金曜日, 8月 30, 2019

現今のバーチャルリアリティー(VR)概念についてのいくらかの分析と提案


 バーチャルリアリティー ― Virural reality (VR)― は結構多岐にわたる意味合いを持っていますが、基本的にはある種の技術の意味で用いられ、辞書的にも技術として定義されているようです。ウィキペディアには次のような記述があります:「バーチャル・リアリティ」という言葉は、ジャロン・ラニアーが設立したVPL Researchが、1989年に発表したVR製品のデータ・グローブ (Data Glove)・アイ・フォン(Eye Phone)・オーディオ・スフィア (Audio Sphere) の紹介から一般的に使われ始めた[6]。」
 私の記憶では当初、上記の類の製品については一般マスコミの他、特にオーディオヴィジュアル系の雑誌で取り上げられることが多かったように思いますが、この筋の評論家の間での評判はあまり芳しいものではなかったように記憶しています。そのVRの現状と将来性、発展性の一端について ― もちろん全面的ではなく私の視点と問題意識からですが ―、いくつかの局面で考察と主張を試みてみたいと思います。 

【1.立体映像に関して】
 一般に立体映像の技術は次のような要素技術の組合せと考えられます。
  1. 両眼視機能(視差と輻輳角度)の利用
  2. 普通に3Dと言われるもので、CADや3Dアニメーションのような三次元的座標データを使用するコンピュータないしソフトウェアの技術
  3. ゴーグルを用いるディスプレイ/表示技術
  4. ホログラムその他。
 当初、冒頭に述べたようなゴーグルを用いた製品との関連で、VR技術の概念がメディアに登場し始めた頃、私の受け止め方としては基本的に、従来からある(1)の立体映像技術をIT技術の進展を受けて高度化ないし精細化しただけであり ― 場合によっては触覚など、確かに従来技術にはなかった要素も追加されたりすることにもなりましたが ― 視覚に関する限り、コンセプトとして特に画期的なものとは思われませんでした。早い話が、立体写真は昔からあり、立体写真用のカメラも時折発売されていたように記憶しています。それでも、現今のように多機能なスマホカメラが普及して日常的に誰もが毎日のように写真撮影を行う時代になっても、立体写真を撮ろうとする人はあまりいないように思います。リアリティーを追求する向きはむしろ動画に向かっています ― ユーチューブの隆盛が示すように ―。
 元来が動画である映画やテレビについても、立体テレビの開発がプロモーションされ、商品化されるようになった時期がありましたが、これも殆ど不発に終わったのではないでしょうか。今、テレビは大画面と4Kや8Kといった高解像度あるいは高精細度に向かっているようで、今のところ消費者向けのテレビで立体映像機能は殆ど宣伝もされていないように見えます。
 
 両眼視機能における開発者側の意欲と消費者の反応との上述のギャップは何に由来しているのかを考えてみると、私が考える最大の理由は、両眼視機能による立体視効果に対する開発者側の過大な期待にあるように思います。端的に言って人間の視覚は本質的に立体視であって、両眼視差による遠近感の知覚は多少の相対的な精度を付け加えるものに過ぎないと言えます。第一、現実の人間の両眼視差で識別できる遠近感は、常識的な判断で、100メートルを超えないのではないでしょうか。例えば雲と月、あるいは遠くの建物との距離感の差などを知覚するには、両眼視差は何の役にもたっていません。遠景の場合はむしろ動きによる遠近感の認知が有効になってきます。見方を変えると、三次元的視覚立体形状の把握、および遠近感の3つにおける意味上の区別を明確に理解する必要があるように思います。端的にいって視差による両眼視機能は、三次元的視覚において立体形状の把握と遠近感を強化し正確さを付け加えるものに過ぎず、「二次元的視覚」を「三次元的視覚」に変えるものと考えるべきではないと思うのです。言い方を変えると、視覚は本質的に三次元的であって、二次元的な視覚というものはないということさえできると思います。
 例えば、マンガのように平面的に描かれた人の顔の像があるとします。顔は常に頭部の前面を表すものです。平面の画像であっても人がその画像を認識する場合はその画面は見る人の方に向けられていなければなりません。当然描かれた顔は見る人の方を向いています。後姿の場合も同じことですね。要するに平面の画像は三次元空間の中で常に一定の向きを持っているのであって、向きを持っている以上は平面画像であっても三次元的なイメージとみなされるべきです。
 以上のような次第で、少なくとも芸術的な目的では両眼視機能を使用したいわゆる立体映像技術は期待されたほどの効果はなかったと言えます。これは視覚芸術の歴史をみてもわかることです。歴史的に、再現的な視覚芸術の主流は洋の東西を問わず絵画でした。彫刻は事実上、神像や人物像に限られ、それも現実に見られる位置は殆ど定まっています。今後においても、技術的な目的以外では、立体映像は主流にはならないように思います。


