土曜日, 12月 31, 2011

タブレットPC用の辞書を購入してみた


(このとこころタブレットPCのことを書いていますので引き続いて書きます)

タブレット購入の目的は前回書いたとおりだが、電子書籍として利用したいj気持ちももちろんあった。もともと電子書籍だけが目的というわけではなかったのでグーグルや青空文庫のように無料で読める電子書籍が利用できるだけでも不満はなかったのだが、もちろん電子書籍を購入することも興味はあった。機種はAcerのアイコニアというもので、これにも電子書籍を購入できるサイトは組み込まれているが、日本のサイトではない。しかしガラパゴスストアにつらなるガラパゴスアプリがダウンロードできることがわかり、即ダウンロードしてみた。


という次第でアプリをダウンロードはしたが、実際にすぐに飛びついて書籍を購入するまでにはいたらなかった。やはり、いまのところ紙の本と同じくらいの価格なのでどうしてもそう気軽に購入する気にはなれない。あるいは雑誌、週刊誌など、購入する習慣がついてしまえばいくらでも無制限に購入してしまいそうになるという恐れもある。

そんなとき先日、はじめて辞書、研究者の「医学英語辞典」を購入してみた。別に医学の勉強をするわけでも医学の翻訳をするわけでもないのだが、医学に関わる分析装置や畜産関連の仕事が入ることもあり、また生物学など、他の専門分野の語彙も含まれていることもありで、購入を決心した次第。

購入したもう一つの大きな理由は、購入時点で来年、いまはもう今年の10日まで辞書の半額セールをやっていてその中にこの辞書も含まれていたからである。半額で実質3000円であった。内容は多少異なるかもしれないが紙の本では1万円以上するようだから、相当な割安感がある。

タブレットの機種はエイサー製でガラパゴスアプリの動作が保障されている製品ではなく不安だったが試し読みで一応は使えそうだったので、とりあえずこの一冊を購入してみたわけである。

いろいろ不安な点や問題点ももちろんある。例えば、シャープの専用端末では可能なパソコンへのバックアップができなかったり、動作にもかなり制限があるような気がする。しかし一応、すべての内容は表示されるので、まあ購入してよかったと思っている。

このアプリ自体にもいろいろ不満や気に入らないところもあるが、しかし、この辞書半額セールには1万円以上の高額な辞書もいくつか含まれているので、それらが欲しい人には魅力的だと思う。


宣伝する意図はないけれども、半額セールは1月10日まででもうすぐ終了するので、参考になる人もいるかもしれないと思い、急いで書いてみた次第。

2013/1/4 追記
同日付の新しい記事にも書きましたが、この辞書のタブレット版には問題があるように思います。内容的な問題には触れませんが、設計上の問題として普通のPC辞書のような検索方法ができないことがかなりの欠点と感じられます。検索がまったくできないわけでもありませんが、かなり面倒で、見出しは基本的にブラウズすることで見つけることになりますが、スライダーでのブラウズはかなり大まかで、正確に目的のページにブラウズすることは難しく、必然的に1ページづつ移動する必要が出てきます。そのこと自体に問題はないのですが、10インチ以上の大きな画面にわずか2,3行の1項目しか表示されないことに大きな問題があります。ですから1ページづつ移動することで、1項目づつしか移動できないことになります。したがって目的の項目に移動するまで際限なくクリックし続ける必要が出てきます。項目によっては詳しい説明で行数の多い項目もありますが、殆どが2行程度の項目です。とにかく10インチタブレットの、せっかくの広い表示面積が無駄になり、実に効率の悪い設計となっていると言えます。もしかしたら、タブレットの機種にも依存することかもしれませんが。



月曜日, 12月 12, 2011

タブレットPCの良いところ

10インチのタブレットPCを購入して一週間程が過ぎた。

まずPC作業の補助として、PDFの翻訳原文やOFFICE系ファイルなどをタブレットに表示させるという当面の目的では実際に使って見ることができ、これは正解だった。大画面のデスクトップ型ディスプレイやマルチスクリーンに並べて表示させるよりも、ずっと見やすく操作しやすいと思う。その理由はおもに次の2つだといえる。

1.画面の位置。机の上に本やノートのような状態に置くことができるということ。
2.画面の精細さ。デスクトップディスプレイに比べて、大きさの割に解像度が高いこと。

つぎに、パスワードを入力する程度の事以外は、タブレットで入力する作業は、しばらくできなかった。しばらくは日本語入力ができるかどうかも分からなかったし、第一メモ帳のようなアプリケーションがプリインストールされていなかったからである。

ただ、AcerのこのタブレットではGメールが既定のメールソフトになっていて、Gメールの下書きをパソコンと共用できるメモとして使用できるという、前回の記事で書いた野口先生のアイデアは使えそうで、せいぜい利用したいと思っている。

昨日になってやっと、最初から日本語入力システムが入っていることが分かり、使ってみたが使いづらく、ATOKの評価版をダウンロードせざるを得なかった。また無料のテキストエディタをダウンロードし、パソコン作業に使っている机ではなく、畳の部屋でテレビを前にしながらテキストの入力を試みた。

実際にはキーボードをUSBでつないでやってみたが、予想外に良い感じである。少なくともデスクトップPCでの作業に比べて、紙に手書きしている感覚に近いと思われる。多少ともクリエーティブな作業、自分の考えをまとめるような作業の場合にはこちらの方が良いような気がする。

なぜかと考えてみると、やはり、上述の1.や2.のような要素も大きいが、それに加えて次のような違いが考えられる。

3.入力する場所と画面が距離的に近いこと。

これも結構重要なことだと思うのである。
普通、パソコンを使うにはブラインドタッチを覚えることが前提とされる。通常のデスクトップのディスプレイで効率を上げるにはそうせざるを得ない。

ノートパソコンではキーボードとディスプレイがずっと近くなる。ただ個人的に、ノートパソコンは殆ど使ったことがなかったのでこれまで気がつかなかったのだろう。

もちろんノートパソコンでもタブレットでもブラインドタッチはできる方が良いに決まっているが、距離的に入力画面に近く共に目に入るのは好ましいことなのだと思う。マウスを使わずに指を目的に位置にもってくるということも同じ意味で好ましいことだといえる。

以上の中でも、紙や画面を机上に広げて、下を向いて書いたり入力したりするというのは最も重要なことではないだろうか。

一般に、物事を考えながら文字を書いたり入力したりする場合は、下を向くほうが集中できるのではないか。そして紙なり、画面なりから眼を解放する場合は顔を上げて遠くを見たりする。その方が自然なのではなかろうか。デスクトップのパソコン画面ではそれが逆になる場合が多いのである。

教師や学者が学生に講義する場合は、伝統的に黒板の類を使うものだが、自分自身の研究では机の上に本やノートをおいて作業をするのが普通であった。個人的な研究室や書斎に黒板などをおいて研究する研究者の話などはあまり聞かない。

以上のような次第で、タブレットPCには結構期待している。

★縦書きのテキストエディタが欲しい。
★産経新聞のandroid版と同じような仕様で、内容の優れた新聞を安い価格で読みたい。
(今ちょっと思い出した要望)

月曜日, 11月 28, 2011

野口悠紀雄著『クラウド「超」仕事法』と個人的問題および日本の問題

土曜日の夕方、表記の本を購入してその夜から読み始め、日曜の午後に読み終わった。この種の新刊書を発刊後すぐに購入して読むのは、貧乏でけちな私にしては珍しい。特に最近は文庫本か安い古本ぐらいしか購入しなくなっている。また野口悠紀雄氏の著書を購入するのも始めてである。

実は最近、PC関連機器の使用方法や購入について悩んでいたところなのだ。それにスマートフォンの事も含まれていた。

今月の始め、もう何ヶ月かにもわたって携帯電話会社から催促されていたこともあって携帯電話の機種変更をした。その時、スマートフォンという選択肢をも考えていたのだが、個人的な用途を考えて10インチのタブレット端末とか7インチの電子書籍端末とか色々迷っていたのである。結局、携帯電話の機種変更の時は、スマートフォンを有効に使うには自分には小さすぎるだろうと思い、選択肢から外した。その日はカメラ機能を重視することにしてそれを店員さんに伝えたところ、それに応じてすぐに選んでくれた機種にあまり迷わず、手っ取り早く決めてしまったのである。

その結果、確かにカメラ機能の高さに驚いたのだけれども、それは他の機種も大して変わらなかったかも知れない。それ以上にインパクトがあったのは液晶の画質、特に解像度が高くなっていることだった。これはある程度予想がついていた。自分では持っていなかったが、電車の中などで他人がこの種のモバイルを扱っているのを垣間見るにつけてもこういう小画面液晶の解像度が著しく高くなっていることに気づいてはいた。しかし実際に今度の新しい携帯の画面を見て、カラー印刷以上の解像度(この場合解像度を画素数つまり表示範囲の広さのことではなくむしろDPI、つまり精細さの意味で言っている)を持っている。そして文字表示も印刷に劣らず、小さな文字もはっきりと読める。これならスマートフォンの画面の大きさがあれば十分にウェブ閲覧にも、PC画面の表示にも使えそうだということがわかり、スマートフォンを選択しなかったことを幾分後悔していたところなのだった。


パソコンなどで仕事をする際いろいろと問題があるが、最近とくに悩んでいたのは眼の疲労の事だった。私の場合パソコンを使用しての作業で主要なものは翻訳作業なのだが、現在では事実上この仕事はパソコンとインターネット環境がなければ不可能であるし、逆にこの仕事ほどパソコンとインターネット環境が有利に働き、その恩恵に浴している仕事も少ないのではないかとも思っている。しかしデメリットも当然あるので、その中でも眼にかかる負担は最大のものだと思う。

そこで今年のある時期、メインのディスプレイの位置、特に高さが特に問題なのではないかと考え、高さを低く調節できるという30インチ近い大型のディスプレイを購入してみた。その結果、確かに高さを少し低くできたのは良かったが、満足できるほど十分に低くできたわけでもなかった。それよりもこんなに大きなディスプレイが目の前を塞いでしまうことで、それがむしろ眼を圧迫するような感じになってしまった。さらに画像の場合は問題ないとしても文字の表示に問題が出てきた。かなり大きく表示しても文字の線がか細く表示され、読みづらく眼の負担になる。文字の表示とディスプレイの解像度(画素数)にはどうやら相性がありそうだ。単純に画面が大きい程よいというわけでもないことに始めて気がついた。その時も2つのディスプレイを使ってはいたが、画面を大きくするよりも小さいディスプレイを幾つも使うほうが良いということに気づいたのである。そんな時期にスマートフォンとタブレットPCに関する興味が加わった。要するにPC作業の補助ウィンドウという目的と、タブレットやスマートフォン独自の目的、電子書籍的な目的、すべての目的機能を1台で併せせ持つような機種がないものかと欲張った事を考えていた。しかしどうやらスマートフォンはタブレットPCとは別ものと考えた方がよさそうだ。それに気づいて上述の通り、携帯電話機の更新の際にスマートフォンを選択しなかった事を少々後悔し始めていたときであり、同時にタブレットPCの選択に迷っていたときにこの本に遭遇した次第であった。

この「超仕事法」という本のテーマの中でスマートフォンが重要な意義を占めていることが特に、珍しくもこういう新刊書を即購入して即読了したことの動機になっているは上述のとおりであるが、もちろんこの本のテーマは仕事法であり「クラウド」を活用する仕事法のことである。そこのこの著者独自の「超整理手帳」術が加わる。

個人的に、複雑なスケジュール管理を強いられるような社会的な立場にいるわけではないし、これまで手帳でスケジュール管理をするようなことはして来なかったが、やはり自分なりに、個人的にもいろいろ計画はあるし、外から仕事が入ってこないわけではない。普通の会社では定年になる年齢にもすでに到達済みであるが、収入を得るための仕事は是が非でも続けなければならないし、個人的にやりたいこともまだ模索中である。そんな時期、やはりスケジュール管理もまじめに考えなければと思い始めていたところでもあった。折しも少し前、友人から「yPad」という手帳のことを教えられ、勧められていた。大型書店で見つけられなかったが、近所の中型書店で見つかり、ハーフサイズ版をとりあえず購入した。なるほど従来の手帳とは一味違っている。何よりも日付が印刷されていないのが良い。ただ、今のところまだ使い始めてはいない。

そんなこんなで、この本に興味を持って読了した次第であるが、野口悠紀雄氏の著書を購入して読むのはこれが始めてである。けれども著者にはこれまでにも結構関心があり、ホームページや、雑誌の記事など、ネットで良く読ませてもらっていた。ただ当方は経済音痴である上に著者の金融業重視とアメリカ文化への傾倒の深さにはかなりの反感を持っていたから、その考えを受け入れるつもりでいたわけではない。ただ、他の多くの親アメリカ的経済コメンテーターに比べては好感度は高い方だった。


この本の内容は2つに分けることができるように思う。もちろん、主要なのは技術的なもので、表題どおりクラウドを利用した仕事術である。ここで「クラウド」とはいわゆる「ネット」のことであるとも言えるが、さらに具体的には当面、グーグルのGメールのことである。他の著者の本に「Gメール仕事術」という本があったように思う。読んではいないがかなり重なる部分がありそうである。

個人的にGメールはかなり以前からバックアップ用に取得はしていたがメインには使っては来なかった。使用しているメールソフトに馴染んでいたこともあるし、Gメールの使い方を覚えるのが面倒だったこともある。ただ、最近、別のコンピュータ、別の部屋にあって主にテレビと音楽用に使っているコンピュータからメールを見るために、時どき使うようにはなっていた。今後、もしも自宅以外からPCのメールを見る必要が生じるようなことがあれば確かにGメールしかないと思っていたし、Gメールの特徴も少しづつ気づくようになってきてはいた。著者の、Gメールを個人データベースとして使用するやり方は確かによさそうで私個人的にも役立たせられそうである。まず、Gメールの「下書き」機能を、メモやGメール以外の何らかの下書きに利用するという利用方法から始めることにした。検索やラベルを貼って後から利用できるというわけである。もちろんこの場合のクラウドはグーグルのことである。


さて、このような形でグーグルに依存することへの危惧について、著者は心配するに及ばないと考えているようだ。この問題は「クラウドは民主主義と両立するか」という第7章のテーマになっている。そこで著者はグーグルは「ビッグブラザーになるだろうか」という設問に対して、「恐らくそうはならないだろう」と言っている。その直接的な理由は経済的なものである。すなわち、そういうことにはコストがかかりすぎる上に得られる利益が少ないという理由。もうひとつはアメリカの民主主義に対する信頼感である。

このあたりの著者の認識には私はついて行けない所がある。まず、グーグルは単に利益をあげることを至高の目的とする人たちだけで成立したとも思えないし、いつまでも経済的な意図だけで運営され続けるという保証もないからである。今後の、発展段階においてどの様な意図が入り込んでくるかも分からない。理想主義もあると思えるし、宗教的信念も含まれる可能性もある。当然権力志向的な悪魔的な動機も入り込み得ると思えるのである。

一方、グーグルやマイクロソフトやアップルなど、個々の企業とアメリカ民主主義とを単純に同質のものと見なして良いのかどうかも分からない。またアメリカ民主主義とアメリカ国家を同一視しして良いとも思えない。アメリカ国家が本当にアメリカ民主主義だけで動かされているのであればイラク戦争のような戦争ばかり起こしているはずがない。


先に述べたように、この本の内容は2つに分けられる。というか、メインテーマである仕事術の具体的な技術の他に思想的な部分が付加されている。一方で仕事術の部分にもその基底にそういう思想的なものがある。何といっていいのか分からないがアメリカ思想とでも言えば良いのか、アメリカ的知性と文化に対する信頼感とでも言うのだろうか。とはいってもできればアメリカの国籍をとり、アメリカ人の立場で発言するという立場ではなく、あくまで日本の国益を考えてのことであることは判る。その思想的な部分には納得できる面はあっても、やはり反感を覚えざるを得ない所がある。

著者が学問的には金融の専門家であって、金融工学の重要性を説いていたことは経済金融音痴の私でも知っている。たとえ素人向けでも、その方面の著書を買ってまで読むことはなかったが、アマゾンの書評などを結構読んだ記憶はある。それによると、例のリーマン・ショックの後はやはり、痛烈に批判されていたようである。それに対して氏は金融工学と金融工学を使うこととは別のことであるという考え方を表明されていたようだ。金融工学自体は便利な道具に過ぎず、よく用いることも悪く用いることもできる。というものである。それに対してあるアマゾンの書評欄で、学問分野とその学問を作り、運用する人間とを切り離すことはできない。人間から切り離された抽象的な学問というようなものはあり得ないと批判されていたのを読んだ記憶がある。確かにその通りである。だいたい道具という概念自体、人間から切り離して考えることはできない。料理用に作られた包丁は確かに殺人の目的にも転用できる。しかし本来はあくまで料理目的に作られるものである。一方、刀剣は最初から武器としての使用を目的に作られるものである。金融工学は多分武器だったのではないかな。もちろん当初は武器として発明されたダイナマイトが産業用に使用されるようになったといった例も当然ある。という次第で、金融工学も使いようで社会のためになるという考えももちろん全否定する必要もないとは思う。

という訳で強いて言えば氏の立場は経済を純粋に経済として考えるというように言えるのではないだろうか。純粋な経済学とか金融工学とかいった枠があって、その枠とは別の枠に政治や歴史や心理などがある。つまり経済自体の中に政治や歴史やその他諸々を取り込まないといった印象である。

そんな著者が信頼を置くアメリカの知性の代表的なものがITと金融工学なのだろうと思う。この本ではもっぱら日本におけるIT使用の後進性が指摘されている。それら自体はどれももっともで納得できる事柄が多い。しかし、金融工学の場合と同じく、著者の捉え方は抽象的あるいは純粋経済的で、歴史的な文脈や政治的なものあるいは軍事的な問題などから切り離された文脈で比較しているように見える。

例えば携帯電話のいわゆる日本のガラパゴス化が批判されている。しかしガラパゴス島における生物のガラパゴス化は、ガラパゴスの生物自身がそれを望んだわけではなくガラパゴス島の地理と歴史的条件によってそうなったものである。日本の携帯電話のガラパゴス化も必ずしも日本の精神風土、文化や日本人のITセンスの欠如という問題ではなく、携帯電話の発展過程における1つの必然のような面もあったのではないだろうか。技術の世界では一番手を二番手が追い越すことはよくある事だ。個人的にこの方面に詳しい方ではないが、携帯メールも携帯にカメラを付けることも日本が最初だったと記憶している。著者も指摘しているように、スマートフォンには多くの日本の技術が取り入れられているのは当然だと思われる。そういうことを思えば日本の携帯電話をガラパゴスと批判するのは酷であると思う。もちろん著者の批判するような要素を否定するわけではない。


以下、(時間が無いので)著者の考えに対して素朴ながら、かなり疑問に思う個所を、2つほど列挙してみたい。
◆『1990年代以降の日本の停滞と衰退の大きな原因は、ITがもたらした大変化に、日本社会が対応できなかったことだ。そのことが、クラウド時代になってますます顕著になっている。』
これ自体にかなりの真実が含まれているかも知れない。しかし、いまや誰もが知る通り、衰退しているのはアメリカやイギリスといったIT先進国も含めて先進国全体であることは常識ではないのだろうか。国家の衰退といった大問題にIT(この本の範囲外だが、それと金融)だけで対応できるというのも非現実的で、現在の世界(経済)情勢から見てももはや一般人に対して説得力がないと思う。

