金曜日, 9月 16, 2016

不忍池とスマートフォン、そしてポケモンGO


不忍池とスマートフォン、全く異なるものだが、どちらも最近の私にとってちょっとした宝物といえるかもしれない。といっても唯一無二でも最上の宝物という程のものでもない。もちろん「お宝」などではない。もともと宝物というものはたいてい人生にとって必ずしも不可欠といえるようなものではない。あるいは代替が効かないようなものでもない。文字どおりの宝物である宝石にしても多くの女性にとって、無くしたからといって、あるいは身につけられなくなったからといって、絶望するほどのものでも無いだろう。とはいっても人生の一時期には他に代え難い有り難みをもたらしてくれるものといえるかもしれない。



不忍池によく足を運ぶようになったのはこの2、3 年のことである。今の住居から 2キロぐらいしか離れていないから格好の散歩コースである。かつて仕事で御徒町の方によく通っていた頃は御徒町の方から上野公園に足をのばしたとき、たまに不忍池まで立ち寄ることがあった程度だったが、年ほど前からそのようなコースよりも自宅からは随分と近道になる東大の裏門あたりの道、弥生町のあたり、竹久夢二美術館の前などを通る道や、近辺の複雑な小道、あるいはやや遠回りをして根津駅あたりの方を回ったり、いろいろなコースから歩いてゆくようになった。現在、一応は自宅で仕事をしているから、平日はどうしても、仕事が無くても5時か6時頃になるまでは外に出る気にはならない。仕事の連絡はすべてメールで来るからである。今年の初めにスマホを購入したきっかけの1つは、外でいつでもメールチェックをしたかったからだが、しかし冷静に考えてみればせいぜい3時間程度の外出で、メールチェックが絶対必要だというほどでもない。携帯電話があれば十分だろう。そんなわけでいったんはドコモのスマホ契約をしたが、あまりにも不経済な通信料とソフトの使用料に辟易して3ヶ月程で解約し、普通の携帯電話に戻してしまった。この間、かなり無駄な出費をしてしまう。ただスマホ自体は自宅で結構便利に使っている。やはり自宅でもパソコンだけでなくスマホがあると便利ではある。片手の手の中に収まるという点、確かに宝物という感触はある。外ではもっぱら散歩中に写真を撮ったり、不忍池のベンチで電子書籍の読書をしたりしていた。夕方暗くなってからでも読めるのでスマホの電子書籍はなかなか気に入っている。文字が多少小さくても書体はパソコンよりも読みやすい。もちろん紙の本も不忍池のベンチで読むのは快適である。以前から、外が明るいうちは、自宅の狭い空間ではあまり読書をする気にならないのである。読書をする場所として不忍池のベンチはまたとない場所になっていた。



この間、外出中スマホでのデータ通信をあきらめたわけでもなく、いろいろ対応を考えてはいた。ワイマックスの古い契約が残っていて月390円で多少のデータ通信ができるはずだったのだが、実際にスマホで使用してみて通信量など、機能性の問題で使い物にならないことが判明。こちらも今更ながら解約し、現在最終的に、ワイヤ・アンド・ワイヤレスという公衆無線LANサービスに加入してみた。その結果、利用可能エリアは限られるが、一応使えことは確認できた。ただし、殆どの利用可能エリアはオプションエリアと呼ばれて追加料金が必要なエリアである。看板に偽りありの感が無くもない。日本の通信会社はすべてこんなものなのだろう。月に税込み390円だから、今のところもっとも安い選択肢ではあるようだ。しかし上野駅で一カ所、無料で無線LANを提供しているところもあるにはある。他にも探せばいろいろありそうだ。







道路の向こうは横山大観記念館




こんなわけで、 不忍池のベンチでスマホのデータ通信をするわけには行かないが、スマホは持ち歩いてはいる。ちょうどそんな時期にポケモンGOの騒ぎが始まり、急にこのエリアが騒々しくなったのであった。もともと不忍池エリアではスマホを手にしながら歩いている人は多かった。カップルなどはスマホで写真を取り合っていたし、年寄りでもスマホで写真を撮り歩いている人は結構多かった。そんな次第でポケモンGO以前にこの場所それほど閑散としたいたわけでもない。桜の花見頃はもちろん、アジサイやハスの時期には花見の見物人も多く、外国人観光客も多かった。特に中国語は日本語と同じくらいの頻度で耳に飛び込んでくる。ただやはり暗くなる頃にはかなり閑散としていたが、それでもかなり遅くまで散策する人は結構いた。しかしポケモンGOが始まってからの騒々しさはレベルが異なる。まあ夕方の5時頃まではそれほどでもないが、5時半頃を過ぎると、二つの池の間の遊歩道で波のように通勤ラッシュさながらの混雑 現出する。池に面したベンチに座っていると後ろの方で急に聞こえだした足音はまるで歩兵の進軍ではないかと思われるほどざわざわ慌ただしい。そろそろ帰ろうかと思って歩き出したが、彼らと反対方向に歩くのが困難なほどだった。その後も何度か同じ頃、同じ場所に行っているが、だいたい同じような状態が続いている。あるとき、当方もベンチに座りながらスマホを持って電子書籍を見たり、写真を撮ったりしていると、ポケモン仲間と思われるらしく、その場所でポケモンが獲れると思ったのか、すぐ隣まで来てポケモンをする若い人たちもいる。そして実際にポケモンが獲れたらしい会話が聞こえる。