【2.現実虚構という文脈で語られるヴァーチャルリアリティー(VR)の問題】
 VRに関する議論でよく話題になる議論のひとつが、VRが現実と虚構の区別に対する人々の認識と正しい判断に悪影響を与えるのではないか、という問題で、これは犯罪にも関わる社会問題として語られる場合が多いようです。端的に言ってこの問題も、次のように2つの異なる問題に分けて考察すべきかと思います。
  1. 感覚的な知覚における現実と虚構(この場合は「虚構」よりも「虚像」の方が適当か)の取り違え。これについては、早い話が、鏡の向こうに見える空間を現実の空間と間違えることは現実にあり得る話で、多少の間違えた経験はだれにもあるのではないでしょうか。絵や写真についてもそうで、昔からだまし絵なるものもありました。触覚までが加わることで、VR技術の進展に伴ってこの種の問題が深刻化することは明らかで、問題視されているのは当然の事でしょう。
  2. 作為的な虚構(フィクション、演技、演出、虚偽)と現実との取り違え。これも、今のVR技術はもちろん映像技術もなかった昔からある話です。物語や小説が現実のように受け取られる可能性については、歴史小説や物語を思い起こすだけでも十分でしょう。この問題は感性的知覚を超えた意味的な認識と解釈の問題であって、本質的に感覚的な知覚の範囲内である(1)とは別次元の問題であるといえます。ただ数年前に出現したポケモンゴーは立体映像技術ではないものの、公共空間に虚構を混ぜ込むような形式であって、コンセプトとしては一種のVR技術とも考えられ、使用環境によっては他人の権利侵害にもなりえるもので、良識を逸脱した技術ではないかと、個人的には考えています。いずれにせよ現実と虚構の文脈は、被害妄想のような精神的傾向や障害の問題にも関わってくる話です。
以上のように、どちらも重要な問題ではありますが、2つを分けて考えることが大切だと思います。問題としてはむしろ、本来のVR技術に限定されるものではない(2)の方が重要な問題なのではないでしょうか。とくに昨今ではマスコミあるいはメディアとの関わりが重要性を増しているように思われます。
 アメリカ、トランプ政権の誕生以来問題にされ始めた「フェイクニュース」は、メディアにおける現実と虚構の問題そのものですが、最近ますます気になることのひとつは、ニュースがフィクションのような様式で語られる場合が多いことです。ドラマ仕立ての現場の再現やドラマのナレーションのようなニュースの説明、演技過剰な声優の多用、声優による外国語の吹き替え等々。考えようによってはこういうニュースの表現は逆に、ニュースそのもののフィクション的側面をもあらわにし始めているとも言えますが、いずれにしても居心地が悪く、あまり気持ちの良いものではないと思います。
 
 以上の【1】と【2】を併せて、ひとつの結論として言えることは、VRの技術は技術的な目的では大いに期待は持てるとしても、芸術と娯楽の目的では従来の技術に付け加えるだけのメリットは少なく、むしろデメリットが大きいのではないかということです。