◆『日本のエレクトロニクスメーカーは、機器の製造にとどまっている。・・・・「機械しか作れない日本企業に未来はない」と考えざるを得ないのである』
経済学者で金融の専門家である著者がIT技術とIT産業に対してどの程度精通されておられるのかは、私には知る由もないが、確かにスマートフォンなどを含めた世界のIT業界で覇権を競っているのは米国企業ばかりで日本の企業は「埒外に置かれている」ことは誰の目にも明らかである。しかし、それがアメリカの一部の企業の繁栄や国家のイメージにはつながっても、雇用にはつながっていないことに、一般人としてはどうしても眼が行くのである。ソフトウェアもインドなどにアウトソーシングされていると聞く。こういう国外へのアウトソーシングは製造業よりもソフトウェアの方がはるかに簡単にできそうだ。実際、IT産業だけではない国家の失業率の点でも常にアメリカが日本のずっと先を行っている。


以上を要するに、著者の技術、技法だけではなく思想をも含めて、各自が個人の問題として受け止めるには非常に有益で傾聴に値する内容だと思います。一方で日本の問題、あるいは世界の問題として受け止めるには相当問題があり、限定的に受け止めなければならないだろうというのが結論。

基本的に良書だと思います。読んでよかった。

土曜日, 11月 26, 2011

科学の神様

NHKの番組で「アインシュタインの眼」というのがある。また以前から「ダーウィンが来た」という生物の生態を紹介する番組があり、一時、見ていたことがある。こういったように科学や生物の番組のタイトルに、このような超有名な科学者個人の名前を安直に使うのは非常に良くないことだと思う。

昔、教養物理の先生が講義中によく言っていた発言が頭に残っている。「科学では神様を作ってはいけない」。

まさに現在なお、ダーウィンとアインシュタインが科学の神様になっている。テレビなどのマスコミがそれを助長している。このような一般向けのテレビ番組などがなくてもこのような神様を作る傾向はアカデミズムの中にもあるように言われている。その傾向をマスコミが拡大、助長してゆくことは報道の使命を放棄するものではないのだろうか。

アインシュタインの眼は科学の神様の眼ではないし、ダーウィンが来たから生物進化の事実が明らかになったわけでも、すべての生物の生態が明らかになるわけでもない。

少なくともこの2つの番組タイトルは止めてもらいたい。今彼でも変更するようにお願いしたい。


11/29 追記
もちろんアインシュタインやダーウィンを讃えてはいけないとか、称える番組があってはいけないなどと言えるわけはない。ただ、ダーウィンともアインシュタインとも直接関係のない内容の番組に安直にこういう個人名を使うことは良くないことだと思うのである。

金曜日, 11月 04, 2011

「坂の上の雲」 ― 言葉のイメージ ― 仰視的イメージと鳥瞰的イメージの両面

書店に行くと、今年もまた年末近くになって「坂の上の雲」特集本が並び始めたようだ。本のタイトルとして「坂の上の雲」は非常に意味深かつイメージ的な言葉であると思う。かつその喚起するイメージはかなり多義的というか、多層的と言うか、そういう面があるように思う。

以前このブログで書いたことだけれども、「坂の上の雲」が「丘の上の硝煙」というような意味も込められているような気がしたことがある。今回の場合は昨日、書店で「坂の上の雲」特集本を見ているうちに気づいたことの一つで、「坂の上の雲」というフレーズが持つイメージには仰視的なイメージと俯瞰的あるいは鳥瞰的なイメージとを同時に喚起するようなところがあるように思う。

一つは、坂の上の雲を見上げながら坂道を登ってゆく人物から見たイメージ。もうひとつは坂を登ってゆく人々と坂道全体、そして雲をも含めて遥か上方から見下ろしているようなイメージである。「坂の上の雲」というフレーズは、こういう多層的なイメージを喚起する言葉であると思う。多少似た言葉で、例えば「青雲」とか「青雲の志」といった言葉がある。こちらの方は視覚イメージからかなり離れていて、「坂の上の雲」のように具体的な視覚的イメージから遠いが、やはり、多少の視覚的なイメージはある。そのイメージは人物の視点で上方を見上げる仰視的イメージのみであって俯瞰的なイメージが殆どない点で、「坂の上の雲」とは異なるように思う。


「現代の坂の上の雲を見つけなければならない」という人は結構多い。もちろん比喩であるが、この比喩は適切だろうか?この場合の比喩は仰視的イメージに基づいているといえる。それはそれで一定の意味はあると思う。しかし、俯瞰的なイメージに基づいた比喩としてもそのようなことが言えるだろうか。


遥か上方から雲やその下方の山や丘、坂道を登ってゆく人物などを同時に俯瞰する立場からすれば、雲が何処で発生し、何処を通ってどう変化しながら、どのように流れてゆくのかが見えてくるだろう。もちろんそれでも雲の正体までは、それだけでは解らないのだろうが。

火曜日, 9月 20, 2011

現実のドラマ化と音楽、ナレーション

最近、NHKテレビ(Eテレを含め)でよくあるドキュメンタリー番組で音楽が使われることに違和感を感じることが多くなった。

ドラマ以外のテレビで音楽が使われる場合の違和感というのは以前から気になることが多かった。特に最近のニュース番組でそれが言える。そういえば音楽だけではなくナレーション自体もそうである。ナレーションの声調や表情なども音楽と考えれば、これも音楽に含めて考えることができる。通常のアナウンスのように視聴者に向かって語るのではなく、1つの表現行為としてのナレーションになっているのである。

テレビラジオを含めて放送のニュースというものはアナンサーが局を代表してリアルタイムで原稿を読み、語るのが本来のスタイルであったと思うけれども、テレビニュースではいつの頃からか、録画を構成した画面にナレーションが付けられたドラマ仕立ての断片が挿入されるようになっていた。個人的な記憶では、テレビ朝日のニュースステーションでこの傾向が気になり始め、次第にこういうのを見聞きするのが気持悪くなり、このニュース番組を見るのをやめて以前見ていたNHKのニュースを見てみたが、ニュースキャスターの態度もさることながら、NHKのニュースもこの傾向が強まってきたので、夜9時から10時台のニュースで見るものはなくなってきた感じである。この気持の悪さは、現実がドラマ化、それもドラマと意識されずにドラマ化されている気持ちの悪さである。

今はあまり使われなくなったが、かつてバーチャルリアリティーという言葉がよく使われた。そして現実と虚構との区別がつかなくなることの弊害などがよく議論されたものだ。そういう現実と虚構あるいは捏造との区別が曖昧にされるという手法がまさにテレビニュースで使われているのではないかという気持ちの悪さである。

端的に、人間性悪説に立って製作者の意図を意地悪く推し量るとすれば、理性的な内容の不足あるいは誤りを感情的な効果で埋め合わせようと言うか誤魔化そうという意図で簡単に説明してしまうこともできる。

【科学的な問題を感情に訴える議論で扱う傾向】
この、感情に訴えるという傾向は単に音楽を利用するというような次元をこえて、言語表現自体の次元でもマスコミ、ネットを問わず、言論、議論の場で幅をきかせるようになってきているのではないかという思いがある。それが普通の政治問題や社会問題であるなら昔からそう変わっていないともいえるが、科学の問題においてもその傾向が顕著になってきたような気がする。もっとも科学の問題も現実の社会で論じられる場合はもうすでに純粋な科学の問題を超えていることには違いない。特に自然現象や科学技術に関わる問題が政治問題化する機会が増してきたことも大きく関係している。311地震と原発事故以後、特にそうである。

もう今では古くなりつつある(ことを希望するが)CO2温暖化問題にも感情的なものが関わっていることは明白だと思っているけれども、原発事故後の放射線問題では特に科学的で客観的であるべき問題に感情に訴える議論が専門の科学者や技術者にも目立つようになってきたように思う。もちろんジャーナリストやコメンテーター、あるいは個人の活動家やネットの一般人もそうである。

例えば、科学者の誠実さといった側面が問題にされ、それが主張の正しさを保証する条件のように言われる。誠実さとか正直さ、人格などを拠り所にその人物の主張を信頼するというのは各個人レベルの問題である。信仰と同じことであって、ジャーナリスト的立場の人物(個人であろうとメディア団体であろうと)がそういうことを根拠に科学的な問題を論じたり報道したりすべきではないと思う。当然反対の主張をする科学者を誠実な人格者であると見る人もいるわけである。もちろん、個人的な印象としてそういう気持ちを表明することが悪いわけではないが、それを科学的な問題の判断の論拠にするべきではない。

私自身、このブログの先回の記事で稲恭宏博士のビデオを見て氏の科学者としての態度に感銘を受けたことを書いた。しかしそれは私個人レベルのことであって、そのことに触発されて、低線量放射線問題の資料や論文をネットで調べた結果、放射線リスクの閾値説の正しさに確信を持ったわけである。あくまでも触発された結果として資料にあたったわけであって、彼の博士が誠実に思われるからという理由で閾値説を支持したわけではなかった。

声高に叫んでいるとか、熱心さとか、情熱的であるとか、献身的に見える活動をしているとか、そのようなことは外面的なことであって、実際に誠実であるかどうかは最終的な情報の受け取り手自信が判断することである。

そういう個人的な印象を伝えたいと思うのは人情であってそれ自体は非難すべきことでも何でもないが、それだけで終わって肝心の事実問題、科学的な事実と理性的な判断に影響しては何にもならない。

ともかく、特に放射線問題では言葉での議論自体の中に感情的な要素が大きいのである。テレビの場合はそこへ持ってきて映像の他に音楽による演出まで加わると感情的なノイズが増幅されるばかりである。

テレビのドキュメンタリーに音楽が使われることへの不快感を強く意識し始めたのは6月に放送されたETV特集を見た時からである。いまNHKホームページで確認してみると、その時のタイトルは「続報ネットワークでつくる放射能汚染地図」とそれに引き続いて放送された「暗黒の彼方の光明~文明学者~梅棹忠夫」である。最初の番組の冒頭から、気を滅入らす不気味な音響が用いられて嫌な予感がしたが、内容的には情報量としても密度が低い印象であった。次の梅棹忠夫の業績をテーマにした番組も同様である。不気味な音楽をバックに何人かの学者コメンテータの単なる印象や抽象的な絶望感といった程度のコメントを話しているだけの具体性の乏しい内容だった。去年になるかもしれないが、筆者も梅棹忠夫に興味を持って「梅棹忠夫語る」という、晩年の対話本を読んだのだが、その内容の中でもっとも印象に残っていたのが、氏の放送、ラジオも含めた放送一般への失望感である。初期には自らも積極的に参加していた放送に対して晩年は絶望し、「放送は人間を悪くする」と言い切っていた。NHKを含めた放送マスコミが梅棹忠夫の業績を特集するのであれば、この問題を避けることは許されないだろう。

音楽の話に戻ると、この日のこの一連のドキュメンタリーの直前の番組はN響アワーだったのだが、その日はチャイコフスキーの悲愴交響曲全曲。その解説も含め、後の番組への演出効果として意図されていたことは誰にも気づいた人も多いだろうとおもう。


音楽が必要以上に使われることが気になってきたのはこういったドキュメンタリーばかりではなく、例えば最近教育テレビで放送され始めた「さかのぼり日本史」という歴史の番組でもそうである。この番組も音楽が邪魔に感じられて仕方がない。また日曜美術館などもそうだ。ちょうど一昨日も見たが音楽を使い過ぎではないかと思う。一昨日は音楽がうるさすぎて話の内容を聴きとる邪魔になったほどである。


同じNHKで長く続いていた歴史番組に「その時歴史は動いた」という番組があった。今はそれが「歴史秘話ヒストリア」に引き継がれたようだ。これらの番組でも音楽が派手に使われていたし今も使われているが、こちらの場合はあまり音楽が邪魔になるというか、気になることはなかったのは何故なのか、と考えてみた。それは結局、これらの番組では歴史といっても特定の個人あるいは集団の人間ドラマとして描いているからだと言える。

【映像番組のドラマ化】

ドラマは絶対に音楽を必要とするとまでは言えないとしてもドラマと音楽との親和性は誰もが認めるところだろうと思う。それで少なくともこういうことは言えるだろう。つまり、普通はドラマとは見做されないようなテレビ番組に音楽を使うことは多少ともその番組をドラマ化すると言えるだろうということである。

ドラマには必ず作者がいる。必ずしも個人ではなく神話のように民族全体というほかない場合もあるにしても、作者がいる。そういう作者の表現であるという暗黙の了解がある。

何かをドラマ化するという言い方ができるとすれば、元のドラマ化される前のものは何なのかということになるが、もちろんそれは現実そのものではなく、すでに映像と言葉によるテレビ番組である。ドラマ以外の、この種のドキュメンタリーとかルポルタージュ、ニュースや歴史番組を含めると、報道という範疇になるのだろうか。しかし新聞や雑誌、あるいはラジオに比べてもテレビの場合はどうしてもドラマ化されやすい題材が取り上げられることになってしまう傾向も否定できない。

先にあげたETV特集の「続報ネットワークでつくる放射能汚染地図」の場合、直接には放射線汚染地図を作成する科学者たちの活動を取材したものであった。あくまで特定の「科学者達」であって「科学」ではない。すでにここで、現実のドラマ化が始まっているとも言える。この番組に引き続いて放映された「暗黒の彼方の光明~文明学者~梅棹忠夫」のほうは、タイトルを見ると梅棹忠夫という学者が主人公であるように思われるが、見た印象は全くそうではなく、何か日本という国か日本民族そのものを主人公に見立ててその行く末を悲観するというような、抽象的、観念的な発言を映像と音楽で色付けしていたような印象を受けたことを記憶している。これもドラマ化である。

どちらの番組でも科学的な問題を直接取り扱い、解説したり議論したりということは全くなかったように記憶している。

テレビ、というより、正確に言って映像と音によるメディア自体が科学や論理的な教育や議論に適さないということはないだろうと思う。現に放送大学などもあり、大学教育でもビデオやインターネット教育に利用されて一定の効果を揚げているのではないだろうか。梅棹忠夫が失望し、批判したのも放送としてのテレビとラジオである。


【少なくともニュースやレポートあるいはドキュメンタリーなどの映像作品は音楽の
使用を制限することによって内容の向上、少なくとも質の低下を抑止できるのではないだろうか】

1. 音楽を除くことによって、その分、視聴者の注意力を理性的な内容の方に振り向けることができる。

2. 製作者もその分、音楽に頼らない分を理性的な内容の充実に努力を注がざるを得なくなる。

何か大きな災害や事故があった場合でも、人の興味はどうしても個人のドラマに向かいがちであり、テレビ放送に限らず、新聞、雑誌を含めても、報道が多少ともドラマ化するのは避けられないことであろうと思う。テレビ放送の場合は音楽を控えることによって、多少ともドラマ化の弊害が拡大されることを防止できるのではないだろうか。


わざわざ付け加えるまでもないかもしれないが、個人的にドラマや音楽が嫌いなわけでも、低く見ているわけでも、理性と対立するものだと思っているわけではない。実をいうとドラマと音楽の関係とか、使われる音楽の様式とか行った方面にむしろ興味がある。と言ってもこの方面は古来、多くの優れた人物によって多くが語られてきたことだろう。

以上。

日曜日, 6月 12, 2011

LED電球についての実感

LED電球。何時かはこの言葉もなくなるだろうけれども、日本語として納まりの悪い言葉である。
それはそれとして、白熱電球への代替がかなりの急ピッチで進んでいるとのこと。最も省エネ効果が期待される分野だけに良い傾向かも知れない。私はこれまでに電気スタンド用として2個を購入して使っている。最初からスタンド向きにデザインされたLED発光体を組み込んだスタンドも沢山販売されているが、光量の多いタイプは値段が高くかつ場所を取りそうなデザインなので敬遠し、いずれも白熱灯用のスタンドやスポットライトと口金の小さいタイプのLED電球との組み合わせで使用している。

いずれも白色だが、色調には一応満足している。少なくとも蛍光灯の白色よりは気持ちの良い白色である。蛍光灯の色は最近は昔に比べてずいぶんとよくなったが、それでも独特の陰気な雰囲気からは完全に開放されることがなかった。それは水銀の輝線スペクトルに起因しているのに決まっている。LED電球の白色もいわば合成された白色であるから、自然光のようにはゆかず、「演色性」が悪いといった批判があり、確かに多少はそういう印象もある。しかし、総合的な評価はどうであれ、水銀の輝線がなくなったことのメリットの方が大きいような気がする。

という次第で、個人的には白熱灯よりも蛍光灯の代替が早く進んで欲しいと思っているのだが、色々な理由から、なかなかそうはゆかないようだ。少なくとも節電効果は白熱灯の代替の方が大きいことは確かである。それに従来蛍光灯が使われていた場所の代替は照明器具との兼ね合いもあって難しいのだろう。個人的にも現在の天井灯に使われている蛍光灯の代替にはまだ無理なところがある。

現在販売されている主流は従来の白熱灯の口金に合う電球タイプである。しかし日本の場合、天井灯には家庭でも蛍光灯が使われている場合が多い。事務所や公共の場ではもちろんそうである。また天井灯などの室内のメインの照明として、従来の電球用の照明器具が、LED発光体に相応しいかどうかとう問題もある。要するにまだLED照明によるデザインの基本形が確立していないということだろう。今はまさに照明デザイナーや照明技術者の出番であろうと思う。

先日、小田急デパートで開かれた展示会に行ったときのこと。下からエスカレーターで9階まで上がって行ったので各階の様子が垣間見られたが、宝石売り場の階に上がってきたとき、宝石の陳列ケースに真っ白い光のスポットライトが手前から奥の方まで、ずらっと並んでいるのが見えた。もちろんLEDランプの色であるが今までになかった新しい光景であった。近くによって見なかったが、宝石類がどのように見えたか、気になるところである。


いずれにせよ蛍光灯への代替が進み、1日も早く日本の公共の場から陰鬱な水銀の輝線が消えてゆくことを期待したい。

火曜日, 4月 26, 2011

稲恭宏博士の講演をUチューブで聞き、考えたこと(その3―最終)

先般、2回にわたってこのテーマでメモを公開しました。それからもうそろそろ3週間になろうとしてますが、その間も私の立場と境遇から言えば他の事に時間を使うべきとの気持ちを抑えて、この問題に時間を割くことを余儀なくさせられる気分から逃れることができず、自分なりにネットで放射線に関する勉強と調査を続けました。その結果を ― 今度は少々長くなり、内容的にもこのブログよりも別のブログに相応しいように思えましたので、次の別サイトに掲載しました。

この問題を勉強して考える前にまず、私が稲博士に好感を持ったことが影響を及ぼしていることは間違いありません。但し単に印象的、直感的にそう思ったというだけでもなく、かなり正当な理由もあります。それは、博士が遺伝子治療技術に成果をあげながら、それが科学を超えて倫理的に問題がある技術であることが解ったために継続する事を断念したという経歴をお持ちであるという事でした。これは、科学者であるならば科学的に主張できることは断固として主張し、科学的手法を超えた問題からはそれが個人的に利益になることであっても科学者としてそこからは身を引くという姿勢に感銘を受けたからです。


そういう博士への好感はありましたが、それだけで博士の言説を信じるというのでは個人的にはともかく、他の人に訴えるにはやはりそれなりに可能な範囲で検証しなければなりません。検証に当たっては、放射線と健康を考える会ホームページを主として参考にしましたが、それ以外では、稲博士とは反対意見である3人の諸先生方の準拠される資料には特に丹念に参照したつもりです。勿論素人に可能な範囲内ではあります。蛇足ながら、この専門外という意味では、原子物理学者や原子力専門家も一般人と同列ではないものの、やはり医学のこの分野の専門家ではないということは認識しておく必要があるかもしれません。

その結果が上記ブログ記事ですのでご高覧頂ければ幸いです。

残念ながらツイッターにはやはり間違った言説や他人の言説を鵜呑みにした言説、悪く言えば流言飛語というような言説もあるように思えます。もちろん統制には絶対反対です。だいいち自分自身でさえ意識せずに流言飛語を放っている可能性がないとも言えないのに一体だれがすべての流言飛語を公平に判定できるのでしょうか。

結局のところ、基本的には誰もが可能な限り元の情報源、原典に自分自身でアプローチして自分自身で考えるしか道はありません。一般人のみならずどのような専門家でも専門外の情報に当たらなければならないわけですから、これは限定付きで、不可能なことではないと思います。この点にこそインターネットの最大の恩恵があるのではないでしょうか?


現在の閉塞状態から抜け出すには・・・、個人的にはCO2温暖化説が通用している限り突破口はないようない印象をもっています。具体的にはそういう世論調査でCO2温暖化説を信じない割合が高まることではないかと考えています。昨年のBBCニュースでによれば、英国ではもう国民の過半数がCO2温暖化説を信じていないという結果が出ていたと記憶しています。日本ではそういう世論調査が行われていないのは残念ですが。今日改めて調べて見たのですが小出裕章氏もまたCO2温暖化説の誤りを指摘しておられる事を知り、この点で安心していました。http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/kouen/JCC100119.pdf 私はこれらの諸先生方にはもっとCO2温暖化説の誤りについて声を大にして発言して頂きたいと思うものです。今の閉塞状態から脱出するにはCO2温暖化説から開放される以外の突破口は考えられないと思います。http://d.hatena.ne.jp/quarta/20110401#1301656569

以上、この問題でお付き合い頂き、有難うございました。


4/27 追記
ちなみに、現在CO2温暖化説への批判の多くは間違いではないと思いますが、少々ポイントがずれているような気がします。言い方を変えれば、意図的かどうかはともかく、CO2温暖化論の土俵に乗せられた上で反論を述べているような論調が多いように思います。季候モデルとか季候感度といった概念を使わされているようですが、その種の複雑なモデルなどを使う必然性についての議論が抜けているような気がします。そのような込み入った議論に加わらなくても、それ以前にCO2温暖化説が間違いであることを証明できるのになぜそのような相手の土俵に乗るのか不可解です。

CO2温暖化説が間違いである事を理解するのは少しも難しいことではないはずなのですがね。それをことさら難しいことにしてしまっている。

それは海には空気中の40倍以上のCO2が含まれていて、空気中のCO2とバランスが取れていること、そしてその割合が温度によって変動することをを理解するだけで十分なはずなのです。温度が上昇すれば人間がCO2を排出しなくてもCO2が海から放出され、温度が降下すれば空気中のCO2が海に吸収されるだけの事です。そして実際、気温と海水温の変化に遅れてCO2濃度が変化している。分かってみれば少しも難しいことではないはずなのですが。

日曜日, 4月 24, 2011

プルト君のことはよく知らないけれど・・・・

プルト君のことはよく知らないけれど・・・
こんなにも長い間、迫害され続けてきたCO2君にはまったく同情に堪えない。
痛めつけられ、耐え続けているCO2君の事を思うと泣けてくるよ
みんないい加減に彼をいじめるのをやめ給え

聞くところによれば日本人は、またまたCO2君を無理矢理地下深くに圧入するという。
これで地震が誘発されるのではと心配する声もある。
そんなことをして何が自然との調和、自然の尊重と言えるのだろう。

CO2君が一体何をしたというのだ?
空気中に含まれるのはわずか0.03%。
呼吸の邪魔をするわけでもない。
むしろみんな、贅沢にもわざわざ飲み物にまでCO2を入れて楽しんでいるではないか
CO2君がなくなれば植物も動物も一日たりとも生きてゆくことができない。

今度の地震と原発事故もきっと神様がCO2君の事を不憫におもって、人間を罰したのだ。
いつまで彼に濡れ衣を着せ続けるつもりなのだ?と

もともとそんな罪自体が存在しない。
前世紀後半から温帯の一部が暑かっただけではないか。
それももう収まりつつあり、寒冷化が始まっている。
温暖化がなくても干ばつは起きるし嵐も起きる。
まあ化石燃料の使いすぎや使い方の悪さはあったかも知れない。
空気を汚したし、発がん物質もまき散らしたかも知れない。
でも「CO2対策」で本当に化石燃料を減らせたのか?
いずれにせよすべて人間の罪でCO2君にはなんの関係もない。

そんなことを言っていてもあと数年の中に大気中CO2君の一部は空気中から撤退し始め、海の中に入って行くだろう。
もともと海の中には空気中の40倍くらいのCO2君が控えているのだ。
海中のCO2君はもちろん植物の栄養となるが、珊瑚や貝殻の中に入って堆積する。
堆積したCO2君はもう、そう簡単には戻ってこない。
まあすべて大気中から消えてしまうわけではないから、別に心配する必要もないのだが、
地上の寒冷化がさらに進むことは間違いが無い。
気候変動もまたあるだろうし、引き続き世界各地で大地震もおきると言われている。
そんな大変な時代に入ってなおCO2君をいじめ続けて何になるのだ。
なんという無駄、浪費、罪悪。

土曜日, 4月 16, 2011

無題

このたびの地震に関連して天罰という言葉が波紋を呼んだが、一方で自然のしっぺ返しという表現を使う人がいる。天と自然とは同じではないのでかなりニュアンスが異なるが、そこに共通する意識があることは間違いが無い。それはやはり人間には何らかの責めを負うべきものがあるのではないかという意識である。

端的に言って私は科学と科学技術者の責任が大きいと思う。何と言っても、とにかくここまで現在の文明をここまで牽引してきたのは近代科学技術だからである。それが部分的に挫折したのである。やはり科学信仰という一種の信仰であったというべきではないかと思う。


科学で解ること、科学的に解明できることは断固として主張すべきであり、一方で科学で理解できないこと、科学技術でできないこと、無理があることは科学としては沈黙し、無謀で人道に外れるような技術の開発はすべきではなかったのに、往々にしてその反対が行われてきたのではなかったかということだと思う。

科学的にはっきりと断言できることには目をつぶり、一方で科学の方法で理解することが無理な、あるいは不適切な問題を解明できると考えたり無謀で人道に外れるような技術開発を行ってきた、とも言えるのではないだろうか。もちろんすべてがそうであるわけもないけれども。


ゲーテが次のようなことを言っている。「(自然科学の勉強によって)私にわかったことは、たいていの人間にとって学問というものは飯の種になる限りで意味があるのであって、彼らの生きていくのに都合のよいことでさえあれば、誤謬さえも神聖なものになってしまうということだったよ」、エッカーマン、山下肇訳。

ここで「誤謬さえも神聖なものになってしまう」と言っているのは興味深い。科学者も神聖なものを求めている面があるともいえる。科学者が音楽や芸術に造詣が深かったり、興味を持つことは極めて普通の事だとも思うが、既成宗教への信仰を持つ科学者も多いし、神秘思想を持つ場合も少なくないだろうと思われる。

しかし一方では無意識的に科学自体を神聖化したり、科学的な表現自体の中に神聖なものを求めたりすることがあって、そういう場合に往々にして「誤謬さえも神聖なものに」してしまうのではないか、とふと思った次第である。

月曜日, 4月 11, 2011

稲恭宏博士の講演をUチューブで聞き、考えたこと(前回に続けて)

前回の記事を書いてその後、ニュースやネット関係で幾らかの情報が得られたので、もう少し突っ込んで考えてみました。前回同様、全体としてまとまりがありませんが、とりあえず問題点の列記です。

◆ 前回、稲博士の考え方に沿って自然放射能の高い地域での調査結果をネットで調べてみた結果、筆者の判断として、平均的自然放射能の10倍くらいまでの線量率の場所では、少なくとも全く問題はないであろうという確信(と言っても良いと思うが)が得られた。その後得られた情報からも、このような考え方をしている人や、機関は多いように思われた。政府関係の発表にもこのようなデータに基づいているケースがあるように思われる。

この件に関連してツイッター上で次のような発言を見つけた。
『 @hkawa33: 政府は公式に「100mSv以下の被ばくでがんが増えるという科学的根拠は無い」という「しきい値モデル」に立っているのだろうか?少量でも危険は被曝に比例するという「直線モデル」も検討が必要。「NHKニュース: 学校に屋外活動控える指示も」 http://nhk.jp/N3v86NcP』

このツイートで「しきい値モデル」と「直線モデル」という言葉を教えられたのだが、稲博士の考え方は「しきい値モデル」、ただし線量ではなく線量率のしきい値モデルに基づき、そのしきい値が自然レベルの数千倍と極端に高い、というふうに表現することができそうである。そして「直線モデル」と言われているのが、稲博士の言う、「チェルノブイリでのデータを外挿しているだけのデータ」に相当するのであろう。個人的には「モデル」という言葉には少々違和感があるけれども。

個人的には、しきい値のデータに信頼が持てるのであれば、しきい値モデルを使うのが正当だと思うのだが。特に中国広東省のデータのように平均的自然放射能レベルの3倍で地域ではむしろがんの死亡率が低くなっているという事であれば尚更直線モデルの妥当性が少なくなるというものである。

