木曜日, 3月 08, 2007

「明るい」と「暗い」

先の日曜の夜、N響アワーで久しぶりにマーラーの交響曲4番を聞いた。冒頭、解説の池辺晋一郎さんが、この曲は天国の情景を描いたもので、マーラーの曲は多くが暗いのに対しこの曲は明るいのが特長だという解説をされていた。曲が終わった後、聞き手のアナウンサーがその解説を反復し、本当に明るく天国的な感じでしたね、といったような発言で締めくくっていたように記憶している。

私は急ぐ仕事があったのでとなりの部屋でパソコンをいじりながら余り大きくない音で聞いていた。それでもせっかくの機会だから最終楽章、ソプラノ独唱が始まると部屋に戻って近くで聞いた。とにかく全曲にわたってしっとりと美しく気持ちのよい音響と歌声を聞くことが出来た。

改めてこの曲を聴いて思ったのだけれども、確かにこの曲には天国的な美しさを持っているし、実際に終楽章では歌詞で天国を描写しているわけだけれども、天国は天国でも夜の天国のように思われてならない。歌詞では羊と子供が戯れる情景描写があり、羊は夜行性ではないのだから作曲者は夜の天国を表現したわけではないのだろうが、私にはどうしても夜の情景のように思われた。もちろん暗闇というわけではないのだが。

人や状況、芸術作品の気分や性格を「明るい」と「暗い」で表現するのは極めて普通のことであるけれども、最近特にこう表現することが多くなってきているのではないだろうか。悲しみや悲観的或いは絶望、陰鬱さといった気分を暗いと表現し、明朗で幸福感があり、希望に満ちた気分、性格を明るいと表現するのは昔からそうだったのだろうか。私の子供の頃を想いだしてみても、人の性格の場合に限って言えば「明るい」よりも「朗らか」といった表現の方が多かったような気がする。

芸術文化の場合、とくに音楽の場合は悲しみや苦悩、喜びや希望といった感情とは無関係な、音響あるいは音色自体に明るさ暗さで表現せざるを得ないようなものがあるような気がする。共感覚といって言葉や発音に色彩を感じるような現象があるようだけれども、色彩ではなく明るさや暗さを感じるようなことは無いのだろうか。共感覚というような明瞭なものではなくとも、もっと漠然とした感覚として音色や音響、調性やメロディーそのものなどに、純粋な明るさ、悲喜の感情の伴わない明るさ暗さといったものを感じるのは誰にでもあることではないかと思う。マーラーの交響曲のトーンは一貫して暗い。この交響曲4番のように悲しみとか悲劇性といった要素が全く感じられない明朗な音楽でもやはり音色と響は暗く、安らぎに満ちた天国の描写であっても夜の天国のように思われてならない。

ところで特に個人の性格に関しての場合が多いけれども、最近は一般に「明るい」「暗い」をやたらに使いすぎる傾向があるのではないだろうか。もちろん朗らかとか明朗、陽気、逆に陰気、陰鬱、メランコリック、といった色々な表現があるにも関わらず明るい暗いが頻繁に使われるのにはその表現が最も適しているからには違いがない。朗らかな人といえば結構良くしゃべり、多少うるさいような印象もあるのにたいし、明るいといえばそのような特長は必ずしも持たず、表現範囲が広いとはいえるように思う。そして「暗い」はまた必ずしも「明るい」の正反対とも言えない。明るい暗いが好まれるのにはそれなりの理由があるのであろう。

しかしそれにしても「明るい暗い」が使われすぎる傾向があるような気がする。

0 件のコメント: