水曜日, 2月 15, 2012

俳優と作家

俳優はもちろん、立派な職業である。ただあくまで職業であり、職業以上の立場になるケースは稀ではないかと思う昨今である。俳優という仕事はやはり創造的な芸術や文芸とは基本的に一線を画すということだろうかといったことを考えている。あくまでも基本的にということではあるけれども。

というのは、俳優の渡辺謙さんがダボス会議という、政治家や政治学者などが集うという世界会議でスピーチを行ったその内容が、盛んにマスコミや言論界で賞賛されているのをみて、個人的には相当強い違和感を持ったことから考え始めたことによる。

そのスピーチを簡単に読ませてもらったが、要するに日本の文化の特長であったとされる「絆」の大切さを説くことと、エネルギー政策として「再生エネルギー」への転換を主張したという二点である。これを件の国際会議で立派にスピーチしたということで、渡辺謙氏がマスコミやネットを含む言論界で賞賛を浴びているということのようだ。

内容を見ると、結局のところ、彼は一部の政治経済的勢力と一部世論の主張を代読したに過ぎず、職業俳優としての職責を立派に果たしたということ以上でも以下でもないように思える。

「絆」については、すでにマスコミなどで盛んに話題にされているような事柄を一つの短い文脈に手際よくまとめたに過ぎない。

もう一方の「再生エネルギー」については文字通り、一部の政治経済勢力の代読に過ぎないと考える。ご自身の頭から出てきたものではないだろう。そうであるとすれば、私に言わせれば不勉強である。不勉強でなければ自己欺瞞である。(少なくとも現時点での「再生エネルギー、自然エネルギー」の問題点と欺瞞とには、ネット検索で誰でも容易にアクセスできる。「再生可能エネルギー」という言葉のもつ問題については拙ブログhttp://imimemo.blogspot.com/にも書いています)


ここで思い出したのは先回このブログでも書いた、今年の芥川賞受賞作家の田中慎也氏の会見である。あのような、社会性という観点から見ればとんでもないと思われるような会見が成立したということを思うと、純文学という世界はやはり芸能界というか、俳優、タレントの世界(演劇という意味ではなく)とは一線を画した可能性を秘めていることが確認できたような気がする。

個人的に、現代文学にあまり興味をもつゆとりを持たないけれども、こういう世界はなくなって欲しくはないし存続して欲しいと思われるのである。訳のわからない前衛芸術にしてもそうだ。ただ蛇足ながら、最近はいやにエコロジー運動に媚びた芸術が幅を利かせているのが気になる。

芸術にしても文学、文芸にしてもやはりそこに新しさというか創造性とともにある程度以上のレベルで真実に迫るものを持たなければいけない。自己欺瞞を持たないことである。それは時に社会性とは両立しない場合もあり得る。


社会的に影響力を持つ人物の評価は様々な面から多面的に評価されるべきだと思うが、とりあえず今、次の三点で評価しても良いのではないかと思う。

ひとつ、社会性。
ひとつ、専門性、職業性。
ひとつ、文化人としての責任。(適当な言葉がみつからないので文化人としましたが、社会的な影響力に対しての責任とでもいう意味で)

最初の二点については今ここで改めて考える必要も必要はないと思う。3つ目の文化人としての評価について考えてみたい。

文化人としての重要な要件のひとつは自分の専門外あるいは確信を持って言える根拠を持たない事を無責任に主張しないことである。そうすることは不勉強であるか自己欺瞞を抱えることの何れかとなり、要するに不誠実を抱えることである。

この誠実さという点は一つ目の社会性の要件でもあろうと思うが、社会性を超えた高次の誠実さというものがここでは求められると思う。この点で、渡辺謙氏よりも田中慎也氏が高く評価されるべきと思う。


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