土曜日, 11月 25, 2006

性格と症候群-いじめ問題において-

いじめの問題は直接本人や家族に関わりがあるなしに関わらず人間存在、誰にとっても根本的な、避けて通れない、いや、避けて通ることが出来ても関わりを否定することを出来ない切実な問題である。

いじめを受ける側にも問題があるという議論はいじめられる側の性格を問題とする議論であるといえる。性格という言い方の他に人間性という言い方もある。人間性という言い方になると多分に価値的な見方になる。高貴さ、低劣さといった人格上の判断になってくる。いずれにせよこの様な問題の捉え方は一方では批判され、いじめの問題はあくまでいじめる側の問題と捉えるのが正義であるというのがマスコミの論調の主流であったように思う。少なくともいじめが暴力問題や恐喝などにまで至ればそれはもう犯罪になるのだから、そこに至ればいじめる側の問題となるのは当然である。

最近言われだしたのは各種の症候群、精神面での症候群である。もちろん精神医学の進展と関係がある。こういう諸々の症候群による説明とそれに基づく対応がされるようになると、性格、人格といった捉え方は忘れられがちになる。精神医学や心理学が全体として発達、進展しても個人の思考能力は平均してそんなに発達も成長もするわけではない訳だから、性格論と症候群といった、平たく言って病気と見るみかたとの両者を併せて議論を進めてゆくのは至難の技であろう。

ただ、性格論と病因論には重要な違いがある。
性格論の場合は本人の責任が問われる傾向があるのに対し、病因論では本人の責任が問われない傾向になるという点だ。

別の重要な視点がある。
それはいじめられる側は個人であるのに対し、いじめる側は一つの社会と見ることができる場合が多いということだ。
いじめられる側に問題があるなしに関わらず、いじめる側に問題があることを否定することは馬鹿げている。とすれば、いじめられる側の問題は個人の問題であり、いじめる側の問題は社会の問題であると捉えることができる。

もう一つの視点は弱者と強者という視点である。
いじめられる側の問題は弱者の問題であり、いじめる側の問題は強者の問題であるということである。

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