日曜日, 12月 23, 2012

「ウソも方便」と「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」、仏教と儒教 ― 脱原発

ことわざ、と言ってよいのかどうか、ちょっとわからないが、「ウソも方便」と「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」という二つのことわざを比較してみることは非常に興味深いことのように思われる。まず、この両者の由来するソースが大きな意味を持つことに気づく。というのは、前者は仏教経典の法華経に由来しているのに対し、後者は儒教の始祖である孔子の言葉である。

「ウソも方便」の方は法華経の方便品からきている。個人的には昔現代語訳を一読したこともあるが、たいていの人は何らかの機会に聞かされている常識でもあると思う。「過ぎたるは」の方は自分でソースを読んだことはなくこれまで知らなかったが、漢文調でもあり、孔子あたりの言葉ではないかと思ってネット検索してみたら、確かに孔子の言葉とされている。

端的に言って、この文脈での仏教と儒教の違いは、「仏、または悟りを開いた覚者」と、「君子または聖人」との違いと言えそうである。

方便品の内容は、火事で燃えている家から子供を助け出すために、子供にウソをついて家の中から誘い出すという話である。この場合、重要なことは、相手が幼い子供であるということだ。そして、大人対子供という関係から、仏のような覚者対凡人という関係への類推という形で、このたとえ話が利用されている。ここで言われる仏や悟りを開いた覚者と一般人との隔たりは非常に大きい筈である。隔たりというよりも次元が違うという表現が適切かもしれない。

一方の「過ぎたるは」の方は、一般人への教訓ないしは警告であって、こういう教訓や警告を理解して実行しながら人は段々と君子、聖人に近づいて行くべしということだろう。

こういったところから仏とか覚者の意味や人間性について考えを進めてゆくことは興味深く思われるが、実のところこの一文を書き始めた動機はそんな高尚なことではなかった。


実は「ウソも方便」と「過ぎたるは」という一見別のことを語っていることわざが同じ場面で浮かび上がってきたその場面はというのは脱原発運動の現状の一部分のことである。この選挙前のいつか、ツイッターに次のような投稿をした。

――脱または卒原発を一つの旗印にするのは結構だし歓迎するけれども、相変わらず微量の放射線や内部被ばくの害を過大あるいは誇大に強調する人が多いのには本当に残念な思いがする。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。――

はっきり言って現在の時点で内部被ばくも含めて年間100ミリシーベルト以下の被爆の有害性を強調してこれを政治的な運動の根拠にするのはもうすでに時代錯誤になっているのではないかと思えるし、そうでなっていないとすれば、そうあるべきだと思う。今筆者がこれを言う根拠は当ブログの過去の記事に書いたとおりである。http://takaragaku.blogspot.com/2011/04/u3.html
さらに言えば、この問題では何かとチェルノブイリの例だとか、まだ「解っていないことが多い」ことについて言及される。チェルノブイリの事例を参考にすべきことや、まだ解っていないことを専門的に、さらに追及することはもちろん必要なことだろうけれども、この問題に関して言えば、基本的には統計情報を判断の基準とすべき問題で、それはもうだいたい決着がついているといっても良いことである。

たとえば地球温暖化問題の場合、人々が知りたいこと、知るべきことは温暖化や寒冷化の原因ないしメカニズムなのであって、統計的データはそのための資料の一部に過ぎない。しかし、放射線リスクの問題では統計情報こそが一般人の知りたいことなのであって、知るべき一応の目標なのである。この意味では、チェルノブイリの事例や今後の研究を待つまでもなく、広島の原爆被害者の追跡調査でもうだいたい明らかになっている。これがいつまでも生かされないとなると、原爆犠牲者も浮かばれないだろう。

その他に医療用放射線の例や自然放射線の多い地域の例、放射線温泉治療の例などもあり、過去の核実験の降下物の例など、多少でも自分の頭で考える一般人の多くにはもうすでに低線量放射線が無害であることは常識になりつつあるのではないだろうか。この点で、放射線の有害性を微量の線量にまで強調するのは明らかに「過ぎたる」ことなのであり、場合によっては虚偽になる場合もあると言えよう。

一方、原発事故現場からまだ放射性物質が危険なほど漏れ続けているのではないかという心配がある。

当然その大本である原発事故現場の状況、メルトダウンがどういうことで、現実にはどうなっっているのか、使用済み核燃料の状況とか、そのようなことが知らされず、判らないままに、その後の情報も真剣に追求されないままになっていることこそが最も重要な問題だろうと思う。そんな状態だから推測情報や憶測情報が当然の真実であるかのように流される。当然その中には真実に近いものから完全な憶測、さらには虚偽に至るものまでいろいろなものが含まれている。

しかし、現実の問題として、上記の閾値下低線量効果の問題を考慮して、国民に有害な程度の放射性物質が、垂れ流され続けているのかどうかと言えば、現在の一般に得られる情報から推察して危険な状態にあるとは考えにくい。現在の政府の基準が内部被ばくも含めて年間100ミリシーベルト以内に収まっているはずだから、内部被ばくに関係するような放射性物質にしても、問題はないと考えるべきだろう。

