数日前に読み終わった「梅棹忠夫 語る」の中の件をまた思い出している。
以下、記憶をたどって引用しているので本の記述そのままではない。
氏曰く「宮本武蔵になるな、技を極めることの価値はわかるがそれが人を殺す技というのは淋しい」
また、新渡戸稲造の「武士道」をまったく読んだこともなく全否定している。
個人的に、私も護身術としての武術はわかるが、求道的な武術や剣術などは理解できたことがない。ただ、理解できたことがないだけであって全否定するだけの自信はなかった。
また新渡戸稲造の「武士道」もこの年になるまで読んだことがない。岡倉天心も、鈴木大拙も読んだことがない。しかし読まずに全否定するだけの自信を持ったことはなかった。
同じではないと思うが、武術や武士道の精神性というものは無神論、有神論とどのように関わっているか、考えてみたい。
梅棹忠夫は無神論者と思われるけれども、本の中では「老荘の徒や」と語っている。
宮本武蔵は無神論者ではなかったようだし、新渡戸稲造はもちろんクリスチャンである。
ところで宮本武蔵は絵を描いたが、絵をどのように考えていたのだろう。絵について何か語っているのだろうか。国立博物館で見た事がある。絵を描いていなければ評価も違ったものになっていた、という事はなかっただろうか。
こういう問題に付いては常に疑問形でしか書くことができない。
0 件のコメント:
コメントを投稿