このような、多くは少年とはいえ、大人も少なくない、あたかも歩兵の進軍のような慌ただしい群衆の動きを見ているとどうしても何者かに動かされているか操られているような、不気味な印象を免れ得ない。実際にゲーム会社に動かされている訳だが、こんなゲームを通常のプライドを持つはずの大人が嬉々として遊んでいるというのは本当に信じがたい気がする。童心に帰るのもいいが、時と場所とする事を選んだ上で童心に帰ってもらいたいものだ流行とはこのようなものかもしれないが。
いずれにしても、このようなゲームは例えばディズニーランドなど、特定の場所を限定した上で実施すべきものである。


 ポケモンGOの流行で、厭なというか、不安に思われることの一つに、このゲームを批判する意見が不当に無視されているのではないかという印象である。第一、政府もマスコミもこのゲームをバックアップしているのではないかとさえ思われる。こんな、道路や公共の場所にバーチャルとはいえエサ、ではないが、獲物のようなものを勝手にばらまき、人々を招き寄せるようなゲームが何の障害もなく通用する事態そのものが異常ではないのだろうか。ゲームのようなバーチャルな環境を公共の場に持ち込むことは関係のない人を巻き込むことになる。事実、死亡事故まで起きているというのに。




このゲームにも当然、賛否両論があり、マスコミでも両方が取り上げられてはいるが、どちらかと言えば否定派の意見が片隅に追いやられている傾向がある。特に肯定派の意見に特徴的なこととして単にこのゲームのメリットを主張すると言うよりも否定派の批判や否定派の人物を批判するような傾向が見られるのは特に厭な感じがする。たとえば次のような内容の記事があったのには驚いたのである。

このゲームが一つの原因で死亡事故があったことについて、その論者が言うには、すでに歩きスマホが原因で起きた交通事故は沢山ある。それらは沢山あるので報道されていないだけである。たまたまポケモンGOが流行し始めたので改めて事故が取り上げられたに過ぎない。だから特に問題にするほどのことでもない、ということらしい。こういう考え方を倒錯した論理というのだろう。すでに歩きスマホが原因の事故が多発しているのなら、新たに歩きスマホが前提となるようなゲームの導入にはことさら慎重になるべきではないのか。実際に死亡事故が起きたのは歩きスマホどころか、自動車の運転をしながらのポケモンGOだったはずである。そんなことを知ってか知らずかその論者は道路でこのゲームで遊ぶことを批判するのは自動車側の横暴だなどと書いていたように記憶している。このような見当外れで無神経な論理がまかり通るというのはまさに異常事態のように思われ、不気味でさえある。

今日の夕方にまた散歩でいつもの場所に立ち寄ってみた。日が暮れ、暗くなると、最近には珍しく、人が少なくなっていった。6時を過ぎてもいつものようにゾロゾロと大挙して慌ただしく群れてくるようなことはない。この場所にポケモンが出現しなくなったのか、あるいはこのゲーム自体が下火になったのか?しかし弁天堂の前は相変わらずごった返している。まあ波があることだし、実際にこのゲームも下火になってきたのかもしれない。このゲームもすぐに流行らなくなるさ、という人も多が、確かにうなるだろうとは思う。しかしゲーム会社や利権側も新たな手を打ってくるだろうし、同じように公共の場にバーチャル環境を持ち込むようなものがゲームに現出する可能性がある何よりも心配なのは政府も産業界もマスコミも挙ってこのようなゲームを後押しし、社会全体としても抵抗もなくすぐに受け入れるような風潮なのである。

  それにしても携帯電話会社のパケット定額制や「かけ放題」 の強制には困ったもの。せっかくのスマホのメリットを大きく損ねている。変なゲームを後押ししたりするのではなく、こういう問題を改善することこそが、真にスマホを多くの人々にとっての宝物に変えるのだと思うのですがね。


 


 

火曜日, 2月 11, 2014

政治的争点としての脱原発問題

端的に言って、投票率を含めた今回の都知事選の結果がこうなった原因は、個人的にはどう考えても一方の方から、争点が脱原発問題になってしまったと言うか、されてしまったことにあると思う。

震災直後ならこういう争点になる必然性は十分あっただろうと思う。しかし、現在に至って国民も都民も多くの事実、それも真実、虚偽、欺瞞 、謎、等々を含めた様々な事実を知ってしまった。たとえ今でも即時の脱原発論が正当であるとしても、現在の状況下における都知事選の第一の争点になる必然性はなかったと思う。選挙まえに一度だけツイッターでその疑問をつぶやいた。

繰り返しになるが、福島原発事故以降、確かな事実、不確かな事実、真実、虚偽、欺瞞、誇張、あらゆる態様というか、可能性というか、適切な言葉がみつからないが、そういう状態を含めて多くの事実が明らかになった。今では平均人の体内に常時数千ベクトルの放射線を維持し続けていることや、現在の東京よりも何倍ものの自然放射線の地域がざらにあることなど、常識の域に近づいていると言えるし、ある程度の放射線に健康増進効果があるという学説や研究も多々あることなども知られるようになった。この期に及んでまだ放射線の健康への脅威を過剰に強調するのはまさに、過ぎたるは及ばざるがごとし以外の何物でもないと思う。

たとえ即時脱原発主義が正当であるとしても 、根拠に多少とも見え透いた欺瞞が含まれ、過剰に強調されていたとすれば当事者自身の信用を失うし、不勉強、不見識を疑われることになるだろう。

 ウソも方便ということもあるかもしれないが、それは本当の大人と本当の子供との関係において通用することである。現在の政治家や政治運動家や活動家、あるいは評論家やジャーナリストと一般人との関係が、あらゆる点で大人と子供との関係にあるなどと考える人は今やいないだろうと思うが、もしそう思っている活動家がいるとすれば思い上がりも甚だしいと言うべきでだろう。

木曜日, 10月 24, 2013

ノートパソコンの解像度または精細度は早急に改善すべきで最近始まった高解像度化は促進すべき

以前にこのブログで報告したとおり、姿勢などの関係からノートパソコンの方がデスクトップより良いのではないかと思い、また別の理由もあって、昨年の夏ごろから従来のデスクトップに加えてノートパソコンを導入し、メインで使用するようになっていた。従来のデスクトップはマルチスクリーンでそのままにして併用し、主としてノートパソコンで入力作業をするようになり、さらにはスマートブリッジという、一つのマウスとキーボードで両方のPCを使えるデバイスも使ってそれなりに便利に使っていたのだが、一つ、大きく目論見とは異なる不都合が次第に顕著になってきた。一言で言ってそれは標準的なノートパソコンの、解像度というか、DPIが、ノートパソコンの使用条件に適応できていないということである。これが眼の疲労に著しく影響することが分かったのである。ノートパソコンを追加してさらにメインに使用するようになって便利にはなったのだが、眼の疲労はそれ以前にも増してひどくなったのである。これはひとえに解像度(DPI)とそれに対応した文字の表示とフォントデザインが不適切であるからと言えるだろう。

そんなわけでつい最近になって21インチのディスプレイを追加してノートパソコンをマルチスクリーンで使用するようになった。古いデスクトップの方は事実上、一つ のディスプレイだけを使用し、一方は机の下につないでいる。外してしまうとまた変なことが起きそうでこわい。マルチスクリーンも何度も設定を変えたり、つなぐデバイスが故障して取り換えたりしているうちにいろいろ不都合が生じてくる。

とにもかくにも、ノートパソコンに大きめのデスクトップ型ディスプレイを追加したことで、かなり目が楽になった。やはり、現在主流の解像度はデスクトップ型の設置距離に適しているのである。ノートパソコンでの使用条件では少なくとも現在主流のタブレット程度の解像度は、眼のためには最低限必要だろう。そこで昨日、ネットで調べてみたが、例のIGZOパネルなどを使用した高精細度のPCがすでに出回り始めていることが分かった。当方は今買い替えるわけにはゆかないが、これは歓迎すべきことで、促進すべきことだと思う。

残念に思うのはなぜこの流れがもっと早く進まかったのかということだ。もちろん技術とコストの問題があったのだろうが、とにかく企業の商品開発がスマートフォンと大型テレビに集中していたことが原因だろうと思う。個人的にはスマートフォンなどの新商品の開発よりも、従来製品の改善の方を優先すべきと思うのだが。特に眼の疲労や読みやすさ、眼に優しくすることは、この世界的な高齢化社会への対応ということで、最重要課題の一つだと思うのである。

木曜日, 10月 17, 2013

椅子と机と正座

先日、経済ニュース番組で、アメリカ発の事務用椅子の新製品を紹介していた。自由な姿勢、特にPCやタブレット使用に対応したという斬新な構造と機能性を持たせたということだったが、気になったことは、依然としてキャスター付き五本足の回転椅子であるということで残念に思った。個人的に、当人も五本足のキャスター付き回転椅子を毎日使用しているが、実のところもうこの種の椅子が嫌になっている。

特にぐらつくというわけでもないが、どうしても古くからある回転しない椅子の安定した感触は得られないし、何よりも五本足の位置が定まらず、じゃまになる。本来どのような作業であってもこういう回転椅子は適切ではないと思うがどうなのだろうか。ピアニストは絶対にこんな椅子を使わないし、他の楽器でもそうだろう。事務や手作業でも同じだと思う。

近頃、近くの図書館に通って借りることをせずにそこで一時間程読むことが多くなったが、図書館の椅子は古くからある頑丈な木製の椅子でかなり重い。高さや構造が最適であるとは限らないが、本を読むにはやはりこの種の椅子の安定感は必要と、最近は感じるようになった。 この種の椅子で問題なのはやはり使うときには椅子を引いたり収めたりすることの煩わしさにある。音も立てる。もちろん使いながら動かせるという機能がない。そのために事務所では現在殆ど使われなくなってしまったようだ。しかし、この問題は改めて見直す必要があるのではないかと思う。高さの調節も含めて改善できないほどのものでもないと思われる。

