水曜日, 1月 26, 2011

宮沢賢治と「ベートーフェンの幻想」

先日夜、宮沢賢治を特集したNHK教育のテレビ番組で、賢治と音楽について語ったり、解説したりしている番組を見た。チェリストの藤原真理さんが語っていたが、それによると賢治がベートーベンの音楽を好んだのは、ベートーベンの音楽はそれ以前の音楽とは異なり、美しいだけではない人間の様々な感情が表現されているからではないか、ということだった。それは確かに説得力があって、成る程と思われるのだけれども、ただ、それだけでは何か面白くないな、と思った。それだけで終わってはちょっと平凡ではないかな、という感じがする。この番組中の解説によると、賢治は自分でもベートーベンの交響曲のようなものを作らねば、と考えたそうである。そうだとすれば、賢治が自分ではどういう作品 ― 具体的には当然、詩や童話になるが ― を作りたいと思っていたかという点をもっと考えてみる必要がありはしないだろうか。特に賢治は交響曲というジャンル、ベートーベンの作った交響曲の世界そのものに強いインパクトを受け、交響曲のような文学作品を作りたいと思ったのではないだろうか。

このとき思い出したのは、かつて読んだ賢治の詩集の解説に書かれていた一節なのだが、ある詩か童話の原稿の中に、「ここにベートーフェンの幻想を」、という書き込みが残っている、という箇所が何故か記憶に残っている。「感情」ではなくて「幻想」なのである。

端的に言って、賢治はベートーベンの音楽の神秘性に強い印象を受けたのではないだろうかと思うのだがどうだろうか。交響曲ばかりではなく月光ソナタも好きであったそうだが、これはタイトルにも幻想曲風ソナタと書かれているそうで、実際「幻想的」な音楽として有名である。幻想と神秘性とはまた別だが、特に賢治はベートーベンの交響曲にも神秘的なものを多く聞き取っていたのではないか、という気がする。

賢治の詩や童話自体、露骨ではないけれども神秘性に特徴があると言っても良いように思う。賢治の詩は分類すれば叙情詩になるのだろうけれども、最も典型的な意味で叙情的な叙情詩という感じはあまりしない。賢治の詩の他の詩人とは隔絶した魅力は神秘感に在るように思う。

仏教の用語が多用されていることが神秘感に寄与しているような面があるけれども、一方で科学の用語を多用していることでも有名である。科学と言えば神秘性の対極にあるようだけれども、賢治の詩ではそれが神秘性を醸し出すのに寄与しているように思われるのが不思議であり魅力でもある。


宮沢賢治はおそらくブルックナーの音楽もマーラーの音楽も知らなかったと思われるけれども、もし聴くことができたとすればどう思ったことだろうか?やはり、やはり賢治には「ベートーフェンの幻想」が一番しっくり来るのような気もする。

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