水曜日, 7月 07, 2021

自転車の効用を見直す

 私には70歳代後半から80歳代にかけての姉が3人いるが、少なくとも脚の健康度において最上の状態を維持しているのは一番年上の姉である。電車やバスは使うが、そのための徒歩移動や日常の徒歩移動には何も問題がない。彼女はそもそも最初から自転車は使ったことがなく、電車やバスを使えない部分はいつも歩いてとおしてきた。

それに対して二番目の姉は大の自転車好きであり、ここ数年は脚が弱って普通に歩くことも覚束なくなってしまったので、もっぱら近隣への移動も自転車だけが頼りで、自転車なら片道3キロくらいのところでも苦にならないという。ちなみに肥満体でかなりの高血圧症でもある。

三番目の姉は自転車は使わないが、夫や子供が自動車に乗るので、結構自動車に乗る機会が多かったように思われ、長距離を歩くことは苦手であったようだ。最近は脚以外の何らかの健康上の原因で歩けなくなり現在治療とリハビリ中であり、なんとか元に戻ることを願うばかりである。

私自身は生来、体力が平均よりも劣り、健康面でも若い頃は風邪を引きやすく毎年のように一度は風邪で数日間にわたって寝込むことも多く、今もその影響で慢性鼻炎が直らないのだが、最近は風邪を引くことも少なくなり、若い頃よりもむしろ健康になったきた自覚があるのは、やはり若い頃からスポーツは苦手であっても歩くことだけは好きで、都会に住んでいるときもできるだけ地下鉄やバスを使わず、1~3駅くらいの距離は歩くことの方が多かったほど、歩くことが好きであったことが大きく寄与しているものと思う。学生時代は自転車を使い、田舎地方で勤務しているときは小さな中古自動車を所有していた時期もあるが、一度首都圏に転居してから後は自動車も自転車も全く使わなくなった。

自動車を使わないのは、まずコストがかかることが理由であることは言うまでもない。自転車を使わないのは、使い方が煩わしいことに尽きる。田舎住まいなら良いが、郊外を含めて都会で自転車を使うのは煩わしく、自分で言うのもなんだが、繊細な神経の持ち主である私には向かないのである。逆に、それだけ他人の自転車のマナーの悪さには毎日辟易している。

自転車は社会的にも称揚されることが多い。理由としていろいろ挙げられるが、人力で動くということから、「人間的」とか「ヒューマン」だとかの表現で良い意味で称揚されている。しかし、人力で機能するというなら、ナイフや金槌も人力で使う道具であり、役に立つ目的で使うこともできれば、人を殺すために使うことも簡単である。人力ということと人間性や倫理的な価値とは何の関係もない。一方、でエコとか省エネという意味で自転車が称揚されることも多いが、この点の欺瞞性については、ここでは取り上げる必要もないだろう。

そもそも自転車を好んで使用する人にはもともと大雑把で無遠慮で、あえて言えば自己中心的な傾向の人が多い可能性が考えられないこともない。こう考えてくると、社会的に自転車を特に称揚する理由はあまりないと思われる。健康増進の点では歩くことの方がよほど優れていることは専門的にもいわれているし、冒頭に述べたように個人的な経験からはほとんど自明といっても良い。もちろん自転車もマナーさえ守れば経済性の面で庶民の見方であることには変わりないので、自転車道路の整備や歩道での走行許可も可能な範囲で進めるのは悪いことではないが、歩行者にしわ寄せがくることが無いように進めて欲しいものである。

さらに重要なことは健康と長寿において歩くことの重要さをもっと社会的にも称揚すべきだろう。もはや歩くことが困難で自転車なら使えるという状態になってしまったご老人などは仕方がないが、都会においては自転車は買い物や荷物運び、あるいはある程度の長距離使用にとどめるという節度を称揚すべきであり、右側通行や歩道での高速運転などの法律違反は厳重に取り締まるのは悪いことではないと思う。

木曜日, 6月 24, 2021

ワクチンと人々の世代、そして階層 ― ワクチンへの依存心という問題

 先月の初めか中頃だったが、仕事の件で私と同年の友人に電話したときにワクチンの話にになり、彼がこの問題で子供達と対立関係にあることを知った。当時その友人はワクチン待望派であり、その時すでにワクチンを打つことに決めていた。この点で私とも意見が対立していたわけだが、彼はそもそもワクチン好きで、これまでも毎年インフルエンザワクチンを打ちつづけ、近年には年配者に案内が来る肺炎のワクチンも打ってきたそうである。そして娘さんにも子宮頸がんのワクチンを打つことを勧めているというのである。その娘さんはワクチン忌避派であるとのこと。もちろん、その娘さんも立派な成人だから、彼も無理に子宮頸がんワクチンを押し付けるようなことまではしないとは思っている。

一方、私は、インフルエンザワクチンは、たぶん中学校で集団接種して以来、打ったことがなかったし、何年か前に来た肺炎のワクチンも、初めてのことで少々気にはなったが、申し込まなかった。一つの理由はもちろんこれらのワクチンは有料であったことも理由のひとつである。ということで、この友人の家庭では親子の世代間で対立があり、この友人と私は、ワクチンを打つという習慣において対立とは言えないが、受け止め方にかなり大きな差があるといえる。

一方、ごく最近私は東京から大阪府内に引っ越し、もともとこちらの出身だから知り合いのワクチン対応ついても色々と情報が入るようになった。

1つの顕著な状況として、私より一回り上の世代では、上記の友人のような親子間の意見の対立は表面には現れず、むしろ子供達からワクチン接種を勧められたり、懇願されたりというケースが目立った。どうも子供たちにとって親がワクチンを打たなくては肩身が狭いという面があるらしい。その子供達は、世代的には、先ほどの東京の友人の子供達よりは一回り上であって、もう50歳代でそろそろ60歳にさしかかりそうな年齢である。

その50歳代の知り合いの女性の話だが、最近大学生になったばかりの息子から、ワクチンを打つな、とせがまれているという。本人がどうするつもりなのかについては聞かずにいるが。

先に触れた、私より一回り上の世代には当然、もう十分に成人となった孫がいる、その孫は先の50歳代の女性の子供と同世代である。彼らがどう考えているかについては大いに興味があるが、残念なが私とは直接の面識もなく、少なくとも直接には知る由もない。

また私たちを取り巻く情報空間の状況も刻々と変化する。もっともテレビと新聞についてはそう変わりそうもないように思えるが。

何れにしても世代間の違いは相当にあることは確かである。一方で経済的な階層間の違いもあるように思われる。ある程度以上裕福な層はワクチン接種の費用など惜しむ必要はないので、毎回、当然のように打つ習慣が出来上がっている人々も多いだろうと思う。そういう世代ではワクチンへの依存心もできているのではないだろうか?一方、裕福ではない階層の場合、ワクチンを打たない習慣が出来上がっている人々も多く、そのような階層では、ワクチンを打たなくても病気にかかっていないのであれば、ワクチンへの依存心自体も高くはないのではないだろうか?

ここで一つ、ワクチンに関して新たなキーワードが浮かび上がってきたように思う。それは「ワクチンへの依存心」という問題である。一方でワクチンの信頼度という問題があり、現在主に議論の対象になっているのはワクチンの信頼度あるいは危険度とでもいう問題だろうと思われ、これが飛び交う議論の大部分はこれであるけれども、一方でワクチンへの依存心という心理的な問題にもスポットをあてるべきではないかと思われる。また、若い世代のようにワクチンに対して懐疑心が強まれば、必然的に依存心も弱まることが、十分に考えられる。これは古くから言われる「病は気から」に関係することでもあり、また自己免疫力、抵抗力の問題にも関わる問題ではないかと思うのである。



水曜日, 3月 10, 2021

ある噂(新型コロナウィルス関連の)の、ひとつの真相


 少し前、大阪府の身内者と電話話をしたとき、知り合いの掛かりつけのお医者さんがコロナで死んだという噂があって非常に怖がっている様子だったので、近くに住んでいる親戚の者にラインで確認してみたら、その話は「デマでした」という返事で、まあ一安心した一件があった。しかし身辺でもそんなデマが飛び交っているということ自体は余計に大きな心配事ではあった。つい先日、当地へ帰省した際にもう少し詳しい実情を聞くことができた。

 今回の話では、後で分かったところによると、「コロナで死んだ」とされたお医者様の診療所の玄関に「新型コロナに感染したので15日間休診します」という趣旨の張り紙があったというだけの話らしかった。誰かがそれだけで、「コロナで死んだ」と言いふらしたらしいので、これもその日に聞いたところでは、あとからそれを言いふらした人は平謝りだとのことである。とはいえそれが誰であるとか、誰に平謝りであったのかまでは具体的な話は聞けなかった。

15日間の休診後に受診に行ったある人が「先生、大丈夫ですか?」と聞いたところ、その先生は笑って「何もないない」とこともなげに答えたらしい。それが本当なら、おそらくそのお医者様はただPCR検査を受けて陽性と診断されただけで、症状もなかったのではあるまいか、というのが私の推測である。というのも、昔から風邪をこじらせたりすると結構大変で、私の子供の時や若い頃の経験から言っても一月間くらいは咳が出続けたり、頭痛が続いたり、といった経験は少なくないので、それを思えば当のお医者様も何の症状もなかった可能性は高いと思われた。

以上は4人で話をしていたときのことだが、その中の一人はそれでもまだ「コロナ」を怖がっていて、ワクチンを打ちたいとまで言っていた。というのも仲の良い友達がワクチンを打つ気になり始めたらしいのである。もともと彼女は物事を大げさにとらえ勝ちの感情的な人だから、こういうこともあり勝ちで、他の会話メンバーはそうでもなかった。とはいえ、休診の貼り紙を見ただけでお医者様がなくなったと思い込んでしまった人物もそれに輪をかけて情報に過剰反応していたのだから、こういうことはいたるところでありそうで、いわゆる流言飛語の力を痛感すると同時に、マスコミ情報との相乗効果に改めて恐怖を感じてしまうのである。

ちなみに、

本記事では「真相」というタイトルを使ったが、もちろんこれは私にとっての、あるいは私が感じ取ったところの、私が伝える真相であり、抽象的な事実といったものではない。ところが最近は事実を英語のファクトという言葉で置き換え、抽象的な「事実」というものがあるかのような表現が、マスコミやツイッターなどのネット空間で横行しているのが、非常に気がかりなのである。そうして「ファクトチェック」といった客観性あるいは権威性を装うような概念や「ファクトチェックサイト」というような、何らかの権威を持つかのようなウェブサイトのネーミングなど、言葉の問題として危惧されるのである。




水曜日, 1月 06, 2021

心の四つの機能と感染症対策 ― ブログ・発見の発見の記事採録

以下の記事は筆者の別ブログ『発見の発見』の最新記事の再録です。ブログ・発見の発見は、一応何らかの学問分野に該当するような、多少は体系的なタイトルと内容で記事を書いています。ただ、今回の記事は本ブログで最近の一連記事のテーマであるCOVID-19感染症対策とマスクの問題に関係していますので、こちらの方にもそのまま再録することにしました。

タイトル:心の四つの機能と感染症対策

 COVID-19感染症対策については、オーソリティ側を含め多くの専門家のコメントがマスコミやネットを通じて日々伝えられている。ただし、意外でもあり不満でもあることのひとつは、心理学者や脳科学者などからの発信が少ないように見受けられることである。というのは、病気の予防対策というものは多分に精神面との係わりが大きいし、さらに免疫機能にも関わる問題であり、免疫機能については精神面との強い関係に言及されることが多い。一言でいって心身相間に深く関わっていると思われるけれども、この心身相間の問題は話題に上されるようになって久しいが、最近に至って権威筋の方で話題になる機会が少なくなってきているように思われる。もちろんマスコミや一般教育を通じて一般人に伝わる限りにおいての話である。今般のCOVID-19感染症対策においてはロックダウン、三蜜、マスク着用といった極めて心理的、あるいはメンタルな、それも個人的のみならず人間関係において影響力の大きな対策が中心となっている。こういう場面においてこそ心理学者や、医学においても心身医学といった分野の専門家の出番ではないかと思うのだが、特にオーソリティの側ではそういう動向が見られないことに不満が持たれる。世界的にその傾向があるのではないだろうか?


私はかなり若い頃、20代の頃に、心の四機能について説かれた有名なユングの著作『心理学的類型』を読んで感銘を受けたことが消えない記憶として残っている。感覚、感情、思考、直観、という四つの概念はそれ以前から当然あり、哲学的または心理学的に考究されていたには違いないが、この著作ではそれらが心の四つの機能として体系的に概念化されていたこと、そして特に直観について印象的な考察が行われていたことに強い印象を受けた。その後私自身は心理学を専攻することも、歴史的に研究することもなかったが、ときおり心理学方面の話題に触れる機会はあった。この期に及んで思うに、この間この点におけるユングのこの業績(あくまで心の四つの機能に限定した業績)がどのように受け継がれ、進展させられたのかが気になることもあったが、その後の、学問研究とは無縁な経歴上、学問的な動向については通暁していない。しかしメディアや書籍情報を通じて漏れ伝わってくる限り、あまりこの点では進展がないような印象がある。

最近の傾向として感じられることは、以前は心理学の問題として心理学者によって、特に一般向けメディアを通じて話題に上されてきた問題が、心理学者ではなく脳科学者によって脳科学の業績として語られることである。脳科学と心理学はどう違うのかと考えて見ると、字面上、脳科学は臓器としての脳を対象とした生理学的研究を重視しているらしいことは見当がつく。しかし脳科学とは異なる印象がある精神分析学の開祖であるフロイトは神経科学の研究からスタートしたのであり、精神分析学を樹立した後も神経科学を捨象したわけではないと思う。であるから、現代の脳科学は精神分析学とは別系統であるとは言えず、一面で言えば、研究分野の名前が変わっただけという見方もできる。

フロイトは『精神分析学』という名称を商標のように、自説ないし自説に追随する言説に限定したので、ユングは自説を『分析心理学』と呼んだと言われている。この伝で言えば『脳科学』も、そういうブランド名のように考えることもできる。とはいえ脳科学はその言葉の本来の概念を適用すればもっと広範な領域を含意しているような印象を受ける。いずれにせよ問題なのはこのように学問の分野名ないし分類名が変わることによって、それまでのその分野の成果から大切な要素が忘れ去られたり、はじき出されたりするのではないかという危惧である。その意味で、ユングの『心の四つの機能』はもっと応用され、再検討され、多面的に展開されるべきではないかと考えている。

そこでこの心の四機能を、タイトルと冒頭で言及したCOVID-19感染症対策の問題に適用してみたい。この感染症対策としてはいろいろ問題にされているが、代表例として最も目立つマスク着用の判断という問題との関連で少し考察してみたい。もっともユングの『心理学的類型』における理論は心の四機能と外向的、内向的という概念と結びついているので複雑であるし、私はそれを総合的に理解しているわけでもない。以下の考察は単にマスク着用の是非判断にこれらの四機能がどのように寄与しているかという大雑把な考察のみである。当然、医学専門家、法律家、行政側、一般公衆、等々といった立場の違いなども考慮できるようなゆとりもない。

感覚との関わり】
まず第一に、視覚、聴覚、触覚、その他の身体感覚、どの種の感覚によってもウィルスの挙動はもちろん、存在すらも知覚できないという基本事実を無視することはできない。したがって、感覚的にはマスク着用が快適であるか不快であるかが判断できるのみであって、感覚を元にその着用の是非を判断できるわけではない。

マスク着用では不快感の方が大きいことはまず間違いがない。寒い季節には身体に暖かさが得られるのでこれは快感といえるが、鼻まで覆うと冬季でも呼吸に悪影響が及ぶし、口の周囲がじめじめして不快である。またメガネをかけていれば視覚にも悪影響を及ぼす。

一方、これは感覚だけではなく感情にも関わっていると思われ、微妙なところだが、視覚に限らず身体感覚を考慮しても、感情的にはマスク着用で自らは守られているような安心感が得られることは確かであろう。ただしそのような安心感がメリットであるかデメリットであるかは別の問題である。


思考との関わり】
ウィルスはいかなる感覚でも直接感知できないものである。ウィルスによる感染という状態、感染や発病のメカニズムなどはすべて長い歴史上に積み重ねられた膨大な医学的研究成果に基づいているのであって、ウィルスやそれによる感染症という概念自体が感覚でも感情でも直観でもなく思考機能に基づいている。とはいえ、思考のプロセス中に感覚は欠かせないものであり、また感情や直観が影響を及ぼす可能性はある。ウィルスによる感染症の概念と、その感染拡大に対する防衛としてマスクを着用するということ、それも感染症の症状を持つ患者や特定の検査結果の陽性者のみならず国民全体が常にマスクを着用して生活すべきだという現在の国家的方針との関係が科学的思考のみに基づいているとは常識的にも到底想像できないことは言うまでもないことだろう。

一つの問題として、ウィルス感染とか感染拡大、何らかの検査における陽性反応、等々、諸々の概念自体にどれほどの確実性があるのかが心許ないといえるが、当面はそれらの概念のいわば言葉の土俵の上で考察するしかない。

科学的な考察を進めるうえでは大きく分けて次の二つの異なる方向性がある。①一方は実験を含めたメカニズムの理論的考察であり、②もう一方は過去のデータによる統計的な分析である。ここでこれ以上考察を進めるいとまはないが、現実問題として②の方向性をとらざるを得ないのではないだろうか。個人的には結論としてマスク着用、正確に言えば全国民的なマスク着用の感染防止効果は確認できていない印象を持っている。

感情との関わり】
マスク着用に関する感情的な反応は、自分自身のマスク着用に対する判断における動機と、他人のマスク着用に対する印象とに分けられると言える。第一に挙げられる要素は『恐怖』、すなわちウィルス感染と重症化、さらには死に対する恐怖であることには間違いがない。しかし、病気や死に対する恐怖心はだれにでもあり、一方に安心感というものもある。恐怖と言うのは潜在的には常にあるが、恐怖の原因によって呼び覚まされるものである。恐怖にしても安心感にしても、それらを呼び起こすものはウィルス感染症とマスク着用効果に対する知識であり、それは思考作用の結果とはいえるが、その結果は自分自身の思考による場合と他者の思考による場合がある。もちろん純粋にその両者の一方だけということはあり得ない。また自分以外の他者は多人数であり、メディアを通じてさらに多人数である。それぞれ思考の特性、端的に言って考え方も違っていれば利害関係もある。

直観との関わり】
直観について考察するのは難しい。今の私はユングが述べている直観についてよく理解しているわけでもないし、ユングが影響を受けたカント哲学にさかのぼって考察できるような素養も持ち合わせていない。ただ、これはカントでもユングでもないが、カッシーラーが『シンボル形式の哲学』の最終巻で、『表情機能』というものについて述べていることが思い起こされるのである。この辺りはこの著作の中でも最も難解かつ深遠な部分のように思われ、私に十分理解できたとも思えないが、直感に最も関係があるようにも思われる。一方、人がマスクをしている他人を見て大いに気になることの一つは表情の問題である。顔の下半分、特に口元が隠されることにより表情が読み取りにくくなったり、悪い印象を受けたりすることによる弊害が指摘されている。これは立場によりメリットともデメリットともなり得るが、この表情を表現したり、表情を読み取る心の機能は感情機能とも思考機能とも感覚機能とも異なるが、直感ともっとも関係が深いようにも思われる。この場合は感覚機能の中では視覚と関係が深いが、視覚以外の身体感覚にも関係がないとも思えない。この問題は少なくとも個人的に、今後の課題となりそうな予感がしている。