件のテレビで見たアメリカ製の最新型はたしかに自由な姿勢に対応している面もあるが、一方でやはり五本足の安定しない位置のため足の置き場が不自由に見えた。そういう欠点が残されている以上、またキャスター付き回転椅子である以上、もはや見た感じではそれほど欲しいと思うような優れものに見えなかった。

回転式の事務用椅子は見直す時期に来ているのではないだろうか。こういう机だからこそ逆にいろいろと姿勢を崩したくなってくる面もあるような気もする。


同じ日の夜、NHKオンデマンドで見た『美の壺』で、文豪の使った文机というのを見た。 漱石をはじめとする明治から昭和にかけて日本の作家たちが作品を書くのに使った机が紹介されていた。漱石が唐物と呼ばれる中国伝来の文机を使っていたのは西洋文明からの一種の決別の気持ちを込めて意識的にそういう机を選んだのだと、ナレーションで言っていたが、成程そうかと思う。 とは言っても、もちろん全面的な決別ではないのだろうが。

他に紹介されていた作家たちの中で、例えばただ一人洋風の机を使っていた萩原朔太郎のことなど、興味深かった。

それにしてもこういう作家たちは一日中正座していたわけでもないだろうが、事実上、正座をしていた時間は相当に長かったに違いない。ちょうど最近、個人的に、正座のことを考える機会が多くなってきている。当人は仕事など、パソコンを使うときはもちろんだが、先に書いた通り事務用の回転椅子を使って過ごしているが、それ以外は普通は畳の上である。だいたいはくつろぐ時だから、どうしてもあぐらをかいたり、よこに寝そべったりしてしまうが、最近はできるだけ、というか、少しは正座をするように心がけるようになった。少しずつではあるが、しびれは切れにくくなってきたように思う。

正座は身体と健康にとって、また子供の成長にとってどうなのかといった本格的な研究があっても良いのではないだろうか。また精神生活全般と正座や畳式生活と椅子式生活との関係など、もっと多方面の研究がなされてしかるべきではないかという気がする。

月曜日, 3月 18, 2013

ウクライナからのアクセス

最初、「はてなダイアリー」でブログを始めてから成り行きでブログの数が増えてしまい、現在それ以外に「ブロッガー」で三つと「FCブログ」で一つ、合計五つのブログを公開するという始末になってしまいました。いずれのブログにもアクセス解析を設置していますが、これも成り行きで二通りのアクセス解析が設置されています。はてなダイアリーには「はてなカウンター」を設置した後、あとからブロッガーの三つのブログとともに非常に高機能のグーグルのアナリティクスを設置しました。しかし、かなり後になってから、ブロッガーには最初からアクセス解析が組み込まれていることが分かり、これらも二通りのアクセス解析が設置されている状態になっています。もう一つのFCブログの方は、かなり後から始めたブログですが、これは最初からアナリティクスを設置しただけだったのですが、次に述べるようにアナリティクスのデータに問題があるように思われたので、最近になって、はてなカウンターを設置し、比較するようにしてみました。ブロッガーには、アナリティクス以外のカウンターを任意で設置できないみたいで、はてなカウンターを設置してみましたが、機能しませんでした。


という次第で、かなり最近になるまでグーグルのアナリティクスのみを参照していたのですが、ブロッガー組み込みのアクセス解析が見られることに気づいてから、こちらはアナリティクス程の高機能ではありませんが、見やすいので、こちらも見るようになり、その結果、アナリティクスの結果とかなり差があることに気づいたのです。


ブロッガーで公開しているブログのひとつで「意味の周辺」というブログの解析を見ていたのですが、アナリティクスでは表示されたことのないウクライナという意外な地域からのアクセスが相当にあったのです。さらに見て行くにつれ、アメリカも含め、外国からのアクセス全体が予想を超えて多くあり、また日本を含めたアクセス数全体もアナリティクスのデータよりも多い場合が多いのです。


最初はウクライナ、スペイン、トルコ、アフリカ諸国といった特定の国々からのアクセスが検出されないのかなとも思ったのですが、よく見て行くとアメリカからのアクセスも大幅に異なるようです。同じ「意味の周辺」のデータですが、全期間中のアメリカからのページビューが、ブロッガー組み込みの解析では300程であるのに対して、アナリティクスのデータでは訪問数で15しかありません。


さらに詳しく言えば、スペインやドイツなど、数的には少なめですが、アナリティクスでもある程度は検出されているのに対し、少なくともウクライナとロシアはまったく検出されていないという傾向があります。数量的にはウクライナがアメリカに次いで突出しているのですが。


グーグルに問い合わせたところ、国を識別するのはどのツールでも難しく、どのツールのデータが正しく、どちらが間違っているともいえないということでした。ネット検索でその方面の解説記事を当ってみたところ、確かに地域を正確に特定するのは困難なようです。ただ、今回の当方のケースでは、地域を間違えているというよりも、検出漏れという方が当たっているように思われます。アナリティクスでは外国からのアクセス数全体が極端に少なくなっているからです。日本全体のアクセス数はだいたい一致している場合が多いようですから、これは外国から、特にロシアやウクライナからのアクセスが検出漏れになっている可能性が高いように思います。


そんなことを考えていたところ、昨夜NHKテレビの特集でチェルノブイリ関連の放射能汚染問題の現状を報告する番組を見て、ハタと気づきました。これは主としてウクライナとベラルーシからの報告だったからです。上記の問題は「意味の周辺」というブログで確認したことだったのですが、おなじブロッガーで作成しているこちらのブログで、福島の原発事故後の数か月の間に、放射線リスクの問題を扱った記事を何度か書いていましたが、ウクライナからのアクセスはその記事へのアクセスがきっかけだったのではないか、ということに思い至ったわけです。調べてみた結果、確かにこちらのブログでも、全期間でウクライナからのアクセスがかなりの割合でありました。ただ、ブロッガーの解析ではアナリティクスのような詳細な解析はできないので、ウクライナからのアクセスが多かったのはいつごろだったのかということまでは判りませんでした。それにしても、ああいった記事をウクライナからアクセスして見てくださっていたということが分かり、少々感動した次第です。多くは現地在住の日本人の方だと思いますが、それにしては、私のブログにしては多めの、外国からのアクセスです。


そういった方々が、そのブログのその種の記事にアクセスした後にそのページにリンクされた私の別のブログにも興味を示してくださった結果、「意味の周辺」その他のブログにもウクライナからのアクセスが多くなったということではないかと思われた次第です。


私はもちろん、放射線医学の専門家でもジャーナリストでも、活動家でもなんでもなく、放射線問題について調べたのも当時の一時期だけで、ソースもインターネットだけでした。ただ、当時は結構ていねいに調べたり検討したもので、その結果放射線リスクに閾値があり、その閾値も結構高い値で、年間100ミリシーベルトの基準では十分に閾値内に入っているということの確信が得られた時点で、それ以上はこの問題について調べるのはやめ、ブログでもその種の記事もあまり書いていません。もともと数字が苦手なので、今ではベクレルの数値を見てもあまりピンときません。また原発問題やエネルギー問題についてもあまり考えたりすることも、独自に知識を仕入れようとしたりすることもなくなりました。


ただ、「発見の発見」というブログでは、科学上の問題として最初のころからCO2温暖化論を取り上げて記事にしてきましたが、これも今はCO2温暖化説が間違いであることの認識がかなり広まってきたようで、殆ど科学の問題というよりも政治問題に絞られてきた感があり、あまりブログの記事にする機会もなくなってきたようです。


もちろん、原子炉内が現在どのような状態になっているかがまったくわからないという現状で、放射線リスク問題にもエネルギー問題にも全く関心を失ってしまうことは許されないことですが、時々入ってくる情報から、少なくとも原発事故現場に近い一定地域以外ではまったく放射線リスクについて心配する必要はないと思っています。この認識はすでに多くの分別ある一般人にほぼ共通していることではないでしょうか。脱原発に向けて活動されている多くの活動家やジャーナリストの方々を尊敬していますが、そういった方々の中にも、いまだに閾値説を全面否定し、過剰にリスクを強調する人たちがおられるのは本当に残念な気がします。先般、このブログの記事にも書きましたが、「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」です。


昨夜のテレビ番組、ウクライナとベラルーシからのレポートでもやはり、閾値以下の放射線を危険だとする立場と安全とする立場との葛藤が中心テーマであったようです。ただやはりこの種のテレビドキュメンタリー番組の常で、きちんとしたデータの調査よりもイメージ的な訴えや、相互の単なる断定や主張の繰り返しで終始していたように思います。相も変わらず、誰かもわからない女性患者が治療を受けているシーンを流したりしたり、現場とは何の関係もない気の滅入るような音楽を付けたり。もうそろそろこのようなドキュメンタリー番組の手法は時代遅れと思われるようになって欲しいものです。


全く関係のない二つのテーマでこの記事を書くことになってしまいました。ここで最初のテーマに戻ります。


FCブログの方も、アナリティクスの解析を見てきましたが、以上のような次第で、改めて新たに「はてなカウンター」を設置してみました。こちらも外国のアクセスについてアナリティクスとの差において、ブロッガーの解析と同様の傾向を示していると言えます。今のところ外国と言えばアメリカだけですが、明らかにアナリティクスでは検出していない数のアメリカからのアクセスを検出しています。このことからも、やはりグーグルのアナリティクスでは全体のアクセス数、特に外国からのアクセス数の数え落しが大きいという蓋然性が高いように思われます。


素人考えですが、アナリティクスの場合あまりにも多くの詳細項目を解析しているために検出確率が犠牲になっているのではないでしょうか。場合によっては詳細な解析ができないようなアクセスを数え落としているのではないかとも思えるのですが、もちろん専門的に理解しての推測ではありません。


いずれにしてもアナリティクスの詳細な分析機能は商用目的には非常に有効で有用なツールになると思います。ただ、日本国内で外国からのアクセスを地域的に、正確に捉えるには適さないということになるでしょうか。



