火曜日, 9月 20, 2011

現実のドラマ化と音楽、ナレーション

最近、NHKテレビ(Eテレを含め)でよくあるドキュメンタリー番組で音楽が使われることに違和感を感じることが多くなった。

ドラマ以外のテレビで音楽が使われる場合の違和感というのは以前から気になることが多かった。特に最近のニュース番組でそれが言える。そういえば音楽だけではなくナレーション自体もそうである。ナレーションの声調や表情なども音楽と考えれば、これも音楽に含めて考えることができる。通常のアナウンスのように視聴者に向かって語るのではなく、1つの表現行為としてのナレーションになっているのである。

テレビラジオを含めて放送のニュースというものはアナンサーが局を代表してリアルタイムで原稿を読み、語るのが本来のスタイルであったと思うけれども、テレビニュースではいつの頃からか、録画を構成した画面にナレーションが付けられたドラマ仕立ての断片が挿入されるようになっていた。個人的な記憶では、テレビ朝日のニュースステーションでこの傾向が気になり始め、次第にこういうのを見聞きするのが気持悪くなり、このニュース番組を見るのをやめて以前見ていたNHKのニュースを見てみたが、ニュースキャスターの態度もさることながら、NHKのニュースもこの傾向が強まってきたので、夜9時から10時台のニュースで見るものはなくなってきた感じである。この気持の悪さは、現実がドラマ化、それもドラマと意識されずにドラマ化されている気持ちの悪さである。

今はあまり使われなくなったが、かつてバーチャルリアリティーという言葉がよく使われた。そして現実と虚構との区別がつかなくなることの弊害などがよく議論されたものだ。そういう現実と虚構あるいは捏造との区別が曖昧にされるという手法がまさにテレビニュースで使われているのではないかという気持ちの悪さである。

端的に、人間性悪説に立って製作者の意図を意地悪く推し量るとすれば、理性的な内容の不足あるいは誤りを感情的な効果で埋め合わせようと言うか誤魔化そうという意図で簡単に説明してしまうこともできる。

【科学的な問題を感情に訴える議論で扱う傾向】
この、感情に訴えるという傾向は単に音楽を利用するというような次元をこえて、言語表現自体の次元でもマスコミ、ネットを問わず、言論、議論の場で幅をきかせるようになってきているのではないかという思いがある。それが普通の政治問題や社会問題であるなら昔からそう変わっていないともいえるが、科学の問題においてもその傾向が顕著になってきたような気がする。もっとも科学の問題も現実の社会で論じられる場合はもうすでに純粋な科学の問題を超えていることには違いない。特に自然現象や科学技術に関わる問題が政治問題化する機会が増してきたことも大きく関係している。311地震と原発事故以後、特にそうである。

もう今では古くなりつつある(ことを希望するが)CO2温暖化問題にも感情的なものが関わっていることは明白だと思っているけれども、原発事故後の放射線問題では特に科学的で客観的であるべき問題に感情に訴える議論が専門の科学者や技術者にも目立つようになってきたように思う。もちろんジャーナリストやコメンテーター、あるいは個人の活動家やネットの一般人もそうである。

例えば、科学者の誠実さといった側面が問題にされ、それが主張の正しさを保証する条件のように言われる。誠実さとか正直さ、人格などを拠り所にその人物の主張を信頼するというのは各個人レベルの問題である。信仰と同じことであって、ジャーナリスト的立場の人物(個人であろうとメディア団体であろうと)がそういうことを根拠に科学的な問題を論じたり報道したりすべきではないと思う。当然反対の主張をする科学者を誠実な人格者であると見る人もいるわけである。もちろん、個人的な印象としてそういう気持ちを表明することが悪いわけではないが、それを科学的な問題の判断の論拠にするべきではない。

私自身、このブログの先回の記事で稲恭宏博士のビデオを見て氏の科学者としての態度に感銘を受けたことを書いた。しかしそれは私個人レベルのことであって、そのことに触発されて、低線量放射線問題の資料や論文をネットで調べた結果、放射線リスクの閾値説の正しさに確信を持ったわけである。あくまでも触発された結果として資料にあたったわけであって、彼の博士が誠実に思われるからという理由で閾値説を支持したわけではなかった。

声高に叫んでいるとか、熱心さとか、情熱的であるとか、献身的に見える活動をしているとか、そのようなことは外面的なことであって、実際に誠実であるかどうかは最終的な情報の受け取り手自信が判断することである。

そういう個人的な印象を伝えたいと思うのは人情であってそれ自体は非難すべきことでも何でもないが、それだけで終わって肝心の事実問題、科学的な事実と理性的な判断に影響しては何にもならない。

ともかく、特に放射線問題では言葉での議論自体の中に感情的な要素が大きいのである。テレビの場合はそこへ持ってきて映像の他に音楽による演出まで加わると感情的なノイズが増幅されるばかりである。

テレビのドキュメンタリーに音楽が使われることへの不快感を強く意識し始めたのは6月に放送されたETV特集を見た時からである。いまNHKホームページで確認してみると、その時のタイトルは「続報ネットワークでつくる放射能汚染地図」とそれに引き続いて放送された「暗黒の彼方の光明~文明学者~梅棹忠夫」である。最初の番組の冒頭から、気を滅入らす不気味な音響が用いられて嫌な予感がしたが、内容的には情報量としても密度が低い印象であった。次の梅棹忠夫の業績をテーマにした番組も同様である。不気味な音楽をバックに何人かの学者コメンテータの単なる印象や抽象的な絶望感といった程度のコメントを話しているだけの具体性の乏しい内容だった。去年になるかもしれないが、筆者も梅棹忠夫に興味を持って「梅棹忠夫語る」という、晩年の対話本を読んだのだが、その内容の中でもっとも印象に残っていたのが、氏の放送、ラジオも含めた放送一般への失望感である。初期には自らも積極的に参加していた放送に対して晩年は絶望し、「放送は人間を悪くする」と言い切っていた。NHKを含めた放送マスコミが梅棹忠夫の業績を特集するのであれば、この問題を避けることは許されないだろう。

音楽の話に戻ると、この日のこの一連のドキュメンタリーの直前の番組はN響アワーだったのだが、その日はチャイコフスキーの悲愴交響曲全曲。その解説も含め、後の番組への演出効果として意図されていたことは誰にも気づいた人も多いだろうとおもう。


音楽が必要以上に使われることが気になってきたのはこういったドキュメンタリーばかりではなく、例えば最近教育テレビで放送され始めた「さかのぼり日本史」という歴史の番組でもそうである。この番組も音楽が邪魔に感じられて仕方がない。また日曜美術館などもそうだ。ちょうど一昨日も見たが音楽を使い過ぎではないかと思う。一昨日は音楽がうるさすぎて話の内容を聴きとる邪魔になったほどである。


同じNHKで長く続いていた歴史番組に「その時歴史は動いた」という番組があった。今はそれが「歴史秘話ヒストリア」に引き継がれたようだ。これらの番組でも音楽が派手に使われていたし今も使われているが、こちらの場合はあまり音楽が邪魔になるというか、気になることはなかったのは何故なのか、と考えてみた。それは結局、これらの番組では歴史といっても特定の個人あるいは集団の人間ドラマとして描いているからだと言える。

【映像番組のドラマ化】

ドラマは絶対に音楽を必要とするとまでは言えないとしてもドラマと音楽との親和性は誰もが認めるところだろうと思う。それで少なくともこういうことは言えるだろう。つまり、普通はドラマとは見做されないようなテレビ番組に音楽を使うことは多少ともその番組をドラマ化すると言えるだろうということである。

ドラマには必ず作者がいる。必ずしも個人ではなく神話のように民族全体というほかない場合もあるにしても、作者がいる。そういう作者の表現であるという暗黙の了解がある。

何かをドラマ化するという言い方ができるとすれば、元のドラマ化される前のものは何なのかということになるが、もちろんそれは現実そのものではなく、すでに映像と言葉によるテレビ番組である。ドラマ以外の、この種のドキュメンタリーとかルポルタージュ、ニュースや歴史番組を含めると、報道という範疇になるのだろうか。しかし新聞や雑誌、あるいはラジオに比べてもテレビの場合はどうしてもドラマ化されやすい題材が取り上げられることになってしまう傾向も否定できない。

先にあげたETV特集の「続報ネットワークでつくる放射能汚染地図」の場合、直接には放射線汚染地図を作成する科学者たちの活動を取材したものであった。あくまで特定の「科学者達」であって「科学」ではない。すでにここで、現実のドラマ化が始まっているとも言える。この番組に引き続いて放映された「暗黒の彼方の光明~文明学者~梅棹忠夫」のほうは、タイトルを見ると梅棹忠夫という学者が主人公であるように思われるが、見た印象は全くそうではなく、何か日本という国か日本民族そのものを主人公に見立ててその行く末を悲観するというような、抽象的、観念的な発言を映像と音楽で色付けしていたような印象を受けたことを記憶している。これもドラマ化である。

どちらの番組でも科学的な問題を直接取り扱い、解説したり議論したりということは全くなかったように記憶している。

テレビ、というより、正確に言って映像と音によるメディア自体が科学や論理的な教育や議論に適さないということはないだろうと思う。現に放送大学などもあり、大学教育でもビデオやインターネット教育に利用されて一定の効果を揚げているのではないだろうか。梅棹忠夫が失望し、批判したのも放送としてのテレビとラジオである。


【少なくともニュースやレポートあるいはドキュメンタリーなどの映像作品は音楽の
使用を制限することによって内容の向上、少なくとも質の低下を抑止できるのではないだろうか】

1. 音楽を除くことによって、その分、視聴者の注意力を理性的な内容の方に振り向けることができる。

2. 製作者もその分、音楽に頼らない分を理性的な内容の充実に努力を注がざるを得なくなる。

何か大きな災害や事故があった場合でも、人の興味はどうしても個人のドラマに向かいがちであり、テレビ放送に限らず、新聞、雑誌を含めても、報道が多少ともドラマ化するのは避けられないことであろうと思う。テレビ放送の場合は音楽を控えることによって、多少ともドラマ化の弊害が拡大されることを防止できるのではないだろうか。


わざわざ付け加えるまでもないかもしれないが、個人的にドラマや音楽が嫌いなわけでも、低く見ているわけでも、理性と対立するものだと思っているわけではない。実をいうとドラマと音楽の関係とか、使われる音楽の様式とか行った方面にむしろ興味がある。と言ってもこの方面は古来、多くの優れた人物によって多くが語られてきたことだろう。

以上。