日曜日, 3月 06, 2011

樹木への人々の傾倒について

ことあるごとに、人々の樹木への傾倒について考える。人が樹木に寄せる思いは精神的なものである。草花に人が寄せる思いも精神的なものといえるかもしれないが、かなり官能的というか、感情的な部分が勝っている。樹木への思いにももちろん感情がこもっているが、草花の場合に比べてより精神的な度合いが高いものだと言えないだろうか。

梅や桜などの花木の場合は花でもあり木でもある。その両方を併せ持っている。

バラも木であるが樹木という感じはしない。しかし草花ではない。バラの地位には独特のものがある。そういえば梅も桜もバラ科であった。バラ科の植物はもっとも高等といえる植物らしい。それにしてもリンゴ、木苺、イチゴ、果物の多くもバラ科なのはなぜ?とはいっても科の意味するところは素人の私にはわからず、このような疑問もむなしい疑問かもしれない。

樹木なしに真の安らぎはありえない。すくなくとも並みの人間にとっては。・・・木は木材になってすら安らぎの源泉であり続ける。

詩にとって樹木は常に心の拠り所のひとつである。歌にとってもそうである。菩提樹があり、胡桃の木があり、アカシアの雨があり、柿の木があり、栗の木があり、松林がある。


あらゆる生物種にはそれなりの個性があり、人々にとってもそれぞれ独特の意味がある。しかし植物の場合、稲や麦などの穀物や野菜は食料であり、草花は草花で暮らしを飾ったり贈り物となったり、という意味を持つのに対して木の持つ意味はやはり、より精神的なものとしか言いようがない。

植物の持つ意味は動物のもつ意味に比べると難解とも言える。なぜ植物と動物があるのだろうか。植物の栄養がなければ動物は生存できない。したがって動物が存在するためには植物が存在しなければならない。こういうところになるとダーウィニズムの進化論は何の説明力もない。

去年も春頃にこういった文を書いたのを思い出した。去年はもう花見の時期も過ぎたころだった。もっと前の年にも書いた記憶がある。街路樹の銀杏やプラタナスが芽吹いてくるころだった。こうしてみると年々早い季節になってきているのは面白い。