日曜日, 11月 01, 2009

「坂の上の雲」と司馬作品について思うこと ― 一言で言えば栄養のある作品群だ

NHKの大型連続歴史ドラマとして公開される日が近づいたことで、書店の店頭には「坂の上の雲」に関わった幾つかの特集雑誌などがもう何ヶ月からもまえから次々と現れて絶えることがなく、定期の月刊誌や、その他マスコミ一般、またインターネットのブログでも取り上げられている頻度が高くなっているようだ。

確かに個人的にもこの作品の人気は理解出来るし、国民文学と呼ばれるに値すると思う。

私は過去に一度、この作品を読んだ。最近ではないが、新聞に連載された頃ではもちろんなく、また単行本が出版された頃でもなく、文庫本で、多くの部分は通勤電車の中で読んだように記憶している。もう一度読むのもいいが、ちょっと時間とゆとりがないのでちょっと無理だろう。他にも読みたいものは沢山あるので。

この作品を読むまで、司馬遼太郎の小説は殆ど読んでいなかったが、エッセーや対談等あるいはテレビ出演などは、読んだり、聞いたりしていて、著者の、いわゆる教養というか、見識とでもいうのか、そういうものには敬意をもっていたし、得るものがあると思っていたが、あまり小説作品は読もうと思わなかった。ひとつには歴史小説というジャンルがあまり好きではなかったこともある。純然たるフィクションでもなく、歴史記述でもないそういう中途半端なジャンルが好きではなかった。

しかし今思うことは、純然たる、純粋なフィクション、歴史背景の全くないフィクションなどもまたあり得ないということを思えば、そういう考えかたは偏狭でもあるのだろう。しかし、やはり歴史上の人物を実名で登場させながらフィクション性の強い歴史小説は今もあまり読みたいと思わない。

そういうところに、当時、「坂の上の雲」を読む気になった理由をはっきり記憶しているわけではないが、これがフィクション性を極力抑えた作品であるという事が、この作品を読み進めるためのひとつの力になったことは確実である。作品の最初の方で作者がそう書いているからだ。

この作品についての個人的な評価を一言で表せば、それは全体を通じて非常に多くの栄養分が含まれた作品だと言う事だ。歴史観、あるいは歴史的事実の正確さ、思想的な立場、視野の広さ、等々から色々批判している人も多いようだし、批判されるべき要素もあるかも知れない。ただ、実に豊かな栄養分を与えて、残してくれる作品であることは確かだと思う。具体的に言えば歴史的事実そのものを分かりやすく、興味深い文脈で修得出来ると言うことが最も大きい。もちろん歴史的事実だけではなく、背景や評価といったもっと踏み込んだ要素もあるし、さらにもっと踏み込んで時代の気分、各個人の気分や感慨といった伝記的な要素もある。そういう諸々はもちろん、間違っている場合は毒にもなる訳だが、毒よりも栄養になるような形で含まれているようには思えるのである。

栄養といってもいろいろある。アルコールのように、一時的に精神状態に、良くも悪くもある影響を及ぼすと同時に、熱となってすぐに消耗するものもあれば、脂肪や炭水化物のように持続的なエネルギー源になるものもあり、たんぱく質のように、アミノ酸に分解した後に、新たなたんぱく質に再構成されて身体を構成するような栄養分もある。そういう見方をすればたんぱく質が最も優れた栄養というわけになるわけだが、司馬作品はたしかにそういう優れた栄養分が多く含まれているといって良いのでは無いかと思う。

「坂の上の雲」を読んだ後もそれ以外の長編小説に相当する司馬作品はあまり読んでいないが、読んだものの中に「韃靼疾風録」と、「空海の風景」がある。(全く関係のない余談だが、この韃靼という漢字はATOKでは既定の変換では出てこなかったが、MSのほうではすぐに変換できたのは意外。)前者は完全なフィクションで、時代背景だけを歴史から借りたもののようであるのに対し、もう一方はフィクションよりは、むしろ伝記に近い。どちらかといえばフィクション性を抑えたものを読みたいと思っていたのだけれども、完全なフィクションである「韃靼疾風録」を読む気になったのは、歴史的に珍しい、というか、例えば三国志時代のようには、あまり知られていない時代背景に興味を持ったからだった。その意味でそれなりに得るものはあったと思うが、フィクションとしてそれほど面白いとも感動的であるとも思わなかった。読んで面白くなかったわけではないが。やはり、歴史に興味のある人が読む本であるには違いない。これはフィクションと歴史とがかなり明確に分離できる作品だと思われる。フィクションの歴史への嵌め込み方が巧みだとも言える。

一方の「空海の風景」は「坂の上の雲」に比べても、もっと後期の作品で、これは上巻の単行本が出た時点ですぐに購入して読んだが、下巻のほうはずっと後になって文庫本が出てから読んだ。フィクションではないので期待して読んだが、少し期待はずれだった。というのは時代背景や具体的な事実など、また著者の空海への傾倒ぶりなどはよく分かるのだが、肝心の空海の思想そのものについてはさっぱり近づくことができなかったということだ。もっともそれは実際に空海の著作を読んだり、仏教を勉強しなければわからないことなのだろうから仕方の無いことかも知れないが、しかしいまひとつ不満が残る作品であったことは確かだ。空海の思想そのものは最後まで完全なブラックボックスのままに残されていたような感じだった。ただし、その時代にとっての空海の位置というか、立場というものについては知識が得られるし、理解が深まるものであると思う。

まだ残されている著者の膨大な著作群のなかで、これから読みたいと思うものは、やはり、フィクション性の少ない小説ないしエッセーの類である。有名な「街道を行く」シリーズは、機会があれば全部でも読んで見たいが、既に読んだものは比較的後期のもので、とくに外国を扱った「オランダ紀行」とか「愛蘭土紀行」とかアメリカを扱ったものなどで、国内では「本郷界隈」など、いずれも明治時代と関わりの深い対象であったことに気づく。アイルランドはオランダ以上に、英独仏伊、スペイン、ギリシャのようには有名ではない国だったが、何年か前には日本でアイルランドブームといえる現象が起きた。いまでも続いているかもしれないが、当時アイルランド文化やケルト文化に関する本がかなりブームになったように記憶している。「愛蘭土紀行」が出版されたのはそれよりも少し前だったように記憶しているが、この本もアイルランドブームの到来に寄与していたのかもしれないと思われるし、そういう先見性というか、あるいはそれまで一般に関心がもたれていなかったものを掘り起こす眼力はさすがだと思う。著者が音楽に関する知識を欠いていたのは有名な話だが、今はアイルランドの伝統音楽やアイリッシュハープなども、小さなブームになっているようだ。そういうものの流行にも影響があったとすれば面白い話だと思う。

以上のような「栄養」としての価値の他にもちろん、歴史観とか、思想的な面での、あるいは美的、表現的な点での評価あるいは好悪という面では、また多少は別の印象がある。例えば人物の評価など、ちょっと一部の対象に対して厳しすぎると思うことや、偏りがあるのでは、と思われることもある。

例えば、最近読んでみたいと思っている作品に義経を扱った作品がある。この作品はまだ読んでいないが、エッセーやその他の機会に著者の義経に対する評価を読んだことがあるのだが、著者は義経を殆ど評価していないようである。この辺になんとなく、いわゆる勝者の論理とでも呼べるようなものを感じるのである。

というのは、あくまでも頼朝を中心にした見方でしか見ようとはしていないのではないかという印象がある。頼朝の部下として、頼朝の深謀遠慮とでもいうものを理解することができなかったし、仕えることができなかったという面だけで評価しているのではないかなという印象である。義経には義経の論理と構想があったのかもしれず、それが時代と環境にそぐわなかっただけ、という見方もできる筈だ。こういう問題を扱うことの難しさは、歴史物を扱う際には避けられないことかも知れないが。個人的に思うことだが、単に判官びいきという現象だけで後の義経人気を説明できないのではないかと思う。

余談になるが、一般的に頼朝の評価が高い理由のひとつに、あの有名な神護寺の肖像画の影響が無視できないのではないだろうか。あの有名な肖像画は実際には、どうやら頼朝ではないらしいが、いまだにこの肖像画が頼朝像として(たとえ信憑性について言及されることがあるにせよ)紹介されているのは、これを頼朝の肖像ではないとするにはあまりにも勿体ないと思う心理がはたらいているに違いない。(余談の、更に余談だが、「よりともの」と入力するとMSでは正しく返還できないのに対し、ATOKでは正しく「頼朝の」と返還される。先のダッタンの場合とは逆になった。MSでは「よりとも」で切らなければ正しく変換されない。まさしく一長一短だ。)

著者には他に膨大といってもいいほど作品があり、多くを読んでいないが、それでもやはり、最大傑作は「坂の上の雲」に間違いは無いだろうという確信が持てる。そう思わせるだけのものが、この作品にはあるように思われる。フィクションを極力押さえた小説形式という点で、画期的な作品でもあったといえるのではないだろうか。フィクションなしに小説を書くにはやはり、素材の選択とその組み合わせが重要だということになる。特定の個人に照準を合わせれば結局それは伝記ということになり、従来からあるジャンルで、歴史書の範疇に含まれるものかもしれない。しかし多くの個人の部分的な伝記を組み合わせ、一つの構想の下にまとめるのはやはり、小説というジャンルになるのだろうと思う。

著者の表題の巧みさには定評があるようだ。「坂の上の雲」というのは確かに詩的であり、含蓄のある美しいフレーズであると思う。ただ一般に言われているのとはちょっと異なった解釈を思いついたことがある。一般に「坂」といえばまず最初に坂道のことがイメージに浮かぶ。しかし坂といえば必ずしも坂道だけではなく、斜面一般をも意味している。当然、山や丘の斜面も坂である。あまり言われることが無いように思うのだが、「坂の上の雲」とは「丘の上の硝煙」という意味にもとれるのではないかと思ったことがある。もしかすると二重の意味が与えられているのかも知れないと思う。

最後に、文体に結構拒否反応を示す人がいるようだ。新聞記者のような文章だとか、鼻につくといった批評を見たことがある。たしかに癖のある文体で、必ずしも気持ちがよいとは言えないところがある。しかし、栄養があって美味しい食べ物は往々にして多少の臭みがあることも多い。文学に限らず、芸術一般に言えると思うが、優れている作品にも、もちろん優れていない作品にもありがちな臭みとか嫌味のようなものは我慢する他はない場合もあることは認めなければならないだろう。

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