日曜日, 11月 26, 2006

いじめの原因撲滅がまず不可能なのだから。

昨日の続きとして。

性格要因、人格要因、そういったものに加えて様々な症候群や発達障害といった良くも悪くも多様な個性をもつ人間、不完全で宗教的に見れば罪深くもあり、ある宗教から見ればカルマを背負うものと見られ、医学的に見れば身体的にも誰もが不健康であったり、病気を持って生まれてきたり、病気になることも殆ど避けることができない人間一般、種としても進化を続けている動物の一種でもある人類というものを考えると、たとえ学校という限られた領域内でもいじめの原因を取除くことは不可能と考えるべきだという意見には同調せざるを得なくなる。

昨夜のNHKニュースでイギリスでの取り組みが紹介されていたが、いじめの原因はなくならないという前提で対策を講じるという考え方は正しいし、見習うべきだと思う。また、同じ生徒のメンバーにいじめの相談にあたらせるという、解決策も見習ってよいものだと思う。これに関連して、先日他のところに書いた記事を再録したいと思う。要は、いじめの相談だけに関わらず、少なくとも教育一般の一部において上級生が下級生を指導するようなシステムが学校教育の一部に取り入れられて良いのではないかということである。

2006年11月21日 教育問題で今日、ふと思ったこと

いじめ、自殺、必須科目未履修・・・と問題が噴出している教育問題で今日、二つのテレビ番組で似たような意見と試みが話されていた。どちらも年長の、実社会経験のある先生が小中学生を教えるのが良いという、意見と試みである(「たけしのTVタックル」と「ニュース23」)。これはこれで良いところがあると思うが、このとき、題名は忘れたが以前、司馬遼太郎のエッセーで全く異なった意見を読んで目を開かれた思いをしたことを思い出した。
それは教育者としての吉田松陰について触れた文章で、その趣旨は、教育というものは生徒より少し年長のお兄さん、お姉さんが指導するのが最も効果的だ、という趣旨であったと思う。ほかにもそういう考えを述べた人がいるかもしれないが、その時、確かにそれは卓見だと思った記憶がある。
上級生が下級生を指導するということはクラブ活動などでは行われている事だともいえるが、そういうものではなく教育の本体で、漏れなくそういうことがシステムとしてできれば色々メリットがあるのではないだろうか。いじめの発見、防止、解決にも良い効果をもたらすし、教える側にとっても知識がさらに身に付くようになるというメリットもあるように思う。

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