先の日曜の夜、N響アワーで久しぶりにマーラーの交響曲4番を聞いた。冒頭、解説の池辺晋一郎さんが、この曲は天国の情景を描いたもので、マーラーの曲は多くが暗いのに対しこの曲は明るいのが特長だという解説をされていた。曲が終わった後、聞き手のアナウンサーがその解説を反復し、本当に明るく天国的な感じでしたね、といったような発言で締めくくっていたように記憶している。
私は急ぐ仕事があったのでとなりの部屋でパソコンをいじりながら余り大きくない音で聞いていた。それでもせっかくの機会だから最終楽章、ソプラノ独唱が始まると部屋に戻って近くで聞いた。とにかく全曲にわたってしっとりと美しく気持ちのよい音響と歌声を聞くことが出来た。
改めてこの曲を聴いて思ったのだけれども、確かにこの曲には天国的な美しさを持っているし、実際に終楽章では歌詞で天国を描写しているわけだけれども、天国は天国でも夜の天国のように思われてならない。歌詞では羊と子供が戯れる情景描写があり、羊は夜行性ではないのだから作曲者は夜の天国を表現したわけではないのだろうが、私にはどうしても夜の情景のように思われた。もちろん暗闇というわけではないのだが。
人や状況、芸術作品の気分や性格を「明るい」と「暗い」で表現するのは極めて普通のことであるけれども、最近特にこう表現することが多くなってきているのではないだろうか。悲しみや悲観的或いは絶望、陰鬱さといった気分を暗いと表現し、明朗で幸福感があり、希望に満ちた気分、性格を明るいと表現するのは昔からそうだったのだろうか。私の子供の頃を想いだしてみても、人の性格の場合に限って言えば「明るい」よりも「朗らか」といった表現の方が多かったような気がする。
芸術文化の場合、とくに音楽の場合は悲しみや苦悩、喜びや希望といった感情とは無関係な、音響あるいは音色自体に明るさ暗さで表現せざるを得ないようなものがあるような気がする。共感覚といって言葉や発音に色彩を感じるような現象があるようだけれども、色彩ではなく明るさや暗さを感じるようなことは無いのだろうか。共感覚というような明瞭なものではなくとも、もっと漠然とした感覚として音色や音響、調性やメロディーそのものなどに、純粋な明るさ、悲喜の感情の伴わない明るさ暗さといったものを感じるのは誰にでもあることではないかと思う。マーラーの交響曲のトーンは一貫して暗い。この交響曲4番のように悲しみとか悲劇性といった要素が全く感じられない明朗な音楽でもやはり音色と響は暗く、安らぎに満ちた天国の描写であっても夜の天国のように思われてならない。
ところで特に個人の性格に関しての場合が多いけれども、最近は一般に「明るい」「暗い」をやたらに使いすぎる傾向があるのではないだろうか。もちろん朗らかとか明朗、陽気、逆に陰気、陰鬱、メランコリック、といった色々な表現があるにも関わらず明るい暗いが頻繁に使われるのにはその表現が最も適しているからには違いがない。朗らかな人といえば結構良くしゃべり、多少うるさいような印象もあるのにたいし、明るいといえばそのような特長は必ずしも持たず、表現範囲が広いとはいえるように思う。そして「暗い」はまた必ずしも「明るい」の正反対とも言えない。明るい暗いが好まれるのにはそれなりの理由があるのであろう。
しかしそれにしても「明るい暗い」が使われすぎる傾向があるような気がする。
木曜日, 3月 08, 2007
土曜日, 2月 17, 2007
マスコミ文化人の、言葉に対する態度に思う
今だに柳沢発言に対するマスコミ文化人の付和雷同振りに対して持ったいやな思いが消えない。インターネットで見る限りでは多くの意見がマスコミに対して、より批判的だったのが救いだった。
筑紫哲也氏はニュース23で(柳沢大臣等や政治家をふくめて)「言葉に対して鈍感になっている。」と言っていたが、逆にマスコミ文化人達が言葉に対して過敏になっているようも思える。
立花隆氏はニッケイBPのコラムで、安倍総理や彼の大臣に対して「言語能力が不足している」と言う意味の批判をしていた。安倍総理の「美しい国」と云うキャッチフレーズへの批判はわかるが、それを「言語能力の問題である」と捉えるのはちょっと解らない。
いずれにしても彼の大臣の発言を「『女性は子供を産む機械』発言」という短いフレーズで片付けてしまうことはフェアでないし、それこそ言葉に対して鈍感であるとも、不誠実であるとも言える。
村上龍氏のメールマガジンJMMでの発言が一番まともに思われる。比喩と現実とを区別出来ない「既成メディア」を大臣と同罪としていた。個人的にはマスコミのこの体質のほうがより問題だと思う。
この問題で地方選挙などで自民党が不利になったと言われているけれども、野党もこの様な問題にしがみついているのでなければもっと野党に有利になったかもしれないと云う可能性を考えてみる余裕もないのだろうか。
筑紫哲也氏はニュース23で(柳沢大臣等や政治家をふくめて)「言葉に対して鈍感になっている。」と言っていたが、逆にマスコミ文化人達が言葉に対して過敏になっているようも思える。
立花隆氏はニッケイBPのコラムで、安倍総理や彼の大臣に対して「言語能力が不足している」と言う意味の批判をしていた。安倍総理の「美しい国」と云うキャッチフレーズへの批判はわかるが、それを「言語能力の問題である」と捉えるのはちょっと解らない。
いずれにしても彼の大臣の発言を「『女性は子供を産む機械』発言」という短いフレーズで片付けてしまうことはフェアでないし、それこそ言葉に対して鈍感であるとも、不誠実であるとも言える。
村上龍氏のメールマガジンJMMでの発言が一番まともに思われる。比喩と現実とを区別出来ない「既成メディア」を大臣と同罪としていた。個人的にはマスコミのこの体質のほうがより問題だと思う。
この問題で地方選挙などで自民党が不利になったと言われているけれども、野党もこの様な問題にしがみついているのでなければもっと野党に有利になったかもしれないと云う可能性を考えてみる余裕もないのだろうか。
土曜日, 2月 03, 2007
「喩えること」、「見なすこと」、そして「思うこと」と「扱うこと」
柳沢大臣が女性を子供を産む機械に喩えたことで連日 、政治の場とマスコミが大騒ぎである。当然というか、予想通りというか、大多数は柳沢大臣を非難する声である。私は柳沢大臣の発言の問題の個所をニュースで一度聞いたが、それを聞いて、大臣が「女性は子供を産む機械である」と発言したとは受取れなかった。公平に判断すれば、大臣は女性を、子供を産む「機械」に「喩え」たのである。「喩えた」というのは比喩を使ったということであって、比喩というものは元来とんでもない表現になりうるものなのである。人を喩える場合に限っても、物知りをウォーキングディクショナリーといったりするように、物に喩えることは日常茶飯事である。辞書は命のない物であるけれども「歩く辞書だ」といわれると、多くの人は喜ぶであろう。良く引越しをする人は引っ越し魔、良くメモを取る人はメモ魔などと魔物に喩えられる場合もある。
人が機械や道具に喩えられるのは良くあることである。特に労働者を機械に喩えることは、女性を子供を生む機械に喩えることと近いものがあるかもしれない。資本主義と資本家を非難する立場の人が良く使う喩えで、資本家は労働者を機械と見なしている、道具扱いしている、といった表現はなじみのものである。しかしこの場合「喩え」を行っているのは資本家の方ではなく、避難する立場の人、つまり言葉で表現している側の人である。非難されている資本家の方はそのような表現、発言は何もしていないかもしれない。現実にある資本家が労働者を人間扱いしていないこともあるかもしれないし、道具としてしかみていないかもしれない。けれどもこういった表現自体、すべて比喩である。喩えている主体は発言者であって、非難されている側ではない。
「喩えること」と「見なすこと」との差異をはっきりさせることは難しい。しかし「喩えること」と「思うこと」、「扱うこと」との違いははっきりしている。労働者を機械に「喩える」ことと、機械だと「思うこと」あるいは機械のように「扱う」こととは全く別のことなのである。文字通り大臣が「女性を機械だ」と言ったとすれば大臣はそう思っていたと言わざるを得ない。しかし大臣は「女性を機械だ」と言ってはいなかったと思う。柳沢大臣は女性を機械に「喩えた」だけなのである。
実際に大臣が女性をどのように見てきたか、見なしてきたか、思ってきたか、接してきたか、それはまた別の問題である。それを論じるなら、発言の内容そのものをもっと取上げ、議論すべきだろう。その時の発言の中身、真の内容についてはマスコミでも政治の場でも殆ど取り上げられていないように見える。
人が機械や道具に喩えられるのは良くあることである。特に労働者を機械に喩えることは、女性を子供を生む機械に喩えることと近いものがあるかもしれない。資本主義と資本家を非難する立場の人が良く使う喩えで、資本家は労働者を機械と見なしている、道具扱いしている、といった表現はなじみのものである。しかしこの場合「喩え」を行っているのは資本家の方ではなく、避難する立場の人、つまり言葉で表現している側の人である。非難されている資本家の方はそのような表現、発言は何もしていないかもしれない。現実にある資本家が労働者を人間扱いしていないこともあるかもしれないし、道具としてしかみていないかもしれない。けれどもこういった表現自体、すべて比喩である。喩えている主体は発言者であって、非難されている側ではない。
「喩えること」と「見なすこと」との差異をはっきりさせることは難しい。しかし「喩えること」と「思うこと」、「扱うこと」との違いははっきりしている。労働者を機械に「喩える」ことと、機械だと「思うこと」あるいは機械のように「扱う」こととは全く別のことなのである。文字通り大臣が「女性を機械だ」と言ったとすれば大臣はそう思っていたと言わざるを得ない。しかし大臣は「女性を機械だ」と言ってはいなかったと思う。柳沢大臣は女性を機械に「喩えた」だけなのである。
実際に大臣が女性をどのように見てきたか、見なしてきたか、思ってきたか、接してきたか、それはまた別の問題である。それを論じるなら、発言の内容そのものをもっと取上げ、議論すべきだろう。その時の発言の中身、真の内容についてはマスコミでも政治の場でも殆ど取り上げられていないように見える。
日曜日, 1月 14, 2007
「似非科学」について
似非科学についての議論が各所で頻出している。
似非科学という言葉は、おそらくある種の科学的と称する主張を科学的ではないと、一部の科学者が非難する言葉として使われ始めたのだろう。そういう科学者たちがその種の主張を「似非科学」という命名のもとに非難するのはそれらが真正の科学を装うが、実のところはそうではない贋者だということ、つまり、自分たちの領分である「科学」の名を偽って騙るものとして、贋の宝石、贋の芸術品を告発するのと同種の意味がこめられている。似非という言葉を字義どおりに解釈すればこうである。こういった批判、非難を行う科学者たちの議論が感情的になり勝ちなのはそのためといっていいだろうと思う。注意しなければならないのは、この議論はそれ自体で真実性、真理であるかどうかとは本来異なった議論であるということである。ただ、非難する側の科学者たちが、科学イコール真理と考えているならば、同時にその似非科学は欺瞞であると非難することになる。
要するに、それらを似非科学という名のもとに非難することと、それらが欺瞞である、虚偽であるといって非難することとは別のことであると考えるべきである。私は科学者たちが似非科学なるものを非難する場合、似非科学である所以を説明することと、それらが真実性を持たないであろうと考える根拠を示すこととをひとまず分けて議論すべきだと思うし、そうして欲しいものだと思う。
では、科学者が「似非科学」を贋物だとみなす根拠はどういうところにあるかが当面問題となる。私はその論点は主として用語の意味、定義の中にあると思う。
科学には多様な専門分野があり、それらの専門用語にはそもそもの最初から専門用語として作られた用語と、一般に用いられていた用語を特に専門用語として限定した意味で使われている場合とがある。前者をオリジナルの専門用語というなら、オリジナル専門用語を本来の定義から大きく外れた意味で、また本来の意味を大きく外れて誤解された上で使用された場合、これは明らかに似非科学に値するだろう。一方、日用語を特殊な限定された意味で自然科学用語として用いられるようになった用語も沢山ある。とくに物理・化学の最も基本的な用語がその種の言葉である事は、特に注目すべきことであると思う。例えば、力、仕事、熱、波、波動、振動、これらは全て物理学の最も基本的な用語であると同時に、日常語としても最も基本的な、頻繁に用いられる言葉であることだ。エネルギーに関してはちょっと微妙なところがある。この語は日本語には最初から物理用語として入ってきたのかもしれない。しかし、西欧語としては物理用語となる以前から存在し、使用されていた言葉だろう。そして日本語でも広く日常語としても使用される言葉である。
また、「似非科学」とされる諸々の主張に波動、振動に関わるものが多いことには注意を払うべきだろうと考えている。
とにかく、似非科学なるものについて考える場合、言葉の問題、用語の意味について、よくよく考えてみるべきだと思う。特に科学用語が近代科学で用いられている概念と違った用いられ方がされている場合、それを近代科学で証明されていることではないということはできるだろうが、それだけで一概に切り捨てるべき問題かどうか、それは科学そのものへの考え方に掛かっているともいえる。
似非科学という言葉は、おそらくある種の科学的と称する主張を科学的ではないと、一部の科学者が非難する言葉として使われ始めたのだろう。そういう科学者たちがその種の主張を「似非科学」という命名のもとに非難するのはそれらが真正の科学を装うが、実のところはそうではない贋者だということ、つまり、自分たちの領分である「科学」の名を偽って騙るものとして、贋の宝石、贋の芸術品を告発するのと同種の意味がこめられている。似非という言葉を字義どおりに解釈すればこうである。こういった批判、非難を行う科学者たちの議論が感情的になり勝ちなのはそのためといっていいだろうと思う。注意しなければならないのは、この議論はそれ自体で真実性、真理であるかどうかとは本来異なった議論であるということである。ただ、非難する側の科学者たちが、科学イコール真理と考えているならば、同時にその似非科学は欺瞞であると非難することになる。
要するに、それらを似非科学という名のもとに非難することと、それらが欺瞞である、虚偽であるといって非難することとは別のことであると考えるべきである。私は科学者たちが似非科学なるものを非難する場合、似非科学である所以を説明することと、それらが真実性を持たないであろうと考える根拠を示すこととをひとまず分けて議論すべきだと思うし、そうして欲しいものだと思う。
では、科学者が「似非科学」を贋物だとみなす根拠はどういうところにあるかが当面問題となる。私はその論点は主として用語の意味、定義の中にあると思う。
科学には多様な専門分野があり、それらの専門用語にはそもそもの最初から専門用語として作られた用語と、一般に用いられていた用語を特に専門用語として限定した意味で使われている場合とがある。前者をオリジナルの専門用語というなら、オリジナル専門用語を本来の定義から大きく外れた意味で、また本来の意味を大きく外れて誤解された上で使用された場合、これは明らかに似非科学に値するだろう。一方、日用語を特殊な限定された意味で自然科学用語として用いられるようになった用語も沢山ある。とくに物理・化学の最も基本的な用語がその種の言葉である事は、特に注目すべきことであると思う。例えば、力、仕事、熱、波、波動、振動、これらは全て物理学の最も基本的な用語であると同時に、日常語としても最も基本的な、頻繁に用いられる言葉であることだ。エネルギーに関してはちょっと微妙なところがある。この語は日本語には最初から物理用語として入ってきたのかもしれない。しかし、西欧語としては物理用語となる以前から存在し、使用されていた言葉だろう。そして日本語でも広く日常語としても使用される言葉である。
また、「似非科学」とされる諸々の主張に波動、振動に関わるものが多いことには注意を払うべきだろうと考えている。
とにかく、似非科学なるものについて考える場合、言葉の問題、用語の意味について、よくよく考えてみるべきだと思う。特に科学用語が近代科学で用いられている概念と違った用いられ方がされている場合、それを近代科学で証明されていることではないということはできるだろうが、それだけで一概に切り捨てるべき問題かどうか、それは科学そのものへの考え方に掛かっているともいえる。
月曜日, 1月 01, 2007
NHK、番組作りの変化
最近、NHKの番組作りで変化したと思える傾向がある。色んな面で変化しているのかも知れないが、少なくとも私の気になる、感じのよくない変化の傾向が一つある。さしあたりそれは次の三つの番組で気づかれる傾向である。その三つの番組は「その時歴史は動いた」、「美のつぼ」、そして「N響アワー」である。
「その時歴史は動いた」は、もう何年も前から同じ調子で続いているので、この中では最も早くその変化が現れた番組といえるかもしれない。その前身ともいえる一連の歴史番組に比べて変わった点といえるのは、以前の番組ではゲストの歴史家や作家が自身の言葉で話す時間が多く、アナウンサーは殆ど聞き手に終始していたのに対し、「その時歴史は動いた」ではゲストの出番が少なく,殆どがアナウンサーの独壇場とでもいえる構成になっていることである。
この番組作りは最近始まった番組である「美のつぼ」にも共通しているように思える。この番組では専門家は全く姿も名前も現さず、姿は表さないが多少押し付けがましく聞こえる声のアナウンサーが出演者の谷啓氏に「美のつぼ」を教えるという構成になっている。そのアナウンサーのセリフと話し方にはどうも抵抗を感じさせるものがある。内容自体は面白いのであるけれども、こういう構成のために、少なくとも私にとって、楽しみは半減している。
「N響アワー」は何十年も続いている長い番組だが、今年度からは池辺晋一郎氏が出演していることは前年度と変わらないものの、前回まで登場していなかったNHKのアナウンサが登場し、番組を進行させるようになった。前回までは作曲家の池辺晋一郎氏が毎年入れ替わるアシスタントの女優さんなどを相手に、少なくとも見かけ上は自由に音楽について語るような構成になっていたのだけれども、今回もそういう部分は多少残されているのであるけれども、アナウンサーが進行の主導権をもつような形になり、やはり面白さが半減してしまった。
一方、好ましい方向に変わったと思える番組もある。脳科学者とアナウンサーではないと思える女性の二人が司会をする「仕事の流儀」という番組は、以前の「プロジェクトX」を引き継ぐような面があると思えるのだが、もしそうだとすれば良い方向に変わったように思われる。「プロジェクトX」は始まった頃は何度か見たが、数回でいやになり、内容には興味があるような場合でも見ないようにしていた。技術に関わる番組なのだからもっと技術に焦点をあてれば良かったと思っている。「地上の星」という、中嶋みゆきのテーマソングは人気があったが、どうも歌い方が荒っぽく、曲自体も良くは出来ていたと思えるが、真実味がない。これに対して「仕事の流儀」では司会者とのかなり本音での対話が中心となっているので、司会者と同感するかどうかは別として、興味を持てる内容になっており、十分に楽しめる番組になっている。
「その時歴史は動いた」は、もう何年も前から同じ調子で続いているので、この中では最も早くその変化が現れた番組といえるかもしれない。その前身ともいえる一連の歴史番組に比べて変わった点といえるのは、以前の番組ではゲストの歴史家や作家が自身の言葉で話す時間が多く、アナウンサーは殆ど聞き手に終始していたのに対し、「その時歴史は動いた」ではゲストの出番が少なく,殆どがアナウンサーの独壇場とでもいえる構成になっていることである。
この番組作りは最近始まった番組である「美のつぼ」にも共通しているように思える。この番組では専門家は全く姿も名前も現さず、姿は表さないが多少押し付けがましく聞こえる声のアナウンサーが出演者の谷啓氏に「美のつぼ」を教えるという構成になっている。そのアナウンサーのセリフと話し方にはどうも抵抗を感じさせるものがある。内容自体は面白いのであるけれども、こういう構成のために、少なくとも私にとって、楽しみは半減している。
「N響アワー」は何十年も続いている長い番組だが、今年度からは池辺晋一郎氏が出演していることは前年度と変わらないものの、前回まで登場していなかったNHKのアナウンサが登場し、番組を進行させるようになった。前回までは作曲家の池辺晋一郎氏が毎年入れ替わるアシスタントの女優さんなどを相手に、少なくとも見かけ上は自由に音楽について語るような構成になっていたのだけれども、今回もそういう部分は多少残されているのであるけれども、アナウンサーが進行の主導権をもつような形になり、やはり面白さが半減してしまった。
一方、好ましい方向に変わったと思える番組もある。脳科学者とアナウンサーではないと思える女性の二人が司会をする「仕事の流儀」という番組は、以前の「プロジェクトX」を引き継ぐような面があると思えるのだが、もしそうだとすれば良い方向に変わったように思われる。「プロジェクトX」は始まった頃は何度か見たが、数回でいやになり、内容には興味があるような場合でも見ないようにしていた。技術に関わる番組なのだからもっと技術に焦点をあてれば良かったと思っている。「地上の星」という、中嶋みゆきのテーマソングは人気があったが、どうも歌い方が荒っぽく、曲自体も良くは出来ていたと思えるが、真実味がない。これに対して「仕事の流儀」では司会者とのかなり本音での対話が中心となっているので、司会者と同感するかどうかは別として、興味を持てる内容になっており、十分に楽しめる番組になっている。
日曜日, 11月 26, 2006
いじめの原因撲滅がまず不可能なのだから。
昨日の続きとして。