◆ その後の情報でもう一つ、気になったのはチェルノブイリでの事後調査を報告したNHKのドキュメンタリー番組があちこちで紹介されていたことである。全体的な印象では、稲博士の説とは反対で、少ない蓄積線量であってもガンの発生や死亡率の上昇に悪影響がありそうだという内容なのだが、どうも提示されるデータや実例が断片的なものばかりであって、総合的な判断ができないようになっているように思われて仕方がないのである。チェルノブイリのデータは他のソースでも紹介されているが、いずれも断片的なものばかりに思われる。例えば個人的な具体例の紹介のみで全体の中での位置づけが分からない場合、あるいは特定の放射性物質の濃度のみで、放射線全体のデータが示されていない場合等々。「直線モデル」にしても「しきい値モデル」のいずれにしても、また線量、線量率のいずれにしても、全体を表すグラフの中でその事例がどういう位置を占めるのかという点で一面的、断片的な例ばかりであるような印象なのである。

またもう一つ、稲博士のビデオを見るよりも以前にやはりUチューブで見せてもらった京都大学の小出裕章氏の講演ビデオ http://www.youtube.com/watch?v=4gFxKiOGSDk を見なおしてみた。そうすると確かに直線モデルの解説が含まれていた。先に見たときは当方の知識がなかったために直線モデルの意義を見過ごしていたということなのだろう。このビデオによるとアメリカ科学アカデミーのBEIR-Ⅶ報告が引用され、そこでは直線モデルが正しいと断定され、小出氏もそれを絶対の基準とされているようである。その報告の結論をコピーすると次のようになっている。
「利用できる生物学的、生物物理学的なデータを総合的に検討した結果、委員会は以下の結論に達した。被曝のリスクは低線量にいたるまで直線的に存在し続け、しきい値はない。」
この報告では「被曝のリスク」という言葉が使われているが、小出氏の方は「影響」という言葉を使っている。

この点で私は思うのだが、影響とリスクとは区別しなければならないのではないだろうか。報告書では「被曝のリスク」という表現だが、これもちょっと判りにくい。具体的に「ガンのリスク」とか、少なくとも「健康リスク」というべきではないだろうか。要するに直接の「影響」と「健康リスク」とは別ものではないだろうか。線量に正比例して何らかの影響が出るにしても、それが即比例的に健康リスクにつながるとは断定できないのではないか。この点を確認するにはやはり現実のデータを見るしかないのは当然である。そこでチェルノブイリや、もっと遡って広島や長崎の被爆者のデータが参考になる筈であり、そういうデータがない筈はないと思われる。しかし、どうも一般向けにそういうデータが包括的に紹介されているとは思われない。すべて断片的な印象である。稲博士がそういう統一的なデータを解析した結果、件のビデオで主張しているような結論に至ったのであるのなら、大いに期待が持てると思うのだが、

付け加えておくと、私は小出氏のビデオから大いに啓発されたし、原発に対する基本的なスタンスには納得出来る。同様に稲博士のビデオにも条件付きで納得でき、期待が持てるというのが正直なところである。

◆ ガンのリスク要因といえば放射線以外にも色いろある。タバコや大気汚染も当然それらの中に含まれる。それらの中でも放射線を特別視する理由はどこにあるかも明確にしておく必要があるように思われる。

◆ 基準値にしてもデータにしても常に線量率と線量の二本立てで基準値を作成し、出来る場合は線量率のデータも公表してもらいたいと思う。普通は線量率ではなく線量で与えられる場合が多いけれども、これは私の想像では、単に測定の容易さや取り扱いの容易さによるものではないだろうか。

私はかつてX線分析の仕事のためにエックス線取り扱い主任者の資格をとったことがあって、当時、作業中はフィルムバッジを付けていた。これは計数管ではなく単なる感光フィルムなので測定期間の蓄積線量しか測ることはできない。今でも現場の作業者が付けている測定器の殆どがフィルムバッジなのではないだろうか。多くの場合に線量率ではなく線量を基準として事が進められているのはこういう実用的な理由によるのではないかと、個人的には推測するのだが、どうなのだろうか?

◆ もちろん、稲博士の説が全面的に正しいとしても原発そのものの危険性や不合理性、あるいは非人道的となる可能性についてはそれらを軽減することにはならないであろうと思う。爆発して高濃度の放射性物質を撒き散らす危険性や危険な労働環境、経済的な不合理性、使用済み燃料の危険性、さらに、結果的には総合的にCO2排出を減らすことにもならないのでは尚更、CO2温暖化説が正しいとしても、正当性がないと言える。

木曜日, 4月 07, 2011

稲恭宏博士の講演をUチューブで聞き、考えたこと

話題の稲恭宏博士の講演をUチューブで拝見しました。
http://youtu.be/PQcgw9CDYO8

ツイッターでは非難する人が多いので一体どういう人なのだろうと思っていたところ、某ブログで推奨されていたので、そのリンク(上記)から博士の講演を見せてもらった。


強い印象を受けたが、かなり長い講演で色々な発言を含んでいるので、全部整理して素人が総合的に判断することは難しいが、とりあえず箇条書きで印象と問題点等をメモしておきたいと思う。

◆ 一言で言えば、問題になるのは線量率だけで、蓄積線量は問題にならないということのようだ。そしてその線量率も基準の千倍程度まではむしろ健康に良いということだがその根拠には、少なくとも害にならないということの根拠には、―データが正しいとすれば―確かに納得できるものがある。確かに自然界の放射線レベルには場所によって差があることは常識的にもわかる。しかしそれが実際にはどの程度なのだろうか、またこの点で稲博士のデータと根拠は正しいのだろうかと、ネットで調べてみると次のウェブページが見つかった。ページタイトルは「自然放射線の高い地域のガンは多くない」:http://www.iips.co.jp/rah/kangae/lowdose/sizen_s.htm
このページを見ると、なるほど、自然放射線のレベルが普通の地域の3倍と言われる中国広東省陽江県のデータではむしろレベルが高いほうがガンの死亡率が低くなっている。
このページのトップページに移行すると、「放射線と健康を考える会」という団体のサイトでありhttp://www.iips.co.jp/rah/index.htm メンバーには原子力関係者も含まれているみたいだが、どちらかというと医学系の専門家が多いようで、結構多様なメンバーに思われる。
リンクサイトには東京電力も含まれるが、医学研究系の団体が多い。いずれにせよ、こういう団体や人物のことは素人には分からないが、色々と興味深い情報が公開されている。
いずれにせよ、先の中国広東省のデータが本当だとすれば、少なくとも通常、自然の3倍の強度(線量率)の放射線を継続的に浴び続けていればむしろガンで死亡するリスクは低下するといっても良さそうである。

あるサイトには、イランのラムサールの様に平均の20倍の強度の場所が紹介されている。しかし稲博士は平均の数千倍の地域もあるという。たしかにウラン鉱山とか自然界は多様だからそういう所もあるのだろう。でも健康データがすべて出ているとは言えないだろう。もちろん、データがないということとリスクが高いということが同じである訳でもない。ただ解っていないというだけだろう。本当に数千倍の地域で住み続けている人々がいて安全なデータが出ているとすれば、完璧に稲博士の主張は正しいことになる。そうでなくとも逆のデータが出ていないとすればどちらとも言えないことになる。

さらにネットで調べると、(財)高度情報科学技術研究機構というところのサイトにガラパリというブラジルのウラン鉱山地方のデータが紹介されている。それによると染色体の異常は対照地域の1.3倍だそうだが、「しかしながら、エスピリト・サント州の夫婦8000組とその妊娠終結(生・死・流産)44,000回について、産児の性比、先天性異常、流産、死産、乳児
死亡、生殖能(受胎率、出産率)を調べた結果によると、対照群と比較して、「良い」影響も「悪い」影響も認められなかった。」という報告が出ている。残念ながら、ガンの調査はされていないようだ。この地域の線量率の分布グラフがあって、それによると平均で日本平均の10倍くらい、最高で40倍くらいになっている。千倍とはまだかなり開きがある。


稲博士は現在の基準はチェルノブイリのデータを外挿したデータによることが間違いであると言っている。外挿したということは原点をゼロと仮定した直線または曲線ということになる。たしかに、外挿ということは実際のデータの基づいたわけではないのだから、これは単なる推定に過ぎないというのは分かる。この点で上記のような自然放射線の強い地域の住民のデータが出ているとすれば、それを考慮に入れた曲線にしなければならないのは確かに当然である。

以上から、稲博士の基本的な考え方自体は間違っていないと思う。あとはデータ次第だろう。上の中国広東省のデータが正しいとすれば少なくとも世界平均の3倍までの位置までは外挿曲線を修正しなければならないとは言える。またカラバリのデータが使えるのであれば10倍程度までは修正しなければならなくなる。

◆ 現在までのニュースによると、原子炉の炉心が一部溶融して圧力容器や格納容器が損傷していることは間違いがないようだが、稲博士は圧力容器は壊れていないと発言しているのが気になった。

◆ 原発の全般的な危険性についてはあまり触れていない。でこの点でも博士の考え方を述べて欲しかった。医学者であって原発の専門家ではないので、これは仕方ないのかもしれない。使用済み燃料を地下に埋める事の危険性について触れていたが、すこし物足りない気がした。

◆ チェルノブイリで子供の甲状腺癌が発生したことについては食べ物にヨウ素成分が少ないという、チェルノブイリでの地域的な特殊性によるところが大きいとしている。これは理解できるが、ヨウ素以外にこのような特殊性は他にもないのかどうかが気にかかる。


これまでの結論:単純に線量率から言えば、少なくとも今の自然放射線の10倍くらいまでの線量率なら本当に問題ないのかもしれないと思う。もっと稲博士の研究を知ることで、信頼度が上がるかもしれない。ビデオ中の稲博士の印象からも、個人的には、10倍以上でも大丈夫かもしれないと思うが、数千倍となると、不安があるといったところだろうか。いずれにしても稲博士のこの発表は一定の安心材料であると言っても良いと思う。体内被曝については今のところ、そこ迄まで納得出来ていない。

稲博士にはTVなどで他の諸先生方と議論してもらいたいものだと思う。これはメディアの意向次第だろう。


日曜日, 3月 06, 2011

樹木への人々の傾倒について

ことあるごとに、人々の樹木への傾倒について考える。人が樹木に寄せる思いは精神的なものである。草花に人が寄せる思いも精神的なものといえるかもしれないが、かなり官能的というか、感情的な部分が勝っている。樹木への思いにももちろん感情がこもっているが、草花の場合に比べてより精神的な度合いが高いものだと言えないだろうか。

梅や桜などの花木の場合は花でもあり木でもある。その両方を併せ持っている。

バラも木であるが樹木という感じはしない。しかし草花ではない。バラの地位には独特のものがある。そういえば梅も桜もバラ科であった。バラ科の植物はもっとも高等といえる植物らしい。それにしてもリンゴ、木苺、イチゴ、果物の多くもバラ科なのはなぜ?とはいっても科の意味するところは素人の私にはわからず、このような疑問もむなしい疑問かもしれない。

樹木なしに真の安らぎはありえない。すくなくとも並みの人間にとっては。・・・木は木材になってすら安らぎの源泉であり続ける。

詩にとって樹木は常に心の拠り所のひとつである。歌にとってもそうである。菩提樹があり、胡桃の木があり、アカシアの雨があり、柿の木があり、栗の木があり、松林がある。


あらゆる生物種にはそれなりの個性があり、人々にとってもそれぞれ独特の意味がある。しかし植物の場合、稲や麦などの穀物や野菜は食料であり、草花は草花で暮らしを飾ったり贈り物となったり、という意味を持つのに対して木の持つ意味はやはり、より精神的なものとしか言いようがない。

植物の持つ意味は動物のもつ意味に比べると難解とも言える。なぜ植物と動物があるのだろうか。植物の栄養がなければ動物は生存できない。したがって動物が存在するためには植物が存在しなければならない。こういうところになるとダーウィニズムの進化論は何の説明力もない。

去年も春頃にこういった文を書いたのを思い出した。去年はもう花見の時期も過ぎたころだった。もっと前の年にも書いた記憶がある。街路樹の銀杏やプラタナスが芽吹いてくるころだった。こうしてみると年々早い季節になってきているのは面白い。

月曜日, 2月 21, 2011

鳳神社の周辺 (かなり昔)


ブログで多幡先生の水彩画を拝見し、描かれた鳳神社の風景画に触発され、なぜか思い出めいたことを綴ってしまいました。


左の写真に写っている道路は北の方から鳳神社の前に通じる道で、この写真を撮ったのは私が二十代の頃になるだろうか。右に暗く見えるコカコーラの看板の左から覗いているのは日の丸の旗で、お正月だったと思う。もしかしたらこの日この道を通って初もうでに行ったのかも知れない。

下の写真はよく記憶していないのだが、この道沿いにある中学校を東の方から取った写真だろうと思う。とにかくこの写真のとおり、中学校の東側は田んぼが広がっていた。当然、この鳳神社に通じる道の東側は全体的に田んぼや畑が広がっていたように記憶している。たまに鳳神社まで歩いていっても、神社の裏に回ることはあってもさらに東の方に進んで歩いて行くことはついに無かった。今思うに、田や畑ばかりで道らしい道も、少なくともよそ者が歩いてゆくような道は見つからなかったのかも知れない。なにかこの道の向こう側は別世界のような気もしていたが、一方であこがれのような気持ちもあり、何時か一度歩いて行けるところまでいってみたいものだと思うこともあった。とはいっても若いときはそんなに散歩をする習慣もないし、ついに行かずじまいだった。もちろんさらにその東の向こうには南海高野線が走っていることは分かっていたし、その電車にはなんども乗ったし、降りたことのある駅も多い。中百舌鳥、河内長野、ずっと離れて終点の高野山には何度も行った。百舌鳥八幡の駅には縁がなかったが、1度だけ、1度は行ってみようとい観光気分で百舌鳥八幡神社、いや百舌八幡宮まで行ったことがある。

また、泉北ニュータウンが出来た後には泉ヶ丘まで行くことがあった。その先の栂・美木多や光明池という駅には1度も行ったことがない。しかし、美木多にはニュータウンが出来る以前に1度行ったことがある。何とものどかな農村で、田園交響曲が聞こえてきそうな気さえしたのを覚えている。

もっとも国鉄阪和線、今のJR線の鳳以南の駅やその周辺も行ったことはある。信太山に行ったのは高校生になってからだった。距離的にはそんなに遠くないのだが。


要するに電車で行けるところは大体行っているのだが、その中間の電車で行けない空白地帯といえる農村地域についてはまったく未知の世界だったのである。なぜか憧れさえ感じてしまうほどの未知の世界だったような気もする。別にどうということもない話だけれども、面白いものだ、と勝手に思っている。


当然、私の実家は西の海岸に近い方で、この道筋あたりが普通に歩いて行く行動範囲の東端だったといえる。西の方は海岸になる訳だが、それも海が埋め立てられて石油コンビナートが出来るまでの話。南は浜寺公園の南端から北は石津川の北側辺りまでの範囲だった。海岸は南の方は白砂青松の砂浜だったが、石津川辺りから北は漁村の雰囲気だった。干し魚が干してあったような記憶もある。しかし土手の内側は田畑であったから、農村の方が主だったのだろう。灌漑用水を風車で汲み上げていたことで全国的にも有名であったと思う。海のすぐ近くで夕焼けが美しく、トンボの沢山いる美しい田園だった。海があった頃は当然、子供の頃だから、さらに北の大浜あたりになると1人で行くことはなかったが、堺の魚夜市というのが名物だった。また大浜に古くから水族館があり、何度かは行った記憶がある。この辺りは海水浴場よりは主として漁村だったのだろう。主な海水浴場は石津川以南の、当時は有名であった浜寺海水浴場であった。

この辺りの海岸は夕焼けが実にきれいなところだった。西向きの海岸だから当然だろう。コンビナートが出来てからは夕焼けの色が悪くなった。コンビナートが出来てからも昔の海岸線あたりには水路が残っていたので水路沿いに歩いたことは何度かある。石油化学工場なのだろうが、夜には多くの鉄塔に灯がともり、どこからとも無く轟音が響いていた。このコンビナートも東の農村地帯と同様に、新しくできた未知の世界だったのだが、後年、仕事で新日鐵の堺工場まで行ったことがあるのも面白いといえば面白い。このときは実家から行ったのではなく、実家からは遠く離れた独り住まいから行ったのだった。

このコンビナートも今はかなり様変わりしているかも知れないが、どうなのだろう。北の方はシャープの堺工場が出来たらしいけれども。

ずっと南の方には関空ができてすでに久しいが、個人的にはあまり縁がない。


鳳神社から始まり、連想ゲームのようにあまり脈絡のない話になってしまいました。でも神社という存在は常に、という程ではないにしても、多くの場合に何かを思い起こす中心や契機になっているような気がします。

土曜日, 2月 19, 2011

紙の本が無くなったら

電子ブック絡みの問題として、紙の本が電子ブックに取って代わられて問題は無いのか、という議論が盛んである。これは確かに大いに関心を呼ぶ問題であり、黙っておれないような問題である。ただし、電子ブックの利用のされ方にはいろいろな可能性があり、選択肢があり、必ずしも紙の本の衰退につながる方向性ばかりとは限らないだろう。というわけで今後、結局は、なるようになるだろうとは思うけれども、やはり今は今後の方向性が模索されているような時期であるかも知れず、さしあたって紙の本がなくなっても、あるいは主流ではなくなってもよいかという問題を考えておくことは大切ではないかと思う。

始め、この問題に関してはとりあえず紙の本はなくならないほうがよいとは思うものの、かなり感性的な問題であり、自分にはよくわからないなあと思っていた。しかし、次のことに気がついてからは、紙の本はなくなってはいけないと思うようになった。それはツイッターで一度つぶやいたことがあるのだが、子供が親の蔵書に触れる機会がなくなるのではないかという心配である。実のところ個人的にはあまり関係がないが、これはもっと広い意味で考えれば、新しい世代として生まれた子供が伝統的な社会遺産に触れる機会のことであると一般化できる問題でもある。いずれにせよ教育上、重要な問題である。

そもそも、子供が初めて本というものの存在を知るには、どうしても物としての紙の本ではなければならないのではないかという印象がある。子供が読みたい、あるいは見たい本を自分で探すようになるために最初から電子ブックやパソコンで検索することから始められるであろうか?確かに、大人になってからそういうことを覚えるよりは子供のころから覚えるほうが身につきやすいだろうし、覚えるのも早いであろう。しかし、子供が初めて、あるいは初めてでなくてもまだ本というものの存在を知って間もないころから、能動的にこんな本、あんな本を自分で検索して見つけることができるるだろうか。それは確かに、紙の本であっても最初に買い与えるのは親であり親が見つけて与えるものではある。しかし本ではなくとも子供に何かを買い与えるとき、親は子供を店に連れて行き、ある程度はみずから選ばせるであろう。また親がたくさんの蔵書を持っていて子供に書棚を自由に見せてやることができれば大いに子供の好奇心を掻き立てることができるであろう。

当然、図書館の役割もある。子供にとって膨大な書物が並んだ図書室内を見る事は大切なことであろう。少なくとも博物館の陳列を見る程度の意味はあるだろう。もちろんそれ以上の意義があるべきではある。

個人的には特に蔵書の多い家で育ったわけではない。物心がついたときに家にあったのは小さなタンス程度の扉付きの本棚1つであった。私自身はそれらのすべてを読んだわけでもないし、今覚えているのはその中の数冊に過ぎない。雑誌などを除いて、はっきりと覚えている1つは今も漱石全集の表紙になっている、あの朱色の地に漢字の文様の入った布表紙の『漱石の思いで』という本である。何故か漱石の作品集自体はそこにはなかっようだ。あともう一つ印象に残っているのは赤本という「家庭医学書」だった。この本は母が購入したらしいがよく分からない。というのは私が物心ついたときに父親は亡くなっていたからである。『漱石の思いで』などはかなり傷んでいたから、父親が購入したものだったのだろうか?いまここにきて初めて、当時はそのような事はまったく考えなかったことに気付いた。まあ母親もすでに結構な年であったし10年以上年上の姉もいたのだから、そのあたりのことは知ることもなく、何故かあまり聞こうともしなかった・・・・・。