政府や専門家学者、脱原発派の科学者も含めた専門家に要求すべきはむしろ、事故現場の正確なその後の状況と、その後の核反応物質の状況、何が分かって何が分かっていないのか、また過去には何が分かっていなかったのか、過去の認識を変更すべき新事実はなかったのか、そして今後の見通しなどの説明であって、現状で危険でもない汚染物質の除去とか、避難の要求とかではないはずである。このような状況で、微量線量リスクを誇張したり、危険な汚染が拡散し続けているというようなことを既定の事実であるかのように叫び続けるのは、かえって真実の究明を妨げることになるのである。

このような現状で、憶測や欺瞞による扇動的な発言が脱原発論者の一部で飛び交っていると思えるのである。そこには意識的なウソではなく、本当に自らの信じるところを述べている向きも多いと思われるけれども、意識的なウソではなくとも自己欺瞞の可能性もある。また心からそう信じて言っているとすれば勉強不足であろう。

今の時代、法華経の方便本で説かれているような幼児と大人の関係、凡人と覚者との関係が、一般大衆と政治家や活動家との間に存在するわけがない。とくに科学的な問題に関しては、むしろ一般大衆の方に専門家が含まれているはずである。

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個人的に仏教についても、儒教についてはさらに知識はないけれども、少なくとも仏教でいう覚者と儒教的な君子というような概念を比較した場合、現在の社会的、政治的な文脈では仏教的な知恵、教説よりも儒教的教説の方が適切ではないかという気がする。もちろん個人的なレベルでは、政治家を含め、話はまた別である。


補足

もちろん、このテーマの問題がこれで尽くされたなどと思っているわけではない。特にウソの問題について言えば、ウソをつくことというより、逆に、真実を語ることが危険な場合があることは言うまでもないことである。そういう場合は真実を語る代わりにウソをつかないわけには行かない場合や、沈黙せざるを得ない場合がある。当たり前のことだが、法華経でも、儒教でも、もちろんキリスト教でも、現実のウソの問題が尽くされているわけではないということだろう。



金曜日, 10月 05, 2012

読書スタイルについてのアンケート結果

パソコンとの個人的な関わりを通じて何度か、パソコンなどの(特に文字による)視覚メディアとの付き合い方や問題点などについてあれこれと考えたことなど、このブログで記事にしてきましたが、それらと関連の深い紙媒体の代表である書物とのかかわりについても考える必要があると思います。あるいは改めて問い直すというか、反省してみる必要もあるように思います。とくに使用環境と姿勢、あるいは視力や照明との関係など、人間工学の問題と言えるかもしれませんが、まだまだ未解決の問題があるように思います。もちろん、文字や印刷書体の問題など、もっと専門的に、あるいは専門領域でいろいろ研究や開発が進められていることはわかっています。ちなみにこの方面では筆者も素人ながら別のブログ(意味の周辺)にて、縦書きと横書きの問題について考察、発言しています(縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その4 (まとめ))。


以上のような次第で、ちょっとした思い付きで―他に目的もありましたが―、「人力検索はてな」のアンケートを利用し、読書スタイルのアンケートを取ってみました。結果は次のリンクをご覧ください。
「読書スタイル(環境と姿勢)について(業務、研究、学習、娯楽等の目的を問わない)」
http://q.hatena.ne.jp/1349248673

後になってみると設問に不備があったように思いますが、これについてはまた繰り返して何度も実施してゆきたいと思います。とりあえず断片的にでも、現状で思いついた感想をメモしておきます。

◆ 100人の方から回答をいただきましたが、年代は30代と40代で75%でした。50代が6人、60歳超が2人で、人口構成率に比べてかなり少ないと思います。特に視力に関するデータに関しては、50歳以上の方々のデータを集めるには年代を指定して収集し直す必要がありそうです。

◆ 男性対女性の比率は2:1です。これは「はてな」のユーザー比率に対応するのでしょうか。またはインターネットのユーザー、あるいは読書に対する関心度の差であるのか、ちょっとわかりませんが相当な差であるように言えると思います。

◆ 男女差で目についたことの一つは、机の上で読む場合、水平に広げて読む人と、見やすい角度に傾けて読む人の比率が、男性では同数であったのに対して女性では、読みやすい角度に傾ける人がそうしない人の倍であったことが挙げられます。この程度の人数で判断できるかどうかは問題ですが、そういう傾向はありそうな気はします。

◆ 地域差は今回のような小規模の調査ではあまり意味がないように思われました。

◆ 自宅などの自由にできる環境を条件にしたため、「寝転んで読む」と「背もたれにもたれて読む」が圧倒的に多かったのは自然なことかもしれません。しかしその対極ともいえる「床(畳)に座って専用の書見台で読む」という、江戸時代の侍や学者のようなスタイルの方が二人おられたのもちょっと意外でした。しかし、畳に座って読むのなら机よりも書見台の方が場合によっては読みやすいことも多いはずで、こういうスタイルは今後も続いてゆく可能性があるように思われました。椅子を使用して専用の書見台を使う方も一人だけおられましたので、現在、普通の家庭ではあまり見かけない家具である書見台も、需要はあることがわかります。


◆ 複数回答可能に設定したにもかかわらず、最初の読書姿勢に関するアンケートでは、複数回答をした人がいなかったのは意外でした。かなりワンパターンということですね。


◆ 二つ目の、視力と読書に関する質問では、50歳以上の回答者が少なかったため、あまり興味深い情報は得られませんでした。


◆ 三つ目の、道具に関する質問では、もともと質問の意図は、現在入手できるような機能では求められない機能を持つような道具への期待、あるいは現在の機能では満足できないような種類の道具への期待を調査したかったのですが、質問の表現が単純であったため、そのように受け取ってもらえなかった可能性があります。この点はまた改めて調査したいと思いますが、それでも次のような印象を持ちました。

1、いずれのカテゴリーに該当する道具についても一定以上の要望はあるといえますが、少ない順に並べると、机→ルーペ→書見台→椅子→照明器具の順になっています。

2、ルーペを使用することがあると回答されたのは60歳超の方一人だけでしたが、ルーペに該当する道具があればよいという意見が総数は少ないものの、20代から50代までに広がりがあったのは印象的でした。

以上、とりあえずの断片的な印象です。

また引き続きアンケートと考察を続けてゆきたいと思っています。


月曜日, 6月 25, 2012

初めてのノートPC、眼のためにはひとまず正解。次に、何か眼によいサプリメントはないものか?

(PCやモバイルなどとのつきあい方、特に眼の健康との関連などを中心に、何度か、このブログで書いてきました。この記事に興味を持たれる方は是非、少し以前の関連記事もお読みください。)


この種の記事で前回だったか、その前だったか、今後はノートパソコンをメインにしてPC作業してゆくつもりであることを書いた。今月の初めにそれを実行に移し、パソコンを使い始めて以来始めてノートPCを使い始めた。これまでノートPCを使わなかった理由はまず価格の問題だったが、他にできるだけ大きなディスプレイが良いと単純に思っていたこともあるかもしれない。一種の欲張りである。

(特に位置と角度の問題に関して)
現在のところ、ノートPCに期待したところの一番のメリットは間違いなく得られたようだ。姿勢による疲労と眼そのものの疲労が、デスクトップPCのディスプレイだけを見ていた頃に比べてずっと楽になったように思う。この間、一時的にタブレットを併用していた。たとえば翻訳作業の際に、PDFの原文をタブレットに表示させ、PC用ディスプレイの手前に、ちょうどキーボードとディスプレイの中間にノートPCのような角度で設置して、上のPCディスプレイに入力用のソフトなどを表示させ、右側のもう一つのディスプレイに他の資料などを表示させていた。この場合もタブレットを使わなかった時に比べて、かなり楽になっていたと言える。


タブレットに関心を寄せたきっかけは昨年、携帯電話の機種変更をした事が一つのきっかけになっている。というのは、携帯の機種を変更した結果、カメラの質が格段に向上していた事とともに画質が印刷画面以上に精細になっていることに感動し、タブレットにもこの程度の画質を期待したことにもある。とにかく読みやすい書体がきれいに表示される事が眼の疲労を軽減する条件の一つだろうと考えていたもので、タブレットもこれに近い解像度(普通言われる画素数の意味ではなくDPI、つまり画素の小ささ)であるなら、ずっと見やすいだろうし、もちろん見る角度の問題もある。しかしタブレットでは、どうしてもメインの作業に使うわけにはゆかず、ノートPCを考えていた次第である。


ノートパソコンを導入して半月ほど使用してみた結果、見る角度と位置の問題では期待どおり、デスクトップのディスプレイに比べて格段に楽になったと言える。もちろんこれには個人的な問題、体質や体格の問題と関係する面も大きいことは承知している。


長時間PCのディスプレイで文字を見ていると目が疲れるのは誰でもそうだが、特に私の場合、最近は上下に二重に見えるようになる現象に悩まされていて、それが特に真正面に近い位置の画面を見据えながらの作業に起因しているのではないかと推測するに至ったのだが、それが証明されたように思われる。個人的な要素は大いにあるとは思うけれども。もちろん、長時間の使用で視力が低下するという現象が全くなくなったわけでもないけれども、少なくとも二重に見えることが少なくなった事によるメリットは大きいように思う。


