火曜日, 1月 31, 2012

芥川賞受賞作家、会見の反響に思う ― 職業論と性格論


現代小説を読む習慣がなかったというべきか、特に純文学と言われる分野はめったに読まないので長年、芥川賞にも直木賞にもあまり興味を持たず、また持たないようにしていた。そんな筆者がこの先の土日、今回の受賞者の一人(田中慎弥氏)の個性がマスコミで取り上げられているのを見た。具体的には受賞会見の一部の映像と、ニュースショーでのコメンテーターのコメントなどである。当然、会見の際の「不貞腐れた」態度や、賞を「もらっといてやる」と発言したことなどが話題になっていたが、そのTV番組のコメンテーターで特に非難する人はいなかった。また選考委員の一人であった石原都知事もそのことを非難することはなかったらしい。

私は芥川賞事体にあまり興味がなかったこともあってまあそんなものかな、と思い、それ以上考えることはなかったのだが、その後、たまたまネットで訪れたブログを見ると、ちょうどこの件が取り上げられていて、そのブログの筆者としてはかなり自然なことだと思うのだが、手厳しくその受賞者の無礼な態度はもちろん、その作品や人柄にいたるまで批判を加えていた。その批判は関連メディア関係者や日本の文学にまで及ぶ。彼本人への批判としては、甘ったれている、ふてくされている、社会性がない、発達障害ではないか、精神病院に入院治療すれば矯正される、自衛隊に入っても矯正されるだろう、等々というものである。

作品の評価や現代文学、日本の小説家全般の評価はともかく、このブログの筆者の個性から言えば当然と思われるし、またある一般的な、常識的な見方からもごく自然で当然とも言える意見である。

しかし尊敬すべきこのブログ筆者の意見を読むに及んで、私自身でももう少し突っ込んで考えてみようかと思い、考えてみたのである。しばらく考えた結果・・・・

とにもかくにも、当の受賞作家はかなり早い段階で作家になる決心をし、これまで迷わずにその道に励んできた結果、何回かノミネートされるまでになり、今回めでたく芥川賞を受賞するに至ったのである。それはそれで立派なことではないかと思う。

少なくとも局外者が「甘ったれるな」と言うのは当を得ていないのではないだろうか。

ある人が自ら選んだ自らの性にあった仕事を持つことができるということは、本人にとってより以上にむしろ社会にとって望ましいことであり、めでたいことなのである。これはその仕事が社会的にそれほど成功しなかった場合でもそう言えると思う。

就職難のこの時代、多くの人々が自分の性に合わない仕事、能力に合わない仕事を獲得すべく激しい競争をしている。

すでにある多くの仕事、中でもある程度社会的地位や、やりがいが満たされる仕事にはそれにふさわしい能力と社会性が求められることは当然であるが、残念ながらすでにある仕事、要するに企業の求人に対しては社会性も能力もある応募者が十分に沢山いて、そのなかで激しい競争をしている状態のように思われる。

そうした中でそのような真っ当と思われる職種に就く意欲を持てない人物が自分の性にあった職業を見出して成功したということは、それだけで本人の幸福にとってより以上に社会にとって喜ばしいことだといえる。


以上は彼の生き方の問題。他方、今回の受賞会見の件で彼の態度のことが非難されているのは確かに常識的に見ても当然のように思われる。しかし、現実に当のブログ作者のような非難が一般に沸き起こっているとは言えない。むしろ石原都知事のように「生意気でいいじゃないか」といった見方も多いようにみえる。そのこと事体がまた非難されるべき、また嘆かわしい社会風潮だということになるのだろう。

これは私が考えるに、二通りの可能性が考えられる。ひとつは本人の自制心の不足である。自分の感情を自制できずに礼儀にもとる発言をしてしまうということで、これはまさしく社会性のなさ、人間的な未熟さ、甘えには違いないが、他方、これは正直さの現れと見ることともできる。作家や芸術家にとっては自己に忠実であるという正直さが命であるとも言えるという考えから、こういうことは許されるものと見る人も結構多いのではないだろうか。

もう一つ可能性は、御本人は慣れない冗談を言ったつもりだったではないかということである。もちろん冗談は言って良い時と場所とがある。それを判断するのが社会性というものだろう。ただ結果的に、これは冗談のつもりが冗談として通ったということかも知れない。誰もが笑わなかったにしても。

正直なところ私はこの件ではなんとも言えない、というか、正当に評価できる自信がない。ただこれも局外者がそれほど怒ることでもないだろう。では怒るのではなく叱るべきか。本人のために忠言すべきか・・・。ただ、叱る場合は本人に伝わらなければ・・・。

以上、とりあえず考えた次第であるが、改めて考え始めると、この2つの問題は人生における大問題であることがわかる。二つの問題というのは、端的に二つの言葉によって二つに問題に整理するとすれば、職業選択の問題と人間の性格の問題と言える。広い意味で性格というのが適切だろう。そして、この職業選択の問題と性格の問題は確かに文学、特に近代小説の主要テーマの二つといっても良いのではないか。当然この御本人の仕事、課題そのものである。

とくに教養小説と呼ばれる種類の小説では職業選択の問題そのものではもちろんないが、職業選択の問題がかなりの比重を持って扱われる場合が多い。そうでなくとも多くの小説では多少とも職業選択の問題が絡んでいる。

一方の、人間の性格の問題は改めて言うまでもなく、近代小説のメーンテーマであり続けている。個人的に全く詳しくはないが、世界文学でも日本文学でもそれは同じだろう。世界の大文学と言われる嵐が丘にしてもカラマーゾフの兄弟にしても、人間の性格の問題が少なくとも重要な部分を占めていると言えると思う。


最初に述べたように、私自身は現代小説は殆ど読まない。人生のある時期から小説一般もあまり読まなくなった。それは、ひとつには、小説で人間の性格のことを考えさせられるのが嫌になってきたから、ということもあったような気がする。

そのかわり精神分析などを多少読むようになった。最初はフロイトの有名な2冊だけだったが、フロイトはそれらにとどまり、なぜかそれ以上は読めなかった。その後ユング関連は結構読んだが今だに積んどく状態のものもある。「心理学と錬金術」などは翻訳の初版を買い求めてよく内容も理解出来ないまま一応は通読はしたように思う。できれば読み直したいものだが、そのゆとりがない。ただ現代の世界的な精神分析学者と呼ばれる学者たちの本は難しそうで手が出ない。文化人類学なども同様。

しかし、性格の問題はすなわち心の問題であり、やはり、宗教的なものに行き着かざるを得ないのではないだろうか。宗教的なもの、というのは特定の宗教を信仰すべきであるとか、何らかの宗教を信仰すべきとかではなく、「宗教的なもの」、あるいは多くの宗教に共通するようなものという意味である。

簡単に言ってしまえば神秘的なもの、神秘主義、といえるかも知れないが、神秘主義といえば色々と専門的な定義があるようで問題であるとすれば、神秘思想とでも言えば良いのだろうか。こういう言葉を避けるのであれば科学を超えた問題、あるいは科学で扱えない問題に答える思想のことである。

心の問題は科学では、あるいは科学的なだけでは所詮限界がある。科学で、あるいは科学的に扱えるのは物質の問題だけである。当然本来の科学は自然科学そのものである。その意味で生物学は純粋な自然科学とは言えない。ちなみに生物学者ダーウィンは自然科学者の代表のような扱いを受けている。そして自然淘汰説はあたかも科学の勝利を示すものであるかのような扱いを受けている。どうもあまり純粋な科学ではないような気もするのだが。

「神秘思想」に戻って・・具体的に言えば心的なエネルギーとか精神でも物質でもあり、どちらとも言えないような存在、常人の感覚を超えたような存在、心と身体や物質との関係の問題。心身相関の問題、カルマの思想等々になるだろうか。


自然科学でも最終的には科学を超えたものに至る、あるいは科学を超えたところに譲るべき地点がある。

今のエコロジー思想ないし運動はそれがあまりにも安直で粗雑、妥協的、ご都合主義、見せかけ、誤解と欺瞞に満ちた形で進行しているように見えるのである。

少なくとも哲学は科学よりも上位にある。これは現在では大方の合意とでも言えると思う。
ところが、宗教、神秘思想となると、いろいろと混乱、誤解、が生じてくるのが現状なのだ。

(いつのまにやら途中でテーマが変わってしまったようです。このままさらに続けるとまた別の問題に移行してしまいそうなので、この辺りで切り上げることにします。いつもながら・・『あやしうこそものぐるほしけれ』)

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