金曜日, 9月 16, 2016

不忍池とスマートフォン、そしてポケモンGO


不忍池とスマートフォン、全く異なるものだが、どちらも最近の私にとってちょっとした宝物といえるかもしれない。といっても唯一無二でも最上の宝物という程のものでもない。もちろん「お宝」などではない。もともと宝物というものはたいてい、人生にとって必ずしも不可欠といえるようなものではない。あるいは代替が効かないようなものでもない。文字どおりの宝物である宝石にしても多くの女性にとって、無くしたからといって、あるいは身につけられなくなったからといって、絶望するほどのものでも無いだろう。とはいっても人生の一時期には他に代え難い有り難みをもたらしてくれるものといえるかもしれない。



不忍池によく足を運ぶようになったのはこの2、3 年のことである。今の住居から 2キロぐらいしか離れていないから格好の散歩コースである。かつて仕事で御徒町の方によく通っていた頃は御徒町の方から上野公園に足をのばしたとき、たまに不忍池まで立ち寄ることがあった程度だったが、2年ほど前からそのようなコースよりも自宅からは随分と近道になる東大の裏門あたりの道、弥生町のあたり、竹久夢二美術館の前などを通る道や、近辺の複雑な小道、あるいはやや遠回りをして根津駅あたりの方を回ったり、いろいろなコースから歩いてゆくようになった。現在、一応は自宅で仕事をしているから、平日はどうしても、仕事が無くても5時か6時頃になるまでは外に出る気にはならない。仕事の連絡はすべてメールで来るからである。今年の初めにスマホを購入したきっかけの1つは、外でいつでもメールチェックをしたかったからだが、しかし冷静に考えてみればせいぜい3時間程度の外出で、メールチェックが絶対必要だというほどでもない。携帯電話があれば十分だろう。そんなわけでいったんはドコモのスマホ契約をしたが、あまりにも不経済な通信料とソフトの使用料に辟易して3ヶ月程で解約し、普通の携帯電話に戻してしまった。この間、かなり無駄な出費をしてしまう。ただスマホ自体は自宅で結構便利に使っている。やはり自宅でもパソコンだけでなくスマホがあると便利ではある。片手の手の中に収まるという点、確かに宝物という感触はある。外ではもっぱら散歩中に写真を撮ったり、不忍池のベンチで電子書籍の読書をしたりしていた。夕方暗くなってからでも読めるのでスマホの電子書籍はなかなか気に入っている。文字が多少小さくても書体はパソコンよりも読みやすい。もちろん紙の本も不忍池のベンチで読むのは快適である。以前から、外が明るいうちは、自宅の狭い空間ではあまり読書をする気にならないのである。読書をする場所として不忍池のベンチはまたとない場所になっていた。



この間、外出中にスマホでのデータ通信をあきらめたわけでもなく、いろいろ対応を考えてはいた。ワイマックスの古い契約が残っていて月390円で多少のデータ通信ができるはずだったのだが、実際にスマホで使用してみて通信量など、機能性の問題で使い物にならないことが判明。こちらも今更ながら解約し、現在最終的に、ワイヤ・アンド・ワイヤレスという公衆無線LANサービスに加入してみた。その結果、利用可能エリアは限られるが、一応使えることは確認できた。ただし、殆どの利用可能エリアはオプションエリアと呼ばれて追加料金が必要なエリアである。看板に偽りありの感が無くもない。日本の通信会社はすべてこんなものなのだろう。月に税込み390円だから、今のところもっとも安い選択肢ではあるようだ。しかし上野駅で一カ所、無料で無線LANを提供しているところもあるにはある。他にも探せばいろいろありそうだ。







道路の向こうは横山大観記念館




こんなわけで、 不忍池のベンチでスマホのデータ通信をするわけには行かないが、スマホは持ち歩いてはいる。ちょうどそんな時期にポケモンGOの騒ぎが始まり、急にこのエリアが騒々しくなったのであった。もともと不忍池のエリアではスマホを手にしながら歩いている人は多かった。カップルなどはスマホで写真を取り合っていたし、年寄りでもスマホで写真を撮り歩いている人は結構多かった。そんな次第でポケモンGO以前にこの場所がそれほど閑散としたいたわけでもない。桜の花見頃はもちろん、アジサイやハスの時期には花見の見物人も多く、外国人観光客も多かった。特に中国語は日本語と同じくらいの頻度で耳に飛び込んでくる。ただやはり暗くなる頃にはかなり閑散としていたが、それでもかなり遅くまで散策する人は結構いた。しかしポケモンGOが始まってからの騒々しさはレベルが異なる。まあ夕方の5時頃まではそれほどでもないが、5時半頃を過ぎると、二つの池の間の遊歩道で波のように通勤ラッシュさながらの混雑が 現出する。池に面したベンチに座っていると後ろの方で急に聞こえだした足音はまるで歩兵の進軍ではないかと思われるほどざわざわ慌ただしい。そろそろ帰ろうかと思って歩き出したが、彼らと反対方向に歩くのが困難なほどだった。その後も何度か同じ頃、同じ場所に行っているが、だいたい同じような状態が続いている。あるとき、当方もベンチに座りながらスマホを持って電子書籍を見たり、写真を撮ったりしていると、ポケモン仲間と思われるらしく、その場所でポケモンが獲れると思ったのか、すぐ隣まで来てポケモンをする若い人たちもいる。そして実際にポケモンが獲れたらしい会話が聞こえる。






このような、多くは少年とはいえ、大人も少なくない、あたかも歩兵の進軍のような慌ただしい群衆の動きを見ていると、どうしても何者かに動かされているか操られているような、不気味な印象を免れ得ない。実際にゲーム会社に動かされている訳だが、こんなゲームを通常のプライドを持つはずの大人が嬉々として遊んでいるというのは本当に信じがたい気がする。童心に帰るのもいいが、時と場所とする事を選んだ上で童心に帰ってもらいたいものだ。流行とはこのようなものかもしれないが。
いずれにしても、このようなゲームは例えばディズニーランドなど、特定の場所を限定した上で実施すべきものである。


 ポケモンGOの流行で、厭なというか、不安に思われることの一つに、このゲームを批判する意見が不当に無視されているのではないかという印象である。第一、政府もマスコミもこのゲームをバックアップしているのではないかとさえ思われる。こんな、道路や公共の場所にバーチャルとはいえエサ、ではないが、獲物のようなものを勝手にばらまき、人々を招き寄せるようなゲームが何の障害もなく通用する事態そのものが異常ではないのだろうか。ゲームのようなバーチャルな環境を公共の場に持ち込むことは関係のない人を巻き込むことになる。事実、死亡事故まで起きているというのに。




このゲームにも当然、賛否両論があり、マスコミでも両方が取り上げられてはいるが、どちらかと言えば否定派の意見が片隅に追いやられている傾向がある。特に肯定派の意見に特徴的なこととして単にこのゲームのメリットを主張すると言うよりも否定派の批判や否定派の人物を批判するような傾向が見られるのは特に厭な感じがする。たとえば次のような内容の記事があったのには驚いたのである。

このゲームが一つの原因で死亡事故があったことについて、その論者が言うには、すでに歩きスマホが原因で起きた交通事故は沢山ある。それらは沢山あるので報道されていないだけである。たまたまポケモンGOが流行し始めたので改めて事故が取り上げられたに過ぎない。だから特に問題にするほどのことでもない、ということらしい。こういう考え方を倒錯した論理というのだろう。すでに歩きスマホが原因の事故が多発しているのなら、新たに歩きスマホが前提となるようなゲームの導入にはことさら慎重になるべきではないのか。実際に死亡事故が起きたのは歩きスマホどころか、自動車の運転をしながらのポケモンGOだったはずである。そんなことを知ってか知らずかその論者は道路でこのゲームで遊ぶことを批判するのは自動車側の横暴だなどと書いていたように記憶している。このような見当外れで無神経な論理がまかり通るというのはまさに異常事態のように思われ、不気味でさえある。

今日の夕方にまた散歩でいつもの場所に立ち寄ってみた。日が暮れ、暗くなると、最近には珍しく、人が少なくなっていった。6時を過ぎてもいつものようにゾロゾロと大挙して慌ただしく群れてくるようなことはない。この場所にポケモンが出現しなくなったのか、あるいはこのゲーム自体が下火になったのか?しかし弁天堂の前は相変わらずごった返している。まあ波があることだし、実際にこのゲームも下火になってきたのかもしれない。このゲームもすぐに流行らなくなるさ、という人も多いが、確かにそうなるだろうとは思う。しかしゲーム会社や利権側も新たな手を打ってくるだろうし、同じように公共の場にバーチャル環境を持ち込むようなものがゲームに現出する可能性がある。何よりも心配なのは政府も産業界もマスコミも挙ってこのようなゲームを後押しし、社会全体としても抵抗もなくすぐに受け入れるような風潮なのである。

  それにしても携帯電話会社のパケット定額制や「かけ放題」 の強制には困ったものだ。せっかくのスマホのメリットを大きく損ねている。変なゲームを後押ししたりするのではなく、こういう問題を改善することこそが、真にスマホを多くの人々にとっての宝物に変えるのだと思うのですがね。


 


 

火曜日, 2月 11, 2014

政治的争点としての脱原発問題

端的に言って、投票率を含めた今回の都知事選の結果がこうなった原因は、個人的にはどう考えても一方の方から、争点が脱原発問題になってしまったと言うか、されてしまったことにあると思う。

震災直後ならこういう争点になる必然性は十分あっただろうと思う。しかし、現在に至って国民も都民も多くの事実、それも真実、虚偽、欺瞞 、謎、等々を含めた様々な事実を知ってしまった。たとえ今でも即時の脱原発論が正当であるとしても、現在の状況下における都知事選の第一の争点になる必然性はなかったと思う。選挙まえに一度だけツイッターでその疑問をつぶやいた。

繰り返しになるが、福島原発事故以降、確かな事実、不確かな事実、真実、虚偽、欺瞞、誇張、あらゆる態様というか、可能性というか、適切な言葉がみつからないが、そういう状態を含めて多くの事実が明らかになった。今では平均人の体内に常時数千ベクトルの放射線を維持し続けていることや、現在の東京よりも何倍ものの自然放射線の地域がざらにあることなど、常識の域に近づいていると言えるし、ある程度の放射線に健康増進効果があるという学説や研究も多々あることなども知られるようになった。この期に及んでまだ放射線の健康への脅威を過剰に強調するのはまさに、過ぎたるは及ばざるがごとし以外の何物でもないと思う。

たとえ即時脱原発主義が正当であるとしても 、根拠に多少とも見え透いた欺瞞が含まれ、過剰に強調されていたとすれば当事者自身の信用を失うし、不勉強、不見識を疑われることになるだろう。

 ウソも方便ということもあるかもしれないが、それは本当の大人と本当の子供との関係において通用することである。現在の政治家や政治運動家や活動家、あるいは評論家やジャーナリストと一般人との関係が、あらゆる点で大人と子供との関係にあるなどと考える人は今やいないだろうと思うが、もしそう思っている活動家がいるとすれば思い上がりも甚だしいと言うべきでだろう。

木曜日, 10月 24, 2013

ノートパソコンの解像度または精細度は早急に改善すべきで最近始まった高解像度化は促進すべき

以前にこのブログで報告したとおり、姿勢などの関係からノートパソコンの方がデスクトップより良いのではないかと思い、また別の理由もあって、昨年の夏ごろから従来のデスクトップに加えてノートパソコンを導入し、メインで使用するようになっていた。従来のデスクトップはマルチスクリーンでそのままにして併用し、主としてノートパソコンで入力作業をするようになり、さらにはスマートブリッジという、一つのマウスとキーボードで両方のPCを使えるデバイスも使ってそれなりに便利に使っていたのだが、一つ、大きく目論見とは異なる不都合が次第に顕著になってきた。一言で言ってそれは標準的なノートパソコンの、解像度というか、DPIが、ノートパソコンの使用条件に適応できていないということである。これが眼の疲労に著しく影響することが分かったのである。ノートパソコンを追加してさらにメインに使用するようになって便利にはなったのだが、眼の疲労はそれ以前にも増してひどくなったのである。これはひとえに解像度(DPI)とそれに対応した文字の表示とフォントデザインが不適切であるからと言えるだろう。

そんなわけでつい最近になって21インチのディスプレイを追加してノートパソコンをマルチスクリーンで使用するようになった。古いデスクトップの方は事実上、一つ のディスプレイだけを使用し、一方は机の下につないでいる。外してしまうとまた変なことが起きそうでこわい。マルチスクリーンも何度も設定を変えたり、つなぐデバイスが故障して取り換えたりしているうちにいろいろ不都合が生じてくる。

とにもかくにも、ノートパソコンに大きめのデスクトップ型ディスプレイを追加したことで、かなり目が楽になった。やはり、現在主流の解像度はデスクトップ型の設置距離に適しているのである。ノートパソコンでの使用条件では少なくとも現在主流のタブレット程度の解像度は、眼のためには最低限必要だろう。そこで昨日、ネットで調べてみたが、例のIGZOパネルなどを使用した高精細度のPCがすでに出回り始めていることが分かった。当方は今買い替えるわけにはゆかないが、これは歓迎すべきことで、促進すべきことだと思う。

残念に思うのはなぜこの流れがもっと早く進まかったのかということだ。もちろん技術とコストの問題があったのだろうが、とにかく企業の商品開発がスマートフォンと大型テレビに集中していたことが原因だろうと思う。個人的にはスマートフォンなどの新商品の開発よりも、従来製品の改善の方を優先すべきと思うのだが。特に眼の疲労や読みやすさ、眼に優しくすることは、この世界的な高齢化社会への対応ということで、最重要課題の一つだと思うのである。

木曜日, 10月 17, 2013

椅子と机と正座

先日、経済ニュース番組で、アメリカ発の事務用椅子の新製品を紹介していた。自由な姿勢、特にPCやタブレット使用に対応したという斬新な構造と機能性を持たせたということだったが、気になったことは、依然としてキャスター付き五本足の回転椅子であるということで残念に思った。個人的に、当人も五本足のキャスター付き回転椅子を毎日使用しているが、実のところもうこの種の椅子が嫌になっている。

特にぐらつくというわけでもないが、どうしても古くからある回転しない椅子の安定した感触は得られないし、何よりも五本足の位置が定まらず、じゃまになる。本来どのような作業であってもこういう回転椅子は適切ではないと思うがどうなのだろうか。ピアニストは絶対にこんな椅子を使わないし、他の楽器でもそうだろう。事務や手作業でも同じだと思う。

近頃、近くの図書館に通って借りることをせずにそこで一時間程読むことが多くなったが、図書館の椅子は古くからある頑丈な木製の椅子でかなり重い。高さや構造が最適であるとは限らないが、本を読むにはやはりこの種の椅子の安定感は必要と、最近は感じるようになった。 この種の椅子で問題なのはやはり使うときには椅子を引いたり収めたりすることの煩わしさにある。音も立てる。もちろん使いながら動かせるという機能がない。そのために事務所では現在殆ど使われなくなってしまったようだ。しかし、この問題は改めて見直す必要があるのではないかと思う。高さの調節も含めて改善できないほどのものでもないと思われる。

件のテレビで見たアメリカ製の最新型はたしかに自由な姿勢に対応している面もあるが、一方でやはり五本足の安定しない位置のため足の置き場が不自由に見えた。そういう欠点が残されている以上、またキャスター付き回転椅子である以上、もはや見た感じではそれほど欲しいと思うような優れものに見えなかった。

回転式の事務用椅子は見直す時期に来ているのではないだろうか。こういう机だからこそ逆にいろいろと姿勢を崩したくなってくる面もあるような気もする。


同じ日の夜、NHKオンデマンドで見た『美の壺』で、文豪の使った文机というのを見た。 漱石をはじめとする明治から昭和にかけて日本の作家たちが作品を書くのに使った机が紹介されていた。漱石が唐物と呼ばれる中国伝来の文机を使っていたのは西洋文明からの一種の決別の気持ちを込めて意識的にそういう机を選んだのだと、ナレーションで言っていたが、成程そうかと思う。 とは言っても、もちろん全面的な決別ではないのだろうが。

他に紹介されていた作家たちの中で、例えばただ一人洋風の机を使っていた萩原朔太郎のことなど、興味深かった。

それにしてもこういう作家たちは一日中正座していたわけでもないだろうが、事実上、正座をしていた時間は相当に長かったに違いない。ちょうど最近、個人的に、正座のことを考える機会が多くなってきている。当人は仕事など、パソコンを使うときはもちろんだが、先に書いた通り事務用の回転椅子を使って過ごしているが、それ以外は普通は畳の上である。だいたいはくつろぐ時だから、どうしてもあぐらをかいたり、よこに寝そべったりしてしまうが、最近はできるだけ、というか、少しは正座をするように心がけるようになった。少しずつではあるが、しびれは切れにくくなってきたように思う。

正座は身体と健康にとって、また子供の成長にとってどうなのかといった本格的な研究があっても良いのではないだろうか。また精神生活全般と正座や畳式生活と椅子式生活との関係など、もっと多方面の研究がなされてしかるべきではないかという気がする。

月曜日, 3月 18, 2013

ウクライナからのアクセス

最初、「はてなダイアリー」でブログを始めてから成り行きでブログの数が増えてしまい、現在それ以外に「ブロッガー」で三つと「FCブログ」で一つ、合計五つのブログを公開するという始末になってしまいました。いずれのブログにもアクセス解析を設置していますが、これも成り行きで二通りのアクセス解析が設置されています。はてなダイアリーには「はてなカウンター」を設置した後、あとからブロッガーの三つのブログとともに非常に高機能のグーグルのアナリティクスを設置しました。しかし、かなり後になってから、ブロッガーには最初からアクセス解析が組み込まれていることが分かり、これらも二通りのアクセス解析が設置されている状態になっています。もう一つのFCブログの方は、かなり後から始めたブログですが、これは最初からアナリティクスを設置しただけだったのですが、次に述べるようにアナリティクスのデータに問題があるように思われたので、最近になって、はてなカウンターを設置し、比較するようにしてみました。ブロッガーには、アナリティクス以外のカウンターを任意で設置できないみたいで、はてなカウンターを設置してみましたが、機能しませんでした。


という次第で、かなり最近になるまでグーグルのアナリティクスのみを参照していたのですが、ブロッガー組み込みのアクセス解析が見られることに気づいてから、こちらはアナリティクス程の高機能ではありませんが、見やすいので、こちらも見るようになり、その結果、アナリティクスの結果とかなり差があることに気づいたのです。


ブロッガーで公開しているブログのひとつで「意味の周辺」というブログの解析を見ていたのですが、アナリティクスでは表示されたことのないウクライナという意外な地域からのアクセスが相当にあったのです。さらに見て行くにつれ、アメリカも含め、外国からのアクセス全体が予想を超えて多くあり、また日本を含めたアクセス数全体もアナリティクスのデータよりも多い場合が多いのです。


最初はウクライナ、スペイン、トルコ、アフリカ諸国といった特定の国々からのアクセスが検出されないのかなとも思ったのですが、よく見て行くとアメリカからのアクセスも大幅に異なるようです。同じ「意味の周辺」のデータですが、全期間中のアメリカからのページビューが、ブロッガー組み込みの解析では300程であるのに対して、アナリティクスのデータでは訪問数で15しかありません。


さらに詳しく言えば、スペインやドイツなど、数的には少なめですが、アナリティクスでもある程度は検出されているのに対し、少なくともウクライナとロシアはまったく検出されていないという傾向があります。数量的にはウクライナがアメリカに次いで突出しているのですが。


グーグルに問い合わせたところ、国を識別するのはどのツールでも難しく、どのツールのデータが正しく、どちらが間違っているともいえないということでした。ネット検索でその方面の解説記事を当ってみたところ、確かに地域を正確に特定するのは困難なようです。ただ、今回の当方のケースでは、地域を間違えているというよりも、検出漏れという方が当たっているように思われます。アナリティクスでは外国からのアクセス数全体が極端に少なくなっているからです。日本全体のアクセス数はだいたい一致している場合が多いようですから、これは外国から、特にロシアやウクライナからのアクセスが検出漏れになっている可能性が高いように思います。


そんなことを考えていたところ、昨夜NHKテレビの特集でチェルノブイリ関連の放射能汚染問題の現状を報告する番組を見て、ハタと気づきました。これは主としてウクライナとベラルーシからの報告だったからです。上記の問題は「意味の周辺」というブログで確認したことだったのですが、おなじブロッガーで作成しているこちらのブログで、福島の原発事故後の数か月の間に、放射線リスクの問題を扱った記事を何度か書いていましたが、ウクライナからのアクセスはその記事へのアクセスがきっかけだったのではないか、ということに思い至ったわけです。調べてみた結果、確かにこちらのブログでも、全期間でウクライナからのアクセスがかなりの割合でありました。ただ、ブロッガーの解析ではアナリティクスのような詳細な解析はできないので、ウクライナからのアクセスが多かったのはいつごろだったのかということまでは判りませんでした。それにしても、ああいった記事をウクライナからアクセスして見てくださっていたということが分かり、少々感動した次第です。多くは現地在住の日本人の方だと思いますが、それにしては、私のブログにしては多めの、外国からのアクセスです。


そういった方々が、そのブログのその種の記事にアクセスした後にそのページにリンクされた私の別のブログにも興味を示してくださった結果、「意味の周辺」その他のブログにもウクライナからのアクセスが多くなったということではないかと思われた次第です。


私はもちろん、放射線医学の専門家でもジャーナリストでも、活動家でもなんでもなく、放射線問題について調べたのも当時の一時期だけで、ソースもインターネットだけでした。ただ、当時は結構ていねいに調べたり検討したもので、その結果放射線リスクに閾値があり、その閾値も結構高い値で、年間100ミリシーベルトの基準では十分に閾値内に入っているということの確信が得られた時点で、それ以上はこの問題について調べるのはやめ、ブログでもその種の記事もあまり書いていません。もともと数字が苦手なので、今ではベクレルの数値を見てもあまりピンときません。また原発問題やエネルギー問題についてもあまり考えたりすることも、独自に知識を仕入れようとしたりすることもなくなりました。


ただ、「発見の発見」というブログでは、科学上の問題として最初のころからCO2温暖化論を取り上げて記事にしてきましたが、これも今はCO2温暖化説が間違いであることの認識がかなり広まってきたようで、殆ど科学の問題というよりも政治問題に絞られてきた感があり、あまりブログの記事にする機会もなくなってきたようです。


もちろん、原子炉内が現在どのような状態になっているかがまったくわからないという現状で、放射線リスク問題にもエネルギー問題にも全く関心を失ってしまうことは許されないことですが、時々入ってくる情報から、少なくとも原発事故現場に近い一定地域以外ではまったく放射線リスクについて心配する必要はないと思っています。この認識はすでに多くの分別ある一般人にほぼ共通していることではないでしょうか。脱原発に向けて活動されている多くの活動家やジャーナリストの方々を尊敬していますが、そういった方々の中にも、いまだに閾値説を全面否定し、過剰にリスクを強調する人たちがおられるのは本当に残念な気がします。先般、このブログの記事にも書きましたが、「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」です。


昨夜のテレビ番組、ウクライナとベラルーシからのレポートでもやはり、閾値以下の放射線を危険だとする立場と安全とする立場との葛藤が中心テーマであったようです。ただやはりこの種のテレビドキュメンタリー番組の常で、きちんとしたデータの調査よりもイメージ的な訴えや、相互の単なる断定や主張の繰り返しで終始していたように思います。相も変わらず、誰かもわからない女性患者が治療を受けているシーンを流したりしたり、現場とは何の関係もない気の滅入るような音楽を付けたり。もうそろそろこのようなドキュメンタリー番組の手法は時代遅れと思われるようになって欲しいものです。


全く関係のない二つのテーマでこの記事を書くことになってしまいました。ここで最初のテーマに戻ります。


FCブログの方も、アナリティクスの解析を見てきましたが、以上のような次第で、改めて新たに「はてなカウンター」を設置してみました。こちらも外国のアクセスについてアナリティクスとの差において、ブロッガーの解析と同様の傾向を示していると言えます。今のところ外国と言えばアメリカだけですが、明らかにアナリティクスでは検出していない数のアメリカからのアクセスを検出しています。このことからも、やはりグーグルのアナリティクスでは全体のアクセス数、特に外国からのアクセス数の数え落しが大きいという蓋然性が高いように思われます。


素人考えですが、アナリティクスの場合あまりにも多くの詳細項目を解析しているために検出確率が犠牲になっているのではないでしょうか。場合によっては詳細な解析ができないようなアクセスを数え落としているのではないかとも思えるのですが、もちろん専門的に理解しての推測ではありません。


いずれにしてもアナリティクスの詳細な分析機能は商用目的には非常に有効で有用なツールになると思います。ただ、日本国内で外国からのアクセスを地域的に、正確に捉えるには適さないということになるでしょうか。



木曜日, 1月 03, 2013

タブレット機の使用、現在は殆ど休止中。ノートPCの目につく問題点

前回、読書の姿勢に関してネットでアンケートを取ったことで記事を書きました。引き続いてアンケートを取り直したり、考察を続けるつもりのところ、一時的な多忙をきっかけに中断中ですが、いずれ再開したいと思っています。ちなみに、アンケートは、はてなアンケートを使用したのですが、最初、読書スタイルに関するアンケートは有料のポイント付きで行い、すぐに100人の回答が集まりました。しかし次にタブレットの目的についてのアンケートを無料のポイントなしで行ったところ、回答をしてくださったのは一人でした。次回以降おこなうとすれば有料のポイント付きでおこなわざるを得ないようです。


同じ流れでパソコン系メディアに関する体験談というか批評のような一連の記事を書いていますが、今回はその系列のひとつという結果になりました。


タブレットに引き続いてのノートPCの導入
当時、と言っても去年ですが、タブレットを購入した際の複数の目的の中で、最も切実であったのはパソコンで行う仕事の補助でした。具体的に言えば翻訳作業で、それまで1台のデスクトップに2台のディスプレイを接続してマルチディスプレイで使用していたのですが、それでも画面がまだ不足傾向であったことに加え、PC用ディスプレイよりももっと低角度で、本を読むような角度で見られるディスプレイが使いたかったからでもありました。


この点で、10インチのタブレットは十分に目的をかなえてくれたと思います。もっともよい点は画面の精細度―今は解像度と言えば画素数のことになってしまうので、精細度と言えばよいのでしょうか。印刷と同様にDPIで表現できれば良いと思うのですが―が高く、フォントも美しくきれいに出ることです。今の携帯はもっと精細度が高いし、スマートフォンもそうだと思うのですが、一応10インチタブレットの精細度はフォントと相まってパソコンのディスプレイに比べて格段に目に優しいように思われました。


という次第で、PDFの原稿を表示するには快適でした。具体的には正面のPCディスプレイのすぐ下に接触させて低角度でPDF原稿を表示させ、正面のPCディスプレイで入力作業を行うわけですが、できれば位置的には逆の方が良かったのです。入力作業を行うメインの画面が下の方、うつむき加減で入力したかったのです。

そういう次第で、他にもいくらかの理由があり、それから数か月もたたない時点で新たにノートPCを購入することになってしまいました。他の理由というのは、主に、一時的に遠隔地の移動先でメインの仕事をする可能性への備えだったのですが、それ以外に、やはり、タブレットでの入力難しさ、あるいは煩わしさだったと言えそうです。というのはタブレットの購入目的の一つに、自宅内で場所を変えての、入力作業を含むような利用の仕方もあったのですが、入力の煩わしさでそれが満たされなかった次第です。ノートPCでこの点も満たせるという目論見がありました。

要するにノートPCで移動先を含めてあらゆる場合の入力作業を含むメインのPCに据え、従来のデスクトップと必要に応じてタブレットを補助的に使用するというスタイルが一応の理想ではないかという期待があったわけです。ただしノートPCを選択する時点でもう一つ期待することがありました。それは、少なくともタブレットPC程度の精細さ、がその密度を期待したのですが、スペックを見た時点で、標準的な通常のノートPCの大きさでは無理であることが分かり、それは諦めざるを得ませんでした。

とにもかくにもそのような次第で16.5インチのノートPCを購入し、上述のような使い方で現在に至っています。基本的に、ノートPCを入力作業の中心に据えてデスクトップPCを補助的に使用する方法は、私の場合は正解であったように思います。ただしこの初めて使うノートへの不満も大きく、この件はこの記事の後の方で検討したいと思います。

以上のような経緯からそれ以後、仕事上でデスクトップの補助としてタブレットを使用することは事実上なくなりました。ただし机上にもう少し余裕があればさらにタブレットも併用できないわけでもありません。しかし、辞書として使うには問題がありました。パソコン用の辞書は使用できないし、使用できたとしても、検索するための文字入力がしづらそうです。実は初めての電子書籍としてタブレット用の医学事典を購入したのですが、どうもタブレットに適した設計になっていなかったようです。相性の良い機種とそうでない機種があるのかもしれませんが、購入した機種では非常に検索がしづらいものでした。スライダーでは大まかにしかページの移動ができないので1ページづつ移動しようとしても1ページに1項目しか表示されず、1項目ずつページを移動するのは大変時間がかかります。10インチの広いスペースにわずか数行の1項目しか表示されないというのは設計上の大きな欠陥またはミスではないかと思います。



という次第で、現在タブレットは休眠中です。というのも、もう一つの目的であった電子書籍としても今のところ殆ど用無しという状況であるからです。その理由を改めて考えて見ましたが、理由を分析し始めるとそれだけで結構な時間がかかってしまいそうなので、またの機会があれば分析してみたいと思います。ただ、無料の電子書籍、青空文庫や、グーグルからダウンロードできる本が必要な場合は無条件でタブレットを使いたいし、何冊かダウンロードしましたが、この種の本はなかなか落ち着いて読む機会に恵まれないものです。他方、近所や歩いて行ける範囲内に中型や大型書店があり、書店に行く楽しみは結構大きく、書店で買いたい本が見つかればどうしてもそこで購入したいのは人情というもので、最近はアマゾンなどのネット販売もなるべく利用せずに済ませています。とは言ってもまったく電子書籍を購入する気が無くなったわけでもなく、今のところ機会に恵まれないということですが、それでもやはり、タブレットを購入する以前に想定していたよりも電子書籍に対する期待感は薄れているといった状況でしょうか。


ノートPCへの不満点
さて、先ほど述べたとおり、現在、入力作業を行うメインのパソコンは仕事と仕事以外を問わず、ノートパソコンになってしまいましたが、それだけにノートパソコンへの不満も結構大きなものがあります。まあ高級機ではないので高級機では解決できる点もあるかもしれませんが、とにかく感じている不満を列挙してみたいと思います。

1.現在のタブレットと同等以上の精細さが欲しい。これは絵よりも文字表示の上で言えることです。

2.OSはWindows 7 ですが、フォントの表示がWindows XPのデスクトップに比べてむしろ見にくくなっている。

フォントはソフトとによっては選択の自由があり、ある程度きれいに表示設定できる場合もあるが、自由にならないソフトの方が多く、特にユーザーインターフェースの文字は自由にならない。ワードの場合、MS 明朝でもMS ゴシックでも、かなりの大きさにしても殆どドット一つ幅の繊維のような細い細い文字で本当に眼が疲れる。

3.キーボードの左右中心と画面の左右中心の位置がかなりずれる。


という次第で、せっかく画面の角度や位置が見やすくなったものの、文字表示の見やすさ、美しさという点で、現在のデスクトップよりもむしろ劣る場合があり、これにはソフトの問題もあろうと思いますが、やはりノートPCの画面精細度がまだ不十分であるためのように思います。またキーボードの左右の中心が画面とずれるのもかなり大きな欠点であるように思われます。この点では、基本的に画面とキーボードは切り離せられるのが良いので、この点では結局のところデスクトップと一部のタブレットでは早くから実現しているわけで、ノートPCにはないデスクトップとタブレットの共通のメリットとも言えそうです。


こうしてみると、ただ全体の大きさと持ち運び性という点とタッチ操作によって差別化されがちなデスクトップ、ノートPC、タブレット、スマートフォン等のモバイル端末には、実に様々な点で長所と短所が複雑に交錯しているような気がしてきます。そういう中で、タブレット機の持つ長所がデスクトップやノートに還元されても良いのではと思われるのですが、現在、Windows 8 ですか、ノートPCやデスクトップにタッチ操作を取り入れるということがそれにあたると言えるのかもしれません。しかし、個人的には、それよりも画面の精細さとフォントの美しさ、読みやすさ、という点で優れているタブレットの長所をこそノートPCやデスクトップに還元して欲しいと思うものです。

開発の順序からいえばデスクトップパソコンからノートパソコンへ、さらにタブレットとスマートフォンという順序で技術点に発展してきた、というより、技術の発展によってこのデスクトップからノート、タブレット、スマートフォンへの進化が可能になったということなのでしょうが、それに伴ってデスクトップとノートPC自体の進化が取り残されているような気もします。

パソコンの時代が終わってタブレットの時代に入ったというような専門家の意見をよく聞きますが、一面、デスクトップやノートPCの改善に注ぐべき努力をもタブレットやスマートフォンの方に振り向けてしまっているのでは、と思わないでもない次第です。


個人的に、特にPCに詳しいわけでも、もちろん専門家でもないわけですが、かなり切実なユーザーの立場で、引き続き、考察を続けてゆきたいと思っています。

日曜日, 12月 23, 2012

「ウソも方便」と「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」、仏教と儒教 ― 脱原発

ことわざ、と言ってよいのかどうか、ちょっとわからないが、「ウソも方便」と「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」という二つのことわざを比較してみることは非常に興味深いことのように思われる。まず、この両者の由来するソースが大きな意味を持つことに気づく。というのは、前者は仏教経典の法華経に由来しているのに対し、後者は儒教の始祖である孔子の言葉である。

「ウソも方便」の方は法華経の方便品からきている。個人的には昔現代語訳を一読したこともあるが、たいていの人は何らかの機会に聞かされている常識でもあると思う。「過ぎたるは」の方は自分でソースを読んだことはなくこれまで知らなかったが、漢文調でもあり、孔子あたりの言葉ではないかと思ってネット検索してみたら、確かに孔子の言葉とされている。

端的に言って、この文脈での仏教と儒教の違いは、「仏、または悟りを開いた覚者」と、「君子または聖人」との違いと言えそうである。

方便品の内容は、火事で燃えている家から子供を助け出すために、子供にウソをついて家の中から誘い出すという話である。この場合、重要なことは、相手が幼い子供であるということだ。そして、大人対子供という関係から、仏のような覚者対凡人という関係への類推という形で、このたとえ話が利用されている。ここで言われる仏や悟りを開いた覚者と一般人との隔たりは非常に大きい筈である。隔たりというよりも次元が違うという表現が適切かもしれない。

一方の「過ぎたるは」の方は、一般人への教訓ないしは警告であって、こういう教訓や警告を理解して実行しながら人は段々と君子、聖人に近づいて行くべしということだろう。

こういったところから仏とか覚者の意味や人間性について考えを進めてゆくことは興味深く思われるが、実のところこの一文を書き始めた動機はそんな高尚なことではなかった。


実は「ウソも方便」と「過ぎたるは」という一見別のことを語っていることわざが同じ場面で浮かび上がってきたその場面はというのは脱原発運動の現状の一部分のことである。この選挙前のいつか、ツイッターに次のような投稿をした。

――脱または卒原発を一つの旗印にするのは結構だし歓迎するけれども、相変わらず微量の放射線や内部被ばくの害を過大あるいは誇大に強調する人が多いのには本当に残念な思いがする。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。――

はっきり言って現在の時点で内部被ばくも含めて年間100ミリシーベルト以下の被爆の有害性を強調してこれを政治的な運動の根拠にするのはもうすでに時代錯誤になっているのではないかと思えるし、そうでなっていないとすれば、そうあるべきだと思う。今筆者がこれを言う根拠は当ブログの過去の記事に書いたとおりである。http://takaragaku.blogspot.com/2011/04/u3.html
さらに言えば、この問題では何かとチェルノブイリの例だとか、まだ「解っていないことが多い」ことについて言及される。チェルノブイリの事例を参考にすべきことや、まだ解っていないことを専門的に、さらに追及することはもちろん必要なことだろうけれども、この問題に関して言えば、基本的には統計情報を判断の基準とすべき問題で、それはもうだいたい決着がついているといっても良いことである。

たとえば地球温暖化問題の場合、人々が知りたいこと、知るべきことは温暖化や寒冷化の原因ないしメカニズムなのであって、統計的データはそのための資料の一部に過ぎない。しかし、放射線リスクの問題では統計情報こそが一般人の知りたいことなのであって、知るべき一応の目標なのである。この意味では、チェルノブイリの事例や今後の研究を待つまでもなく、広島の原爆被害者の追跡調査でもうだいたい明らかになっている。これがいつまでも生かされないとなると、原爆犠牲者も浮かばれないだろう。

その他に医療用放射線の例や自然放射線の多い地域の例、放射線温泉治療の例などもあり、過去の核実験の降下物の例など、多少でも自分の頭で考える一般人の多くにはもうすでに低線量放射線が無害であることは常識になりつつあるのではないだろうか。この点で、放射線の有害性を微量の線量にまで強調するのは明らかに「過ぎたる」ことなのであり、場合によっては虚偽になる場合もあると言えよう。

一方、原発事故現場からまだ放射性物質が危険なほど漏れ続けているのではないかという心配がある。

当然その大本である原発事故現場の状況、メルトダウンがどういうことで、現実にはどうなっっているのか、使用済み核燃料の状況とか、そのようなことが知らされず、判らないままに、その後の情報も真剣に追求されないままになっていることこそが最も重要な問題だろうと思う。そんな状態だから推測情報や憶測情報が当然の真実であるかのように流される。当然その中には真実に近いものから完全な憶測、さらには虚偽に至るものまでいろいろなものが含まれている。

しかし、現実の問題として、上記の閾値下低線量効果の問題を考慮して、国民に有害な程度の放射性物質が、垂れ流され続けているのかどうかと言えば、現在の一般に得られる情報から推察して危険な状態にあるとは考えにくい。現在の政府の基準が内部被ばくも含めて年間100ミリシーベルト以内に収まっているはずだから、内部被ばくに関係するような放射性物質にしても、問題はないと考えるべきだろう。

政府や専門家学者、脱原発派の科学者も含めた専門家に要求すべきはむしろ、事故現場の正確なその後の状況と、その後の核反応物質の状況、何が分かって何が分かっていないのか、また過去には何が分かっていなかったのか、過去の認識を変更すべき新事実はなかったのか、そして今後の見通しなどの説明であって、現状で危険でもない汚染物質の除去とか、避難の要求とかではないはずである。このような状況で、微量線量リスクを誇張したり、危険な汚染が拡散し続けているというようなことを既定の事実であるかのように叫び続けるのは、かえって真実の究明を妨げることになるのである。

このような現状で、憶測や欺瞞による扇動的な発言が脱原発論者の一部で飛び交っていると思えるのである。そこには意識的なウソではなく、本当に自らの信じるところを述べている向きも多いと思われるけれども、意識的なウソではなくとも自己欺瞞の可能性もある。また心からそう信じて言っているとすれば勉強不足であろう。

今の時代、法華経の方便本で説かれているような幼児と大人の関係、凡人と覚者との関係が、一般大衆と政治家や活動家との間に存在するわけがない。とくに科学的な問題に関しては、むしろ一般大衆の方に専門家が含まれているはずである。

・・・・・・・・・・・・・

個人的に仏教についても、儒教についてはさらに知識はないけれども、少なくとも仏教でいう覚者と儒教的な君子というような概念を比較した場合、現在の社会的、政治的な文脈では仏教的な知恵、教説よりも儒教的教説の方が適切ではないかという気がする。もちろん個人的なレベルでは、政治家を含め、話はまた別である。


補足

もちろん、このテーマの問題がこれで尽くされたなどと思っているわけではない。特にウソの問題について言えば、ウソをつくことというより、逆に、真実を語ることが危険な場合があることは言うまでもないことである。そういう場合は真実を語る代わりにウソをつかないわけには行かない場合や、沈黙せざるを得ない場合がある。当たり前のことだが、法華経でも、儒教でも、もちろんキリスト教でも、現実のウソの問題が尽くされているわけではないということだろう。



金曜日, 10月 05, 2012

読書スタイルについてのアンケート結果

パソコンとの個人的な関わりを通じて何度か、パソコンなどの(特に文字による)視覚メディアとの付き合い方や問題点などについてあれこれと考えたことなど、このブログで記事にしてきましたが、それらと関連の深い紙媒体の代表である書物とのかかわりについても考える必要があると思います。あるいは改めて問い直すというか、反省してみる必要もあるように思います。とくに使用環境と姿勢、あるいは視力や照明との関係など、人間工学の問題と言えるかもしれませんが、まだまだ未解決の問題があるように思います。もちろん、文字や印刷書体の問題など、もっと専門的に、あるいは専門領域でいろいろ研究や開発が進められていることはわかっています。ちなみにこの方面では筆者も素人ながら別のブログ(意味の周辺)にて、縦書きと横書きの問題について考察、発言しています(縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その4 (まとめ))。


以上のような次第で、ちょっとした思い付きで―他に目的もありましたが―、「人力検索はてな」のアンケートを利用し、読書スタイルのアンケートを取ってみました。結果は次のリンクをご覧ください。
「読書スタイル(環境と姿勢)について(業務、研究、学習、娯楽等の目的を問わない)」
http://q.hatena.ne.jp/1349248673

後になってみると設問に不備があったように思いますが、これについてはまた繰り返して何度も実施してゆきたいと思います。とりあえず断片的にでも、現状で思いついた感想をメモしておきます。

◆ 100人の方から回答をいただきましたが、年代は30代と40代で75%でした。50代が6人、60歳超が2人で、人口構成率に比べてかなり少ないと思います。特に視力に関するデータに関しては、50歳以上の方々のデータを集めるには年代を指定して収集し直す必要がありそうです。

◆ 男性対女性の比率は2:1です。これは「はてな」のユーザー比率に対応するのでしょうか。またはインターネットのユーザー、あるいは読書に対する関心度の差であるのか、ちょっとわかりませんが相当な差であるように言えると思います。

◆ 男女差で目についたことの一つは、机の上で読む場合、水平に広げて読む人と、見やすい角度に傾けて読む人の比率が、男性では同数であったのに対して女性では、読みやすい角度に傾ける人がそうしない人の倍であったことが挙げられます。この程度の人数で判断できるかどうかは問題ですが、そういう傾向はありそうな気はします。

◆ 地域差は今回のような小規模の調査ではあまり意味がないように思われました。

◆ 自宅などの自由にできる環境を条件にしたため、「寝転んで読む」と「背もたれにもたれて読む」が圧倒的に多かったのは自然なことかもしれません。しかしその対極ともいえる「床(畳)に座って専用の書見台で読む」という、江戸時代の侍や学者のようなスタイルの方が二人おられたのもちょっと意外でした。しかし、畳に座って読むのなら机よりも書見台の方が場合によっては読みやすいことも多いはずで、こういうスタイルは今後も続いてゆく可能性があるように思われました。椅子を使用して専用の書見台を使う方も一人だけおられましたので、現在、普通の家庭ではあまり見かけない家具である書見台も、需要はあることがわかります。


◆ 複数回答可能に設定したにもかかわらず、最初の読書姿勢に関するアンケートでは、複数回答をした人がいなかったのは意外でした。かなりワンパターンということですね。


◆ 二つ目の、視力と読書に関する質問では、50歳以上の回答者が少なかったため、あまり興味深い情報は得られませんでした。


◆ 三つ目の、道具に関する質問では、もともと質問の意図は、現在入手できるような機能では求められない機能を持つような道具への期待、あるいは現在の機能では満足できないような種類の道具への期待を調査したかったのですが、質問の表現が単純であったため、そのように受け取ってもらえなかった可能性があります。この点はまた改めて調査したいと思いますが、それでも次のような印象を持ちました。

1、いずれのカテゴリーに該当する道具についても一定以上の要望はあるといえますが、少ない順に並べると、机→ルーペ→書見台→椅子→照明器具の順になっています。

2、ルーペを使用することがあると回答されたのは60歳超の方一人だけでしたが、ルーペに該当する道具があればよいという意見が総数は少ないものの、20代から50代までに広がりがあったのは印象的でした。

以上、とりあえずの断片的な印象です。

また引き続きアンケートと考察を続けてゆきたいと思っています。


月曜日, 6月 25, 2012

初めてのノートPC、眼のためにはひとまず正解。次に、何か眼によいサプリメントはないものか?

(PCやモバイルなどとのつきあい方、特に眼の健康との関連などを中心に、何度か、このブログで書いてきました。この記事に興味を持たれる方は是非、少し以前の関連記事もお読みください。)


この種の記事で前回だったか、その前だったか、今後はノートパソコンをメインにしてPC作業してゆくつもりであることを書いた。今月の初めにそれを実行に移し、パソコンを使い始めて以来始めてノートPCを使い始めた。これまでノートPCを使わなかった理由はまず価格の問題だったが、他にできるだけ大きなディスプレイが良いと単純に思っていたこともあるかもしれない。一種の欲張りである。

(特に位置と角度の問題に関して)
現在のところ、ノートPCに期待したところの一番のメリットは間違いなく得られたようだ。姿勢による疲労と眼そのものの疲労が、デスクトップPCのディスプレイだけを見ていた頃に比べてずっと楽になったように思う。この間、一時的にタブレットを併用していた。たとえば翻訳作業の際に、PDFの原文をタブレットに表示させ、PC用ディスプレイの手前に、ちょうどキーボードとディスプレイの中間にノートPCのような角度で設置して、上のPCディスプレイに入力用のソフトなどを表示させ、右側のもう一つのディスプレイに他の資料などを表示させていた。この場合もタブレットを使わなかった時に比べて、かなり楽になっていたと言える。


タブレットに関心を寄せたきっかけは昨年、携帯電話の機種変更をした事が一つのきっかけになっている。というのは、携帯の機種を変更した結果、カメラの質が格段に向上していた事とともに画質が印刷画面以上に精細になっていることに感動し、タブレットにもこの程度の画質を期待したことにもある。とにかく読みやすい書体がきれいに表示される事が眼の疲労を軽減する条件の一つだろうと考えていたもので、タブレットもこれに近い解像度(普通言われる画素数の意味ではなくDPI、つまり画素の小ささ)であるなら、ずっと見やすいだろうし、もちろん見る角度の問題もある。しかしタブレットでは、どうしてもメインの作業に使うわけにはゆかず、ノートPCを考えていた次第である。


ノートパソコンを導入して半月ほど使用してみた結果、見る角度と位置の問題では期待どおり、デスクトップのディスプレイに比べて格段に楽になったと言える。もちろんこれには個人的な問題、体質や体格の問題と関係する面も大きいことは承知している。


長時間PCのディスプレイで文字を見ていると目が疲れるのは誰でもそうだが、特に私の場合、最近は上下に二重に見えるようになる現象に悩まされていて、それが特に真正面に近い位置の画面を見据えながらの作業に起因しているのではないかと推測するに至ったのだが、それが証明されたように思われる。個人的な要素は大いにあるとは思うけれども。もちろん、長時間の使用で視力が低下するという現象が全くなくなったわけでもないけれども、少なくとも二重に見えることが少なくなった事によるメリットは大きいように思う。


(特に解像度の問題に関して)
ただ、画面の精細度については、だいたいデスクトップPCのディスプレイとはそれほど変わらないようで、これはちょっと期待はずれだった。今回初めてノートPCの基本サイズはおおよそ15.6インチで横長の「解像度」(個人的に、この縦横の画素数が解像度とされているのには違和感がある)にほぼ統一されていることがわかり、17インチも同じような縦横比で統一されていることがわかった。個人的にはもう少し縦の長さがあれば文字をもっと大きく表示させられるのだがという印象を持つ。

(フォントの問題)
私の場合、もうパソコン初心者ではないが、フォントに関する知識、とくにアンチエイリアスに関する基本的な知識を得たのは比較的あとの事である。最初の頃はもっぱらソフトに付属するヘルプで使い方を勉強したのだが、フォントに関する知識はあまりそこからは得られなかったように記憶している。フォントに関する知識はもっぱらメールマガジンとか、ネットに散在する親切なサイトやブログなどから得たように思う。しかしフォントに関する知識は初心者にとってきわめて大切なものである筈だ。


今回のノートPCは東芝製だが、付属のマニュアルやPCの初期画面はきわめて初心者向けに構成されている。初期画面にはパラちゃんという風船のようなキャラクターが動き回り、子供相手のような話し方で説明をする。しかし、初心者、特に年配の初心者にこそ重要だと思われるフォント、なめらかに表示できるアンチエイリアスに関する知識など、全く触れていないというのはどうしたことだろうか?付属しているインターネットエクスプローラにしてもそうだが、「パソコンで見るマニュアル」で表示されるのは小さくざらざらとした、初心者や特に年配者には不親切なフォントなのである。