(特に解像度の問題に関して)
ただ、画面の精細度については、だいたいデスクトップPCのディスプレイとはそれほど変わらないようで、これはちょっと期待はずれだった。今回初めてノートPCの基本サイズはおおよそ15.6インチで横長の「解像度」(個人的に、この縦横の画素数が解像度とされているのには違和感がある)にほぼ統一されていることがわかり、17インチも同じような縦横比で統一されていることがわかった。個人的にはもう少し縦の長さがあれば文字をもっと大きく表示させられるのだがという印象を持つ。

(フォントの問題)
私の場合、もうパソコン初心者ではないが、フォントに関する知識、とくにアンチエイリアスに関する基本的な知識を得たのは比較的あとの事である。最初の頃はもっぱらソフトに付属するヘルプで使い方を勉強したのだが、フォントに関する知識はあまりそこからは得られなかったように記憶している。フォントに関する知識はもっぱらメールマガジンとか、ネットに散在する親切なサイトやブログなどから得たように思う。しかしフォントに関する知識は初心者にとってきわめて大切なものである筈だ。


今回のノートPCは東芝製だが、付属のマニュアルやPCの初期画面はきわめて初心者向けに構成されている。初期画面にはパラちゃんという風船のようなキャラクターが動き回り、子供相手のような話し方で説明をする。しかし、初心者、特に年配の初心者にこそ重要だと思われるフォント、なめらかに表示できるアンチエイリアスに関する知識など、全く触れていないというのはどうしたことだろうか?付属しているインターネットエクスプローラにしてもそうだが、「パソコンで見るマニュアル」で表示されるのは小さくざらざらとした、初心者や特に年配者には不親切なフォントなのである。


年配者をターゲットにしている側面もあるアンドロイドなどのタブレットPCがフォントを重視しているように見えるのは、その意味で正しいと言える。

(その他の問題とまとめ)
基本的な問題としてノートPCに期待した根拠と言えば、2011/12/12の記事に書いた内容のとおりだが、特に次の箇所を、ここにもう一度引用したいと思う。
「一般に、物事を考えながら文字を書いたり入力したりする場合は、下を向くほうが集中できるのではないか。そして紙なり、画面なりから眼を解放する場合は顔を上げて遠くを見たりする。その方が自然なのではなかろうか。デスクトップのパソコン画面ではそれが逆になる場合が多いのである。
教師や学者が学生に講義する場合は、伝統的に黒板の類を使うものだが、自分自身の研究では机の上に本やノートをおいて作業をするのが普通であった。個人的な研究室や書斎に黒板などをおいて研究する研究者の話などはあまり聞かない。」

ここで言っていることの一つは、文字を読んだり書いたりする場合のように近距離の対象を注意してみる場合、人間の姿勢は下向きに近いのが自然であり、正面を見るのはある程度遠距離の場合が多いのが自然な状態ではないかということである。これが正しいとすると、せっかく入力作業用にノートPCを据えても、その向こうにさらに参照用のデスクトップディスプレイの画面があり、さらに右側にもマルチスクリーンのデスクトップディスプレイがあるのでは、あまり遠くに眼をやることもできないのではということになる。しかし、これは仕方のないことで、まだ真正面が巨大なディスプレイでふさがれているより、マルチスクリーンで分断されている方が救いがあるように思われる。仮に、三つのソフトによる三つの画面が必要な場合、巨大な画面にすべてが表示されるよりも、それぞれの画面が別々のディスプレイで表示される方が自然で眼にも良いのではないかと思う。


(スクロールの問題)
もう一つ、眼のために良くないと思われるPC画面の特徴に、これも文字の場合だけだが、縦のスクロールがある。PCでは殆どの場合横書きなのでスクロールは縦方向になるが、この横並びの文字列が上下方向にスクロールされる場合の視覚の混乱が視力と注意力の低下につながっている事は容易に推察できる。事実スクロール時の認視の混乱が原因で生じた読み間違いなど、きわめて重要なミスを犯したことがしばしばあるのは私だけだろうか。

この問題は縦書きを横にスクロールする場合にも生じる問題であろうと思われるが、しかし、伝統的に昔の巻物は横スクロールであった。これはネットでも調べてみるとわかるが、横書き文字の巻物でもそうだった。聖書の死海写本の写真などを見ても横スクロールになっている。まだよく考えていないけれども、どうもスクロールは横の方が自然な感じがする。もちろん横書きが主流の現在、縦のスクロールは避けることができないし、それに横スクロールが加わるとなおさら不便であることは当然である。


(眼によいサプリメントはあるだろうか)
数ヶ月前、置き薬のセールスマンに説得されてあまり聞いたことのないアミノ酸のサプリメントを購入してみた。運動能力を高めるというので、関係あるかどうかはわからないが、当時特に眼の事で悩んでいたこともあり、眼に何らかの効果があればもうけものと思ったのだが、短期間ではあったが効果がないものとしてそれは打ち切った。

現在のところ2,3年前から冷凍のブルーベリーを欠かさないようにし、ナッツ類とともにヨーグルトに混ぜて朝食代わりにしているが、まあ気休め程度だろう。

今回、スピルリナと、試しにコラーゲンを某所に注文して送られてきた。スピルリナはクロレラのような藻類で、錠剤に固めたものである。これは過去に一度利用していたことがあり、感触は良かった。一度その代替にクロレラを試したことがあったが、これは体質に合わず、消化できなくてもうこりごりである。スピルリナにはフィコシアニンという青い色素が多いというので、同じ青い色素で名前も似ている、ブルーベリーのアントシアニンと同じ効果があるのではと期待して調べてみたが、そういう記事は見つからなかった。しかしまあ栄養バランスということで、眼にも良いだろうという意味で、勧められる某所の宣伝に期待して購入した次第。コラーゲンも眼に悪いはずはないだろうとの期待である。


送られてきた箱の中にヒアルロン酸の効能を説明したビラが入っていた。それによると、眼の硝子体の形を保つために欠かせない物質とある。硝子体の形を保つと言うことは、アントシアニンの効果よりもむしろ当面の当方のニーズに合っているように思われる。改めてネットで調べてみると、ヒアルロン酸を主成分とするサプリメントの広告は多数あり、テレビなどで老化防止と美容の効果をうたって宣伝している某栄養剤もヒアルロン酸を主成分にしていることに始めて気がついた。これではなんとしてもヒアルロン酸を試してみる他はあるまい。何しろ眼の健康の問題は死活問題と言えるほど切実な問題なので。







水曜日, 2月 15, 2012

俳優と作家

俳優はもちろん、立派な職業である。ただあくまで職業であり、職業以上の立場になるケースは稀ではないかと思う昨今である。俳優という仕事はやはり創造的な芸術や文芸とは基本的に一線を画すということだろうかといったことを考えている。あくまでも基本的にということではあるけれども。

というのは、俳優の渡辺謙さんがダボス会議という、政治家や政治学者などが集うという世界会議でスピーチを行ったその内容が、盛んにマスコミや言論界で賞賛されているのをみて、個人的には相当強い違和感を持ったことから考え始めたことによる。

そのスピーチを簡単に読ませてもらったが、要するに日本の文化の特長であったとされる「絆」の大切さを説くことと、エネルギー政策として「再生エネルギー」への転換を主張したという二点である。これを件の国際会議で立派にスピーチしたということで、渡辺謙氏がマスコミやネットを含む言論界で賞賛を浴びているということのようだ。

内容を見ると、結局のところ、彼は一部の政治経済的勢力と一部世論の主張を代読したに過ぎず、職業俳優としての職責を立派に果たしたということ以上でも以下でもないように思える。

「絆」については、すでにマスコミなどで盛んに話題にされているような事柄を一つの短い文脈に手際よくまとめたに過ぎない。

もう一方の「再生エネルギー」については文字通り、一部の政治経済勢力の代読に過ぎないと考える。ご自身の頭から出てきたものではないだろう。そうであるとすれば、私に言わせれば不勉強である。不勉強でなければ自己欺瞞である。(少なくとも現時点での「再生エネルギー、自然エネルギー」の問題点と欺瞞とには、ネット検索で誰でも容易にアクセスできる。「再生可能エネルギー」という言葉のもつ問題については拙ブログhttp://imimemo.blogspot.com/にも書いています)


ここで思い出したのは先回このブログでも書いた、今年の芥川賞受賞作家の田中慎也氏の会見である。あのような、社会性という観点から見ればとんでもないと思われるような会見が成立したということを思うと、純文学という世界はやはり芸能界というか、俳優、タレントの世界(演劇という意味ではなく)とは一線を画した可能性を秘めていることが確認できたような気がする。

個人的に、現代文学にあまり興味をもつゆとりを持たないけれども、こういう世界はなくなって欲しくはないし存続して欲しいと思われるのである。訳のわからない前衛芸術にしてもそうだ。ただ蛇足ながら、最近はいやにエコロジー運動に媚びた芸術が幅を利かせているのが気になる。

芸術にしても文学、文芸にしてもやはりそこに新しさというか創造性とともにある程度以上のレベルで真実に迫るものを持たなければいけない。自己欺瞞を持たないことである。それは時に社会性とは両立しない場合もあり得る。


社会的に影響力を持つ人物の評価は様々な面から多面的に評価されるべきだと思うが、とりあえず今、次の三点で評価しても良いのではないかと思う。

ひとつ、社会性。
ひとつ、専門性、職業性。
ひとつ、文化人としての責任。(適当な言葉がみつからないので文化人としましたが、社会的な影響力に対しての責任とでもいう意味で)

最初の二点については今ここで改めて考える必要も必要はないと思う。3つ目の文化人としての評価について考えてみたい。

文化人としての重要な要件のひとつは自分の専門外あるいは確信を持って言える根拠を持たない事を無責任に主張しないことである。そうすることは不勉強であるか自己欺瞞を抱えることの何れかとなり、要するに不誠実を抱えることである。

この誠実さという点は一つ目の社会性の要件でもあろうと思うが、社会性を超えた高次の誠実さというものがここでは求められると思う。この点で、渡辺謙氏よりも田中慎也氏が高く評価されるべきと思う。


日曜日, 2月 05, 2012

ノートPC型のデスクトップPC(ディスプレイ)が欲しい

先回に書いたように、眼の健康と作業性から考えて現在のデスクトップ型PCよりも、解像度の高いノートPCが優れているように思い、今日、プリンタインクを買いに電気店に行った際、今買い換える予定は全くないが、ノートパソコンの売り場によって見ていたら、店員に話しかけられたので、少しこんな話をして聞いてみた。それによると、昨今、17インチを越えるノートPCになるともう、テレビチューナー付きの高級機種しかないそうだ。ビジネス向けというか、実用的なPCにはメーカーはあまり力を入れていないように見える。

もちろん、外国製を含めて探せばあるだろうが、日本の大きな電機メーカーの考え方はそんなところのようだ。思い返してみるとデスクトップPCも日本の大メーカーの製品は購入したことがない。値段が高かったせいである。かつてのワープロは東芝製だったが。PCの最初はIBM製、次に日本の秋葉原メーカーの格安品だったがファンの音が異常に大きかった。次は通販のデル製品。ディスプレイも追加を含め安価なデル製だったが画質はあまりよくない。その後、TVのデジタル化にあわせてテレビと音楽向けにエイサーのディスプレイとオンキョーのPCを購入した。このディスプレイは安かったが画質は良く、テレビにも向いている。ただ、PCの方はテレビを見るには少々力不足で、PCのスイッチを入れてからテレビを立ち上げるまでに5分くらいかかる上にエラーが頻発し、再起動させられることもしばしば。それでもテレビをつけながらネットを見ることもPC作業も一応はできる。

その後、最近になってやはりエイサーのタブレットを購入したことは先般の記事に書いたとおり。

このような次第で、日本の大メーカーは安価で実用的なPCはもうあまり生産する気がないように見受けられるので、期待できないかもしれないが、表記のような製品を切に望むものである。つまり、ノートPC型のパソコンないしディスプレイである。

単にノートパソコン型のキーボードとディスプレイが一緒になったものがあれば良いのである。それなら今のデスクトップPCにも接続できる。画面は17インチ位で解像度は高いほど良く、スマートフォン程度の精細さがあれば申し分ない。必要に応じてデスクトップのディスプレイを追加してマルチディスプレイにし、タブレットも必要に応じて追加すれば良い。

眼の健康と作業性には以上のような設定がもっとも望ましいように思われる。




































火曜日, 1月 31, 2012

芥川賞受賞作家、会見の反響に思う ― 職業論と性格論


現代小説を読む習慣がなかったというべきか、特に純文学と言われる分野はめったに読まないので長年、芥川賞にも直木賞にもあまり興味を持たず、また持たないようにしていた。そんな筆者がこの先の土日、今回の受賞者の一人(田中慎弥氏)の個性がマスコミで取り上げられているのを見た。具体的には受賞会見の一部の映像と、ニュースショーでのコメンテーターのコメントなどである。当然、会見の際の「不貞腐れた」態度や、賞を「もらっといてやる」と発言したことなどが話題になっていたが、そのTV番組のコメンテーターで特に非難する人はいなかった。また選考委員の一人であった石原都知事もそのことを非難することはなかったらしい。

私は芥川賞事体にあまり興味がなかったこともあってまあそんなものかな、と思い、それ以上考えることはなかったのだが、その後、たまたまネットで訪れたブログを見ると、ちょうどこの件が取り上げられていて、そのブログの筆者としてはかなり自然なことだと思うのだが、手厳しくその受賞者の無礼な態度はもちろん、その作品や人柄にいたるまで批判を加えていた。その批判は関連メディア関係者や日本の文学にまで及ぶ。彼本人への批判としては、甘ったれている、ふてくされている、社会性がない、発達障害ではないか、精神病院に入院治療すれば矯正される、自衛隊に入っても矯正されるだろう、等々というものである。

作品の評価や現代文学、日本の小説家全般の評価はともかく、このブログの筆者の個性から言えば当然と思われるし、またある一般的な、常識的な見方からもごく自然で当然とも言える意見である。

しかし尊敬すべきこのブログ筆者の意見を読むに及んで、私自身でももう少し突っ込んで考えてみようかと思い、考えてみたのである。しばらく考えた結果・・・・

とにもかくにも、当の受賞作家はかなり早い段階で作家になる決心をし、これまで迷わずにその道に励んできた結果、何回かノミネートされるまでになり、今回めでたく芥川賞を受賞するに至ったのである。それはそれで立派なことではないかと思う。

少なくとも局外者が「甘ったれるな」と言うのは当を得ていないのではないだろうか。

ある人が自ら選んだ自らの性にあった仕事を持つことができるということは、本人にとってより以上にむしろ社会にとって望ましいことであり、めでたいことなのである。これはその仕事が社会的にそれほど成功しなかった場合でもそう言えると思う。

就職難のこの時代、多くの人々が自分の性に合わない仕事、能力に合わない仕事を獲得すべく激しい競争をしている。

すでにある多くの仕事、中でもある程度社会的地位や、やりがいが満たされる仕事にはそれにふさわしい能力と社会性が求められることは当然であるが、残念ながらすでにある仕事、要するに企業の求人に対しては社会性も能力もある応募者が十分に沢山いて、そのなかで激しい競争をしている状態のように思われる。

そうした中でそのような真っ当と思われる職種に就く意欲を持てない人物が自分の性にあった職業を見出して成功したということは、それだけで本人の幸福にとってより以上に社会にとって喜ばしいことだといえる。


以上は彼の生き方の問題。他方、今回の受賞会見の件で彼の態度のことが非難されているのは確かに常識的に見ても当然のように思われる。しかし、現実に当のブログ作者のような非難が一般に沸き起こっているとは言えない。むしろ石原都知事のように「生意気でいいじゃないか」といった見方も多いようにみえる。そのこと事体がまた非難されるべき、また嘆かわしい社会風潮だということになるのだろう。

これは私が考えるに、二通りの可能性が考えられる。ひとつは本人の自制心の不足である。自分の感情を自制できずに礼儀にもとる発言をしてしまうということで、これはまさしく社会性のなさ、人間的な未熟さ、甘えには違いないが、他方、これは正直さの現れと見ることともできる。作家や芸術家にとっては自己に忠実であるという正直さが命であるとも言えるという考えから、こういうことは許されるものと見る人も結構多いのではないだろうか。

もう一つ可能性は、御本人は慣れない冗談を言ったつもりだったではないかということである。もちろん冗談は言って良い時と場所とがある。それを判断するのが社会性というものだろう。ただ結果的に、これは冗談のつもりが冗談として通ったということかも知れない。誰もが笑わなかったにしても。

正直なところ私はこの件ではなんとも言えない、というか、正当に評価できる自信がない。ただこれも局外者がそれほど怒ることでもないだろう。では怒るのではなく叱るべきか。本人のために忠言すべきか・・・。ただ、叱る場合は本人に伝わらなければ・・・。

以上、とりあえず考えた次第であるが、改めて考え始めると、この2つの問題は人生における大問題であることがわかる。二つの問題というのは、端的に二つの言葉によって二つに問題に整理するとすれば、職業選択の問題と人間の性格の問題と言える。広い意味で性格というのが適切だろう。そして、この職業選択の問題と性格の問題は確かに文学、特に近代小説の主要テーマの二つといっても良いのではないか。当然この御本人の仕事、課題そのものである。

とくに教養小説と呼ばれる種類の小説では職業選択の問題そのものではもちろんないが、職業選択の問題がかなりの比重を持って扱われる場合が多い。そうでなくとも多くの小説では多少とも職業選択の問題が絡んでいる。

一方の、人間の性格の問題は改めて言うまでもなく、近代小説のメーンテーマであり続けている。個人的に全く詳しくはないが、世界文学でも日本文学でもそれは同じだろう。世界の大文学と言われる嵐が丘にしてもカラマーゾフの兄弟にしても、人間の性格の問題が少なくとも重要な部分を占めていると言えると思う。


最初に述べたように、私自身は現代小説は殆ど読まない。人生のある時期から小説一般もあまり読まなくなった。それは、ひとつには、小説で人間の性格のことを考えさせられるのが嫌になってきたから、ということもあったような気がする。

そのかわり精神分析などを多少読むようになった。最初はフロイトの有名な2冊だけだったが、フロイトはそれらにとどまり、なぜかそれ以上は読めなかった。その後ユング関連は結構読んだが今だに積んどく状態のものもある。「心理学と錬金術」などは翻訳の初版を買い求めてよく内容も理解出来ないまま一応は通読はしたように思う。できれば読み直したいものだが、そのゆとりがない。ただ現代の世界的な精神分析学者と呼ばれる学者たちの本は難しそうで手が出ない。文化人類学なども同様。

しかし、性格の問題はすなわち心の問題であり、やはり、宗教的なものに行き着かざるを得ないのではないだろうか。宗教的なもの、というのは特定の宗教を信仰すべきであるとか、何らかの宗教を信仰すべきとかではなく、「宗教的なもの」、あるいは多くの宗教に共通するようなものという意味である。

簡単に言ってしまえば神秘的なもの、神秘主義、といえるかも知れないが、神秘主義といえば色々と専門的な定義があるようで問題であるとすれば、神秘思想とでも言えば良いのだろうか。こういう言葉を避けるのであれば科学を超えた問題、あるいは科学で扱えない問題に答える思想のことである。

心の問題は科学では、あるいは科学的なだけでは所詮限界がある。科学で、あるいは科学的に扱えるのは物質の問題だけである。当然本来の科学は自然科学そのものである。その意味で生物学は純粋な自然科学とは言えない。ちなみに生物学者ダーウィンは自然科学者の代表のような扱いを受けている。そして自然淘汰説はあたかも科学の勝利を示すものであるかのような扱いを受けている。どうもあまり純粋な科学ではないような気もするのだが。

「神秘思想」に戻って・・具体的に言えば心的なエネルギーとか精神でも物質でもあり、どちらとも言えないような存在、常人の感覚を超えたような存在、心と身体や物質との関係の問題。心身相関の問題、カルマの思想等々になるだろうか。


自然科学でも最終的には科学を超えたものに至る、あるいは科学を超えたところに譲るべき地点がある。

今のエコロジー思想ないし運動はそれがあまりにも安直で粗雑、妥協的、ご都合主義、見せかけ、誤解と欺瞞に満ちた形で進行しているように見えるのである。

少なくとも哲学は科学よりも上位にある。これは現在では大方の合意とでも言えると思う。
ところが、宗教、神秘思想となると、いろいろと混乱、誤解、が生じてくるのが現状なのだ。

(いつのまにやら途中でテーマが変わってしまったようです。このままさらに続けるとまた別の問題に移行してしまいそうなので、この辺りで切り上げることにします。いつもながら・・『あやしうこそものぐるほしけれ』)

月曜日, 1月 09, 2012

タブレットPCその後と今後のPCとの付き合い

(今回も前回に引き続きタブレットPCの使い勝っての報告のような形で、PCに関するあれこれを、特に視覚に関わる作業性にこだわってメモしておきたいと思います。)


これまでのところ、タブレットPCの入力にはまだまだ問題が多く、思うようにならない点が色いろあることは確かだ。困ったのはグーグルクロームでブロッガーの記事を入力中は、日本語を一文字づつしか確定入力できないことである。これは何なのだろう。同じクロームでもG-メールではそんなことにならなかったのだが。これはタブレット付属のsimejiという入力ソフトでもグーグルの日本語入力システムβでも同じである。ちなみにATOKの試用版はもう期限が切れたので確認しなかったが、多分同じことだろう。原因は入力システムの方ではなさそうだから。

ただ、このように使用中ソフトの影響を受けやすいのはやはりまだ問題が多いということだろうか。

さらにそれ以前の問題としてやはり10インチタブレットでも画面のキーボードはやはり小さくて縦にすると両手では無理である。片手で入力せざるを得ないが、片手で入力することはメリットでもある。筆記用具は片手で使うのが本来の姿である。手書き入力は試したことがないのでわからない。


こんな訳で、入力に関しては問題があるものの、画面の見やすさ、読みやすさは、今では断然タブレットPC、あるいはスマートフォンなどの携帯端末が優れていると思う。ノートパソコンでも同じくらいの解像度、この場合DPIの意味での解像度であれば断然従来のデスクトップPCディスプレイよりも優れている。これはフォントのデザインなども含めてそのように思う。ただ、この辺とところ、フォントの問題は専門知識がないのでよくわからないのだが。

ここに来て改めてデスクトップ型ディスプレイの問題が浮き彫りにされて来たように思う。
筆者は特に眼に対する負担の面と、文章や画像で作業をする場合ならイメージの発想に及ぼすディスプレイの影響の面でこの問題をいつも考えている。

これらの点で、前回も述べたように従来のデスクトップ型ディスプレイに比べてタブレットPCやノートパソコンの方が優れた点が多いことは少しづつ明らかになってきたのではないかと思う。

眼の疲労に関しては眼の医学的に色々言われているが、どうも決定的な原因が良くわからない。しかしよく言われる発光画面の明るさや反射、チラツキなどもさることながら、画質、解像度、この場合絶対的な画素数のことではなく大きさに対する画素数つまり精細さ、DPIの重要性、あるいはフォントの滑らかさ、美しさがさらにもっと重要なのではないかということだ。

またこれも前回に触れたが、姿勢の問題もある。

だいたい、近距離で文字を読んだり文章を作成したりする場合に正面を向くというのは不自然なのである。画像の場合は必ずしもそうではないかもしれないが。このことについてはまた別の場所で検討してみたい。


現在、筆者にとって理想の次世代のPC環境は次のようなものと考えている。

1.メイン機をノートパソコンにする。ノートパソコンと同じような位置で使用できるデスクトップがあればその方が望ましい。但し17~19インチ程度の大きさで横長。今よりも解像度が高く画素数も多いパネルとシステムが欲しい。できれば今の携帯やスマートフォンと同じくらいのDPIが欲しい。

2.メイン機にUSBで1台か二台のあまり大きくないデスクトップ型ディスプレイを接続してマルチディスプレイにする。これは上下位置を可能な限り広く調節できるものが望ましい。

3.タブレットPCや電子書籍型端末の必要な台数を追加する。