土曜日, 2月 19, 2011

紙の本が無くなったら

電子ブック絡みの問題として、紙の本が電子ブックに取って代わられて問題は無いのか、という議論が盛んである。これは確かに大いに関心を呼ぶ問題であり、黙っておれないような問題である。ただし、電子ブックの利用のされ方にはいろいろな可能性があり、選択肢があり、必ずしも紙の本の衰退につながる方向性ばかりとは限らないだろう。というわけで今後、結局は、なるようになるだろうとは思うけれども、やはり今は今後の方向性が模索されているような時期であるかも知れず、さしあたって紙の本がなくなっても、あるいは主流ではなくなってもよいかという問題を考えておくことは大切ではないかと思う。

始め、この問題に関してはとりあえず紙の本はなくならないほうがよいとは思うものの、かなり感性的な問題であり、自分にはよくわからないなあと思っていた。しかし、次のことに気がついてからは、紙の本はなくなってはいけないと思うようになった。それはツイッターで一度つぶやいたことがあるのだが、子供が親の蔵書に触れる機会がなくなるのではないかという心配である。実のところ個人的にはあまり関係がないが、これはもっと広い意味で考えれば、新しい世代として生まれた子供が伝統的な社会遺産に触れる機会のことであると一般化できる問題でもある。いずれにせよ教育上、重要な問題である。

そもそも、子供が初めて本というものの存在を知るには、どうしても物としての紙の本ではなければならないのではないかという印象がある。子供が読みたい、あるいは見たい本を自分で探すようになるために最初から電子ブックやパソコンで検索することから始められるであろうか?確かに、大人になってからそういうことを覚えるよりは子供のころから覚えるほうが身につきやすいだろうし、覚えるのも早いであろう。しかし、子供が初めて、あるいは初めてでなくてもまだ本というものの存在を知って間もないころから、能動的にこんな本、あんな本を自分で検索して見つけることができるるだろうか。それは確かに、紙の本であっても最初に買い与えるのは親であり親が見つけて与えるものではある。しかし本ではなくとも子供に何かを買い与えるとき、親は子供を店に連れて行き、ある程度はみずから選ばせるであろう。また親がたくさんの蔵書を持っていて子供に書棚を自由に見せてやることができれば大いに子供の好奇心を掻き立てることができるであろう。

当然、図書館の役割もある。子供にとって膨大な書物が並んだ図書室内を見る事は大切なことであろう。少なくとも博物館の陳列を見る程度の意味はあるだろう。もちろんそれ以上の意義があるべきではある。

個人的には特に蔵書の多い家で育ったわけではない。物心がついたときに家にあったのは小さなタンス程度の扉付きの本棚1つであった。私自身はそれらのすべてを読んだわけでもないし、今覚えているのはその中の数冊に過ぎない。雑誌などを除いて、はっきりと覚えている1つは今も漱石全集の表紙になっている、あの朱色の地に漢字の文様の入った布表紙の『漱石の思いで』という本である。何故か漱石の作品集自体はそこにはなかっようだ。あともう一つ印象に残っているのは赤本という「家庭医学書」だった。この本は母が購入したらしいがよく分からない。というのは私が物心ついたときに父親は亡くなっていたからである。『漱石の思いで』などはかなり傷んでいたから、父親が購入したものだったのだろうか?いまここにきて初めて、当時はそのような事はまったく考えなかったことに気付いた。まあ母親もすでに結構な年であったし10年以上年上の姉もいたのだから、そのあたりのことは知ることもなく、何故かあまり聞こうともしなかった・・・・・。

という次第で、私は親の蔵書が沢山あるような家庭で育ったわけでもないし、その扉付きの書棚に残されていたわずかな本で大きな影響を受けたという程でもないとは思うけれども、しかしそのただ 1 つの本棚さえなかったとすれば、精神的にもより貧しい子供時代、少年時代になっていたのではないかいう、確実な思いはある。

「心を豊かに」、というのは良く聞くフレーズである。美辞麗句のひとつでもあるような印象もあるが、やはり、大切な概念であると思う。人生の目的という難問を考える時、たしかに「心を豊かに」というこの漠然とした価値は、ひとつの拠り所になる。よくいう殺し文句かもしれない。

あたりまえの話、本を蓄えることはお金を蓄えることとには共通する部分もあるが、まったく異なる面がある。お金の場合、安全が保証される限り、たいていの人はすべて現金で手元にもっていようとは思わない。電子書籍の場合、お金を銀行に預けている状態と比較できそうである。手続きに間違いさえなければいつでも必要な本を呼び出すことができる。預金を何時でも引き出せるのと同じことだ。しかしお金は現在の日本人にとって、事実上、円のみである。預金になっていれば福沢諭吉も野口英世も、銀貨も銅貨も関係ない。ただ数量あるのみである。またお金は他の価値有るものとと交換するためにある。本はその対極にあって質が殆どすべてである。美術品と同じである。お金は手段の最たるものだが、本は究極の、ではもちろんないが、少なくとも手段よりは目的に近いものの最たる物である。

本には一度読むだけでは内容が理解出来ない様なものも多く、むしろそれが普通であるが、一方、パラパラとめくったり、表紙を眺めたりするだけで本の内容がわかると豪語するような人もいる。まさかカントの哲学書でもそれだけでわかるなどとは言うつもりはないだろうが、確かにそれも一面の事実だろう。要するに、実に多くの面を備えているのである。くり返しくり返し読み直さなければわからないこともあれば、本の外観を眺めるだけでわかるような内容もある。少なくともタイトルが眼に入るところにあれば、その本の存在を忘れることもない。タイトルのリストやカタログがあればそれはそれで役に立つところもあるだろうが、本物にとって変わるこはできない。

新しいものであれ、歴史を経た古いほんであれ、子供は触覚や匂いも含めたすべての感覚と直感、好奇心を総動員して、本の中の世界に予感を見出してゆくに違いないと思う。もっとも電子教科書などは、個人的には良いものではないかと思う。当たり前の話、電子書籍にはそれなりの良いところが一杯ある。

ちなみに、
今の出版界や書店業界は不況だと言われ、ネットや電子書籍との関係が指摘されているみたいだが、個人的には、少なくとも現在までのところは、あまり関係がないような気がする。しかし将来的には大いに関係する問題だろう。少なくとも紙の本が消える可能性まで指摘されているわけであるから。

「心を豊かに」、という目的を念頭に、正しい解決を見出していただけることを願ってやまない。










0 件のコメント: