日曜日, 12月 23, 2012

「ウソも方便」と「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」、仏教と儒教 ― 脱原発

ことわざ、と言ってよいのかどうか、ちょっとわからないが、「ウソも方便」と「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」という二つのことわざを比較してみることは非常に興味深いことのように思われる。まず、この両者の由来するソースが大きな意味を持つことに気づく。というのは、前者は仏教経典の法華経に由来しているのに対し、後者は儒教の始祖である孔子の言葉である。

「ウソも方便」の方は法華経の方便品からきている。個人的には昔現代語訳を一読したこともあるが、たいていの人は何らかの機会に聞かされている常識でもあると思う。「過ぎたるは」の方は自分でソースを読んだことはなくこれまで知らなかったが、漢文調でもあり、孔子あたりの言葉ではないかと思ってネット検索してみたら、確かに孔子の言葉とされている。

端的に言って、この文脈での仏教と儒教の違いは、「仏、または悟りを開いた覚者」と、「君子または聖人」との違いと言えそうである。

方便品の内容は、火事で燃えている家から子供を助け出すために、子供にウソをついて家の中から誘い出すという話である。この場合、重要なことは、相手が幼い子供であるということだ。そして、大人対子供という関係から、仏のような覚者対凡人という関係への類推という形で、このたとえ話が利用されている。ここで言われる仏や悟りを開いた覚者と一般人との隔たりは非常に大きい筈である。隔たりというよりも次元が違うという表現が適切かもしれない。

一方の「過ぎたるは」の方は、一般人への教訓ないしは警告であって、こういう教訓や警告を理解して実行しながら人は段々と君子、聖人に近づいて行くべしということだろう。

こういったところから仏とか覚者の意味や人間性について考えを進めてゆくことは興味深く思われるが、実のところこの一文を書き始めた動機はそんな高尚なことではなかった。


実は「ウソも方便」と「過ぎたるは」という一見別のことを語っていることわざが同じ場面で浮かび上がってきたその場面はというのは脱原発運動の現状の一部分のことである。この選挙前のいつか、ツイッターに次のような投稿をした。

――脱または卒原発を一つの旗印にするのは結構だし歓迎するけれども、相変わらず微量の放射線や内部被ばくの害を過大あるいは誇大に強調する人が多いのには本当に残念な思いがする。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。――

はっきり言って現在の時点で内部被ばくも含めて年間100ミリシーベルト以下の被爆の有害性を強調してこれを政治的な運動の根拠にするのはもうすでに時代錯誤になっているのではないかと思えるし、そうでなっていないとすれば、そうあるべきだと思う。今筆者がこれを言う根拠は当ブログの過去の記事に書いたとおりである。http://takaragaku.blogspot.com/2011/04/u3.html
さらに言えば、この問題では何かとチェルノブイリの例だとか、まだ「解っていないことが多い」ことについて言及される。チェルノブイリの事例を参考にすべきことや、まだ解っていないことを専門的に、さらに追及することはもちろん必要なことだろうけれども、この問題に関して言えば、基本的には統計情報を判断の基準とすべき問題で、それはもうだいたい決着がついているといっても良いことである。

たとえば地球温暖化問題の場合、人々が知りたいこと、知るべきことは温暖化や寒冷化の原因ないしメカニズムなのであって、統計的データはそのための資料の一部に過ぎない。しかし、放射線リスクの問題では統計情報こそが一般人の知りたいことなのであって、知るべき一応の目標なのである。この意味では、チェルノブイリの事例や今後の研究を待つまでもなく、広島の原爆被害者の追跡調査でもうだいたい明らかになっている。これがいつまでも生かされないとなると、原爆犠牲者も浮かばれないだろう。

その他に医療用放射線の例や自然放射線の多い地域の例、放射線温泉治療の例などもあり、過去の核実験の降下物の例など、多少でも自分の頭で考える一般人の多くにはもうすでに低線量放射線が無害であることは常識になりつつあるのではないだろうか。この点で、放射線の有害性を微量の線量にまで強調するのは明らかに「過ぎたる」ことなのであり、場合によっては虚偽になる場合もあると言えよう。

一方、原発事故現場からまだ放射性物質が危険なほど漏れ続けているのではないかという心配がある。

当然その大本である原発事故現場の状況、メルトダウンがどういうことで、現実にはどうなっっているのか、使用済み核燃料の状況とか、そのようなことが知らされず、判らないままに、その後の情報も真剣に追求されないままになっていることこそが最も重要な問題だろうと思う。そんな状態だから推測情報や憶測情報が当然の真実であるかのように流される。当然その中には真実に近いものから完全な憶測、さらには虚偽に至るものまでいろいろなものが含まれている。

しかし、現実の問題として、上記の閾値下低線量効果の問題を考慮して、国民に有害な程度の放射性物質が、垂れ流され続けているのかどうかと言えば、現在の一般に得られる情報から推察して危険な状態にあるとは考えにくい。現在の政府の基準が内部被ばくも含めて年間100ミリシーベルト以内に収まっているはずだから、内部被ばくに関係するような放射性物質にしても、問題はないと考えるべきだろう。

政府や専門家学者、脱原発派の科学者も含めた専門家に要求すべきはむしろ、事故現場の正確なその後の状況と、その後の核反応物質の状況、何が分かって何が分かっていないのか、また過去には何が分かっていなかったのか、過去の認識を変更すべき新事実はなかったのか、そして今後の見通しなどの説明であって、現状で危険でもない汚染物質の除去とか、避難の要求とかではないはずである。このような状況で、微量線量リスクを誇張したり、危険な汚染が拡散し続けているというようなことを既定の事実であるかのように叫び続けるのは、かえって真実の究明を妨げることになるのである。

このような現状で、憶測や欺瞞による扇動的な発言が脱原発論者の一部で飛び交っていると思えるのである。そこには意識的なウソではなく、本当に自らの信じるところを述べている向きも多いと思われるけれども、意識的なウソではなくとも自己欺瞞の可能性もある。また心からそう信じて言っているとすれば勉強不足であろう。

今の時代、法華経の方便本で説かれているような幼児と大人の関係、凡人と覚者との関係が、一般大衆と政治家や活動家との間に存在するわけがない。とくに科学的な問題に関しては、むしろ一般大衆の方に専門家が含まれているはずである。

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個人的に仏教についても、儒教についてはさらに知識はないけれども、少なくとも仏教でいう覚者と儒教的な君子というような概念を比較した場合、現在の社会的、政治的な文脈では仏教的な知恵、教説よりも儒教的教説の方が適切ではないかという気がする。もちろん個人的なレベルでは、政治家を含め、話はまた別である。


補足

もちろん、このテーマの問題がこれで尽くされたなどと思っているわけではない。特にウソの問題について言えば、ウソをつくことというより、逆に、真実を語ることが危険な場合があることは言うまでもないことである。そういう場合は真実を語る代わりにウソをつかないわけには行かない場合や、沈黙せざるを得ない場合がある。当たり前のことだが、法華経でも、儒教でも、もちろんキリスト教でも、現実のウソの問題が尽くされているわけではないということだろう。