思う。

科学的にはっきりと断言できることには目をつぶり、一方で科学の方法で理解することが無理な、あるいは不適切な問題を解明できると考えたり無謀で人道に外れるような技術開発を行ってきた、とも言えるのではないだろうか。もちろんすべてがそうであるわけもないけれども。


ゲーテが次のようなことを言っている。「(自然科学の勉強によって)私にわかったことは、たいていの人間にとって学問というものは飯の種になる限りで意味があるのであって、彼らの生きていくのに都合のよいことでさえあれば、誤謬さえも神聖なものになってしまうということだったよ」、エッカーマン、山下肇訳。

ここで「誤謬さえも神聖なものになってしまう」と言っているのは興味深い。科学者も神聖なものを求めている面があるともいえる。科学者が音楽や芸術に造詣が深かったり、興味を持つことは極めて普通の事だとも思うが、既成宗教への信仰を持つ科学者も多いし、神秘思想を持つ場合も少なくないだろうと思われる。

しかし一方では無意識的に科学自体を神聖化したり、科学的な表現自体の中に神聖なものを求めたりすることがあって、そういう場合に往々にして「誤謬さえも神聖なものに」してしまうのではないか、とふと思った次第である。

月曜日, 4月 11, 2011

稲恭宏博士の講演をUチューブで聞き、考えたこと(前回に続けて)

前回の記事を書いてその後、ニュースやネット関係で幾らかの情報が得られたので、もう少し突っ込んで考えてみました。前回同様、全体としてまとまりがありませんが、とりあえず問題点の列記です。

◆ 前回、稲博士の考え方に沿って自然放射能の高い地域での調査結果をネットで調べてみた結果、筆者の判断として、平均的自然放射能の10倍くらいまでの線量率の場所では、少なくとも全く問題はないであろうという確信(と言っても良いと思うが)が得られた。その後得られた情報からも、このような考え方をしている人や、機関は多いように思われた。政府関係の発表にもこのようなデータに基づいているケースがあるように思われる。

この件に関連してツイッター上で次のような発言を見つけた。
『 @hkawa33: 政府は公式に「100mSv以下の被ばくでがんが増えるという科学的根拠は無い」という「しきい値モデル」に立っているのだろうか?少量でも危険は被曝に比例するという「直線モデル」も検討が必要。「NHKニュース: 学校に屋外活動控える指示も」 http://nhk.jp/N3v86NcP』

このツイートで「しきい値モデル」と「直線モデル」という言葉を教えられたのだが、稲博士の考え方は「しきい値モデル」、ただし線量ではなく線量率のしきい値モデルに基づき、そのしきい値が自然レベルの数千倍と極端に高い、というふうに表現することができそうである。そして「直線モデル」と言われているのが、稲博士の言う、「チェルノブイリでのデータを外挿しているだけのデータ」に相当するのであろう。個人的には「モデル」という言葉には少々違和感があるけれども。

個人的には、しきい値のデータに信頼が持てるのであれば、しきい値モデルを使うのが正当だと思うのだが。特に中国広東省のデータのように平均的自然放射能レベルの3倍で地域ではむしろがんの死亡率が低くなっているという事であれば尚更直線モデルの妥当性が少なくなるというものである。

◆ その後の情報でもう一つ、気になったのはチェルノブイリでの事後調査を報告したNHKのドキュメンタリー番組があちこちで紹介されていたことである。全体的な印象では、稲博士の説とは反対で、少ない蓄積線量であってもガンの発生や死亡率の上昇に悪影響がありそうだという内容なのだが、どうも提示されるデータや実例が断片的なものばかりであって、総合的な判断ができないようになっているように思われて仕方がないのである。チェルノブイリのデータは他のソースでも紹介されているが、いずれも断片的なものばかりに思われる。例えば個人的な具体例の紹介のみで全体の中での位置づけが分からない場合、あるいは特定の放射性物質の濃度のみで、放射線全体のデータが示されていない場合等々。「直線モデル」にしても「しきい値モデル」のいずれにしても、また線量、線量率のいずれにしても、全体を表すグラフの中でその事例がどういう位置を占めるのかという点で一面的、断片的な例ばかりであるような印象なのである。

