水曜日, 10月 14, 2020

前回に続けて ― メディアの一部から垣間見えるマスク非着用デモンストレーションのサイン

前回の記事で、新型コロナ感染症対策として、国のような全体的なレベルでマスク着用の強制あるいは要請が意味がないことを理解するにはスウェーデンの経験を参考にするだけで十分だという考えを述べた。スウェーデンではマスクを強制も要請もしなかったにも関わらずほかのヨーロッパ諸国を上回るような「感染拡大」が生じなかった理由としては「集団免疫」ということがよく言われている。私はもちろん専門家でもなく個人的にもそこまで勉強していないので集団免疫の理論が正しいのかどうかはよくわからないが、何れにしても、このような結果を示すデータだけで十分であろうと思う。当面のマスク着用を考えるという目的では、理詰めで追究しなくても、単なる実証結果としてみるだけで充分であると思う。

というのも、この問題を理詰めで、理論的に議論しようとしても、マスク着用が不要であるかデメリットの方が大きいと考える私のような立場から、他の反対の考えを持つ人人に直接問題を投げかけると、必ず何らかの反論が提起される。そこで冷静に議論できれば良いけれども、普通はそうはゆかない。根拠を理論的なものではなくスウェーデンにおける経験のようなデータだけにとどめて置けば、そういう勝敗のような感情的な傷は少なく済む。

また最近はアメリカでも日本でも、米大統領選でトランプ氏を批判する目的でマスクを引き合いに出す有名無名のジャーナリストやツイッターが多い。そういう人達は最初からマスク着用の義務を前提として議論しているから、そもそもこの問題で議論を深める気は最初からない。

 

マスク着用への圧力は殆どメディアから、それも大部分はテレビを通してだろう。政府の広報も殆どテレビを通してである。ネットではツイッターからも相当なものである。昨日だったが、プロのダンサー達がマスクを着用して集団で踊っている外国の動画が単純にリツイートされていたが、このような職業ジャーナリストでもないツイッターも多い。このようにマスコミで伝わる情報の大部分は視覚を通じた印象によるもので、理詰めのものではないことは明らかである。マスクにはそういう視覚を通じた印象効果の部分が多いところが手洗いや消毒とは違うところだろう。本来的には手洗いや消毒の徹底ということが初期から言われており、初期にはマスクの効果はそれに比べて疑問視される傾向が強かったのである。それが今では手洗いや消毒とマスクの話題が逆転し、現実に街のスーパーやコンビニなどに入る人を見てもマスクをしても手の消毒は省略する人が多いということは視覚的な印象効果の大きさを物語っているといえる。

 

先日の日曜の夜、久しぶりにNHKテレビで『クラシック音楽館』を見た。実のところ最近はこの番組でN響の演奏を聴こうとしても、楽員のマスク姿を見るだけでそれ以上視聴を続ける気をそがれてしまうので、残念だけれども視聴することは避けていた。しかし、この日の最初のプログラムはシューマンの「四つのホルンのための協奏曲」である。四人のホルン奏者がマスクをすることはあり得ないので、この夜は期待してこの番組にチャンネルを合わせてみたところ、この日は楽員のほぼ全員がマスクを着用していなかった。最後列の目立たない位置に、申し訳程度にわずか数名の楽員がマスクを着用していただけだった。ただし、後に放映されたリハーサルでは識者を含めて見事に全員が、マスクなり透明シールドなりを着用していた。

本番においてマスクを外すことは、演奏者の見栄えという観点からは当然である。しかしマスク着用の本来の目的から言えば、リハーサルと本番で異なってよいということはあり得ない。つまるところ、N響の責任者とメンバーはほぼ全員が、マスク着用に意味がなく、少なくとも音楽演奏の場ではむしろ着用しない方が良いことを確信しているとしか思えないのである。

上記は、建前とは別に、本音でのマスク非着用デモンストレーションの意図の表れではないかと、個人的には思っている。この時期にホルンのような金管楽器が四つ並んで主役を務めるような曲を冒頭に持ってくるようなプログラミング自体にそれを感じる。

このような例は他の一般のテレビ番組にも垣間見られる。例の三蜜防止は事実上、出演者間では解除されているとも受け取れる。私はニュース番組ではテレビ東京のWBSを割とよく見るが、時々キャスターが政治家やビジネス界の要人にインタビューすることが多い。そのようなインタビューで、キャスターの方はマスクを着用してはいるが、インタビューされる側の政治家やビジネス界の要人はマスクを着用していないケースは多い。そのような要人たちが特権的にマスク着用を免除されてよいということはあり得ない。やはり、着用していない人は、マスクをしない方が良いと確信しているとしか思えないのである。

テレビニュースにおけるこのような状況はかなり以前から、垣間見えることがあった。街の光景を映し出す際に、マスクをしていない人にかなりの長時間スポットを当てたり、 メガネをかけた人がマスクを外す様子を何気なく映し出したりしているのに気づいたことがある。私の場合はマスク着用の最大のデメリットはメガネの曇りであり、これは1つのデメリットであることを超えて重大な危険要素である。ということで、こういうシーンは大いに共感を覚えたことであった。

前回も述べたように、地下鉄駅の構内放送や、大型店舗内の放送などでもマスク着用の要請は緩んできたような印象もある。私たちも、このようなサインには敏感に反応すべきであると思う。

木曜日, 10月 08, 2020

新型コロナ対策とマスク着用について、私の経験と考え

(この記事は私の別ブログ『矢車SITE』の最新(10月2日)記事から一部を多少編集して転載したものです。)

新型コロナ対策とマスク着用について、私の経験と考え

【これまでの体験】

さて、今回の帰郷でも所用以外で気になっていたことや考え続けたことは、言うまでもなく、新型コロナ騒動の事であった。何しろ道程中の殆どを四六時中、殆どがマスクをした群衆の中を通り抜けなければならないのだから。新型コロナ対策では、いまや個人的には全く心配していないのだが、こういう外出や旅行、さらに人に会うことで問題になることは、まずマスク着用の問題である。そこでマスク着用の問題について個人的な履歴と考えについてまとめておこうかと思う。

昨年暮れから今年にかけての冬の間、この問題がニュースに登場し始めた頃、私はやはり新型コロナ感染を恐れて、最初はよく行く上野方面に出かけることも避け、マスクも着用したかったのだが、あいにくすでに、どこに行ってもマスクは買えなかった。でもマスクでウィルス感染は防げないとは、昔からよく言われていたことなので、そんなに極端に恐れてインターネット経由で高額で入手しようとまでは思わず、マスクなしで外を歩いていたが、当時はすでに外を歩く人々の大半はマスクを着用していたので困りながら歩いていた。やがて、置き薬の箱に花粉症用のマスクが三枚入りの袋で入っていたことに気が付き、外出するときには着用するようになった。

もともと私は風邪をひきやすい方で、かつては毎年のように相当ひどい風邪を引いていたが、数年、四五年前になるかな、インターネット上の多用なサイトから得られる知識のおかげもあり(もちろんそれだけではないが)、もっぱら免疫力を高めることの重要さに目覚め、それまで無精でで週に一回程度であった入浴も毎日欠かさないようになって今に至っている。また、慢性鼻炎で鼻が詰まりやすく口呼吸をすることが多いせいか、扁桃腺から風邪を引きやすく、冬には加湿器を使うようになり、それ以来、重度の風邪を引かなくなったように思う。特に冬の加湿器の効果は大きいと感じられる。ちなみに風邪は専門家にもいまだによくわかっていないと言われるが、それは最もだと思う。個人によって、また年齢においても、症状にも個性があるように思われる。私の場合は大抵は扁桃腺の痛みから始まり、やがていつも同じような場所に蕁麻疹が生じて、腸の調子が悪くなり、下痢症状を引き起こすパターンが多い。ひどいときは筋肉痛や頭痛が起きる。ただ、上記のような免疫力対策を功を奏したのか、ここ数年間、寝込むほど症状が悪化することはなくなった。免疫力と言うものは未だに専門的にもよく分かっていないと言われるが、それはそうだろうと思う。また多様な風邪の症状にしても、お医者様にも本当のところはどれだけわかっているのか、結構怪しまれる。これまで医師の診断を受けた経験上、お医者様には申し訳ないが、そう思わざるを得ない。そんなわけで、新型コロナの症状にしても診断にしても、専門医自体がどこまでわかっているのやら、失礼ながら心もとない気がするのである。

そんなわけで、マスクをした場合には喉の乾燥と体温の低下防止に結構効果があるので、乾燥した寒いときにマスクを着用すると身体が守られているような安心感が得られ、寒いときにマスクを着用すのは嫌いではなかった。

しかし同時に私はかなり強い近視で、メガネなしで外を歩くのはやはり怖いのだが、マスクをすると見事にメガネが曇り、十分に危険なほどである。そういうわけで、室内ならいいのだが、交通量の多い外で、特に雨の日などはマスクをするのは危険と言っても間違いではなく、最初の頃からこの危険は風邪感染の危険よりは大きいのではないかと思っていた。そういうわけで、マスク着用を強く要請する向きには最初の、まだ寒い頃からかなりの不信感と反感を抱いていたことは確かである。

その後例によって猛暑を迎え、今や秋半ばにさしかかっているが、この間、行政側やジャーナリズム、インターネットの各種サイトを通して、様々な情報をえることができた今、マスク着用については次のような考えを持って対処してきた。

寒い間は外出時にマスクをしていたが、やはりメガネが曇ってくると外さざるを得なかった。

暖かく、さらに暑い時期が始まると外ではマスクを完全に着けないようになったが、店舗内に入ったり電車に乗ったりするするときだけ、胸ポケットに入れていた薄いマスクを着けるようにしていた。

この頃になると、街中を歩くときは完全にマスクを着用しなくなっていた。私の場合、出かけるのは大抵は夕方で4時半過ぎから5時半ころまでで、買い物であっても散歩を兼ねるものだから、外出時間は3時間に及ぶことがある。その時間帯の話になるが、一向にマスク着用者の数が減らないものだから、いらいらし、歩いている人たちに反感を感じるようにさえなってしまった。マスクの大きさや形状や色によっては不気味で気持ちが悪くなる場合さえある。しかし、日によって違うが、私が歩く範囲内では平均して1割程度の人たちがマスクなしで歩いていたような印象がある。年齢と性別、また風采や人相はあまり関係がないように思う。

以上のような中で先般、関西の方に帰郷してまた戻ってきたわけだが、この間、東京駅や新幹線の中などではマスク着用率は、近隣で体験していたよりは高かったことは確実である。非着用者は恐らく1パーセント以下だろう。

地元では滞在期間がわずかであったのでよくわからなかったが、東京の地元とはそう変わらない印象である。ただ、いわゆる「おっさん層」で非着用率が東京よりも高かったような印象がある。東京でもこの層では私を含め、比較的、非着用率が高く見えることは確かである。大阪の地元では近くに広い公園があるが、毎日のように公園に行くらしい姉の話では、その日の昼間、公園内ではだれもマスクをしていなかった、とのことであった。以前に一度電話で話した時に比べてかなり変化があるようだった。

ごく最近になって、私としては一つの決心をして、まず地下鉄に乗る時(最近は日常的に乗ることは少なくなったが)にマスクをしないようになり、つい最近に至ってはスーパーやコンビニでもマスクをしないようになった。ちょうど大阪からこちらに戻ったときから、地下鉄の構内放送ではマスク着用要請をアナウンスしなくなったように思う。もちろん、しょっちゅう乗っているわけではないので他の場合は分からない。一方、この一週間内に訪れた、近所にある2つのスーパーでは、マスク着用を要請する構内放送の内容が婉曲的になり、音量、頻度などが小さく、少なくなってきたように思う。これは行政側の変化の表れではないか、と思うのは考え過ぎだろうか?毎夕テレビニュースに現れる都知事の談話やその他のテレビニュースなどでは相変わらずのように思えるが。

例えば以前ある有名ドラッグストアに入ったとき、超有名店であるにも関わらず消毒用のアルコール瓶がごく小さく目立たないところに置いてあるうえ、空っぽだった記憶がある。マスクよりも消毒の方が、どちらかと言えばはっきりした効果があると思っていたので、少々腹が立ったのだが、今になってみるとそういういい加減さにむしろ好感を持つようになった。あまりマスク着用を厳しく要請するステッカーも目立たなかったし、こちらがマスク着用をしなくても店員の態度は全く変わらないし。

【私の考察と結論】

まず、新型コロナウィルス感染の実態とマスク着用の是非の問題は分けて考えるべきである。新型コロナウィルス感染状況の実態については素人でもあり、個人的に発言できるとしても、いまこのような形で総合的に判断することはできもしないし、したいとは思わない。しかしマスク着用の是非という問題については、に個人的に明確にしておきたいし、理解されることを望むからである。

  • 【スウェーデンの結果で十分】総合的な判断として、マスク着用を国民全体に要請することで新型コロナウィルス感染拡大防止効果がないことは、もうスウェーデンの経験との比較から明らかになっており、それでもう十分であると言える。これはマスク着用と三蜜の両方について言える。スウェーデンでも公表される「感染者数」が完全に抑えられたわけではないにしても、マスク着用とロックダウンを実施している他のヨーロッパ諸国を顕著に上回ることはなかった。それで十分である。少なくとも一般人向けにマスク着用と三蜜の要請には、今回の新型コロナウィルスの感染拡大対策としては不要である。
  • 個人的判断のレベルでは、常にメリットとデメリットの両方を考慮する必要がある。私の場合は気道の水分と体温維持の点で冬季には気分的にはかなりメリットを感じるが、屋外ではメガネが曇るというデメリットは非常に大きく、危険な場合さえある。気温が低くなくてもメガネが曇る時は多い。夏季には冬季に感じるメリットは全くなく、事実上はデメリットばかりである。
  • 一般的なレベルでは、マスクを着けた人の口や鼻から出る飛沫を飛ばさないことがメリットであるという考えが定着している。ただこれは、普通の健康な人が飛ばす飛沫にどれだけの危険性があるかという問題が不問に付されているので、不明な点が多い。デメリットとして言われていることは、暑い季節にマスクを着けることによる不快感で体力や免疫力が低下すると言われる問題である。重要なことは、こういった体力や免疫力の低下は、単に新型コロナウィルスの感染症だけではなく、あらゆる病気と健康に関わるという点である。この問題については、健常者が飛ばす飛沫にどれだけの危険性確率があるかという問題に帰着する。その点での専門家による考察はあるはずであるが、大勢はそこまで考えない。マスクの飛沫拡散防止効果という時点で思考が停止しているのである。
  • 社会的レベル、というと抽象的になるので、人間関係のレベルと言えばよいだろうか。このレベルで考える場合、マスクは自分が感染しないために着けるのか、相手に感染させないために着けるのかという、心理的に微妙な問題が関係してくる。実際のところどちらにも意味がないということを両者が確信している場合、それがお互いにわかっている場合は何の問題もなく、周囲への対応の問題だけとなる。しかし現実にはそうではない場合が多い。一般的によく言われているように、マスクで自分の感染は防げないが、自分が感染している場合に飛沫を飛ばさずに相手を守ることができる、という考えが正しいかまたは信じている場合。その目的で着けているつもりでも、本心では自分が相手に感染させられることを恐れている場合もあるだろうし、誰でもそういう立場や心持ちはコロコロと変わる。こういう場合、相手が新型コロナウィルス感染を恐れていることがわかれば、議論は避けてマスクを着用するのが順当というものだろう。しかし、それで終われば後は永遠の平行線である。マスクのデメリットは他にもある。人々の心理的距離を分断するということだ。その分断が維持される。感染健常者のマスク着用に意味がないことを信じている立場からすれば、相手との心理的距離を近づけるためにも、努力をして相手を説得したいと思うだろう。一般に説得というものは容易ではない。どちらにも不純な気持ちが入り込む。その先はここで論議しても仕方がない。

以上までの内容を昨日の夕方までに書き込んだ後、買い物を兼ねた散歩で外出したところ、マスクを着用していない人の割合は、一昨日に比べて圧倒的に減少していた。一昨日は10パーセント程度に思えたが、昨日は1パーセントにも満たないだろうと思われた。がっかりしながら歩いていたのだけれども、後から考えるとこれは時間帯によるところが大きいことに気が付いた。一昨日に外出したのは3時半だったが、昨日は5時半であった。通勤者の帰宅時間であったことを考えると納得がゆく。食品スーパーの中も同じ。

とはいえ、以前と同様、対向する歩行者に避けられたり、あるいは電車内、スーパーなど店舗の入口や中で警告されたような経験は私の過ごしてきた環境では殆どなかった。ちなみに食品スーパーのようなところではマスクを着けずに入っても手のアルコール消毒は、瓶が見つかればできるだけするようにしている。現実にはマスクを着用しても手の消毒をしない人の方が多い。

これから気温が下がってゆき、マスクを着用してもそれほど苦痛ではなくなるだろうから、個人的に寒さに弱く、また耳鼻咽喉系が弱い私としては、マスクを着用した方が良いと思われるような機会も出てくるかと思う。しかしメガネが曇ることは依然として非常に大きなデメリットであることを超え、危険性というべきである。この問題についてはマスコミで取り上げられなかったわけでもないが、重要性が全く強調されていない。という次第で、私の場合はこれからも原則的にマスク非着用を続けそうである。

金曜日, 8月 30, 2019

現今のバーチャルリアリティー(VR)概念についてのいくらかの分析と提案


 バーチャルリアリティー ― Virural reality (VR)― は結構多岐にわたる意味合いを持っていますが、基本的にはある種の技術の意味で用いられ、辞書的にも技術として定義されているようです。ウィキペディアには次のような記述があります:「バーチャル・リアリティ」という言葉は、ジャロン・ラニアーが設立したVPL Researchが、1989年に発表したVR製品のデータ・グローブ (Data Glove)・アイ・フォン(Eye Phone)・オーディオ・スフィア (Audio Sphere) の紹介から一般的に使われ始めた[6]。」
 私の記憶では当初、上記の類の製品については一般マスコミの他、特にオーディオヴィジュアル系の雑誌で取り上げられることが多かったように思いますが、この筋の評論家の間での評判はあまり芳しいものではなかったように記憶しています。そのVRの現状と将来性、発展性の一端について ― もちろん全面的ではなく私の視点と問題意識からですが ―、いくつかの局面で考察と主張を試みてみたいと思います。 

【1.立体映像に関して】
 一般に立体映像の技術は次のような要素技術の組合せと考えられます。
  1. 両眼視機能(視差と輻輳角度)の利用
  2. 普通に3Dと言われるもので、CADや3Dアニメーションのような三次元的座標データを使用するコンピュータないしソフトウェアの技術
  3. ゴーグルを用いるディスプレイ/表示技術
  4. ホログラムその他。
 当初、冒頭に述べたようなゴーグルを用いた製品との関連で、VR技術の概念がメディアに登場し始めた頃、私の受け止め方としては基本的に、従来からある(1)の立体映像技術をIT技術の進展を受けて高度化ないし精細化しただけであり ― 場合によっては触覚など、確かに従来技術にはなかった要素も追加されたりすることにもなりましたが ― 視覚に関する限り、コンセプトとして特に画期的なものとは思われませんでした。早い話が、立体写真は昔からあり、立体写真用のカメラも時折発売されていたように記憶しています。それでも、現今のように多機能なスマホカメラが普及して日常的に誰もが毎日のように写真撮影を行う時代になっても、立体写真を撮ろうとする人はあまりいないように思います。リアリティーを追求する向きはむしろ動画に向かっています ― ユーチューブの隆盛が示すように ―。
 元来が動画である映画やテレビについても、立体テレビの開発がプロモーションされ、商品化されるようになった時期がありましたが、これも殆ど不発に終わったのではないでしょうか。今、テレビは大画面と4Kや8Kといった高解像度あるいは高精細度に向かっているようで、今のところ消費者向けのテレビで立体映像機能は殆ど宣伝もされていないように見えます。
 
 両眼視機能における開発者側の意欲と消費者の反応との上述のギャップは何に由来しているのかを考えてみると、私が考える最大の理由は、両眼視機能による立体視効果に対する開発者側の過大な期待にあるように思います。端的に言って人間の視覚は本質的に立体視であって、両眼視差による遠近感の知覚は多少の相対的な精度を付け加えるものに過ぎないと言えます。第一、現実の人間の両眼視差で識別できる遠近感は、常識的な判断で、100メートルを超えないのではないでしょうか。例えば雲と月、あるいは遠くの建物との距離感の差などを知覚するには、両眼視差は何の役にもたっていません。遠景の場合はむしろ動きによる遠近感の認知が有効になってきます。見方を変えると、三次元的視覚、立体形状の把握、および遠近感の3つにおける意味上の区別を明確に理解する必要があるように思います。端的にいって視差による両眼視機能は、三次元的視覚において立体形状の把握と遠近感を強化し正確さを付け加えるものに過ぎず、「二次元的視覚」を「三次元的視覚」に変えるものと考えるべきではないと思うのです。言い方を変えると、視覚は本質的に三次元的であって、二次元的な視覚というものはないということさえできると思います。
 例えば、マンガのように平面的に描かれた人の顔の像があるとします。顔は常に頭部の前面を表すものです。平面の画像であっても人がその画像を認識する場合はその画面は見る人の方に向けられていなければなりません。当然描かれた顔は見る人の方を向いています。後姿の場合も同じことですね。要するに平面の画像は三次元空間の中で常に一定の向きを持っているのであって、向きを持っている以上は平面画像であっても三次元的なイメージとみなされるべきです。
 以上のような次第で、少なくとも芸術的な目的では両眼視機能を使用したいわゆる立体映像技術は期待されたほどの効果はなかったと言えます。これは視覚芸術の歴史をみてもわかることです。歴史的に、再現的な視覚芸術の主流は洋の東西を問わず絵画でした。彫刻は事実上、神像や人物像に限られ、それも現実に見られる位置は殆ど定まっています。今後においても、技術的な目的以外では、立体映像は主流にはならないように思います。