性格要因、人格要因、そういったものに加えて様々な症候群や発達障害といった良くも悪くも多様な個性をもつ人間、不完全で宗教的に見れば罪深くもあり、ある宗教から見ればカルマを背負うものと見られ、医学的に見れば身体的にも誰もが不健康であったり、病気を持って生まれてきたり、病気になることも殆ど避けることができない人間一般、種としても進化を続けている動物の一種でもある人類というものを考えると、たとえ学校という限られた領域内でもいじめの原因を取除くことは不可能と考えるべきだという意見には同調せざるを得なくなる。
昨夜のNHKニュースでイギリスでの取り組みが紹介されていたが、いじめの原因はなくならないという前提で対策を講じるという考え方は正しいし、見習うべきだと思う。また、同じ生徒のメンバーにいじめの相談にあたらせるという、解決策も見習ってよいものだと思う。これに関連して、先日他のところに書いた記事を再録したいと思う。要は、いじめの相談だけに関わらず、少なくとも教育一般の一部において上級生が下級生を指導するようなシステムが学校教育の一部に取り入れられて良いのではないかということである。
2006年11月21日 教育問題で今日、ふと思ったこと
いじめ、自殺、必須科目未履修・・・と問題が噴出している教育問題で今日、二つのテレビ番組で似たような意見と試みが話されていた。どちらも年長の、実社会経験のある先生が小中学生を教えるのが良いという、意見と試みである(「たけしのTVタックル」と「ニュース23」)。これはこれで良いところがあると思うが、このとき、題名は忘れたが以前、司馬遼太郎のエッセーで全く異なった意見を読んで目を開かれた思いをしたことを思い出した。
それは教育者としての吉田松陰について触れた文章で、その趣旨は、教育というものは生徒より少し年長のお兄さん、お姉さんが指導するのが最も効果的だ、という趣旨であったと思う。ほかにもそういう考えを述べた人がいるかもしれないが、その時、確かにそれは卓見だと思った記憶がある。
上級生が下級生を指導するということはクラブ活動などでは行われている事だともいえるが、そういうものではなく教育の本体で、漏れなくそういうことがシステムとしてできれば色々メリットがあるのではないだろうか。いじめの発見、防止、解決にも良い効果をもたらすし、教える側にとっても知識がさらに身に付くようになるというメリットもあるように思う。
性格要因、人格要因、そういったものに加えて様々な症候群や発達障害といった良くも悪くも多様な個性をもつ人間、不完全で宗教的に見れば罪深くもあり、ある宗教から見ればカルマを背負うものと見られ、医学的に見れば身体的にも誰もが不健康であったり、病気を持って生まれてきたり、病気になることも殆ど避けることができない人間一般、種としても進化を続けている動物の一種でもある人類というものを考えると、たとえ学校という限られた領域内でもいじめの原因を取除くことは不可能と考えるべきだという意見には同調せざるを得なくなる。
昨夜のNHKニュースでイギリスでの取り組みが紹介されていたが、いじめの原因はなくならないという前提で対策を講じるという考え方は正しいし、見習うべきだと思う。また、同じ生徒のメンバーにいじめの相談にあたらせるという、解決策も見習ってよいものだと思う。これに関連して、先日他のところに書いた記事を再録したいと思う。要は、いじめの相談だけに関わらず、少なくとも教育一般の一部において上級生が下級生を指導するようなシステムが学校教育の一部に取り入れられて良いのではないかということである。
2006年11月21日 教育問題で今日、ふと思ったこと
いじめ、自殺、必須科目未履修・・・と問題が噴出している教育問題で今日、二つのテレビ番組で似たような意見と試みが話されていた。どちらも年長の、実社会経験のある先生が小中学生を教えるのが良いという、意見と試みである(「たけしのTVタックル」と「ニュース23」)。これはこれで良いところがあると思うが、このとき、題名は忘れたが以前、司馬遼太郎のエッセーで全く異なった意見を読んで目を開かれた思いをしたことを思い出した。
それは教育者としての吉田松陰について触れた文章で、その趣旨は、教育というものは生徒より少し年長のお兄さん、お姉さんが指導するのが最も効果的だ、という趣旨であったと思う。ほかにもそういう考えを述べた人がいるかもしれないが、その時、確かにそれは卓見だと思った記憶がある。