またもう一つ、稲博士のビデオを見るよりも以前にやはりUチューブで見せてもらった京都大学の小出裕章氏の講演ビデオ http://www.youtube.com/watch?v=4gFxKiOGSDk を見なおしてみた。そうすると確かに直線モデルの解説が含まれていた。先に見たときは当方の知識がなかったために直線モデルの意義を見過ごしていたということなのだろう。このビデオによるとアメリカ科学アカデミーのBEIR-Ⅶ報告が引用され、そこでは直線モデルが正しいと断定され、小出氏もそれを絶対の基準とされているようである。その報告の結論をコピーすると次のようになっている。
「利用できる生物学的、生物物理学的なデータを総合的に検討した結果、委員会は以下の結論に達した。被曝のリスクは低線量にいたるまで直線的に存在し続け、しきい値はない。」
この報告では「被曝のリスク」という言葉が使われているが、小出氏の方は「影響」という言葉を使っている。

この点で私は思うのだが、影響とリスクとは区別しなければならないのではないだろうか。報告書では「被曝のリスク」という表現だが、これもちょっと判りにくい。具体的に「ガンのリスク」とか、少なくとも「健康リスク」というべきではないだろうか。要するに直接の「影響」と「健康リスク」とは別ものではないだろうか。線量に正比例して何らかの影響が出るにしても、それが即比例的に健康リスクにつながるとは断定できないのではないか。この点を確認するにはやはり現実のデータを見るしかないのは当然である。そこでチェルノブイリや、もっと遡って広島や長崎の被爆者のデータが参考になる筈であり、そういうデータがない筈はないと思われる。しかし、どうも一般向けにそういうデータが包括的に紹介されているとは思われない。すべて断片的な印象である。稲博士がそういう統一的なデータを解析した結果、件のビデオで主張しているような結論に至ったのであるのなら、大いに期待が持てると思うのだが、

付け加えておくと、私は小出氏のビデオから大いに啓発されたし、原発に対する基本的なスタンスには納得出来る。同様に稲博士のビデオにも条件付きで納得でき、期待が持てるというのが正直なところである。

◆ ガンのリスク要因といえば放射線以外にも色いろある。タバコや大気汚染も当然それらの中に含まれる。それらの中でも放射線を特別視する理由はどこにあるかも明確にしておく必要があるように思われる。

◆ 基準値にしてもデータにしても常に線量率と線量の二本立てで基準値を作成し、出来る場合は線量率のデータも公表してもらいたいと思う。普通は線量率ではなく線量で与えられる場合が多いけれども、これは私の想像では、単に測定の容易さや取り扱いの容易さによるものではないだろうか。

私はかつてX線分析の仕事のためにエックス線取り扱い主任者の資格をとったことがあって、当時、作業中はフィルムバッジを付けていた。これは計数管ではなく単なる感光フィルムなので測定期間の蓄積線量しか測ることはできない。今でも現場の作業者が付けている測定器の殆どがフィルムバッジなのではないだろうか。多くの場合に線量率ではなく線量を基準として事が進められているのはこういう実用的な理由によるのではないかと、個人的には推測するのだが、どうなのだろうか?

◆ もちろん、稲博士の説が全面的に正しいとしても原発そのものの危険性や不合理性、あるいは非人道的となる可能性についてはそれらを軽減することにはならないであろうと思う。爆発して高濃度の放射性物質を撒き散らす危険性や危険な労働環境、経済的な不合理性、使用済み燃料の危険性、さらに、結果的には総合的にCO2排出を減らすことにもならないのでは尚更、CO2温暖化説が正しいとしても、正当性がないと言える。

木曜日, 4月 07, 2011

稲恭宏博士の講演をUチューブで聞き、考えたこと

話題の稲恭宏博士の講演をUチューブで拝見しました。
http://youtu.be/PQcgw9CDYO8

ツイッターでは非難する人が多いので一体どういう人なのだろうと思っていたところ、某ブログで推奨されていたので、そのリンク(上記)から博士の講演を見せてもらった。


強い印象を受けたが、かなり長い講演で色々な発言を含んでいるので、全部整理して素人が総合的に判断することは難しいが、とりあえず箇条書きで印象と問題点等をメモしておきたいと思う。

◆ 一言で言えば、問題になるのは線量率だけで、蓄積線量は問題にならないということのようだ。そしてその線量率も基準の千倍程度まではむしろ健康に良いということだがその根拠には、少なくとも害にならないということの根拠には、―データが正しいとすれば―確かに納得できるものがある。確かに自然界の放射線レベルには場所によって差があることは常識的にもわかる。しかしそれが実際にはどの程度なのだろうか、またこの点で稲博士のデータと根拠は正しいのだろうかと、ネットで調べてみると次のウェブページが見つかった。ページタイトルは「自然放射線の高い地域のガンは多くない」:http://www.iips.co.jp/rah/kangae/lowdose/sizen_s.htm
このページを見ると、なるほど、自然放射線のレベルが普通の地域の3倍と言われる中国広東省陽江県のデータではむしろレベルが高いほうがガンの死亡率が低くなっている。
このページのトップページに移行すると、「放射線と健康を考える会」という団体のサイトでありhttp://www.iips.co.jp/rah/index.htm 、メンバーには原子力関係者も含まれているみたいだが、どちらかというと医学系の専門家が多いようで、結構多様なメンバーに思われる。
リンクサイトには東京電力も含まれるが、医学研究系の団体が多い。いずれにせよ、こういう団体や人物のことは素人には分からないが、色々と興味深い情報が公開されている。
いずれにせよ、先の中国広東省のデータが本当だとすれば、少なくとも通常、自然の3倍の強度(線量率)の放射線を継続的に浴び続けていればむしろガンで死亡するリスクは低下するといっても良さそうである。

あるサイトには、イランのラムサールの様に平均の20倍の強度の場所が紹介されている。しかし稲博士は平均の数千倍の地域もあるという。たしかにウラン鉱山とか自然界は多様だからそういう所もあるのだろう。でも健康データがすべて出ているとは言えないだろう。もちろん、データがないということとリスクが高いということが同じである訳でもない。ただ解っていないというだけだろう。本当に数千倍の地域で住み続けている人々がいて安全なデータが出ているとすれば、完璧に稲博士の主張は正しいことになる。そうでなくとも逆のデータが出ていないとすればどちらとも言えないことになる。

さらにネットで調べると、(財)高度情報科学技術研究機構というところのサイトにガラパリというブラジルのウラン鉱山地方のデータが紹介されている。それによると染色体の異常は対照地域の1.3倍だそうだが、「しかしながら、エスピリト・サント州の夫婦8000組とその妊娠終結(生・死・流産)44,000回について、産児の性比、先天性異常、流産、死産、乳児
死亡、生殖能(受胎率、出産率)を調べた結果によると、対照群と比較して、「良い」影響も「悪い」影響も認められなかった。」という報告が出ている。残念ながら、ガンの調査はされていないようだ。この地域の線量率の分布グラフがあって、それによると平均で日本平均の10倍くらい、最高で40倍くらいになっている。千倍とはまだかなり開きがある。


稲博士は現在の基準はチェルノブイリのデータを外挿したデータによることが間違いであると言っている。外挿したということは原点をゼロと仮定した直線または曲線ということになる。たしかに、外挿ということは実際のデータの基づいたわけではないのだから、これは単なる推定に過ぎないというのは分かる。この点で上記のような自然放射線の強い地域の住民のデータが出ているとすれば、それを考慮に入れた曲線にしなければならないのは確かに当然である。

以上から、稲博士の基本的な考え方自体は間違っていないと思う。あとはデータ次第だろう。上の中国広東省のデータが正しいとすれば少なくとも世界平均の3倍までの位置までは外挿曲線を修正しなければならないとは言える。またカラバリのデータが使えるのであれば10倍程度までは修正しなければならなくなる。

◆ 現在までのニュースによると、原子炉の炉心が一部溶融して圧力容器や格納容器が損傷していることは間違いがないようだが、稲博士は圧力容器は壊れていないと発言しているのが気になった。

◆ 原発の全般的な危険性についてはあまり触れていない。でこの点でも博士の考え方を述べて欲しかった。医学者であって原発の専門家ではないので、これは仕方ないのかもしれない。使用済み燃料を地下に埋める事の危険性について触れていたが、すこし物足りない気がした。

◆ チェルノブイリで子供の甲状腺癌が発生したことについては食べ物にヨウ素成分が少ないという、チェルノブイリでの地域的な特殊性によるところが大きいとしている。これは理解できるが、ヨウ素以外にこのような特殊性は他にもないのかどうかが気にかかる。


これまでの結論:単純に線量率から言えば、少なくとも今の自然放射線の10倍くらいまでの線量率なら本当に問題ないのかもしれないと思う。もっと稲博士の研究を知ることで、信頼度が上がるかもしれない。ビデオ中の稲博士の印象からも、個人的には、10倍以上でも大丈夫かもしれないと思うが、数千倍となると、不安があるといったところだろうか。いずれにしても稲博士のこの発表は一定の安心材料であると言っても良いと思う。体内被曝については今のところ、そこ迄まで納得出来ていない。

稲博士にはTVなどで他の諸先生方と議論してもらいたいものだと思う。これはメディアの意向次第だろう。