日曜日, 11月 29, 2009

「坂の上の雲」について思うこと―前回に続けて

前回同様、この書物を過去に一度読んだままで、書棚にまだある本で目次だけでも確認したりすることもなく書いている。

記憶にある限り、この何分冊にも分かれた長編の可成りの部分、恐らく半分以上は日露戦争に関わる内容であったように記憶している。だから当然といってもいいが、この小説のテーマは日露戦争という相場になっているし、もちろんそれはそれでいいのだが、しかしこの作品から日露戦争に直接関わる時期の部分のみを取り出した場合、それはそれで興味深く読むことは可能だろうが、やはりそれでこの小説を読んだことにはならないだろう。すくなくとも私にはそういう読み方はできないだろう。

時間的には日露戦争に直接関わる時期よりも、小説の書き出しからその時期に至までの時間の方が当然、ずっと長い。そして私がこの小説から受けたインパクトの時間的な比率からいっても実際の現実の時間的比率に比例していると言える。要するに登場人物の年齢というか、登場人物達の過ごした時間に比例する割合に近い比率での印象、インパクトを受けていると言える。もう一度言い直せば、登場人物達の過ごした各時期の比重が実際の時間に比例しているとも言える。

確かにクライマックスは日露戦争の期間にある。しかし作品の中でそのクライマックスが半分以上を占めているというのは、クライマックスの概念には反するとまでは行かないが、例外的かも知れない。

そういう意味であくまでこの作品は個人、複数の、それぞれの個人を描いた小説であり、日本という国の明治の一時期、日露戦争の時期を含めた歴史はあくまで背景であり、各個人の外側にある環境としてして捉えられているように思われた。その環境自体は非常に重要であることは当然ながら。

すぐれた歴史小説はやはりそういうものでなければならないだろう。もちろんそこには多くの問題、矛盾が見いだされるであろうが。

今回のように映画やテレビドラマになる場合、したがって現実の時間に比例して描かれることが理想なのだと思われるが、しかし、それはまず無理だろう。しかし、そういう制作の仕方も考えられるのでは、と思う。具体的には、戦争に突入する段階でドラマを終える事である。あるいは戦争に突入する段階から後を省略し、最後に戦争の終結時点の描写を簡単に付け加えることである。今回のNHKドラマがどのようなものになるかはわからないが、そのような行き方もあるのではないか、と今になって思いついたので、めもしておいた次第だ。

日曜日, 11月 01, 2009

「坂の上の雲」と司馬作品について思うこと ― 一言で言えば栄養のある作品群だ

NHKの大型連続歴史ドラマとして公開される日が近づいたことで、書店の店頭には「坂の上の雲」に関わった幾つかの特集雑誌などがもう何ヶ月からもまえから次々と現れて絶えることがなく、定期の月刊誌や、その他マスコミ一般、またインターネットのブログでも取り上げられている頻度が高くなっているようだ。

確かに個人的にもこの作品の人気は理解出来るし、国民文学と呼ばれるに値すると思う。

私は過去に一度、この作品を読んだ。最近ではないが、新聞に連載された頃ではもちろんなく、また単行本が出版された頃でもなく、文庫本で、多くの部分は通勤電車の中で読んだように記憶している。もう一度読むのもいいが、ちょっと時間とゆとりがないのでちょっと無理だろう。他にも読みたいものは沢山あるので。

この作品を読むまで、司馬遼太郎の小説は殆ど読んでいなかったが、エッセーや対談等あるいはテレビ出演などは、読んだり、聞いたりしていて、著者の、いわゆる教養というか、見識とでもいうのか、そういうものには敬意をもっていたし、得るものがあると思っていたが、あまり小説作品は読もうと思わなかった。ひとつには歴史小説というジャンルがあまり好きではなかったこともある。純然たるフィクションでもなく、歴史記述でもないそういう中途半端なジャンルが好きではなかった。

しかし今思うことは、純然たる、純粋なフィクション、歴史背景の全くないフィクションなどもまたあり得ないということを思えば、そういう考えかたは偏狭でもあるのだろう。しかし、やはり歴史上の人物を実名で登場させながらフィクション性の強い歴史小説は今もあまり読みたいと思わない。

そういうところに、当時、「坂の上の雲」を読む気になった理由をはっきり記憶しているわけではないが、これがフィクション性を極力抑えた作品であるという事が、この作品を読み進めるためのひとつの力になったことは確実である。作品の最初の方で作者がそう書いているからだ。

この作品についての個人的な評価を一言で表せば、それは全体を通じて非常に多くの栄養分が含まれた作品だと言う事だ。歴史観、あるいは歴史的事実の正確さ、思想的な立場、視野の広さ、等々から色々批判している人も多いようだし、批判されるべき要素もあるかも知れない。ただ、実に豊かな栄養分を与えて、残してくれる作品であることは確かだと思う。具体的に言えば歴史的事実そのものを分かりやすく、興味深い文脈で修得出来ると言うことが最も大きい。もちろん歴史的事実だけではなく、背景や評価といったもっと踏み込んだ要素もあるし、さらにもっと踏み込んで時代の気分、各個人の気分や感慨といった伝記的な要素もある。そういう諸々はもちろん、間違っている場合は毒にもなる訳だが、毒よりも栄養になるような形で含まれているようには思えるのである。

栄養といってもいろいろある。アルコールのように、一時的に精神状態に、良くも悪くもある影響を及ぼすと同時に、熱となってすぐに消耗するものもあれば、脂肪や炭水化物のように持続的なエネルギー源になるものもあり、たんぱく質のように、アミノ酸に分解した後に、新たなたんぱく質に再構成されて身体を構成するような栄養分もある。そういう見方をすればたんぱく質が最も優れた栄養というわけになるわけだが、司馬作品はたしかにそういう優れた栄養分が多く含まれているといって良いのでは無いかと思う。

「坂の上の雲」を読んだ後もそれ以外の長編小説に相当する司馬作品はあまり読んでいないが、読んだものの中に「韃靼疾風録」と、「空海の風景」がある。(全く関係のない余談だが、この韃靼という漢字はATOKでは既定の変換では出てこなかったが、MSのほうではすぐに変換できたのは意外。)前者は完全なフィクションで、時代背景だけを歴史から借りたもののようであるのに対し、もう一方はフィクションよりは、むしろ伝記に近い。どちらかといえばフィクション性を抑えたものを読みたいと思っていたのだけれども、完全なフィクションである「韃靼疾風録」を読む気になったのは、歴史的に珍しい、というか、例えば三国志時代のようには、あまり知られていない時代背景に興味を持ったからだった。その意味でそれなりに得るものはあったと思うが、フィクションとしてそれほど面白いとも感動的であるとも思わなかった。読んで面白くなかったわけではないが。やはり、歴史に興味のある人が読む本であるには違いない。これはフィクションと歴史とがかなり明確に分離できる作品だと思われる。フィクションの歴史への嵌め込み方が巧みだとも言える。

一方の「空海の風景」は「坂の上の雲」に比べても、もっと後期の作品で、これは上巻の単行本が出た時点ですぐに購入して読んだが、下巻のほうはずっと後になって文庫本が出てから読んだ。フィクションではないので期待して読んだが、少し期待はずれだった。というのは時代背景や具体的な事実など、また著者の空海への傾倒ぶりなどはよく分かるのだが、肝心の空海の思想そのものについてはさっぱり近づくことができなかったということだ。もっともそれは実際に空海の著作を読んだり、仏教を勉強しなければわからないことなのだろうから仕方の無いことかも知れないが、しかしいまひとつ不満が残る作品であったことは確かだ。空海の思想そのものは最後まで完全なブラックボックスのままに残されていたような感じだった。ただし、その時代にとっての空海の位置というか、立場というものについては知識が得られるし、理解が深まるものであると思う。