【3.ノイズ除去によるリアリティーの強化】
 上記【1】で述べたように、最近の映像技術では両眼視による立体映像技術よりもむしろ大画面や解像度向上などの画質の改善の方向に重点が置かれているように見えます。これは従来からある技術の拡大強化と精細化といえますが、言い換えると再現技術におけるノイズの除去ないし低減であるとみなすことができます。これは音響技術の歴史を見ても明らかで、音響技術の歴史は事実上、ノイズ低減技術に尽きると言っていも良いのではないでしょうか。もちろん原音を加工したり、音響自体を合成するような場合もありますが、加工もそれ自体は一つの表現であり、表現の意図を正確に伝えるにはノイズは除去する必要があります。画像の場合で解像度を例にとってみれば、解像度が低い場合に見えるドットはノイズとして作用し、色再現の精度をとってみれば、期待通りの色再現ができない場合はノイズ色の混入と見ることができます。
 この項で私がお伝えしたいことの要点は、ノイズ除去によるリアリティーの強化は、再現イメージを現実の何ものかと誤認させたり、錯覚させたりということではなく、むしろ表現された芸術的意図そのものの忠実な再現を指向するという点にあります。この意味で芸術の再現や複製技術におけるノイズ除去によるリアリティーの強化は、VR技術よりも文化的に有意義であり、映像技術において立体映像技術から4Kや8Kなどの高精細化に重点が移行してきたことはある意味で当然であったように思います。

【4.画像におけるもう一つのノイズ除去(筆者の特許の紹介)】
 画像の場合のノイズで、非常に重要な要素でありながら対策が遅れている問題が、画像や映像の表面反射などの表面効果ではないでしょうか。ゴーグル式の没入型VR技術ではこの点は解消されているのかもしれません。特に問題になるのは、印刷の場合は紙の材質であり、映像の場合は表面素材の材質となりますが、しかし印刷物の場合は全面的な解決は殆ど不可能と言ってよく、従来型の映像ディスプレイの場合でも、室内を消灯する以外に手はないでしょう。
 表面の効果において気付かれることの少ない要素がもう一つあります。それは画像表面の距離感です。画像の場合は絵に表現されているイメージの距離感は絵の表面の距離感とは全く異なるものです。画材を使用して描かれる絵の場合、表面は画材の材質感やタッチなどを含めてそれらも一つの表現効果となっていますが、絵の複製写真を含めて写真やビデオなどの画像では、表面の距離感は完全なノイズとみなすことができます。両眼視による距離感の知覚はこの表面の距離感に寄与しています。したがって、写真などの映像の場合、絵画の複製写真を含めて、両眼視機能はむしろ有害なのです。これは大画面を遠くから眺める場合には殆ど無視できますが、普通の室内や机上で見る映像や書物、写真などでは無視できないものです。
 上述のノイズ(平面性ノイズまたは画像距離ノイズと呼べると思います) を完全除去する方法としては両眼視差を取り除く以外にはありません。片眼で見ることで両眼視差は取り除くことはできます。しかし片眼で見ることには両眼視差が得られないこと以外のデメリットもあり、両眼視機能には両眼視差が得られること以外のメリットもあると考えられます。また両眼視差を完全除去するのではなく縮小することによるメリットも考慮する必要もあります。つぎにそれを整理してみます。
  1. 片目では視点が身体の左右の中心から外れて片側に移動することによる不安定感が避けられない
  2. 2つの眼を使うことにより、視力そのものが、強化されている
  3. 小さな立体物を近距離で見る場合は、両眼の瞳孔間距離は大きすぎるので、視差を無くすのではなく縮小することで両眼視機能が強化できる。(実験によれば、視差を1/2程度にすることで通常の2倍程度の大きさに見え、観察力が強化される印象があります。)
以上の観点から、筆者は反射鏡を使用する視差縮小メガネを考案して特許を取得しています。実を言えば最初はかなり昔にいったん出願したのですが、コンセプトに問題があって審査請求をせずに取り下げ、かなり後年になってからコンセプトを変えて反射鏡の角度範囲と瞳孔間距離の調節機構に重点を移して再出願し、審査請求を経て登録に至ったものです。これについては次のウェブサイトで詳しく説明していますのでご参照いただければ幸いです。
http://www.te-kogei.com/patent/koho_imageglass.html
 
 これまで私自身で商品化を試みたことはありましたが、ひとえに私自身の能力不足の点でできなかったもので、今後も私自身で商品化を試みる予定はありません。
 経緯や問題点についてはすべて上記ウェブサイトで説明していますので、興味を持たれた方には参照して頂けると幸いです。ただ、上記の特許取得とウェブサイトを作成した時点の社会環境において、タブレットPCは実用化されていましたが、スマホについてはまだ実現されていませんでした。

 以上。最後の項目は当方の宣伝になりますが、今回のヴァーチャルリアリティに関する考察の一つの帰結とも言えないこともないと考え、今回記事で取り上げさせていただきました。




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