土曜日, 4月 16, 2011

無題

このたびの地震に関連して天罰という言葉が波紋を呼んだが、一方で自然のしっぺ返しという表現を使う人がいる。天と自然とは同じではないのでかなりニュアンスが異なるが、そこに共通する意識があることは間違いが無い。それはやはり人間には何らかの責めを負うべきものがあるのではないかという意識である。

端的に言って私は科学と科学技術者の責任が大きいと思う。何と言っても、とにかくここまで現在の文明をここまで牽引してきたのは近代科学技術だからである。それが部分的に挫折したのである。やはり科学信仰という一種の信仰であったというべきではないかと思う。


科学で解ること、科学的に解明できることは断固として主張すべきであり、一方で科学で理解できないこと、科学技術でできないこと、無理があることは科学としては沈黙し、無謀で人道に外れるような技術の開発はすべきではなかったのに、往々にしてその反対が行われてきたのではなかったかということだと思う。

科学的にはっきりと断言できることには目をつぶり、一方で科学の方法で理解することが無理な、あるいは不適切な問題を解明できると考えたり無謀で人道に外れるような技術開発を行ってきた、とも言えるのではないだろうか。もちろんすべてがそうであるわけもないけれども。


ゲーテが次のようなことを言っている。「(自然科学の勉強によって)私にわかったことは、たいていの人間にとって学問というものは飯の種になる限りで意味があるのであって、彼らの生きていくのに都合のよいことでさえあれば、誤謬さえも神聖なものになってしまうということだったよ」、エッカーマン、山下肇訳。

ここで「誤謬さえも神聖なものになってしまう」と言っているのは興味深い。科学者も神聖なものを求めている面があるともいえる。科学者が音楽や芸術に造詣が深かったり、興味を持つことは極めて普通の事だとも思うが、既成宗教への信仰を持つ科学者も多いし、神秘思想を持つ場合も少なくないだろうと思われる。

しかし一方では無意識的に科学自体を神聖化したり、科学的な表現自体の中に神聖なものを求めたりすることがあって、そういう場合に往々にして「誤謬さえも神聖なものに」してしまうのではないか、とふと思った次第である。

0 件のコメント: