土曜日, 2月 17, 2007

マスコミ文化人の、言葉に対する態度に思う

今だに柳沢発言に対するマスコミ文化人の付和雷同振りに対して持ったいやな思いが消えない。インターネットで見る限りでは多くの意見がマスコミに対して、より批判的だったのが救いだった。

筑紫哲也氏はニュース23で(柳沢大臣等や政治家をふくめて)「言葉に対して鈍感になっている。」と言っていたが、逆にマスコミ文化人達が言葉に対して過敏になっているようも思える。

立花隆氏はニッケイBPのコラムで、安倍総理や彼の大臣に対して「言語能力が不足している」と言う意味の批判をしていた。安倍総理の「美しい国」と云うキャッチフレーズへの批判はわかるが、それを「言語能力の問題である」と捉えるのはちょっと解らない。

いずれにしても彼の大臣の発言を「『女性は子供を産む機械』発言」という短いフレーズで片付けてしまうことはフェアでないし、それこそ言葉に対して鈍感であるとも、不誠実であるとも言える。

村上龍氏のメールマガジンJMMでの発言が一番まともに思われる。比喩と現実とを区別出来ない「既成メディア」を大臣と同罪としていた。個人的にはマスコミのこの体質のほうがより問題だと思う。

この問題で地方選挙などで自民党が不利になったと言われているけれども、野党もこの様な問題にしがみついているのでなければもっと野党に有利になったかもしれないと云う可能性を考えてみる余裕もないのだろうか。

土曜日, 2月 03, 2007

「喩えること」、「見なすこと」、そして「思うこと」と「扱うこと」

柳沢大臣が女性を子供を産む機械に喩えたことで連日 、政治の場とマスコミが大騒ぎである。当然というか、予想通りというか、大多数は柳沢大臣を非難する声である。私は柳沢大臣の発言の問題の個所をニュースで一度聞いたが、それを聞いて、大臣が「女性は子供を産む機械である」と発言したとは受取れなかった。公平に判断すれば、大臣は女性を、子供を産む「機械」に「喩え」たのである。「喩えた」というのは比喩を使ったということであって、比喩というものは元来とんでもない表現になりうるものなのである。人を喩える場合に限っても、物知りをウォーキングディクショナリーといったりするように、物に喩えることは日常茶飯事である。辞書は命のない物であるけれども「歩く辞書だ」といわれると、多くの人は喜ぶであろう。良く引越しをする人は引っ越し魔、良くメモを取る人はメモ魔などと魔物に喩えられる場合もある。

人が機械や道具に喩えられるのは良くあることである。特に労働者を機械に喩えることは、女性を子供を生む機械に喩えることと近いものがあるかもしれない。資本主義と資本家を非難する立場の人が良く使う喩えで、資本家は労働者を機械と見なしている、道具扱いしている、といった表現はなじみのものである。しかしこの場合「喩え」を行っているのは資本家の方ではなく、避難する立場の人、つまり言葉で表現している側の人である。非難されている資本家の方はそのような表現、発言は何もしていないかもしれない。現実にある資本家が労働者を人間扱いしていないこともあるかもしれないし、道具としてしかみていないかもしれない。けれどもこういった表現自体、すべて比喩である。喩えている主体は発言者であって、非難されている側ではない。

「喩えること」と「見なすこと」との差異をはっきりさせることは難しい。しかし「喩えること」と「思うこと」、「扱うこと」との違いははっきりしている。労働者を機械に「喩える」ことと、機械だと「思うこと」あるいは機械のように「扱う」こととは全く別のことなのである。文字通り大臣が「女性を機械だ」と言ったとすれば大臣はそう思っていたと言わざるを得ない。しかし大臣は「女性を機械だ」と言ってはいなかったと思う。柳沢大臣は女性を機械に「喩えた」だけなのである。

実際に大臣が女性をどのように見てきたか、見なしてきたか、思ってきたか、接してきたか、それはまた別の問題である。それを論じるなら、発言の内容そのものをもっと取上げ、議論すべきだろう。その時の発言の中身、真の内容についてはマスコミでも政治の場でも殆ど取り上げられていないように見える。