【2.現実と虚構という文脈で語られるヴァーチャルリアリティー(VR)の問題】
 VRに関する議論でよく話題になる議論のひとつが、VRが現実と虚構の区別に対する人々の認識と正しい判断に悪影響を与えるのではないか、という問題で、これは犯罪にも関わる社会問題として語られる場合が多いようです。端的に言ってこの問題も、次のように2つの異なる問題に分けて考察すべきかと思います。
  1. 感覚的な知覚における現実と虚構(この場合は「虚構」よりも「虚像」の方が適当か)の取り違え。これについては、早い話が、鏡の向こうに見える空間を現実の空間と間違えることは現実にあり得る話で、多少の間違えた経験はだれにもあるのではないでしょうか。絵や写真についてもそうで、昔からだまし絵なるものもありました。触覚までが加わることで、VR技術の進展に伴ってこの種の問題が深刻化することは明らかで、問題視されているのは当然の事でしょう。
  2. 作為的な虚構(フィクション、演技、演出、虚偽)と現実との取り違え。これも、今のVR技術はもちろん映像技術もなかった昔からある話です。物語や小説が現実のように受け取られる可能性については、歴史小説や物語を思い起こすだけでも十分でしょう。この問題は感性的知覚を超えた意味的な認識と解釈の問題であって、本質的に感覚的な知覚の範囲内である(1)とは別次元の問題であるといえます。ただ数年前に出現したポケモンゴーは立体映像技術ではないものの、公共空間に虚構を混ぜ込むような形式であって、コンセプトとしては一種のVR技術とも考えられ、使用環境によっては他人の権利侵害にもなりえるもので、良識を逸脱した技術ではないかと、個人的には考えています。いずれにせよ現実と虚構の文脈は、被害妄想のような精神的傾向や障害の問題にも関わってくる話です。
以上のように、どちらも重要な問題ではありますが、2つを分けて考えることが大切だと思います。問題としてはむしろ、本来のVR技術に限定されるものではない(2)の方が重要な問題なのではないでしょうか。とくに昨今ではマスコミあるいはメディアとの関わりが重要性を増しているように思われます。
 アメリカ、トランプ政権の誕生以来問題にされ始めた「フェイクニュース」は、メディアにおける現実と虚構の問題そのものですが、最近ますます気になることのひとつは、ニュースがフィクションのような様式で語られる場合が多いことです。ドラマ仕立ての現場の再現やドラマのナレーションのようなニュースの説明、演技過剰な声優の多用、声優による外国語の吹き替え等々。考えようによってはこういうニュースの表現は逆に、ニュースそのもののフィクション的側面をもあらわにし始めているとも言えますが、いずれにしても居心地が悪く、あまり気持ちの良いものではないと思います。
 
 以上の【1】と【2】を併せて、ひとつの結論として言えることは、VRの技術は技術的な目的では大いに期待は持てるとしても、芸術と娯楽の目的では従来の技術に付け加えるだけのメリットは少なく、むしろデメリットが大きいのではないかということです。

【3.ノイズ除去によるリアリティーの強化】
 上記【1】で述べたように、最近の映像技術では両眼視による立体映像技術よりもむしろ大画面や解像度向上などの画質の改善の方向に重点が置かれているように見えます。これは従来からある技術の拡大強化と精細化といえますが、言い換えると再現技術におけるノイズの除去ないし低減であるとみなすことができます。これは音響技術の歴史を見ても明らかで、音響技術の歴史は事実上、ノイズ低減技術に尽きると言っていも良いのではないでしょうか。もちろん原音を加工したり、音響自体を合成するような場合もありますが、加工もそれ自体は一つの表現であり、表現の意図を正確に伝えるにはノイズは除去する必要があります。画像の場合で解像度を例にとってみれば、解像度が低い場合に見えるドットはノイズとして作用し、色再現の精度をとってみれば、期待通りの色再現ができない場合はノイズ色の混入と見ることができます。
 この項で私がお伝えしたいことの要点は、ノイズ除去によるリアリティーの強化は、再現イメージを現実の何ものかと誤認させたり、錯覚させたりということではなく、むしろ表現された芸術的意図そのものの忠実な再現を指向するという点にあります。この意味で芸術の再現や複製技術におけるノイズ除去によるリアリティーの強化は、VR技術よりも文化的に有意義であり、映像技術において立体映像技術から4Kや8Kなどの高精細化に重点が移行してきたことはある意味で当然であったように思います。