木曜日, 1月 03, 2013

タブレット機の使用、現在は殆ど休止中。ノートPCの目につく問題点

前回、読書の姿勢に関してネットでアンケートを取ったことで記事を書きました。引き続いてアンケートを取り直したり、考察を続けるつもりのところ、一時的な多忙をきっかけに中断中ですが、いずれ再開したいと思っています。ちなみに、アンケートは、はてなアンケートを使用したのですが、最初、読書スタイルに関するアンケートは有料のポイント付きで行い、すぐに100人の回答が集まりました。しかし次にタブレットの目的についてのアンケートを無料のポイントなしで行ったところ、回答をしてくださったのは一人でした。次回以降おこなうとすれば有料のポイント付きでおこなわざるを得ないようです。


同じ流れでパソコン系メディアに関する体験談というか批評のような一連の記事を書いていますが、今回はその系列のひとつという結果になりました。


タブレットに引き続いてのノートPCの導入
当時、と言っても去年ですが、タブレットを購入した際の複数の目的の中で、最も切実であったのはパソコンで行う仕事の補助でした。具体的に言えば翻訳作業で、それまで1台のデスクトップに2台のディスプレイを接続してマルチディスプレイで使用していたのですが、それでも画面がまだ不足傾向であったことに加え、PC用ディスプレイよりももっと低角度で、本を読むような角度で見られるディスプレイが使いたかったからでもありました。


この点で、10インチのタブレットは十分に目的をかなえてくれたと思います。もっともよい点は画面の精細度―今は解像度と言えば画素数のことになってしまうので、精細度と言えばよいのでしょうか。印刷と同様にDPIで表現できれば良いと思うのですが―が高く、フォントも美しくきれいに出ることです。今の携帯はもっと精細度が高いし、スマートフォンもそうだと思うのですが、一応10インチタブレットの精細度はフォントと相まってパソコンのディスプレイに比べて格段に目に優しいように思われました。


という次第で、PDFの原稿を表示するには快適でした。具体的には正面のPCディスプレイのすぐ下に接触させて低角度でPDF原稿を表示させ、正面のPCディスプレイで入力作業を行うわけですが、できれば位置的には逆の方が良かったのです。入力作業を行うメインの画面が下の方、うつむき加減で入力したかったのです。

そういう次第で、他にもいくらかの理由があり、それから数か月もたたない時点で新たにノートPCを購入することになってしまいました。他の理由というのは、主に、一時的に遠隔地の移動先でメインの仕事をする可能性への備えだったのですが、それ以外に、やはり、タブレットでの入力難しさ、あるいは煩わしさだったと言えそうです。というのはタブレットの購入目的の一つに、自宅内で場所を変えての、入力作業を含むような利用の仕方もあったのですが、入力の煩わしさでそれが満たされなかった次第です。ノートPCでこの点も満たせるという目論見がありました。

要するにノートPCで移動先を含めてあらゆる場合の入力作業を含むメインのPCに据え、従来のデスクトップと必要に応じてタブレットを補助的に使用するというスタイルが一応の理想ではないかという期待があったわけです。ただしノートPCを選択する時点でもう一つ期待することがありました。それは、少なくともタブレットPC程度の精細さ、がその密度を期待したのですが、スペックを見た時点で、標準的な通常のノートPCの大きさでは無理であることが分かり、それは諦めざるを得ませんでした。

とにもかくにもそのような次第で16.5インチのノートPCを購入し、上述のような使い方で現在に至っています。基本的に、ノートPCを入力作業の中心に据えてデスクトップPCを補助的に使用する方法は、私の場合は正解であったように思います。ただしこの初めて使うノートへの不満も大きく、この件はこの記事の後の方で検討したいと思います。

以上のような経緯からそれ以後、仕事上でデスクトップの補助としてタブレットを使用することは事実上なくなりました。ただし机上にもう少し余裕があればさらにタブレットも併用できないわけでもありません。しかし、辞書として使うには問題がありました。パソコン用の辞書は使用できないし、使用できたとしても、検索するための文字入力がしづらそうです。実は初めての電子書籍としてタブレット用の医学事典を購入したのですが、どうもタブレットに適した設計になっていなかったようです。相性の良い機種とそうでない機種があるのかもしれませんが、購入した機種では非常に検索がしづらいものでした。スライダーでは大まかにしかページの移動ができないので1ページづつ移動しようとしても1ページに1項目しか表示されず、1項目ずつページを移動するのは大変時間がかかります。10インチの広いスペースにわずか数行の1項目しか表示されないというのは設計上の大きな欠陥またはミスではないかと思います。



という次第で、現在タブレットは休眠中です。というのも、もう一つの目的であった電子書籍としても今のところ殆ど用無しという状況であるからです。その理由を改めて考えて見ましたが、理由を分析し始めるとそれだけで結構な時間がかかってしまいそうなので、またの機会があれば分析してみたいと思います。ただ、無料の電子書籍、青空文庫や、グーグルからダウンロードできる本が必要な場合は無条件でタブレットを使いたいし、何冊かダウンロードしましたが、この種の本はなかなか落ち着いて読む機会に恵まれないものです。他方、近所や歩いて行ける範囲内に中型や大型書店があり、書店に行く楽しみは結構大きく、書店で買いたい本が見つかればどうしてもそこで購入したいのは人情というもので、最近はアマゾンなどのネット販売もなるべく利用せずに済ませています。とは言ってもまったく電子書籍を購入する気が無くなったわけでもなく、今のところ機会に恵まれないということですが、それでもやはり、タブレットを購入する以前に想定していたよりも電子書籍に対する期待感は薄れているといった状況でしょうか。


ノートPCへの不満点
さて、先ほど述べたとおり、現在、入力作業を行うメインのパソコンは仕事と仕事以外を問わず、ノートパソコンになってしまいましたが、それだけにノートパソコンへの不満も結構大きなものがあります。まあ高級機ではないので高級機では解決できる点もあるかもしれませんが、とにかく感じている不満を列挙してみたいと思います。

1.現在のタブレットと同等以上の精細さが欲しい。これは絵よりも文字表示の上で言えることです。

2.OSはWindows 7 ですが、フォントの表示がWindows XPのデスクトップに比べてむしろ見にくくなっている。

フォントはソフトとによっては選択の自由があり、ある程度きれいに表示設定できる場合もあるが、自由にならないソフトの方が多く、特にユーザーインターフェースの文字は自由にならない。ワードの場合、MS 明朝でもMS ゴシックでも、かなりの大きさにしても殆どドット一つ幅の繊維のような細い細い文字で本当に眼が疲れる。

3.キーボードの左右中心と画面の左右中心の位置がかなりずれる。


という次第で、せっかく画面の角度や位置が見やすくなったものの、文字表示の見やすさ、美しさという点で、現在のデスクトップよりもむしろ劣る場合があり、これにはソフトの問題もあろうと思いますが、やはりノートPCの画面精細度がまだ不十分であるためのように思います。またキーボードの左右の中心が画面とずれるのもかなり大きな欠点であるように思われます。この点では、基本的に画面とキーボードは切り離せられるのが良いので、この点では結局のところデスクトップと一部のタブレットでは早くから実現しているわけで、ノートPCにはないデスクトップとタブレットの共通のメリットとも言えそうです。


こうしてみると、ただ全体の大きさと持ち運び性という点とタッチ操作によって差別化されがちなデスクトップ、ノートPC、タブレット、スマートフォン等のモバイル端末には、実に様々な点で長所と短所が複雑に交錯しているような気がしてきます。そういう中で、タブレット機の持つ長所がデスクトップやノートに還元されても良いのではと思われるのですが、現在、Windows 8 ですか、ノートPCやデスクトップにタッチ操作を取り入れるということがそれにあたると言えるのかもしれません。しかし、個人的には、それよりも画面の精細さとフォントの美しさ、読みやすさ、という点で優れているタブレットの長所をこそノートPCやデスクトップに還元して欲しいと思うものです。

開発の順序からいえばデスクトップパソコンからノートパソコンへ、さらにタブレットとスマートフォンという順序で技術点に発展してきた、というより、技術の発展によってこのデスクトップからノート、タブレット、スマートフォンへの進化が可能になったということなのでしょうが、それに伴ってデスクトップとノートPC自体の進化が取り残されているような気もします。

パソコンの時代が終わってタブレットの時代に入ったというような専門家の意見をよく聞きますが、一面、デスクトップやノートPCの改善に注ぐべき努力をもタブレットやスマートフォンの方に振り向けてしまっているのでは、と思わないでもない次第です。


個人的に、特にPCに詳しいわけでも、もちろん専門家でもないわけですが、かなり切実なユーザーの立場で、引き続き、考察を続けてゆきたいと思っています。

日曜日, 12月 23, 2012

「ウソも方便」と「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」、仏教と儒教 ― 脱原発

ことわざ、と言ってよいのかどうか、ちょっとわからないが、「ウソも方便」と「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」という二つのことわざを比較してみることは非常に興味深いことのように思われる。まず、この両者の由来するソースが大きな意味を持つことに気づく。というのは、前者は仏教経典の法華経に由来しているのに対し、後者は儒教の始祖である孔子の言葉である。

「ウソも方便」の方は法華経の方便品からきている。個人的には昔現代語訳を一読したこともあるが、たいていの人は何らかの機会に聞かされている常識でもあると思う。「過ぎたるは」の方は自分でソースを読んだことはなくこれまで知らなかったが、漢文調でもあり、孔子あたりの言葉ではないかと思ってネット検索してみたら、確かに孔子の言葉とされている。

端的に言って、この文脈での仏教と儒教の違いは、「仏、または悟りを開いた覚者」と、「君子または聖人」との違いと言えそうである。

方便品の内容は、火事で燃えている家から子供を助け出すために、子供にウソをついて家の中から誘い出すという話である。この場合、重要なことは、相手が幼い子供であるということだ。そして、大人対子供という関係から、仏のような覚者対凡人という関係への類推という形で、このたとえ話が利用されている。ここで言われる仏や悟りを開いた覚者と一般人との隔たりは非常に大きい筈である。隔たりというよりも次元が違うという表現が適切かもしれない。

一方の「過ぎたるは」の方は、一般人への教訓ないしは警告であって、こういう教訓や警告を理解して実行しながら人は段々と君子、聖人に近づいて行くべしということだろう。

こういったところから仏とか覚者の意味や人間性について考えを進めてゆくことは興味深く思われるが、実のところこの一文を書き始めた動機はそんな高尚なことではなかった。


実は「ウソも方便」と「過ぎたるは」という一見別のことを語っていることわざが同じ場面で浮かび上がってきたその場面はというのは脱原発運動の現状の一部分のことである。この選挙前のいつか、ツイッターに次のような投稿をした。

――脱または卒原発を一つの旗印にするのは結構だし歓迎するけれども、相変わらず微量の放射線や内部被ばくの害を過大あるいは誇大に強調する人が多いのには本当に残念な思いがする。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。――

はっきり言って現在の時点で内部被ばくも含めて年間100ミリシーベルト以下の被爆の有害性を強調してこれを政治的な運動の根拠にするのはもうすでに時代錯誤になっているのではないかと思えるし、そうでなっていないとすれば、そうあるべきだと思う。今筆者がこれを言う根拠は当ブログの過去の記事に書いたとおりである。http://takaragaku.blogspot.com/2011/04/u3.html
さらに言えば、この問題では何かとチェルノブイリの例だとか、まだ「解っていないことが多い」ことについて言及される。チェルノブイリの事例を参考にすべきことや、まだ解っていないことを専門的に、さらに追及することはもちろん必要なことだろうけれども、この問題に関して言えば、基本的には統計情報を判断の基準とすべき問題で、それはもうだいたい決着がついているといっても良いことである。

たとえば地球温暖化問題の場合、人々が知りたいこと、知るべきことは温暖化や寒冷化の原因ないしメカニズムなのであって、統計的データはそのための資料の一部に過ぎない。しかし、放射線リスクの問題では統計情報こそが一般人の知りたいことなのであって、知るべき一応の目標なのである。この意味では、チェルノブイリの事例や今後の研究を待つまでもなく、広島の原爆被害者の追跡調査でもうだいたい明らかになっている。これがいつまでも生かされないとなると、原爆犠牲者も浮かばれないだろう。

その他に医療用放射線の例や自然放射線の多い地域の例、放射線温泉治療の例などもあり、過去の核実験の降下物の例など、多少でも自分の頭で考える一般人の多くにはもうすでに低線量放射線が無害であることは常識になりつつあるのではないだろうか。この点で、放射線の有害性を微量の線量にまで強調するのは明らかに「過ぎたる」ことなのであり、場合によっては虚偽になる場合もあると言えよう。

一方、原発事故現場からまだ放射性物質が危険なほど漏れ続けているのではないかという心配がある。

当然その大本である原発事故現場の状況、メルトダウンがどういうことで、現実にはどうなっっているのか、使用済み核燃料の状況とか、そのようなことが知らされず、判らないままに、その後の情報も真剣に追求されないままになっていることこそが最も重要な問題だろうと思う。そんな状態だから推測情報や憶測情報が当然の真実であるかのように流される。当然その中には真実に近いものから完全な憶測、さらには虚偽に至るものまでいろいろなものが含まれている。

しかし、現実の問題として、上記の閾値下低線量効果の問題を考慮して、国民に有害な程度の放射性物質が、垂れ流され続けているのかどうかと言えば、現在の一般に得られる情報から推察して危険な状態にあるとは考えにくい。現在の政府の基準が内部被ばくも含めて年間100ミリシーベルト以内に収まっているはずだから、内部被ばくに関係するような放射性物質にしても、問題はないと考えるべきだろう。

政府や専門家学者、脱原発派の科学者も含めた専門家に要求すべきはむしろ、事故現場の正確なその後の状況と、その後の核反応物質の状況、何が分かって何が分かっていないのか、また過去には何が分かっていなかったのか、過去の認識を変更すべき新事実はなかったのか、そして今後の見通しなどの説明であって、現状で危険でもない汚染物質の除去とか、避難の要求とかではないはずである。このような状況で、微量線量リスクを誇張したり、危険な汚染が拡散し続けているというようなことを既定の事実であるかのように叫び続けるのは、かえって真実の究明を妨げることになるのである。

このような現状で、憶測や欺瞞による扇動的な発言が脱原発論者の一部で飛び交っていると思えるのである。そこには意識的なウソではなく、本当に自らの信じるところを述べている向きも多いと思われるけれども、意識的なウソではなくとも自己欺瞞の可能性もある。また心からそう信じて言っているとすれば勉強不足であろう。

今の時代、法華経の方便本で説かれているような幼児と大人の関係、凡人と覚者との関係が、一般大衆と政治家や活動家との間に存在するわけがない。とくに科学的な問題に関しては、むしろ一般大衆の方に専門家が含まれているはずである。

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個人的に仏教についても、儒教についてはさらに知識はないけれども、少なくとも仏教でいう覚者と儒教的な君子というような概念を比較した場合、現在の社会的、政治的な文脈では仏教的な知恵、教説よりも儒教的教説の方が適切ではないかという気がする。もちろん個人的なレベルでは、政治家を含め、話はまた別である。


補足

もちろん、このテーマの問題がこれで尽くされたなどと思っているわけではない。特にウソの問題について言えば、ウソをつくことというより、逆に、真実を語ることが危険な場合があることは言うまでもないことである。そういう場合は真実を語る代わりにウソをつかないわけには行かない場合や、沈黙せざるを得ない場合がある。当たり前のことだが、法華経でも、儒教でも、もちろんキリスト教でも、現実のウソの問題が尽くされているわけではないということだろう。