という次第で、私は親の蔵書が沢山あるような家庭で育ったわけでもないし、その扉付きの書棚に残されていたわずかな本で大きな影響を受けたという程でもないとは思うけれども、しかしそのただ 1 つの本棚さえなかったとすれば、精神的にもより貧しい子供時代、少年時代になっていたのではないかいう、確実な思いはある。

「心を豊かに」、というのは良く聞くフレーズである。美辞麗句のひとつでもあるような印象もあるが、やはり、大切な概念であると思う。人生の目的という難問を考える時、たしかに「心を豊かに」というこの漠然とした価値は、ひとつの拠り所になる。よくいう殺し文句かもしれない。

あたりまえの話、本を蓄えることはお金を蓄えることとには共通する部分もあるが、まったく異なる面がある。お金の場合、安全が保証される限り、たいていの人はすべて現金で手元にもっていようとは思わない。電子書籍の場合、お金を銀行に預けている状態と比較できそうである。手続きに間違いさえなければいつでも必要な本を呼び出すことができる。預金を何時でも引き出せるのと同じことだ。しかしお金は現在の日本人にとって、事実上、円のみである。預金になっていれば福沢諭吉も野口英世も、銀貨も銅貨も関係ない。ただ数量あるのみである。またお金は他の価値有るものとと交換するためにある。本はその対極にあって質が殆どすべてである。美術品と同じである。お金は手段の最たるものだが、本は究極の、ではもちろんないが、少なくとも手段よりは目的に近いものの最たる物である。

本には一度読むだけでは内容が理解出来ない様なものも多く、むしろそれが普通であるが、一方、パラパラとめくったり、表紙を眺めたりするだけで本の内容がわかると豪語するような人もいる。まさかカントの哲学書でもそれだけでわかるなどとは言うつもりはないだろうが、確かにそれも一面の事実だろう。要するに、実に多くの面を備えているのである。くり返しくり返し読み直さなければわからないこともあれば、本の外観を眺めるだけでわかるような内容もある。少なくともタイトルが眼に入るところにあれば、その本の存在を忘れることもない。タイトルのリストやカタログがあればそれはそれで役に立つところもあるだろうが、本物にとって変わるこはできない。

新しいものであれ、歴史を経た古いほんであれ、子供は触覚や匂いも含めたすべての感覚と直感、好奇心を総動員して、本の中の世界に予感を見出してゆくに違いないと思う。もっとも電子教科書などは、個人的には良いものではないかと思う。当たり前の話、電子書籍にはそれなりの良いところが一杯ある。

ちなみに、
今の出版界や書店業界は不況だと言われ、ネットや電子書籍との関係が指摘されているみたいだが、個人的には、少なくとも現在までのところは、あまり関係がないような気がする。しかし将来的には大いに関係する問題だろう。少なくとも紙の本が消える可能性まで指摘されているわけであるから。

「心を豊かに」、という目的を念頭に、正しい解決を見出していただけることを願ってやまない。










金曜日, 2月 11, 2011

歴史と、宗教と科学

政治的な問題を語るとき、宗教的な権威、宗教家や宗教的な人々はどうしても歴史、それも遠い過去にまで遡る歴史を重視する。ときには宇宙の起源にまでさかのぼる。非宗教的な人達はその反対。遠い過去の歴史はあまり考えない。だいいち科学でたどれる歴史には限りがある。宗教と科学という問題の1つの側面。

非キリスト教的な諸宗教の場合は共通してその根底にカルマ思想的なものがある。キリスト教やユダヤ教の場合は神の約束や預言という事になるのだろうが、カルマ的なものもないとは言えない。いずれにしても遠い過去まで遡ることになる。

もちろん、宗教でも正義というものを掲げるが、これは一応歴史的なものとは別次元の問題だろう。政治や現実生活の問題を語るのであれば宗教者であれ、科学者であれ、正義を抜きに語るわけにはゆかない。


そういえば『これから正義の話をしよう』というタイトルの本や放送が人気を博しているみたいだけれども、このあまりにキザなタイトルに辟易して本はもちろん、NHK受信料で見られる放送も見なかった。頑固な性格!


いずれにせよ、歴史を明らかにすることが大切であることには違いない。しかし宗教家のいう歴史は科学者からは信用できないものとして相手にされない。一方、科学的な方法で歴史のすべてをくまなく照らし出すことなどできる訳もない。


科学と宗教は互いに近づくべきであるし、理解し合うべきであるし、協力し合うべきだという思想に同意する。

水曜日, 1月 26, 2011

宮沢賢治と「ベートーフェンの幻想」

先日夜、宮沢賢治を特集したNHK教育のテレビ番組で、賢治と音楽について語ったり、解説したりしている番組を見た。チェリストの藤原真理さんが語っていたが、それによると賢治がベートーベンの音楽を好んだのは、ベートーベンの音楽はそれ以前の音楽とは異なり、美しいだけではない人間の様々な感情が表現されているからではないか、ということだった。それは確かに説得力があって、成る程と思われるのだけれども、ただ、それだけでは何か面白くないな、と思った。それだけで終わってはちょっと平凡ではないかな、という感じがする。この番組中の解説によると、賢治は自分でもベートーベンの交響曲のようなものを作らねば、と考えたそうである。そうだとすれば、賢治が自分ではどういう作品 ― 具体的には当然、詩や童話になるが ― を作りたいと思っていたかという点をもっと考えてみる必要がありはしないだろうか。特に賢治は交響曲というジャンル、ベートーベンの作った交響曲の世界そのものに強いインパクトを受け、交響曲のような文学作品を作りたいと思ったのではないだろうか。

このとき思い出したのは、かつて読んだ賢治の詩集の解説に書かれていた一節なのだが、ある詩か童話の原稿の中に、「ここにベートーフェンの幻想を」、という書き込みが残っている、という箇所が何故か記憶に残っている。「感情」ではなくて「幻想」なのである。

端的に言って、賢治はベートーベンの音楽の神秘性に強い印象を受けたのではないだろうかと思うのだがどうだろうか。交響曲ばかりではなく月光ソナタも好きであったそうだが、これはタイトルにも幻想曲風ソナタと書かれているそうで、実際「幻想的」な音楽として有名である。幻想と神秘性とはまた別だが、特に賢治はベートーベンの交響曲にも神秘的なものを多く聞き取っていたのではないか、という気がする。

賢治の詩や童話自体、露骨ではないけれども神秘性に特徴があると言っても良いように思う。賢治の詩は分類すれば叙情詩になるのだろうけれども、最も典型的な意味で叙情的な叙情詩という感じはあまりしない。賢治の詩の他の詩人とは隔絶した魅力は神秘感に在るように思う。

仏教の用語が多用されていることが神秘感に寄与しているような面があるけれども、一方で科学の用語を多用していることでも有名である。科学と言えば神秘性の対極にあるようだけれども、賢治の詩ではそれが神秘性を醸し出すのに寄与しているように思われるのが不思議であり魅力でもある。


宮沢賢治はおそらくブルックナーの音楽もマーラーの音楽も知らなかったと思われるけれども、もし聴くことができたとすればどう思ったことだろうか?やはり、やはり賢治には「ベートーフェンの幻想」が一番しっくり来るのような気もする。

日曜日, 1月 02, 2011

神田明神に初もうで





















元旦の夕方といってももう真っ暗な6時ころから歩いて神田明神まで初詣に行ってきました。
このあたりは結構歩いているはいるのですが、地図が頭にはっきりと入っているわけではないので、また少々迷いってしまいました。湯島天神の近くへ行ってしまったようです。こちらでも良かったものの、最初神田明神に行くつもりだったものだからそこから検討をつけてまた少し迷ったもののすぐ近くといっても良い距離にある神田明神の方に着きました。

東京の道路はなかなか覚えられないです。方向が不規則なうえに坂道だらけですから。特に京都や大阪など、関西の都市に慣れた人には、東京の道路に慣れるのは結構大変ではないかと思います。地理の覚え方については色々な説がありますが、やはり道路の名前を覚えることが先決ではないかなと、今頃自分なりに気付きました。以前読みかけ、ちょっと中断している本ですが、福岡伸一著「世界は分けても分からない」にこの問題が出ていて、それによると地図が好きで地図に頼る人は地理感覚がよろしくないという事です。この問題は興味深い問題で、この説に説得力はかなりあります。地図を理解できない犬や猫も未知を覚えられるわけですからね。しかし、道路に名前を付けたり、名前を覚えることと地図とが結びつけられれば、地図に頼る人にも有利になってくるのでは?と考えてみた次第です。この問題はさらに興味深い色々な問題に発展しそうな気がします。

それにしても東京は相当神社の多い都市ではないでしょうか。京都はお寺や神社が多いことで有名ですが、神社に限って言えば東京も京都とそう変わらないのでは、と思ったこともあります。あるいは日本中すべて同じように多いのかも知れないなとも思います。京都に特別多いのはお寺だけではないでしょうか。

携帯電話のカメラで大ざっぱな写真を撮ってみました。やはりこの神社は赤い色が際だっています。お稲荷さんも赤いですが、お稲荷さんの朱色とはすこし違う印象です。

昨年も1日だったか2日だったか、同じような時間に来た筈ですが、今年は昨年に比べて随分人が少ないのが以外でした。多少時間が遅かったのかも知れませんが。

特設の大きな賽銭箱はちょうど片付けられるところで、参詣者は本殿の石段を上がって、常設の賽銭箱の前で参拝できるようになっていました。もしも去年と同じような時間であったとするなら、去年に比べて少なすぎる参詣者はなぜなのだろうか、とちょっと寂しい気分ですが、やはり時間のせいでしょう。