年配者をターゲットにしている側面もあるアンドロイドなどのタブレットPCがフォントを重視しているように見えるのは、その意味で正しいと言える。

(その他の問題とまとめ)
基本的な問題としてノートPCに期待した根拠と言えば、2011/12/12の記事に書いた内容のとおりだが、特に次の箇所を、ここにもう一度引用したいと思う。
「一般に、物事を考えながら文字を書いたり入力したりする場合は、下を向くほうが集中できるのではないか。そして紙なり、画面なりから眼を解放する場合は顔を上げて遠くを見たりする。その方が自然なのではなかろうか。デスクトップのパソコン画面ではそれが逆になる場合が多いのである。
教師や学者が学生に講義する場合は、伝統的に黒板の類を使うものだが、自分自身の研究では机の上に本やノートをおいて作業をするのが普通であった。個人的な研究室や書斎に黒板などをおいて研究する研究者の話などはあまり聞かない。」

ここで言っていることの一つは、文字を読んだり書いたりする場合のように近距離の対象を注意してみる場合、人間の姿勢は下向きに近いのが自然であり、正面を見るのはある程度遠距離の場合が多いのが自然な状態ではないかということである。これが正しいとすると、せっかく入力作業用にノートPCを据えても、その向こうにさらに参照用のデスクトップディスプレイの画面があり、さらに右側にもマルチスクリーンのデスクトップディスプレイがあるのでは、あまり遠くに眼をやることもできないのではということになる。しかし、これは仕方のないことで、まだ真正面が巨大なディスプレイでふさがれているより、マルチスクリーンで分断されている方が救いがあるように思われる。仮に、三つのソフトによる三つの画面が必要な場合、巨大な画面にすべてが表示されるよりも、それぞれの画面が別々のディスプレイで表示される方が自然で眼にも良いのではないかと思う。


(スクロールの問題)
もう一つ、眼のために良くないと思われるPC画面の特徴に、これも文字の場合だけだが、縦のスクロールがある。PCでは殆どの場合横書きなのでスクロールは縦方向になるが、この横並びの文字列が上下方向にスクロールされる場合の視覚の混乱が視力と注意力の低下につながっている事は容易に推察できる。事実スクロール時の認視の混乱が原因で生じた読み間違いなど、きわめて重要なミスを犯したことがしばしばあるのは私だけだろうか。

この問題は縦書きを横にスクロールする場合にも生じる問題であろうと思われるが、しかし、伝統的に昔の巻物は横スクロールであった。これはネットでも調べてみるとわかるが、横書き文字の巻物でもそうだった。聖書の死海写本の写真などを見ても横スクロールになっている。まだよく考えていないけれども、どうもスクロールは横の方が自然な感じがする。もちろん横書きが主流の現在、縦のスクロールは避けることができないし、それに横スクロールが加わるとなおさら不便であることは当然である。


(眼によいサプリメントはあるだろうか)
数ヶ月前、置き薬のセールスマンに説得されてあまり聞いたことのないアミノ酸のサプリメントを購入してみた。運動能力を高めるというので、関係あるかどうかはわからないが、当時特に眼の事で悩んでいたこともあり、眼に何らかの効果があればもうけものと思ったのだが、短期間ではあったが効果がないものとしてそれは打ち切った。

現在のところ2,3年前から冷凍のブルーベリーを欠かさないようにし、ナッツ類とともにヨーグルトに混ぜて朝食代わりにしているが、まあ気休め程度だろう。

今回、スピルリナと、試しにコラーゲンを某所に注文して送られてきた。スピルリナはクロレラのような藻類で、錠剤に固めたものである。これは過去に一度利用していたことがあり、感触は良かった。一度その代替にクロレラを試したことがあったが、これは体質に合わず、消化できなくてもうこりごりである。スピルリナにはフィコシアニンという青い色素が多いというので、同じ青い色素で名前も似ている、ブルーベリーのアントシアニンと同じ効果があるのではと期待して調べてみたが、そういう記事は見つからなかった。しかしまあ栄養バランスということで、眼にも良いだろうという意味で、勧められる某所の宣伝に期待して購入した次第。コラーゲンも眼に悪いはずはないだろうとの期待である。


送られてきた箱の中にヒアルロン酸の効能を説明したビラが入っていた。それによると、眼の硝子体の形を保つために欠かせない物質とある。硝子体の形を保つと言うことは、アントシアニンの効果よりもむしろ当面の当方のニーズに合っているように思われる。改めてネットで調べてみると、ヒアルロン酸を主成分とするサプリメントの広告は多数あり、テレビなどで老化防止と美容の効果をうたって宣伝している某栄養剤もヒアルロン酸を主成分にしていることに始めて気がついた。これではなんとしてもヒアルロン酸を試してみる他はあるまい。何しろ眼の健康の問題は死活問題と言えるほど切実な問題なので。







水曜日, 2月 15, 2012

俳優と作家

俳優はもちろん、立派な職業である。ただあくまで職業であり、職業以上の立場になるケースは稀ではないかと思う昨今である。俳優という仕事はやはり創造的な芸術や文芸とは基本的に一線を画すということだろうかといったことを考えている。あくまでも基本的にということではあるけれども。

というのは、俳優の渡辺謙さんがダボス会議という、政治家や政治学者などが集うという世界会議でスピーチを行ったその内容が、盛んにマスコミや言論界で賞賛されているのをみて、個人的には相当強い違和感を持ったことから考え始めたことによる。

そのスピーチを簡単に読ませてもらったが、要するに日本の文化の特長であったとされる「絆」の大切さを説くことと、エネルギー政策として「再生エネルギー」への転換を主張したという二点である。これを件の国際会議で立派にスピーチしたということで、渡辺謙氏がマスコミやネットを含む言論界で賞賛を浴びているということのようだ。

内容を見ると、結局のところ、彼は一部の政治経済的勢力と一部世論の主張を代読したに過ぎず、職業俳優としての職責を立派に果たしたということ以上でも以下でもないように思える。

「絆」については、すでにマスコミなどで盛んに話題にされているような事柄を一つの短い文脈に手際よくまとめたに過ぎない。

もう一方の「再生エネルギー」については文字通り、一部の政治経済勢力の代読に過ぎないと考える。ご自身の頭から出てきたものではないだろう。そうであるとすれば、私に言わせれば不勉強である。不勉強でなければ自己欺瞞である。(少なくとも現時点での「再生エネルギー、自然エネルギー」の問題点と欺瞞とには、ネット検索で誰でも容易にアクセスできる。「再生可能エネルギー」という言葉のもつ問題については拙ブログhttp://imimemo.blogspot.com/にも書いています)


ここで思い出したのは先回このブログでも書いた、今年の芥川賞受賞作家の田中慎也氏の会見である。あのような、社会性という観点から見ればとんでもないと思われるような会見が成立したということを思うと、純文学という世界はやはり芸能界というか、俳優、タレントの世界(演劇という意味ではなく)とは一線を画した可能性を秘めていることが確認できたような気がする。

個人的に、現代文学にあまり興味をもつゆとりを持たないけれども、こういう世界はなくなって欲しくはないし存続して欲しいと思われるのである。訳のわからない前衛芸術にしてもそうだ。ただ蛇足ながら、最近はいやにエコロジー運動に媚びた芸術が幅を利かせているのが気になる。

芸術にしても文学、文芸にしてもやはりそこに新しさというか創造性とともにある程度以上のレベルで真実に迫るものを持たなければいけない。自己欺瞞を持たないことである。それは時に社会性とは両立しない場合もあり得る。


社会的に影響力を持つ人物の評価は様々な面から多面的に評価されるべきだと思うが、とりあえず今、次の三点で評価しても良いのではないかと思う。

ひとつ、社会性。
ひとつ、専門性、職業性。
ひとつ、文化人としての責任。(適当な言葉がみつからないので文化人としましたが、社会的な影響力に対しての責任とでもいう意味で)

最初の二点については今ここで改めて考える必要も必要はないと思う。3つ目の文化人としての評価について考えてみたい。

文化人としての重要な要件のひとつは自分の専門外あるいは確信を持って言える根拠を持たない事を無責任に主張しないことである。そうすることは不勉強であるか自己欺瞞を抱えることの何れかとなり、要するに不誠実を抱えることである。

この誠実さという点は一つ目の社会性の要件でもあろうと思うが、社会性を超えた高次の誠実さというものがここでは求められると思う。この点で、渡辺謙氏よりも田中慎也氏が高く評価されるべきと思う。


日曜日, 2月 05, 2012

ノートPC型のデスクトップPC(ディスプレイ)が欲しい

先回に書いたように、眼の健康と作業性から考えて現在のデスクトップ型PCよりも、解像度の高いノートPCが優れているように思い、今日、プリンタインクを買いに電気店に行った際、今買い換える予定は全くないが、ノートパソコンの売り場によって見ていたら、店員に話しかけられたので、少しこんな話をして聞いてみた。それによると、昨今、17インチを越えるノートPCになるともう、テレビチューナー付きの高級機種しかないそうだ。ビジネス向けというか、実用的なPCにはメーカーはあまり力を入れていないように見える。

もちろん、外国製を含めて探せばあるだろうが、日本の大きな電機メーカーの考え方はそんなところのようだ。思い返してみるとデスクトップPCも日本の大メーカーの製品は購入したことがない。値段が高かったせいである。かつてのワープロは東芝製だったが。PCの最初はIBM製、次に日本の秋葉原メーカーの格安品だったがファンの音が異常に大きかった。次は通販のデル製品。ディスプレイも追加を含め安価なデル製だったが画質はあまりよくない。その後、TVのデジタル化にあわせてテレビと音楽向けにエイサーのディスプレイとオンキョーのPCを購入した。このディスプレイは安かったが画質は良く、テレビにも向いている。ただ、PCの方はテレビを見るには少々力不足で、PCのスイッチを入れてからテレビを立ち上げるまでに5分くらいかかる上にエラーが頻発し、再起動させられることもしばしば。それでもテレビをつけながらネットを見ることもPC作業も一応はできる。

