月曜日, 2月 21, 2011

鳳神社の周辺 (かなり昔)


ブログで多幡先生の水彩画を拝見し、描かれた鳳神社の風景画に触発され、なぜか思い出めいたことを綴ってしまいました。


左の写真に写っている道路は北の方から鳳神社の前に通じる道で、この写真を撮ったのは私が二十代の頃になるだろうか。右に暗く見えるコカコーラの看板の左から覗いているのは日の丸の旗で、お正月だったと思う。もしかしたらこの日この道を通って初もうでに行ったのかも知れない。

下の写真はよく記憶していないのだが、この道沿いにある中学校を東の方から取った写真だろうと思う。とにかくこの写真のとおり、中学校の東側は田んぼが広がっていた。当然、この鳳神社に通じる道の東側は全体的に田んぼや畑が広がっていたように記憶している。たまに鳳神社まで歩いていっても、神社の裏に回ることはあってもさらに東の方に進んで歩いて行くことはついに無かった。今思うに、田や畑ばかりで道らしい道も、少なくともよそ者が歩いてゆくような道は見つからなかったのかも知れない。なにかこの道の向こう側は別世界のような気もしていたが、一方であこがれのような気持ちもあり、何時か一度歩いて行けるところまでいってみたいものだと思うこともあった。とはいっても若いときはそんなに散歩をする習慣もないし、ついに行かずじまいだった。もちろんさらにその東の向こうには南海高野線が走っていることは分かっていたし、その電車にはなんども乗ったし、降りたことのある駅も多い。中百舌鳥、河内長野、ずっと離れて終点の高野山には何度も行った。百舌鳥八幡の駅には縁がなかったが、1度だけ、1度は行ってみようとい観光気分で百舌鳥八幡神社、いや百舌八幡宮まで行ったことがある。

また、泉北ニュータウンが出来た後には泉ヶ丘まで行くことがあった。その先の栂・美木多や光明池という駅には1度も行ったことがない。しかし、美木多にはニュータウンが出来る以前に1度行ったことがある。何とものどかな農村で、田園交響曲が聞こえてきそうな気さえしたのを覚えている。

もっとも国鉄阪和線、今のJR線の鳳以南の駅やその周辺も行ったことはある。信太山に行ったのは高校生になってからだった。距離的にはそんなに遠くないのだが。


要するに電車で行けるところは大体行っているのだが、その中間の電車で行けない空白地帯といえる農村地域についてはまったく未知の世界だったのである。なぜか憧れさえ感じてしまうほどの未知の世界だったような気もする。別にどうということもない話だけれども、面白いものだ、と勝手に思っている。


当然、私の実家は西の海岸に近い方で、この道筋あたりが普通に歩いて行く行動範囲の東端だったといえる。西の方は海岸になる訳だが、それも海が埋め立てられて石油コンビナートが出来るまでの話。南は浜寺公園の南端から北は石津川の北側辺りまでの範囲だった。海岸は南の方は白砂青松の砂浜だったが、石津川辺りから北は漁村の雰囲気だった。干し魚が干してあったような記憶もある。しかし土手の内側は田畑であったから、農村の方が主だったのだろう。灌漑用水を風車で汲み上げていたことで全国的にも有名であったと思う。海のすぐ近くで夕焼けが美しく、トンボの沢山いる美しい田園だった。海があった頃は当然、子供の頃だから、さらに北の大浜あたりになると1人で行くことはなかったが、堺の魚夜市というのが名物だった。また大浜に古くから水族館があり、何度かは行った記憶がある。この辺りは海水浴場よりは主として漁村だったのだろう。主な海水浴場は石津川以南の、当時は有名であった浜寺海水浴場であった。

この辺りの海岸は夕焼けが実にきれいなところだった。西向きの海岸だから当然だろう。コンビナートが出来てからは夕焼けの色が悪くなった。コンビナートが出来てからも昔の海岸線あたりには水路が残っていたので水路沿いに歩いたことは何度かある。石油化学工場なのだろうが、夜には多くの鉄塔に灯がともり、どこからとも無く轟音が響いていた。このコンビナートも東の農村地帯と同様に、新しくできた未知の世界だったのだが、後年、仕事で新日鐵の堺工場まで行ったことがあるのも面白いといえば面白い。このときは実家から行ったのではなく、実家からは遠く離れた独り住まいから行ったのだった。

このコンビナートも今はかなり様変わりしているかも知れないが、どうなのだろう。北の方はシャープの堺工場が出来たらしいけれども。

ずっと南の方には関空ができてすでに久しいが、個人的にはあまり縁がない。


鳳神社から始まり、連想ゲームのようにあまり脈絡のない話になってしまいました。でも神社という存在は常に、という程ではないにしても、多くの場合に何かを思い起こす中心や契機になっているような気がします。

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