月曜日, 11月 28, 2011

野口悠紀雄著『クラウド「超」仕事法』と個人的問題および日本の問題

土曜日の夕方、表記の本を購入してその夜から読み始め、日曜の午後に読み終わった。この種の新刊書を発刊後すぐに購入して読むのは、貧乏でけちな私にしては珍しい。特に最近は文庫本か安い古本ぐらいしか購入しなくなっている。また野口悠紀雄氏の著書を購入するのも始めてである。

実は最近、PC関連機器の使用方法や購入について悩んでいたところなのだ。それにスマートフォンの事も含まれていた。

今月の始め、もう何ヶ月かにもわたって携帯電話会社から催促されていたこともあって携帯電話の機種変更をした。その時、スマートフォンという選択肢をも考えていたのだが、個人的な用途を考えて10インチのタブレット端末とか7インチの電子書籍端末とか色々迷っていたのである。結局、携帯電話の機種変更の時は、スマートフォンを有効に使うには自分には小さすぎるだろうと思い、選択肢から外した。その日はカメラ機能を重視することにしてそれを店員さんに伝えたところ、それに応じてすぐに選んでくれた機種にあまり迷わず、手っ取り早く決めてしまったのである。

その結果、確かにカメラ機能の高さに驚いたのだけれども、それは他の機種も大して変わらなかったかも知れない。それ以上にインパクトがあったのは液晶の画質、特に解像度が高くなっていることだった。これはある程度予想がついていた。自分では持っていなかったが、電車の中などで他人がこの種のモバイルを扱っているのを垣間見るにつけてもこういう小画面液晶の解像度が著しく高くなっていることに気づいてはいた。しかし実際に今度の新しい携帯の画面を見て、カラー印刷以上の解像度(この場合解像度を画素数つまり表示範囲の広さのことではなくむしろDPI、つまり精細さの意味で言っている)を持っている。そして文字表示も印刷に劣らず、小さな文字もはっきりと読める。これならスマートフォンの画面の大きさがあれば十分にウェブ閲覧にも、PC画面の表示にも使えそうだということがわかり、スマートフォンを選択しなかったことを幾分後悔していたところなのだった。


パソコンなどで仕事をする際いろいろと問題があるが、最近とくに悩んでいたのは眼の疲労の事だった。私の場合パソコンを使用しての作業で主要なものは翻訳作業なのだが、現在では事実上この仕事はパソコンとインターネット環境がなければ不可能であるし、逆にこの仕事ほどパソコンとインターネット環境が有利に働き、その恩恵に浴している仕事も少ないのではないかとも思っている。しかしデメリットも当然あるので、その中でも眼にかかる負担は最大のものだと思う。

そこで今年のある時期、メインのディスプレイの位置、特に高さが特に問題なのではないかと考え、高さを低く調節できるという30インチ近い大型のディスプレイを購入してみた。その結果、確かに高さを少し低くできたのは良かったが、満足できるほど十分に低くできたわけでもなかった。それよりもこんなに大きなディスプレイが目の前を塞いでしまうことで、それがむしろ眼を圧迫するような感じになってしまった。さらに画像の場合は問題ないとしても文字の表示に問題が出てきた。かなり大きく表示しても文字の線がか細く表示され、読みづらく眼の負担になる。文字の表示とディスプレイの解像度(画素数)にはどうやら相性がありそうだ。単純に画面が大きい程よいというわけでもないことに始めて気がついた。その時も2つのディスプレイを使ってはいたが、画面を大きくするよりも小さいディスプレイを幾つも使うほうが良いということに気づいたのである。そんな時期にスマートフォンとタブレットPCに関する興味が加わった。要するにPC作業の補助ウィンドウという目的と、タブレットやスマートフォン独自の目的、電子書籍的な目的、すべての目的機能を1台で併せせ持つような機種がないものかと欲張った事を考えていた。しかしどうやらスマートフォンはタブレットPCとは別ものと考えた方がよさそうだ。それに気づいて上述の通り、携帯電話機の更新の際にスマートフォンを選択しなかった事を少々後悔し始めていたときであり、同時にタブレットPCの選択に迷っていたときにこの本に遭遇した次第であった。

この「超仕事法」という本のテーマの中でスマートフォンが重要な意義を占めていることが特に、珍しくもこういう新刊書を即購入して即読了したことの動機になっているは上述のとおりであるが、もちろんこの本のテーマは仕事法であり「クラウド」を活用する仕事法のことである。そこのこの著者独自の「超整理手帳」術が加わる。

個人的に、複雑なスケジュール管理を強いられるような社会的な立場にいるわけではないし、これまで手帳でスケジュール管理をするようなことはして来なかったが、やはり自分なりに、個人的にもいろいろ計画はあるし、外から仕事が入ってこないわけではない。普通の会社では定年になる年齢にもすでに到達済みであるが、収入を得るための仕事は是が非でも続けなければならないし、個人的にやりたいこともまだ模索中である。そんな時期、やはりスケジュール管理もまじめに考えなければと思い始めていたところでもあった。折しも少し前、友人から「yPad」という手帳のことを教えられ、勧められていた。大型書店で見つけられなかったが、近所の中型書店で見つかり、ハーフサイズ版をとりあえず購入した。なるほど従来の手帳とは一味違っている。何よりも日付が印刷されていないのが良い。ただ、今のところまだ使い始めてはいない。

そんなこんなで、この本に興味を持って読了した次第であるが、野口悠紀雄氏の著書を購入して読むのはこれが始めてである。けれども著者にはこれまでにも結構関心があり、ホームページや、雑誌の記事など、ネットで良く読ませてもらっていた。ただ当方は経済音痴である上に著者の金融業重視とアメリカ文化への傾倒の深さにはかなりの反感を持っていたから、その考えを受け入れるつもりでいたわけではない。ただ、他の多くの親アメリカ的経済コメンテーターに比べては好感度は高い方だった。


この本の内容は2つに分けることができるように思う。もちろん、主要なのは技術的なもので、表題どおりクラウドを利用した仕事術である。ここで「クラウド」とはいわゆる「ネット」のことであるとも言えるが、さらに具体的には当面、グーグルのGメールのことである。他の著者の本に「Gメール仕事術」という本があったように思う。読んではいないがかなり重なる部分がありそうである。

個人的にGメールはかなり以前からバックアップ用に取得はしていたがメインには使っては来なかった。使用しているメールソフトに馴染んでいたこともあるし、Gメールの使い方を覚えるのが面倒だったこともある。ただ、最近、別のコンピュータ、別の部屋にあって主にテレビと音楽用に使っているコンピュータからメールを見るために、時どき使うようにはなっていた。今後、もしも自宅以外からPCのメールを見る必要が生じるようなことがあれば確かにGメールしかないと思っていたし、Gメールの特徴も少しづつ気づくようになってきてはいた。著者の、Gメールを個人データベースとして使用するやり方は確かによさそうで私個人的にも役立たせられそうである。まず、Gメールの「下書き」機能を、メモやGメール以外の何らかの下書きに利用するという利用方法から始めることにした。検索やラベルを貼って後から利用できるというわけである。もちろんこの場合のクラウドはグーグルのことである。


さて、このような形でグーグルに依存することへの危惧について、著者は心配するに及ばないと考えているようだ。この問題は「クラウドは民主主義と両立するか」という第7章のテーマになっている。そこで著者はグーグルは「ビッグブラザーになるだろうか」という設問に対して、「恐らくそうはならないだろう」と言っている。その直接的な理由は経済的なものである。すなわち、そういうことにはコストがかかりすぎる上に得られる利益が少ないという理由。もうひとつはアメリカの民主主義に対する信頼感である。

このあたりの著者の認識には私はついて行けない所がある。まず、グーグルは単に利益をあげることを至高の目的とする人たちだけで成立したとも思えないし、いつまでも経済的な意図だけで運営され続けるという保証もないからである。今後の、発展段階においてどの様な意図が入り込んでくるかも分からない。理想主義もあると思えるし、宗教的信念も含まれる可能性もある。当然権力志向的な悪魔的な動機も入り込み得ると思えるのである。

一方、グーグルやマイクロソフトやアップルなど、個々の企業とアメリカ民主主義とを単純に同質のものと見なして良いのかどうかも分からない。またアメリカ民主主義とアメリカ国家を同一視しして良いとも思えない。アメリカ国家が本当にアメリカ民主主義だけで動かされているのであればイラク戦争のような戦争ばかり起こしているはずがない。


先に述べたように、この本の内容は2つに分けられる。というか、メインテーマである仕事術の具体的な技術の他に思想的な部分が付加されている。一方で仕事術の部分にもその基底にそういう思想的なものがある。何といっていいのか分からないがアメリカ思想とでも言えば良いのか、アメリカ的知性と文化に対する信頼感とでも言うのだろうか。とはいってもできればアメリカの国籍をとり、アメリカ人の立場で発言するという立場ではなく、あくまで日本の国益を考えてのことであることは判る。その思想的な部分には納得できる面はあっても、やはり反感を覚えざるを得ない所がある。