その後、最近になってやはりエイサーのタブレットを購入したことは先般の記事に書いたとおり。

このような次第で、日本の大メーカーは安価で実用的なPCはもうあまり生産する気がないように見受けられるので、期待できないかもしれないが、表記のような製品を切に望むものである。つまり、ノートPC型のパソコンないしディスプレイである。

単にノートパソコン型のキーボードとディスプレイが一緒になったものがあれば良いのである。それなら今のデスクトップPCにも接続できる。画面は17インチ位で解像度は高いほど良く、スマートフォン程度の精細さがあれば申し分ない。必要に応じてデスクトップのディスプレイを追加してマルチディスプレイにし、タブレットも必要に応じて追加すれば良い。

眼の健康と作業性には以上のような設定がもっとも望ましいように思われる。




































火曜日, 1月 31, 2012

芥川賞受賞作家、会見の反響に思う ― 職業論と性格論


現代小説を読む習慣がなかったというべきか、特に純文学と言われる分野はめったに読まないので長年、芥川賞にも直木賞にもあまり興味を持たず、また持たないようにしていた。そんな筆者がこの先の土日、今回の受賞者の一人(田中慎弥氏)の個性がマスコミで取り上げられているのを見た。具体的には受賞会見の一部の映像と、ニュースショーでのコメンテーターのコメントなどである。当然、会見の際の「不貞腐れた」態度や、賞を「もらっといてやる」と発言したことなどが話題になっていたが、そのTV番組のコメンテーターで特に非難する人はいなかった。また選考委員の一人であった石原都知事もそのことを非難することはなかったらしい。

私は芥川賞事体にあまり興味がなかったこともあってまあそんなものかな、と思い、それ以上考えることはなかったのだが、その後、たまたまネットで訪れたブログを見ると、ちょうどこの件が取り上げられていて、そのブログの筆者としてはかなり自然なことだと思うのだが、手厳しくその受賞者の無礼な態度はもちろん、その作品や人柄にいたるまで批判を加えていた。その批判は関連メディア関係者や日本の文学にまで及ぶ。彼本人への批判としては、甘ったれている、ふてくされている、社会性がない、発達障害ではないか、精神病院に入院治療すれば矯正される、自衛隊に入っても矯正されるだろう、等々というものである。

作品の評価や現代文学、日本の小説家全般の評価はともかく、このブログの筆者の個性から言えば当然と思われるし、またある一般的な、常識的な見方からもごく自然で当然とも言える意見である。

しかし尊敬すべきこのブログ筆者の意見を読むに及んで、私自身でももう少し突っ込んで考えてみようかと思い、考えてみたのである。しばらく考えた結果・・・・

とにもかくにも、当の受賞作家はかなり早い段階で作家になる決心をし、これまで迷わずにその道に励んできた結果、何回かノミネートされるまでになり、今回めでたく芥川賞を受賞するに至ったのである。それはそれで立派なことではないかと思う。

少なくとも局外者が「甘ったれるな」と言うのは当を得ていないのではないだろうか。

ある人が自ら選んだ自らの性にあった仕事を持つことができるということは、本人にとってより以上にむしろ社会にとって望ましいことであり、めでたいことなのである。これはその仕事が社会的にそれほど成功しなかった場合でもそう言えると思う。

就職難のこの時代、多くの人々が自分の性に合わない仕事、能力に合わない仕事を獲得すべく激しい競争をしている。

すでにある多くの仕事、中でもある程度社会的地位や、やりがいが満たされる仕事にはそれにふさわしい能力と社会性が求められることは当然であるが、残念ながらすでにある仕事、要するに企業の求人に対しては社会性も能力もある応募者が十分に沢山いて、そのなかで激しい競争をしている状態のように思われる。

そうした中でそのような真っ当と思われる職種に就く意欲を持てない人物が自分の性にあった職業を見出して成功したということは、それだけで本人の幸福にとってより以上に社会にとって喜ばしいことだといえる。


以上は彼の生き方の問題。他方、今回の受賞会見の件で彼の態度のことが非難されているのは確かに常識的に見ても当然のように思われる。しかし、現実に当のブログ作者のような非難が一般に沸き起こっているとは言えない。むしろ石原都知事のように「生意気でいいじゃないか」といった見方も多いようにみえる。そのこと事体がまた非難されるべき、また嘆かわしい社会風潮だということになるのだろう。

これは私が考えるに、二通りの可能性が考えられる。ひとつは本人の自制心の不足である。自分の感情を自制できずに礼儀にもとる発言をしてしまうということで、これはまさしく社会性のなさ、人間的な未熟さ、甘えには違いないが、他方、これは正直さの現れと見ることともできる。作家や芸術家にとっては自己に忠実であるという正直さが命であるとも言えるという考えから、こういうことは許されるものと見る人も結構多いのではないだろうか。

もう一つ可能性は、御本人は慣れない冗談を言ったつもりだったではないかということである。もちろん冗談は言って良い時と場所とがある。それを判断するのが社会性というものだろう。ただ結果的に、これは冗談のつもりが冗談として通ったということかも知れない。誰もが笑わなかったにしても。

正直なところ私はこの件ではなんとも言えない、というか、正当に評価できる自信がない。ただこれも局外者がそれほど怒ることでもないだろう。では怒るのではなく叱るべきか。本人のために忠言すべきか・・・。ただ、叱る場合は本人に伝わらなければ・・・。

以上、とりあえず考えた次第であるが、改めて考え始めると、この2つの問題は人生における大問題であることがわかる。二つの問題というのは、端的に二つの言葉によって二つに問題に整理するとすれば、職業選択の問題と人間の性格の問題と言える。広い意味で性格というのが適切だろう。そして、この職業選択の問題と性格の問題は確かに文学、特に近代小説の主要テーマの二つといっても良いのではないか。当然この御本人の仕事、課題そのものである。

とくに教養小説と呼ばれる種類の小説では職業選択の問題そのものではもちろんないが、職業選択の問題がかなりの比重を持って扱われる場合が多い。そうでなくとも多くの小説では多少とも職業選択の問題が絡んでいる。

一方の、人間の性格の問題は改めて言うまでもなく、近代小説のメーンテーマであり続けている。個人的に全く詳しくはないが、世界文学でも日本文学でもそれは同じだろう。世界の大文学と言われる嵐が丘にしてもカラマーゾフの兄弟にしても、人間の性格の問題が少なくとも重要な部分を占めていると言えると思う。


最初に述べたように、私自身は現代小説は殆ど読まない。人生のある時期から小説一般もあまり読まなくなった。それは、ひとつには、小説で人間の性格のことを考えさせられるのが嫌になってきたから、ということもあったような気がする。

そのかわり精神分析などを多少読むようになった。最初はフロイトの有名な2冊だけだったが、フロイトはそれらにとどまり、なぜかそれ以上は読めなかった。その後ユング関連は結構読んだが今だに積んどく状態のものもある。「心理学と錬金術」などは翻訳の初版を買い求めてよく内容も理解出来ないまま一応は通読はしたように思う。できれば読み直したいものだが、そのゆとりがない。ただ現代の世界的な精神分析学者と呼ばれる学者たちの本は難しそうで手が出ない。文化人類学なども同様。

しかし、性格の問題はすなわち心の問題であり、やはり、宗教的なものに行き着かざるを得ないのではないだろうか。宗教的なもの、というのは特定の宗教を信仰すべきであるとか、何らかの宗教を信仰すべきとかではなく、「宗教的なもの」、あるいは多くの宗教に共通するようなものという意味である。

簡単に言ってしまえば神秘的なもの、神秘主義、といえるかも知れないが、神秘主義といえば色々と専門的な定義があるようで問題であるとすれば、神秘思想とでも言えば良いのだろうか。こういう言葉を避けるのであれば科学を超えた問題、あるいは科学で扱えない問題に答える思想のことである。

心の問題は科学では、あるいは科学的なだけでは所詮限界がある。科学で、あるいは科学的に扱えるのは物質の問題だけである。当然本来の科学は自然科学そのものである。その意味で生物学は純粋な自然科学とは言えない。ちなみに生物学者ダーウィンは自然科学者の代表のような扱いを受けている。そして自然淘汰説はあたかも科学の勝利を示すものであるかのような扱いを受けている。どうもあまり純粋な科学ではないような気もするのだが。

「神秘思想」に戻って・・具体的に言えば心的なエネルギーとか精神でも物質でもあり、どちらとも言えないような存在、常人の感覚を超えたような存在、心と身体や物質との関係の問題。心身相関の問題、カルマの思想等々になるだろうか。


自然科学でも最終的には科学を超えたものに至る、あるいは科学を超えたところに譲るべき地点がある。

今のエコロジー思想ないし運動はそれがあまりにも安直で粗雑、妥協的、ご都合主義、見せかけ、誤解と欺瞞に満ちた形で進行しているように見えるのである。

少なくとも哲学は科学よりも上位にある。これは現在では大方の合意とでも言えると思う。
ところが、宗教、神秘思想となると、いろいろと混乱、誤解、が生じてくるのが現状なのだ。

(いつのまにやら途中でテーマが変わってしまったようです。このままさらに続けるとまた別の問題に移行してしまいそうなので、この辺りで切り上げることにします。いつもながら・・『あやしうこそものぐるほしけれ』)

月曜日, 1月 09, 2012

タブレットPCその後と今後のPCとの付き合い

(今回も前回に引き続きタブレットPCの使い勝っての報告のような形で、PCに関するあれこれを、特に視覚に関わる作業性にこだわってメモしておきたいと思います。)


これまでのところ、タブレットPCの入力にはまだまだ問題が多く、思うようにならない点が色いろあることは確かだ。困ったのはグーグルクロームでブロッガーの記事を入力中は、日本語を一文字づつしか確定入力できないことである。これは何なのだろう。同じクロームでもG-メールではそんなことにならなかったのだが。これはタブレット付属のsimejiという入力ソフトでもグーグルの日本語入力システムβでも同じである。ちなみにATOKの試用版はもう期限が切れたので確認しなかったが、多分同じことだろう。原因は入力システムの方ではなさそうだから。

