土曜日, 1月 02, 2010

クラリネットはガラス工芸、ヴィオラは陶磁器

最近、名ビオラ奏者と言われるバシュメットという人の演奏するブラームスのヴィオラソナタ、つまりヴィオラとピアノによる二重奏ソナタ2曲とチェロが加わったビオラ三重奏曲の入った中古CDを買った。

ブラームスのこれらのソナタ集、すなわちクラリネット(ビオラ)とピアノによる二重奏ソナタ集の録音を買ったのは3度目になる。私は同じ曲のレコードを何枚も、何通りも購入するような音楽マニアでもなく、時間的にも経済的にも余裕のあるを送ってきたわけでもないが、なぜかこの曲に関しては、3回、時をおいて買っている。

最初はもうかなり以前というよりも昔、当時すでに過去の名盤の廉価版と言う形で、古いモノラル録音によるLPレコードで、演奏者はウラッハというクラリネット奏者と、ピアニストはもっと有名なイェールク・デムスだった。解説によるとウラッハはウィーンの伝統を体現した最高のクラリネット奏者であるとのことだった。

当時このレコードを何度か聞いてこの二曲が好きになった。しかし、古いモノラル録音のため、音の鮮度というものが物足りなく、特にクラリネットなど、音色に魅力がある楽器であるだけに、不満があった。それから幾年月かが過ぎ、今度はCDの時代になってからライスターというドイツの有名なクラリネット奏者の演奏で、これらブラームスのクラリネットソナタ集の録音を買った。

再生装置は少しも高級なものでは無かったが、やはり、新しいステレオ録音のCDは、以前のモノラル録音LPの音の不満を解消してくれた。演奏は、どちらが優れているかというような評価を下す能力は私には無いが、少なくとも演奏に不満を感じることも無かった。たとえばフランス人の名クラリネット奏者と言われるランスロの演奏するブラームスのクラリネット五重奏曲で感じたような演奏上の不満は無かった。

このCDであらためて感銘をうけたのは、クラリネット自体の音色の美しさもさることながら、クラリネットとピアノの組み合わせが持つ音色の豪華さであった。クラリネットとピアノの組み合わせはこの曲以外に聴いたことが無いが、この曲を聞いて実に豪華な音色がするものだと思った。豪華といっても極彩色という感じでもなく、黄金色に輝くような感じでもなく、なにに例えればよいかというと、無色で大粒のダイヤモンドのような豪華さなのだ。透明感とボリューム感とを備えた、やはりブリリアントという言葉がふさわしい豪華さである。

この二曲はどの解説でもブラームス晩年の枯淡な境地を表現したものだと解説されている。確かにメロディーは、そして個々の表現そのものはそういう枯淡なものかもしれない。しかし音色、楽器というよりも楽曲の音色は本当にブリリアントで豪華に感じられたのである。

このCDはある理由で過去に手放してしまい、今は無いので、またこの曲を聴きたいと思っても、古いLPは今聞ける状態で無く、今度上記のヴィオラ演奏による中古CDをネットで購入した次第。このCDが出たころ、何か新聞か、雑誌の立ち読みかで、賞賛記事を見た記憶があった。当時は即購入して再生装置で楽しむような状況ではなかったが、最近ヴィオラが流行というか復興しているとかいう機運もあるそうで、確かにヴィオラでこの曲を聴くのもよさそうだという思いもあって、ネットで中古を見つけて購入した。はっきり記憶しているわけではないが、ラジオでヴィオラによる演奏を一度聞いていたかもしれない。

このバシュメットの演奏を何度か聴いてまず思ったことは、クラリネットによるこれまで聴いていたこの枯淡といわれる曲の印象に比べて情熱的な面が表面に出てきているような気がした。演奏家の表現による部分もあるだろうが、やはり、楽器の特性にもよるのではないかと思う。ヴィオラの演奏は何か筋肉質とでも言った感じがする。考えてみれば、こういう弦楽器は全身の、特に腕と手の筋肉を使って演奏するものだ。それに対してクラリネットなどの管楽器は呼吸器という内蔵あるいは横隔膜を使って音を出す。そういう違いが音の表情にも表れてくるのかもしれない。

他にやはり、この曲は本来クラリネットのために書かれた曲だなと思わせるところが多くある。特に装飾的な箇所と弱音箇所がそうだ。クラリネットでは弱音の箇所では、空気に溶け込むような感じなのに対して、弦楽器のヴィオラでは弱音の箇所も輪郭がくっきりとしている。これは振動する共鳴体のもつ表情によるものだろうと思われる。ヴィオラでは強靭で細い絃が振動し、これもまた薄くて強靭な木の箱が共鳴する。それに対してクラリネットの場合は振動版と空気の柱とが共鳴するが、空気の柱には周囲の空気との、はっきりした境界がない。

そういう、周囲の空間に溶け込むような音色が、枯淡といわれるこの曲に向いているのかもしれないが、その一方、腕と指で正確に繊細な動きを細く強靭な弦に伝える弦楽器であるヴィオラの場合には別の意味で繊細、微妙な、しかもくっきりとした表情が付けられているようにも思われる。


以上のようなクラリネットとヴィオラの表情の特徴を簡潔な比ゆで表すとすれば、クラリネットはガラス工芸、ヴィオラは陶磁器といえばよいのではないかと思う。ただ、面白いことにこの比ゆは木管楽器全般と弦楽器、それも擦弦楽器全般に及ぼすことが必ずしも適当とはいえないと思われることだ。

ヴィオラが陶磁器であるとしても、ヴァイオリンとチェロも陶磁器的とは必ずしもいえない。同様に、フルートやオーボエ、ファゴットなどもガラス工芸的とは必ずしもいえない。チェロが人声に近いというのはよく言われることだが、これは同じ音声同士の比較だからあまり面白くない。いっそ、ヴィオラを磁器に、チェロを陶器に例えることはできるかもしれない。そうするとヴァイオリンは何になるだろう。ヴァイオリンになると、そういう工芸的なものというより、絵画になるとでもいえるかもしれない。

面白いもので、ヴァイオリン族の楽器は何れも独奏やピアノとの合奏、弦楽合奏、弦楽四重奏などの室内楽では随分と印象の異なった音になる。独奏も弦楽合奏も非常に派手で、華やかな音になるのに比べて弦楽四重奏では地味な音になるということは面白い現象だと、前から思っていた。編成によって全く異なった表情をもつようになるものなのだ。

こんなことを重要なことに思い、考え続けるのも、ひとつには昨年、カッシーラーの「シンボル形式の哲学」を読んだことの余韻がある。それによると、人間の感覚、感覚内容、今の言葉で言えばクオリアよりもさらに深い認識の根源に表情機能がある。この部分の考察に共感覚も絡んでいたような気がする。とにかく難解であり一度通して読んだきりで、理解できたと言えるわけも無いが、この根源的な表情機能とのかかわりで、視覚と聴覚などの異なった感覚に共通する共感覚にも関わってくるような、この楽音と工芸素材との比較、あるいは比喩、さらには単なる楽音を超えて音楽作品そのものと風景やドラマとの関わりといったものにおける共通する表情の問題という深みにはまって行きそうなのだ。


ところで、枯淡といわれるこの曲だが、枯淡という表現がぴったりという感じでもない。確かにメロディーは若々しいというわけではないが、結構激しい感情が感じられるところもある。ただ、確かにどこかほの暗い雰囲気の中の叙情という感じはする。とくに第二番の方は、ほの暗い遠景が感じられる。もっと具体的に言ってしまうと、やや広い盆地の一端のちょっとした高みから向こう側の遠い山々とふもとの町々を黄昏のほの暗い空気の中で眺めているような印象のメロディーに感じられる。これはやはりクラリネットの演奏で特に感じられることだ。ヴィオラでも、夕方か黄昏に近い感じはするが、ただ、ちょっとメロディーの線がくっきりと明るく明瞭に見えすぎるようだ。クラリネットは音色が透明なだけに、遠景のほの暗さがそのまま透けて見えるようだ。それでいてピアノとの組合せはダイヤモンドのようにブリリアントなのである。