著者が学問的には金融の専門家であって、金融工学の重要性を説いていたことは経済金融音痴の私でも知っている。たとえ素人向けでも、その方面の著書を買ってまで読むことはなかったが、アマゾンの書評などを結構読んだ記憶はある。それによると、例のリーマン・ショックの後はやはり、痛烈に批判されていたようである。それに対して氏は金融工学と金融工学を使うこととは別のことであるという考え方を表明されていたようだ。金融工学自体は便利な道具に過ぎず、よく用いることも悪く用いることもできる。というものである。それに対してあるアマゾンの書評欄で、学問分野とその学問を作り、運用する人間とを切り離すことはできない。人間から切り離された抽象的な学問というようなものはあり得ないと批判されていたのを読んだ記憶がある。確かにその通りである。だいたい道具という概念自体、人間から切り離して考えることはできない。料理用に作られた包丁は確かに殺人の目的にも転用できる。しかし本来はあくまで料理目的に作られるものである。一方、刀剣は最初から武器としての使用を目的に作られるものである。金融工学は多分武器だったのではないかな。もちろん当初は武器として発明されたダイナマイトが産業用に使用されるようになったといった例も当然ある。という次第で、金融工学も使いようで社会のためになるという考えももちろん全否定する必要もないとは思う。

という訳で強いて言えば氏の立場は経済を純粋に経済として考えるというように言えるのではないだろうか。純粋な経済学とか金融工学とかいった枠があって、その枠とは別の枠に政治や歴史や心理などがある。つまり経済自体の中に政治や歴史やその他諸々を取り込まないといった印象である。

そんな著者が信頼を置くアメリカの知性の代表的なものがITと金融工学なのだろうと思う。この本ではもっぱら日本におけるIT使用の後進性が指摘されている。それら自体はどれももっともで納得できる事柄が多い。しかし、金融工学の場合と同じく、著者の捉え方は抽象的あるいは純粋経済的で、歴史的な文脈や政治的なものあるいは軍事的な問題などから切り離された文脈で比較しているように見える。

例えば携帯電話のいわゆる日本のガラパゴス化が批判されている。しかしガラパゴス島における生物のガラパゴス化は、ガラパゴスの生物自身がそれを望んだわけではなくガラパゴス島の地理と歴史的条件によってそうなったものである。日本の携帯電話のガラパゴス化も必ずしも日本の精神風土、文化や日本人のITセンスの欠如という問題ではなく、携帯電話の発展過程における1つの必然のような面もあったのではないだろうか。技術の世界では一番手を二番手が追い越すことはよくある事だ。個人的にこの方面に詳しい方ではないが、携帯メールも携帯にカメラを付けることも日本が最初だったと記憶している。著者も指摘しているように、スマートフォンには多くの日本の技術が取り入れられているのは当然だと思われる。そういうことを思えば日本の携帯電話をガラパゴスと批判するのは酷であると思う。もちろん著者の批判するような要素を否定するわけではない。


以下、(時間が無いので)著者の考えに対して素朴ながら、かなり疑問に思う個所を、2つほど列挙してみたい。
◆『1990年代以降の日本の停滞と衰退の大きな原因は、ITがもたらした大変化に、日本社会が対応できなかったことだ。そのことが、クラウド時代になってますます顕著になっている。』
これ自体にかなりの真実が含まれているかも知れない。しかし、いまや誰もが知る通り、衰退しているのはアメリカやイギリスといったIT先進国も含めて先進国全体であることは常識ではないのだろうか。国家の衰退といった大問題にIT(この本の範囲外だが、それと金融)だけで対応できるというのも非現実的で、現在の世界(経済)情勢から見てももはや一般人に対して説得力がないと思う。

◆『日本のエレクトロニクスメーカーは、機器の製造にとどまっている。・・・・「機械しか作れない日本企業に未来はない」と考えざるを得ないのである』
経済学者で金融の専門家である著者がIT技術とIT産業に対してどの程度精通されておられるのかは、私には知る由もないが、確かにスマートフォンなどを含めた世界のIT業界で覇権を競っているのは米国企業ばかりで日本の企業は「埒外に置かれている」ことは誰の目にも明らかである。しかし、それがアメリカの一部の企業の繁栄や国家のイメージにはつながっても、雇用にはつながっていないことに、一般人としてはどうしても眼が行くのである。ソフトウェアもインドなどにアウトソーシングされていると聞く。こういう国外へのアウトソーシングは製造業よりもソフトウェアの方がはるかに簡単にできそうだ。実際、IT産業だけではない国家の失業率の点でも常にアメリカが日本のずっと先を行っている。


以上を要するに、著者の技術、技法だけではなく思想をも含めて、各自が個人の問題として受け止めるには非常に有益で傾聴に値する内容だと思います。一方で日本の問題、あるいは世界の問題として受け止めるには相当問題があり、限定的に受け止めなければならないだろうというのが結論。

基本的に良書だと思います。読んでよかった。

土曜日, 11月 26, 2011

科学の神様

NHKの番組で「アインシュタインの眼」というのがある。また以前から「ダーウィンが来た」という生物の生態を紹介する番組があり、一時、見ていたことがある。こういったように科学や生物の番組のタイトルに、このような超有名な科学者個人の名前を安直に使うのは非常に良くないことだと思う。

昔、教養物理の先生が講義中によく言っていた発言が頭に残っている。「科学では神様を作ってはいけない」。

まさに現在なお、ダーウィンとアインシュタインが科学の神様になっている。テレビなどのマスコミがそれを助長している。このような一般向けのテレビ番組などがなくてもこのような神様を作る傾向はアカデミズムの中にもあるように言われている。その傾向をマスコミが拡大、助長してゆくことは報道の使命を放棄するものではないのだろうか。

アインシュタインの眼は科学の神様の眼ではないし、ダーウィンが来たから生物進化の事実が明らかになったわけでも、すべての生物の生態が明らかになるわけでもない。

少なくともこの2つの番組タイトルは止めてもらいたい。今彼でも変更するようにお願いしたい。


11/29 追記
もちろんアインシュタインやダーウィンを讃えてはいけないとか、称える番組があってはいけないなどと言えるわけはない。ただ、ダーウィンともアインシュタインとも直接関係のない内容の番組に安直にこういう個人名を使うことは良くないことだと思うのである。

金曜日, 11月 04, 2011

「坂の上の雲」 ― 言葉のイメージ ― 仰視的イメージと鳥瞰的イメージの両面

書店に行くと、今年もまた年末近くになって「坂の上の雲」特集本が並び始めたようだ。本のタイトルとして「坂の上の雲」は非常に意味深かつイメージ的な言葉であると思う。かつその喚起するイメージはかなり多義的というか、多層的と言うか、そういう面があるように思う。

以前このブログで書いたことだけれども、「坂の上の雲」が「丘の上の硝煙」というような意味も込められているような気がしたことがある。今回の場合は昨日、書店で「坂の上の雲」特集本を見ているうちに気づいたことの一つで、「坂の上の雲」というフレーズが持つイメージには仰視的なイメージと俯瞰的あるいは鳥瞰的なイメージとを同時に喚起するようなところがあるように思う。

一つは、坂の上の雲を見上げながら坂道を登ってゆく人物から見たイメージ。もうひとつは坂を登ってゆく人々と坂道全体、そして雲をも含めて遥か上方から見下ろしているようなイメージである。「坂の上の雲」というフレーズは、こういう多層的なイメージを喚起する言葉であると思う。多少似た言葉で、例えば「青雲」とか「青雲の志」といった言葉がある。こちらの方は視覚イメージからかなり離れていて、「坂の上の雲」のように具体的な視覚的イメージから遠いが、やはり、多少の視覚的なイメージはある。そのイメージは人物の視点で上方を見上げる仰視的イメージのみであって俯瞰的なイメージが殆どない点で、「坂の上の雲」とは異なるように思う。


「現代の坂の上の雲を見つけなければならない」という人は結構多い。もちろん比喩であるが、この比喩は適切だろうか?この場合の比喩は仰視的イメージに基づいているといえる。それはそれで一定の意味はあると思う。しかし、俯瞰的なイメージに基づいた比喩としてもそのようなことが言えるだろうか。


遥か上方から雲やその下方の山や丘、坂道を登ってゆく人物などを同時に俯瞰する立場からすれば、雲が何処で発生し、何処を通ってどう変化しながら、どのように流れてゆくのかが見えてくるだろう。もちろんそれでも雲の正体までは、それだけでは解らないのだろうが。