木曜日, 12月 30, 2010

池の畔の木造の校舎

水の少ない池と古い建物が写っているだけ。この写真、人が見てどんな印象を持つかまったく分かりません。カラーだともう少し明るい感じになったかも。実は筆者の通った中学校の校舎です。木造でぬくもりというか、風情はありましたが、冬は暖房もなく寒かったですね。よそ見をして窓の外の木々を眺めてばかりいました。

月曜日, 11月 08, 2010

無題

数日前に読み終わった「梅棹忠夫 語る」の中の件をまた思い出している。
以下、記憶をたどって引用しているので本の記述そのままではない。

氏曰く「宮本武蔵になるな、技を極めることの価値はわかるがそれが人を殺す技というのは淋しい」

また、新渡戸稲造の「武士道」をまったく読んだこともなく全否定している。


個人的に、私も護身術としての武術はわかるが、求道的な武術や剣術などは理解できたことがない。ただ、理解できたことがないだけであって全否定するだけの自信はなかった。

また新渡戸稲造の「武士道」もこの年になるまで読んだことがない。岡倉天心も、鈴木大拙も読んだことがない。しかし読まずに全否定するだけの自信を持ったことはなかった。


同じではないと思うが、武術や武士道の精神性というものは無神論、有神論とどのように関わっているか、考えてみたい。

梅棹忠夫は無神論者と思われるけれども、本の中では「老荘の徒や」と語っている。
宮本武蔵は無神論者ではなかったようだし、新渡戸稲造はもちろんクリスチャンである。

ところで宮本武蔵は絵を描いたが、絵をどのように考えていたのだろう。絵について何か語っているのだろうか。国立博物館で見た事がある。絵を描いていなければ評価も違ったものになっていた、という事はなかっただろうか。

こういう問題に付いては常に疑問形でしか書くことができない。

月曜日, 11月 01, 2010

少女の合唱と少年の合唱

合唱については結構いろいろと考える事がある。

例えば現在世界的に、ポピュラー音楽では合唱というのはあまり人気がないようにみえる。デュエットとかカルテットとかは結構あるが、多人数の合唱というのはあまりないのはなぜだろうか ― というようなこととか・・・これはやはり歌手の個性が出ないからだろう。

あるいは、合唱とピアノは必ずしも最適の組合せではないな、とか、

近頃は変わってきているかも知れないが、小学校から高校まで、音楽の授業と言えばピアノ伴奏の合唱ばかりだった。はっきり言って面白くなかったな、というようなこととか、

その他、全部言えばきりがないが、いろいろと考える。


最近思った事は、ヨーロッパには教会音楽の伝統もあり、ウィーン少年の合唱合団など少年合唱団が沢山ある。それに対して日本ではどちらかと言えば少女合唱団が活躍しているように見える。なぜなのかな、と思ってちょっと気になりだした。

たしかに少年と少女の合唱は一緒にするには馴染まないところがある。大人の男女のようにはっきりした音域と音色の違いがあるわけでもないので中途半端なところがあるのだろう・・・などと考えた。

実は下記を聞かせていただいた後このような事を考え出したのだけれども
http://www.youtube.com/watch?v=KJmU9Im-Evk&feature=youtu.be&a

後から調べて見ると、これを歌っているNHK東京児童合唱団のホームページを見ると男の子も何人か混じっている写真がある。ウェブで調べて見ると大抵の児童合唱団は少年少女合唱団となっていて、少なくとも名前には少女だけの合唱団はクラウン少女合唱団だけだった。

しかし放送で児童の合唱をきくとき、大抵は少女だけの合唱に聞こえるときが多いのである。先のNHK東京児童合唱団のホームページ写真を見ても少年の人数は非常に少ないし、少女だけしか映っていない写真もある。男の子の入団希望者が少ないことも原因のひとつだろうが、日本人には、というより日本の大人には少女合唱の音色が好まれるのではないだろうか。私自身、少女の合唱の声質は非常に気持ちが良くて好きである。

いっそのこと少女だけにしたらどうか。というより、少年の合唱と少女の合唱は分けた方がいいような気がする。

日曜日, 10月 31, 2010

PCモニター下の小さな地球儀



デスクトップのパソコンで仕事をしたり、なにやらしたりしていると、常に正面やその横もディスプレーで塞がれています。webを見ていたり、事務的な作業をしている場合はそれでいいのですが、自分の原稿を書いていたり、他人の文章で作業をしていても、こちらで考える必要があったり ― 翻訳などがそうですが ― という場合、常に正面に作業中の文章があるということは必ずしも望ましいことではないと思います。

本でも何でも他人の作品を読むときはその文面に集中しなければなりません。また前後の文脈にも眼を配らなければいけません。

しかし、文章を作るときはアイデアをどこからか見つけてこなければならない。そのときは書きかけの原稿に束縛されていては、よくありません。すでに頭の中に完成された内容があるのであればいいのですが、普通はそういう事はありません。

パソコンを使用しなかったとき、紙に向かってペンを動かしていたとき、原稿は机の上、眼の下の方にありました。ペンを止めたときはいったん眼を上げ原稿から離れるのが普通でしょう。正面に大きなディスプレーがあると、そういうわけには行かなくなってしまいます。このことに気付いてから、何とかこのことを解決する方法はないものかと思っていましたが、書店の地球儀コーナーに置いてあった小さな地球儀の事を思い出しました。それで昨日かの書店に行ってその1つを買い求めてきました。そして早速机の上の置こうと思っていた場所に置いてみました。この場所におさまるかな、とも思っていたのですが、予想よりも小さく、十分にその場所におさまりました。狭く小さな机なもので・・・。

置いてみて思った事は、球体というのは本当に存在感のあるものだな、という事です。その丸さ、丸みは板状や棒状の物ばかりが置いてある机の上では本当に強烈に存在を主張しているように思いました。いまは机の前に座っているときは、地球って本当に丸いなあ、という思いが離れません。

地球儀は子供の頃から欲しかったものの1つでしたが、どういう訳かこんな年になるまで、ついに手に入れることはありませんでした。いつも欲しいと思い続けながらも、いつまで経っても実際に買い求める機会がないようなものって結構あるのではないでしょうか。特別に高価な物ではなくても。

この地球儀は、手頃な価格で小さいながらも美しい色でデザインのバリエーションがかなりあり、どれを買おうかなと迷ったのですが、結局国別に色分けされ、海洋部が薄い水色のものになりました。海洋部が薄い褐色のアンティークタイプが落ち着いて美しく、好きなのですが、やはり海の部分は青系であって欲しかったものですから。これは非常に薄い水色ですが、箱にはホワイトと書いてあります。陳列してあるのを見てもちょっと見ると白に見えました。しかし、セロファンの窓つきの箱に入っているのは薄い水色に見えます。眼を近づけてみると確かに薄い水色に印刷されています。陳列してある物は隣のものや周囲との比較で真っ白に見えたのでしょう。色の選択っていうのは本当にむずかしいものです。小さくて手頃な価格のものだから、地形図タイプの物も加えて、複数あってもいいかもしれませんね。大きな物は高いし、多少大きくても所詮、地球儀では地図を見るという実用には無理でしょうから。場所があればもう少し大きくてもいいと思いますが。

銘柄はSTELLANOVAで、裏にはPrinted in Germany、Assembled in China、と書かれています。ネットで調べて見ると、やっぱり、すぐに日本語ページが沢山出てきました。ドイツの会社で、「世界各国の膨大な需要に対応するため生産工場を中国に移し、」とあります。ご多分にもれず、という感じですね。何故かアメリカではなくドイツの会社であることが嬉しい。「コンピューターを駆使したグラフィック印刷を地球儀に応用し、 球面にフィルムを一体成型するという製法を開発して、鮮明で歪みのない地図をつくりました。」とありますが、これだけではどんな印刷方法なのかはまったく想像できません。しかし、素人には、この印刷技術は素晴らしい技術に思えます。一体どういう技術なのだろうと思います。

地球儀で見ると、個人的には、日本は可成りの大国に見えます。緯度と経度が正確に出ているみたいですから、面積もそれなりに正確なのでしょう。― 日本はそんなに小さい国ではない ― 少なくとも個人的にはそう見えます。

土曜日, 1月 02, 2010

クラリネットはガラス工芸、ヴィオラは陶磁器

最近、名ビオラ奏者と言われるバシュメットという人の演奏するブラームスのヴィオラソナタ、つまりヴィオラとピアノによる二重奏ソナタ2曲とチェロが加わったビオラ三重奏曲の入った中古CDを買った。

ブラームスのこれらのソナタ集、すなわちクラリネット(ビオラ)とピアノによる二重奏ソナタ集の録音を買ったのは3度目になる。私は同じ曲のレコードを何枚も、何通りも購入するような音楽マニアでもなく、時間的にも経済的にも余裕のあるを送ってきたわけでもないが、なぜかこの曲に関しては、3回、時をおいて買っている。

最初はもうかなり以前というよりも昔、当時すでに過去の名盤の廉価版と言う形で、古いモノラル録音によるLPレコードで、演奏者はウラッハというクラリネット奏者と、ピアニストはもっと有名なイェールク・デムスだった。解説によるとウラッハはウィーンの伝統を体現した最高のクラリネット奏者であるとのことだった。

当時このレコードを何度か聞いてこの二曲が好きになった。しかし、古いモノラル録音のため、音の鮮度というものが物足りなく、特にクラリネットなど、音色に魅力がある楽器であるだけに、不満があった。それから幾年月かが過ぎ、今度はCDの時代になってからライスターというドイツの有名なクラリネット奏者の演奏で、これらブラームスのクラリネットソナタ集の録音を買った。

再生装置は少しも高級なものでは無かったが、やはり、新しいステレオ録音のCDは、以前のモノラル録音LPの音の不満を解消してくれた。演奏は、どちらが優れているかというような評価を下す能力は私には無いが、少なくとも演奏に不満を感じることも無かった。たとえばフランス人の名クラリネット奏者と言われるランスロの演奏するブラームスのクラリネット五重奏曲で感じたような演奏上の不満は無かった。

このCDであらためて感銘をうけたのは、クラリネット自体の音色の美しさもさることながら、クラリネットとピアノの組み合わせが持つ音色の豪華さであった。クラリネットとピアノの組み合わせはこの曲以外に聴いたことが無いが、この曲を聞いて実に豪華な音色がするものだと思った。豪華といっても極彩色という感じでもなく、黄金色に輝くような感じでもなく、なにに例えればよいかというと、無色で大粒のダイヤモンドのような豪華さなのだ。透明感とボリューム感とを備えた、やはりブリリアントという言葉がふさわしい豪華さである。

この二曲はどの解説でもブラームス晩年の枯淡な境地を表現したものだと解説されている。確かにメロディーは、そして個々の表現そのものはそういう枯淡なものかもしれない。しかし音色、楽器というよりも楽曲の音色は本当にブリリアントで豪華に感じられたのである。

このCDはある理由で過去に手放してしまい、今は無いので、またこの曲を聴きたいと思っても、古いLPは今聞ける状態で無く、今度上記のヴィオラ演奏による中古CDをネットで購入した次第。このCDが出たころ、何か新聞か、雑誌の立ち読みかで、賞賛記事を見た記憶があった。当時は即購入して再生装置で楽しむような状況ではなかったが、最近ヴィオラが流行というか復興しているとかいう機運もあるそうで、確かにヴィオラでこの曲を聴くのもよさそうだという思いもあって、ネットで中古を見つけて購入した。はっきり記憶しているわけではないが、ラジオでヴィオラによる演奏を一度聞いていたかもしれない。

このバシュメットの演奏を何度か聴いてまず思ったことは、クラリネットによるこれまで聴いていたこの枯淡といわれる曲の印象に比べて情熱的な面が表面に出てきているような気がした。演奏家の表現による部分もあるだろうが、やはり、楽器の特性にもよるのではないかと思う。ヴィオラの演奏は何か筋肉質とでも言った感じがする。考えてみれば、こういう弦楽器は全身の、特に腕と手の筋肉を使って演奏するものだ。それに対してクラリネットなどの管楽器は呼吸器という内蔵あるいは横隔膜を使って音を出す。そういう違いが音の表情にも表れてくるのかもしれない。

他にやはり、この曲は本来クラリネットのために書かれた曲だなと思わせるところが多くある。特に装飾的な箇所と弱音箇所がそうだ。クラリネットでは弱音の箇所では、空気に溶け込むような感じなのに対して、弦楽器のヴィオラでは弱音の箇所も輪郭がくっきりとしている。これは振動する共鳴体のもつ表情によるものだろうと思われる。ヴィオラでは強靭で細い絃が振動し、これもまた薄くて強靭な木の箱が共鳴する。それに対してクラリネットの場合は振動版と空気の柱とが共鳴するが、空気の柱には周囲の空気との、はっきりした境界がない。

そういう、周囲の空間に溶け込むような音色が、枯淡といわれるこの曲に向いているのかもしれないが、その一方、腕と指で正確に繊細な動きを細く強靭な弦に伝える弦楽器であるヴィオラの場合には別の意味で繊細、微妙な、しかもくっきりとした表情が付けられているようにも思われる。


以上のようなクラリネットとヴィオラの表情の特徴を簡潔な比ゆで表すとすれば、クラリネットはガラス工芸、ヴィオラは陶磁器といえばよいのではないかと思う。ただ、面白いことにこの比ゆは木管楽器全般と弦楽器、それも擦弦楽器全般に及ぼすことが必ずしも適当とはいえないと思われることだ。

ヴィオラが陶磁器であるとしても、ヴァイオリンとチェロも陶磁器的とは必ずしもいえない。同様に、フルートやオーボエ、ファゴットなどもガラス工芸的とは必ずしもいえない。チェロが人声に近いというのはよく言われることだが、これは同じ音声同士の比較だからあまり面白くない。いっそ、ヴィオラを磁器に、チェロを陶器に例えることはできるかもしれない。そうするとヴァイオリンは何になるだろう。ヴァイオリンになると、そういう工芸的なものというより、絵画になるとでもいえるかもしれない。

面白いもので、ヴァイオリン族の楽器は何れも独奏やピアノとの合奏、弦楽合奏、弦楽四重奏などの室内楽では随分と印象の異なった音になる。独奏も弦楽合奏も非常に派手で、華やかな音になるのに比べて弦楽四重奏では地味な音になるということは面白い現象だと、前から思っていた。編成によって全く異なった表情をもつようになるものなのだ。

こんなことを重要なことに思い、考え続けるのも、ひとつには昨年、カッシーラーの「シンボル形式の哲学」を読んだことの余韻がある。それによると、人間の感覚、感覚内容、今の言葉で言えばクオリアよりもさらに深い認識の根源に表情機能がある。この部分の考察に共感覚も絡んでいたような気がする。とにかく難解であり一度通して読んだきりで、理解できたと言えるわけも無いが、この根源的な表情機能とのかかわりで、視覚と聴覚などの異なった感覚に共通する共感覚にも関わってくるような、この楽音と工芸素材との比較、あるいは比喩、さらには単なる楽音を超えて音楽作品そのものと風景やドラマとの関わりといったものにおける共通する表情の問題という深みにはまって行きそうなのだ。


ところで、枯淡といわれるこの曲だが、枯淡という表現がぴったりという感じでもない。確かにメロディーは若々しいというわけではないが、結構激しい感情が感じられるところもある。ただ、確かにどこかほの暗い雰囲気の中の叙情という感じはする。とくに第二番の方は、ほの暗い遠景が感じられる。もっと具体的に言ってしまうと、やや広い盆地の一端のちょっとした高みから向こう側の遠い山々とふもとの町々を黄昏のほの暗い空気の中で眺めているような印象のメロディーに感じられる。これはやはりクラリネットの演奏で特に感じられることだ。ヴィオラでも、夕方か黄昏に近い感じはするが、ただ、ちょっとメロディーの線がくっきりと明るく明瞭に見えすぎるようだ。クラリネットは音色が透明なだけに、遠景のほの暗さがそのまま透けて見えるようだ。それでいてピアノとの組合せはダイヤモンドのようにブリリアントなのである。