上級生が下級生を指導するということはクラブ活動などでは行われている事だともいえるが、そういうものではなく教育の本体で、漏れなくそういうことがシステムとしてできれば色々メリットがあるのではないだろうか。いじめの発見、防止、解決にも良い効果をもたらすし、教える側にとっても知識がさらに身に付くようになるというメリットもあるように思う。
土曜日, 11月 25, 2006
性格と症候群-いじめ問題において-
いじめの問題は直接本人や家族に関わりがあるなしに関わらず人間存在、誰にとっても根本的な、避けて通れない、いや、避けて通ることが出来ても関わりを否定することを出来ない切実な問題である。
いじめを受ける側にも問題があるという議論はいじめられる側の性格を問題とする議論であるといえる。性格という言い方の他に人間性という言い方もある。人間性という言い方になると多分に価値的な見方になる。高貴さ、低劣さといった人格上の判断になってくる。いずれにせよこの様な問題の捉え方は一方では批判され、いじめの問題はあくまでいじめる側の問題と捉えるのが正義であるというのがマスコミの論調の主流であったように思う。少なくともいじめが暴力問題や恐喝などにまで至ればそれはもう犯罪になるのだから、そこに至ればいじめる側の問題となるのは当然である。
最近言われだしたのは各種の症候群、精神面での症候群である。もちろん精神医学の進展と関係がある。こういう諸々の症候群による説明とそれに基づく対応がされるようになると、性格、人格といった捉え方は忘れられがちになる。精神医学や心理学が全体として発達、進展しても個人の思考能力は平均してそんなに発達も成長もするわけではない訳だから、性格論と症候群といった、平たく言って病気と見るみかたとの両者を併せて議論を進めてゆくのは至難の技であろう。
ただ、性格論と病因論には重要な違いがある。
性格論の場合は本人の責任が問われる傾向があるのに対し、病因論では本人の責任が問われない傾向になるという点だ。
別の重要な視点がある。
それはいじめられる側は個人であるのに対し、いじめる側は一つの社会と見ることができる場合が多いということだ。
いじめられる側に問題があるなしに関わらず、いじめる側に問題があることを否定することは馬鹿げている。とすれば、いじめられる側の問題は個人の問題であり、いじめる側の問題は社会の問題であると捉えることができる。
もう一つの視点は弱者と強者という視点である。
いじめられる側の問題は弱者の問題であり、いじめる側の問題は強者の問題であるということである。
いじめを受ける側にも問題があるという議論はいじめられる側の性格を問題とする議論であるといえる。性格という言い方の他に人間性という言い方もある。人間性という言い方になると多分に価値的な見方になる。高貴さ、低劣さといった人格上の判断になってくる。いずれにせよこの様な問題の捉え方は一方では批判され、いじめの問題はあくまでいじめる側の問題と捉えるのが正義であるというのがマスコミの論調の主流であったように思う。少なくともいじめが暴力問題や恐喝などにまで至ればそれはもう犯罪になるのだから、そこに至ればいじめる側の問題となるのは当然である。
最近言われだしたのは各種の症候群、精神面での症候群である。もちろん精神医学の進展と関係がある。こういう諸々の症候群による説明とそれに基づく対応がされるようになると、性格、人格といった捉え方は忘れられがちになる。精神医学や心理学が全体として発達、進展しても個人の思考能力は平均してそんなに発達も成長もするわけではない訳だから、性格論と症候群といった、平たく言って病気と見るみかたとの両者を併せて議論を進めてゆくのは至難の技であろう。
ただ、性格論と病因論には重要な違いがある。
性格論の場合は本人の責任が問われる傾向があるのに対し、病因論では本人の責任が問われない傾向になるという点だ。
別の重要な視点がある。
それはいじめられる側は個人であるのに対し、いじめる側は一つの社会と見ることができる場合が多いということだ。
いじめられる側に問題があるなしに関わらず、いじめる側に問題があることを否定することは馬鹿げている。とすれば、いじめられる側の問題は個人の問題であり、いじめる側の問題は社会の問題であると捉えることができる。
もう一つの視点は弱者と強者という視点である。
いじめられる側の問題は弱者の問題であり、いじめる側の問題は強者の問題であるということである。
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