まだ残されている著者の膨大な著作群のなかで、これから読みたいと思うものは、やはり、フィクション性の少ない小説ないしエッセーの類である。有名な「街道を行く」シリーズは、機会があれば全部でも読んで見たいが、既に読んだものは比較的後期のもので、とくに外国を扱った「オランダ紀行」とか「愛蘭土紀行」とかアメリカを扱ったものなどで、国内では「本郷界隈」など、いずれも明治時代と関わりの深い対象であったことに気づく。アイルランドはオランダ以上に、英独仏伊、スペイン、ギリシャのようには有名ではない国だったが、何年か前には日本でアイルランドブームといえる現象が起きた。いまでも続いているかもしれないが、当時アイルランド文化やケルト文化に関する本がかなりブームになったように記憶している。「愛蘭土紀行」が出版されたのはそれよりも少し前だったように記憶しているが、この本もアイルランドブームの到来に寄与していたのかもしれないと思われるし、そういう先見性というか、あるいはそれまで一般に関心がもたれていなかったものを掘り起こす眼力はさすがだと思う。著者が音楽に関する知識を欠いていたのは有名な話だが、今はアイルランドの伝統音楽やアイリッシュハープなども、小さなブームになっているようだ。そういうものの流行にも影響があったとすれば面白い話だと思う。

以上のような「栄養」としての価値の他にもちろん、歴史観とか、思想的な面での、あるいは美的、表現的な点での評価あるいは好悪という面では、また多少は別の印象がある。例えば人物の評価など、ちょっと一部の対象に対して厳しすぎると思うことや、偏りがあるのでは、と思われることもある。

例えば、最近読んでみたいと思っている作品に義経を扱った作品がある。この作品はまだ読んでいないが、エッセーやその他の機会に著者の義経に対する評価を読んだことがあるのだが、著者は義経を殆ど評価していないようである。この辺になんとなく、いわゆる勝者の論理とでも呼べるようなものを感じるのである。

というのは、あくまでも頼朝を中心にした見方でしか見ようとはしていないのではないかという印象がある。頼朝の部下として、頼朝の深謀遠慮とでもいうものを理解することができなかったし、仕えることができなかったという面だけで評価しているのではないかなという印象である。義経には義経の論理と構想があったのかもしれず、それが時代と環境にそぐわなかっただけ、という見方もできる筈だ。こういう問題を扱うことの難しさは、歴史物を扱う際には避けられないことかも知れないが。個人的に思うことだが、単に判官びいきという現象だけで後の義経人気を説明できないのではないかと思う。

余談になるが、一般的に頼朝の評価が高い理由のひとつに、あの有名な神護寺の肖像画の影響が無視できないのではないだろうか。あの有名な肖像画は実際には、どうやら頼朝ではないらしいが、いまだにこの肖像画が頼朝像として(たとえ信憑性について言及されることがあるにせよ)紹介されているのは、これを頼朝の肖像ではないとするにはあまりにも勿体ないと思う心理がはたらいているに違いない。(余談の、更に余談だが、「よりともの」と入力するとMSでは正しく返還できないのに対し、ATOKでは正しく「頼朝の」と返還される。先のダッタンの場合とは逆になった。MSでは「よりとも」で切らなければ正しく変換されない。まさしく一長一短だ。)

著者には他に膨大といってもいいほど作品があり、多くを読んでいないが、それでもやはり、最大傑作は「坂の上の雲」に間違いは無いだろうという確信が持てる。そう思わせるだけのものが、この作品にはあるように思われる。フィクションを極力押さえた小説形式という点で、画期的な作品でもあったといえるのではないだろうか。フィクションなしに小説を書くにはやはり、素材の選択とその組み合わせが重要だということになる。特定の個人に照準を合わせれば結局それは伝記ということになり、従来からあるジャンルで、歴史書の範疇に含まれるものかもしれない。しかし多くの個人の部分的な伝記を組み合わせ、一つの構想の下にまとめるのはやはり、小説というジャンルになるのだろうと思う。

著者の表題の巧みさには定評があるようだ。「坂の上の雲」というのは確かに詩的であり、含蓄のある美しいフレーズであると思う。ただ一般に言われているのとはちょっと異なった解釈を思いついたことがある。一般に「坂」といえばまず最初に坂道のことがイメージに浮かぶ。しかし坂といえば必ずしも坂道だけではなく、斜面一般をも意味している。当然、山や丘の斜面も坂である。あまり言われることが無いように思うのだが、「坂の上の雲」とは「丘の上の硝煙」という意味にもとれるのではないかと思ったことがある。もしかすると二重の意味が与えられているのかも知れないと思う。

最後に、文体に結構拒否反応を示す人がいるようだ。新聞記者のような文章だとか、鼻につくといった批評を見たことがある。たしかに癖のある文体で、必ずしも気持ちがよいとは言えないところがある。しかし、栄養があって美味しい食べ物は往々にして多少の臭みがあることも多い。文学に限らず、芸術一般に言えると思うが、優れている作品にも、もちろん優れていない作品にもありがちな臭みとか嫌味のようなものは我慢する他はない場合もあることは認めなければならないだろう。

金曜日, 3月 20, 2009

ミュージアムと中古CDショップ

今週の月曜、渋谷「bunkamuraザ・ミュージアム」でのピカソとクレー展を見に行った。
余計なことだが、ここの名前は、「bunkamura」がローマ字、「ザ・ミュージアム」がカタカナである。こういうのは書体と書式とを組み合わせてレイアウトを工夫すれば効果的かも知れないが、普通に文章の中に書き込むと、どうしても読みにくいし変だ。読みやすくするにはカッコでも付けるしかない。

時間帯が月曜日の午前だっとことも大いに関係しているとは思うが、観覧者はおそらく9割以上が女性だった。年齢はそれ程関係ない。年齢に関わらず女性ばかりだった。これは何なんだろうか。女性が特に絵画好きで、しかもピカソとクレーとが特に女性好みであるとはちょっと思えないからである。

そして一昨日、夕方だったが、お茶の水にあるクラシックの中古CD専門店に入ったところ、少なくとも10人は客がいたと思うが、ここは逆に中年以上の男ばかり。これは何なんだろうか。
血眼といえば言い過ぎだが、一心不乱に中古CDを引っ張り出しては戻しゴトゴト音を立てている。クラシックのCDだから殆ど英語であり、CDの背に書かれたタイトルはとても読めたものではないのである。こんな時はつくづくと日本語表記のメリットを思い知らされる。みんないい年だから眼が良い筈はないのである。クラシックでもコンサートの場合はこれほどではないのでは無いだろうか。私はめったにコンサートにはゆかないが、数少ない経験でも、テレビのコンサート中継などをみても、女性客は少なくないのでは無いかと思う。

もっとも、どちらも意外なことではない。昔からそういう傾向はあった。しかし、あまりにも極端だと思った。どちらもおそらく9割5分以上の差があったのでは無いだろうか。いろんな面で、とくに社会的な面で男女差が無くなってきつつある時代であるにも関わらず、あまりにも変わっていない。
ちょっと気になったので、これはどういうことなのかな、昨日、今日と、考えていたが、ひとつ気づいたことがある。ミュージアムもCDショップも、どちらも公共の場であって芸術鑑賞の機会を提供していることは違いないのだが、根本的な違いがひとつある。それはミュージアムの場合はその場所自体が鑑賞の場であるのに対し、CDの場合はそれを持ち帰って自宅で、しかも大抵はおそらく1人で鑑賞するであろうと思われることである。とすると、女性の場合は芸術鑑賞を目的に外出してきたのであるが、中年以上の男性の場合は芸術鑑賞を目的に自宅に帰るのである。
女性は年齢を問わず趣味の追求では外出志向であり、中年以上の男性は趣味の追求では自宅志向、言い換えれば孤独志向であるということは、少なくとも一面では言えるに違いない。このことでもっといろいろと議論ができそうだが、それはさておき、
クラシック音楽のプロではなく、愛好家にはやはり女性よりも男性のほうが多いこともやはり確かである。クラシック音楽の演奏家ではなく作曲家に女性が圧倒的に少ないことも、よく言われることだが、確かに関係があるように思われる。ただ、これはヨーロッパのクラシック音楽に限ってのことであって、音楽一般ということではもちろん無い。しかしある種の音楽では、やはり世界的に音楽は男の役割である。例えば、ひな人形の五人囃子が全員男であることのように。ただ鑑賞者、演奏家や研究者などのプロではなく、普通の鑑賞者に男の方が多いのはやはりクラシック音楽の特徴ではないかと思えるのだが、どうなんだろうか。

日曜日, 2月 08, 2009

ユーザーの正当なニーズ

最近立て続けに、安い物ばかりだがオーディオ製品を幾つか買った。CDプレーヤーとPC用のアクティブスピーカーとの2つがオンキョー製、それとUSBオーディオインターフェースがローランド製、あと1つがソニーのラジオつき携帯カセットプレーヤーで、これはウォークマンとは呼ばれていない。ウォークマンと呼ぶには少しかさばるし、実用本位というか、コスト本位のデザインで材質も高級感が全く無く、もしかすると部品の在庫処理の目的で作っているのではないかとも思える。

何れもカカクコムやアマゾンの口コミ情報を参考にして購入した。カカクコムの口コミ情報を読んでいると面白く、つい予定外に時間を費やしてしまう。アンプやスピーカーやCDプレーヤーなどのユーザーレビューや口コミ情報をみて気づくことはオンキョー製品の評判が高く、口コミ情報も活発であることに気づく。一方オーディオ誌やたとえば「レコード芸術」など雑誌は自分で買うことはまず無いものの、よく立ち読みや何かの機会で入手したりして見る機会があるが、オンキョー製品は無視されていたり、他社よりも軽く扱われていたりすることが多いことも気づいていた。

古い話になるが私が最初にオーディオ器機を買ったとき、アンプとチューナーはオンキヨー製で、スピーカーはデンオン製品だった。初めはその音に満足していたが、だんだんと音の癖が気になりだしてきた。低音に何かゴムまりが弾むような変な弾みがあり、中高音は黄色っぽい色がついているような感じだった。アンプとスピーカーのどちらに原因があるのかが分からないでいたが、その後数年経ってから、もう一組の小さなフルレンジのスピーカーセットをつないだ時になって初めてそれがスピーカーの癖であったことが分かった。どちらかというとアンプの方を疑っていたのだが間違っていた。デンオン製のそのスピーカーはオーディオ雑誌でクラシックの室内楽向きなどと書かれていたものだが、そういうのはあまり宛にならない物だと言うことがよく分かった。もう一つのスピーカーで聴く限り、そのアンプの音は癖がなく自然であった。ただボリュームなどが割とはやくから劣化したような気がしたが、その辺の劣化は次にかった別のメーカーのものも同じようなものだったのでそういった部分は何処でもそんなものかなと思っている。

最近のカカクコムの書き込みを見てもオンキョーのアンプやスピーカーはクセが無く自然でしまった音がするという意見が多い。それといわゆるコストパフォーマンスが高いということ。またオンキョーは広告費を使わないからオーディオ誌の評価が低いのだといった、本当かどうかは知らないが、その種の業界通のような書き込みも結構ある。たぶん本当にそういう事がありそうだと思わせる。逆に批判というより、けなすような書き込みもある。ただそちらの方はその表現から推量するに、意図的で作為的な悪意さえ感じられるようなものがある。そういう書き込み投稿者同士の口論のようなものを読むのも結構おもしろものだが、やはり作為的な書き込みは分かるものである。

最近はオンキョーはパソコン関連の音響機材や部品に力を入れてきており、パソコンメーカーのソーテックを子会社にしたことなどが話題になっている。ソーテックブランドで音楽向けの静音で低価格のパソコンを出したりしているがおおむねユーザーの評判はインターネットで見る限り好意的なものが多い。そういうパソコンのブランドをオンキョーにすれば良いのに、何故ソーテックという印象の悪いブランドを使うのか、といった意見が多い。その種のパソコンや機材、部品の評価も書き込みやユーザーのブログでは高いし、ユーザーでなくPC関係のニュースサイトの記事でも評価は高く、高級オーディオ誌やレコード誌が無視したり避けたりしているのとは対照的である。

正直言って私もオンキョーはユーザーの正当なニーズに対して誠実に対応して製品開発や経営をしていると思う。ユーザーのニーズにも必ず正当とは言えないもの、バブル的なもの、ユーザー自身にとって欺瞞的なニーズとか勝手すぎるようなニーズもあると思うのだが正当なニーズももちろんある。安くて品質の良いものが欲しいというのは勝手ではあるが、しかし正当な当然過ぎるほどのニーズである。とくに財政的に豊ではない大多数の人にとっては正当なニーズである。クセのない自然な音というのも多くの人にとって正当なニーズである。またパソコンで原理的に手軽に高音質の再生ができるのであれば何かと便利であり、正当なニーズになる筈のものである。こういうユーザーの正当で自然なニーズに真剣に応えてきたことが、オンキョーがオーディを不況の中でも敗退することなく、現在も業界内でユーザーから高い支持を得ている理由だろうと思う。もちろんそれだけではなくいわゆる経営戦略もあったのだろうが。

今は、企業間では何かというと生き残りのためにはトップに立たなければならないようなことが言われ、勝ち組か負け組かの2つに1つというようなことばかりが言われる。そのために何が何でも業界トップに立たなければならず、会社を大きくしてゆかなければ敗退するようなことも強迫観念のように言われることもある。しかしそんなことばかりを考えていればユーザーの正当なニーズに対応することが二の次になってしまうこともあるだろう。そして何処もが一位になろうとし、何処もが無理にでも大きくなろうとし、何処もが肥大化し、結局業界全体が過剰供給になってしまう。自動車業界など特にそのように見えてしまう。トヨタの場合、ユーザーの正当なニーズに真剣に応えてきたからこそトップになれたのかも知れない。しかしそれはそれだけにとどめておくことはできなかったのだろうか。そこからシェア争いで他社と闘い、勝つために規模を拡大し、肥大化する必要はなかったのではないだろうか。あるいは競争だから仕方が無かったのだろうか。

ソニーも最近大量リストラで話題になったが、ソニーがこのように巨大企業になったことも今から眺めてみるとバブル的な面があったような気がする。だいたいソニーの製品というのはもともと音響と映像器機に限られていた。あとになってからPCやゲーム機、またカメラなどに参入するようになったが、ついにモーターとか電球とか、多の総合電機メーカーのやっているようなことはやりそうにもない。今更そういう方面に参入しても仕方がないと思うが、しかし世界的に巨大な電機メーカーというのは大抵総合電機メーカーでモーターから、産業機械から、何でもやっている。フィリップスなどもそうだと思うが。べつにそのような総合電機メーカーになる必要もないが、そうであればそれなりの会社の適正な規模というものが有り、大きくなることをむしろ押さえながら成長してきても良かったのではないだろうかと思えてくる。大きくなり過ぎてからリストラするよりはよほどいい。

オンキヨーの場合、現在のようにオーディオ誌や評論家などから軽く扱われるような状況に甘んじているのはむしろ良いことで、もしかすると意図的であるのかも知れないとも思ったりする。大量の宣伝費をつぎ込んで業界トップを目指すというような過剰な努力をしなかったからこそオーディオの不況も乗り切ってこれたのかもしれないと思う。業種や会社の性格、あるいは時代の環境にもよるが、会社を大きくすることとか他社に勝つことを考えずにユーザーの正当なニーズに応えることと製品の品質向上を第一にかんがえるような気風が広がることが大切なことのように思える。