ただ、このように使用中ソフトの影響を受けやすいのはやはりまだ問題が多いということだろうか。

さらにそれ以前の問題としてやはり10インチタブレットでも画面のキーボードはやはり小さくて縦にすると両手では無理である。片手で入力せざるを得ないが、片手で入力することはメリットでもある。筆記用具は片手で使うのが本来の姿である。手書き入力は試したことがないのでわからない。


こんな訳で、入力に関しては問題があるものの、画面の見やすさ、読みやすさは、今では断然タブレットPC、あるいはスマートフォンなどの携帯端末が優れていると思う。ノートパソコンでも同じくらいの解像度、この場合DPIの意味での解像度であれば断然従来のデスクトップPCディスプレイよりも優れている。これはフォントのデザインなども含めてそのように思う。ただ、この辺とところ、フォントの問題は専門知識がないのでよくわからないのだが。

ここに来て改めてデスクトップ型ディスプレイの問題が浮き彫りにされて来たように思う。
筆者は特に眼に対する負担の面と、文章や画像で作業をする場合ならイメージの発想に及ぼすディスプレイの影響の面でこの問題をいつも考えている。

これらの点で、前回も述べたように従来のデスクトップ型ディスプレイに比べてタブレットPCやノートパソコンの方が優れた点が多いことは少しづつ明らかになってきたのではないかと思う。

眼の疲労に関しては眼の医学的に色々言われているが、どうも決定的な原因が良くわからない。しかしよく言われる発光画面の明るさや反射、チラツキなどもさることながら、画質、解像度、この場合絶対的な画素数のことではなく大きさに対する画素数つまり精細さ、DPIの重要性、あるいはフォントの滑らかさ、美しさがさらにもっと重要なのではないかということだ。

またこれも前回に触れたが、姿勢の問題もある。

だいたい、近距離で文字を読んだり文章を作成したりする場合に正面を向くというのは不自然なのである。画像の場合は必ずしもそうではないかもしれないが。このことについてはまた別の場所で検討してみたい。


現在、筆者にとって理想の次世代のPC環境は次のようなものと考えている。

1.メイン機をノートパソコンにする。ノートパソコンと同じような位置で使用できるデスクトップがあればその方が望ましい。但し17~19インチ程度の大きさで横長。今よりも解像度が高く画素数も多いパネルとシステムが欲しい。できれば今の携帯やスマートフォンと同じくらいのDPIが欲しい。

2.メイン機にUSBで1台か二台のあまり大きくないデスクトップ型ディスプレイを接続してマルチディスプレイにする。これは上下位置を可能な限り広く調節できるものが望ましい。

3.タブレットPCや電子書籍型端末の必要な台数を追加する。


土曜日, 12月 31, 2011

タブレットPC用の辞書を購入してみた


(このとこころタブレットPCのことを書いていますので引き続いて書きます)

タブレット購入の目的は前回書いたとおりだが、電子書籍として利用したいj気持ちももちろんあった。もともと電子書籍だけが目的というわけではなかったのでグーグルや青空文庫のように無料で読める電子書籍が利用できるだけでも不満はなかったのだが、もちろん電子書籍を購入することも興味はあった。機種はAcerのアイコニアというもので、これにも電子書籍を購入できるサイトは組み込まれているが、日本のサイトではない。しかしガラパゴスストアにつらなるガラパゴスアプリがダウンロードできることがわかり、即ダウンロードしてみた。


という次第でアプリをダウンロードはしたが、実際にすぐに飛びついて書籍を購入するまでにはいたらなかった。やはり、いまのところ紙の本と同じくらいの価格なのでどうしてもそう気軽に購入する気にはなれない。あるいは雑誌、週刊誌など、購入する習慣がついてしまえばいくらでも無制限に購入してしまいそうになるという恐れもある。

そんなとき先日、はじめて辞書、研究者の「医学英語辞典」を購入してみた。別に医学の勉強をするわけでも医学の翻訳をするわけでもないのだが、医学に関わる分析装置や畜産関連の仕事が入ることもあり、また生物学など、他の専門分野の語彙も含まれていることもありで、購入を決心した次第。

購入したもう一つの大きな理由は、購入時点で来年、いまはもう今年の10日まで辞書の半額セールをやっていてその中にこの辞書も含まれていたからである。半額で実質3000円であった。内容は多少異なるかもしれないが紙の本では1万円以上するようだから、相当な割安感がある。

タブレットの機種はエイサー製でガラパゴスアプリの動作が保障されている製品ではなく不安だったが試し読みで一応は使えそうだったので、とりあえずこの一冊を購入してみたわけである。

いろいろ不安な点や問題点ももちろんある。例えば、シャープの専用端末では可能なパソコンへのバックアップができなかったり、動作にもかなり制限があるような気がする。しかし一応、すべての内容は表示されるので、まあ購入してよかったと思っている。

このアプリ自体にもいろいろ不満や気に入らないところもあるが、しかし、この辞書半額セールには1万円以上の高額な辞書もいくつか含まれているので、それらが欲しい人には魅力的だと思う。


宣伝する意図はないけれども、半額セールは1月10日まででもうすぐ終了するので、参考になる人もいるかもしれないと思い、急いで書いてみた次第。

2013/1/4 追記
同日付の新しい記事にも書きましたが、この辞書のタブレット版には問題があるように思います。内容的な問題には触れませんが、設計上の問題として普通のPC辞書のような検索方法ができないことがかなりの欠点と感じられます。検索がまったくできないわけでもありませんが、かなり面倒で、見出しは基本的にブラウズすることで見つけることになりますが、スライダーでのブラウズはかなり大まかで、正確に目的のページにブラウズすることは難しく、必然的に1ページづつ移動する必要が出てきます。そのこと自体に問題はないのですが、10インチ以上の大きな画面にわずか2,3行の1項目しか表示されないことに大きな問題があります。ですから1ページづつ移動することで、1項目づつしか移動できないことになります。したがって目的の項目に移動するまで際限なくクリックし続ける必要が出てきます。項目によっては詳しい説明で行数の多い項目もありますが、殆どが2行程度の項目です。とにかく10インチタブレットの、せっかくの広い表示面積が無駄になり、実に効率の悪い設計となっていると言えます。もしかしたら、タブレットの機種にも依存することかもしれませんが。



月曜日, 12月 12, 2011

タブレットPCの良いところ

10インチのタブレットPCを購入して一週間程が過ぎた。

まずPC作業の補助として、PDFの翻訳原文やOFFICE系ファイルなどをタブレットに表示させるという当面の目的では実際に使って見ることができ、これは正解だった。大画面のデスクトップ型ディスプレイやマルチスクリーンに並べて表示させるよりも、ずっと見やすく操作しやすいと思う。その理由はおもに次の2つだといえる。

1.画面の位置。机の上に本やノートのような状態に置くことができるということ。
2.画面の精細さ。デスクトップディスプレイに比べて、大きさの割に解像度が高いこと。

つぎに、パスワードを入力する程度の事以外は、タブレットで入力する作業は、しばらくできなかった。しばらくは日本語入力ができるかどうかも分からなかったし、第一メモ帳のようなアプリケーションがプリインストールされていなかったからである。

ただ、AcerのこのタブレットではGメールが既定のメールソフトになっていて、Gメールの下書きをパソコンと共用できるメモとして使用できるという、前回の記事で書いた野口先生のアイデアは使えそうで、せいぜい利用したいと思っている。

昨日になってやっと、最初から日本語入力システムが入っていることが分かり、使ってみたが使いづらく、ATOKの評価版をダウンロードせざるを得なかった。また無料のテキストエディタをダウンロードし、パソコン作業に使っている机ではなく、畳の部屋でテレビを前にしながらテキストの入力を試みた。

実際にはキーボードをUSBでつないでやってみたが、予想外に良い感じである。少なくともデスクトップPCでの作業に比べて、紙に手書きしている感覚に近いと思われる。多少ともクリエーティブな作業、自分の考えをまとめるような作業の場合にはこちらの方が良いような気がする。

なぜかと考えてみると、やはり、上述の1.や2.のような要素も大きいが、それに加えて次のような違いが考えられる。

3.入力する場所と画面が距離的に近いこと。

これも結構重要なことだと思うのである。
普通、パソコンを使うにはブラインドタッチを覚えることが前提とされる。通常のデスクトップのディスプレイで効率を上げるにはそうせざるを得ない。

ノートパソコンではキーボードとディスプレイがずっと近くなる。ただ個人的に、ノートパソコンは殆ど使ったことがなかったのでこれまで気がつかなかったのだろう。

もちろんノートパソコンでもタブレットでもブラインドタッチはできる方が良いに決まっているが、距離的に入力画面に近く共に目に入るのは好ましいことなのだと思う。マウスを使わずに指を目的に位置にもってくるということも同じ意味で好ましいことだといえる。

以上の中でも、紙や画面を机上に広げて、下を向いて書いたり入力したりするというのは最も重要なことではないだろうか。

一般に、物事を考えながら文字を書いたり入力したりする場合は、下を向くほうが集中できるのではないか。そして紙なり、画面なりから眼を解放する場合は顔を上げて遠くを見たりする。その方が自然なのではなかろうか。デスクトップのパソコン画面ではそれが逆になる場合が多いのである。

教師や学者が学生に講義する場合は、伝統的に黒板の類を使うものだが、自分自身の研究では机の上に本やノートをおいて作業をするのが普通であった。個人的な研究室や書斎に黒板などをおいて研究する研究者の話などはあまり聞かない。

以上のような次第で、タブレットPCには結構期待している。

★縦書きのテキストエディタが欲しい。
★産経新聞のandroid版と同じような仕様で、内容の優れた新聞を安い価格で読みたい。
(今ちょっと思い出した要望)