とはいえ現実はそうもゆかないだろうなと思う。


さて、最初に書いたようにオーディを製品は次の様なもので、その結果をまとめると次のようになる。
PC用のアクティブスピーカーは、GX-D90という品番。初めてこれの音を出したとき、小さなスピーカーから大量の低温が出るのに驚いた。ピアノなど、この低音で結構リアルな響きが得られる。小音量で聞くとき、あるいは静かな低音の場合オーケストラ曲の低音も聞ける。しかしある程度音量を上げるとやはりこの低音は可成り不自然で無理なところがある。何しろすぐ目の前で両スピーカーの、1M以内の間に広がる低音だから、高音のソロ楽器とのバランスがどうにも不自然だ。この大きさと値段ではしかたのないことだろう。スーパーウーファーを使える仕様になっているのもそのためかも知れない。低音を両スピーカーの間から外の空間に出せば、多少音量を上げてもバランスが取れるのかも知れない。しかしピアノではこのままの低音でそんなに不自然でもない。このスピーカーは全体にピアノに向いているところがある。しかしオーケストラの低音でもシューベルトのロザムンデ間奏曲(第三)のように静かでふんわりとした低音の場合はそんなに不自然でもなく気持ちよく聞ける。いずれにしろ小音量向きであることは確かで在る。

ローランド製USBオーディオインターフェース、UA-1EX ももちろん安い製品で、他と比較していないからその点はよく分からないが、オンボードの時より音が良くなったことは間違いない。オンボードでもノイズが特に耳につくようなことはなかったが、何となく音が汚れて、濁っていたようなところがあった。それが可成り取れたようだ。PCはデルのビジネスモデルだが、音は可成り静かで、机の下に置いている。以前はソフマップ製の牛丼パソコンというのを使っていたが、ファンの音は安物の扇風機並みで、それはひどかった。

CDプレヤーは、これもオンキョーの低価格製品でC-705FX。これは、今はPCではなく以前のアンプとスピーカーで使っている。以前のCDプレーヤーが壊れてから久しくCDは聞いていなかったが、以前の音と比較できるくらいには音を覚えているCDはある。アンプは特に劣化しているが、それでも以前と比較して合唱曲など、以前のCDで聞き分けられなかったパートなども聞こえるようになったから、これもなかなか性能は良いのだろうと思う。とくに合唱曲の男声パートなど、よく聞こえるようになった。

ソニーのラジオカセットプレーヤーはWM-FX202という製品で、冒頭に書いたように、ウォークマンタイプだが、ウォークマンとしては売っていない。カセットデッキのパーツの在庫処理が目的ではないだろうかと思える。デッキの品質は、回転むらが全く感じられず、良いものだと思う。ラジオはコンクリート五階の室内では殆ど入らない。カセットデッキも従来のものが壊れて久しく聞いていなかったのだが、過去の録音をPCに保存しようと思ってこれを購入した。しかし、残念な事に、ドルビーシステムがついていない。過去の録音の多くはドルビーシステムを使っていただけに、これだけが残念だ。

比較に使ったCDの主なものは次のようなもの。
◆シューベルト、ロザムンデ全曲、クルト・マズア指揮、フィリップス。これはCD1枚すべてがロザムンデの音楽で、エリー・アメリングの歌や、混声合唱、男声合唱なども入り、未完成交響曲の最終楽章になる筈だったという説もある間奏曲なども入っている。大切にしているCDの1枚。
◆ブラームス、(無伴奏)合唱名曲選、「マリアの歌他」、ミシェル・コルボ指揮、エラート。
◆ブラームス、合唱曲集、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮、フィリップス。これは2台ピアノ伴奏の「愛の歌」とか、ハープとホルンの伴奏による4っつの女声合唱曲などが入っている。ハープとホルンの伴奏は本当に心にしみ通るような音で、この曲でしか聞けない組合せである。