【4.画像におけるもう一つのノイズ除去(筆者の特許の紹介)】
 画像の場合のノイズで、非常に重要な要素でありながら対策が遅れている問題が、画像や映像の表面反射などの表面効果ではないでしょうか。ゴーグル式の没入型VR技術ではこの点は解消されているのかもしれません。特に問題になるのは、印刷の場合は紙の材質であり、映像の場合は表面素材の材質となりますが、しかし印刷物の場合は全面的な解決は殆ど不可能と言ってよく、従来型の映像ディスプレイの場合でも、室内を消灯する以外に手はないでしょう。
 表面の効果において気付かれることの少ない要素がもう一つあります。それは画像表面の距離感です。画像の場合は絵に表現されているイメージの距離感は絵の表面の距離感とは全く異なるものです。画材を使用して描かれる絵の場合、表面は画材の材質感やタッチなどを含めてそれらも一つの表現効果となっていますが、絵の複製写真を含めて写真やビデオなどの画像では、表面の距離感は完全なノイズとみなすことができます。両眼視による距離感の知覚はこの表面の距離感に寄与しています。したがって、写真などの映像の場合、絵画の複製写真を含めて、両眼視機能はむしろ有害なのです。これは大画面を遠くから眺める場合には殆ど無視できますが、普通の室内や机上で見る映像や書物、写真などでは無視できないものです。
 上述のノイズ(平面性ノイズまたは画像距離ノイズと呼べると思います) を完全除去する方法としては両眼視差を取り除く以外にはありません。片眼で見ることで両眼視差は取り除くことはできます。しかし片眼で見ることには両眼視差が得られないこと以外のデメリットもあり、両眼視機能には両眼視差が得られること以外のメリットもあると考えられます。また両眼視差を完全除去するのではなく縮小することによるメリットも考慮する必要もあります。つぎにそれを整理してみます。
  1. 片目では視点が身体の左右の中心から外れて片側に移動することによる不安定感が避けられない
  2. 2つの眼を使うことにより、視力そのものが、強化されている
  3. 小さな立体物を近距離で見る場合は、両眼の瞳孔間距離は大きすぎるので、視差を無くすのではなく縮小することで両眼視機能が強化できる。(実験によれば、視差を1/2程度にすることで通常の2倍程度の大きさに見え、観察力が強化される印象があります。)
以上の観点から、筆者は反射鏡を使用する視差縮小メガネを考案して特許を取得しています。実を言えば最初はかなり昔にいったん出願したのですが、コンセプトに問題があって審査請求をせずに取り下げ、かなり後年になってからコンセプトを変えて反射鏡の角度範囲と瞳孔間距離の調節機構に重点を移して再出願し、審査請求を経て登録に至ったものです。これについては次のウェブサイトで詳しく説明していますのでご参照いただければ幸いです。
http://www.te-kogei.com/patent/koho_imageglass.html
 
 これまで私自身で商品化を試みたことはありましたが、ひとえに私自身の能力不足の点でできなかったもので、今後も私自身で商品化を試みる予定はありません。
 経緯や問題点についてはすべて上記ウェブサイトで説明していますので、興味を持たれた方には参照して頂けると幸いです。ただ、上記の特許取得とウェブサイトを作成した時点の社会環境において、タブレットPCは実用化されていましたが、スマホについてはまだ実現されていませんでした。

 以上。最後の項目は当方の宣伝になりますが、今回のヴァーチャルリアリティに関する考察の一つの帰結とも言えないこともないと考え、今回記事で取り上げさせていただきました。




金曜日, 5月 17, 2019

デスクトップ型PCディスプレイ新方式の提案

今回は筆者の登録済み特許案件に関わるもので、端的にいって宣伝です。
正規の紹介ページは下記URLです:
http://www.te-kogei.com/patent/koho_shomidai.html
従来、デスクトップ用パソコンとしては旧来のディスプレイが付属しないパソコンの他にノート型パソコンとディスプレイ一体型と呼ばれるパソコンがあります。この提案はそれらに対して【ディスプレイ接合型(方式)のパソコン】 と呼べると思います。




筆者は現在、実はノートパソコンに大型のディスプレイをつないでデュアルディスプレイとして使用しているのですが、必ずしも快適な使いよさが実現できていません。角度の調節範囲も狭いうえ、何よりも机の上がケーブル類で占領されるのが最も煩わしいところですね。


ケーブル類が柱体部分に接続できるうえ、ディスプレイと柱体部分の位置関係や設置方法で多様な置き方と角度が可能になるものと考えられます。詳しくは上記URLをご覧いただけると幸いです。

日曜日, 9月 09, 2018

眼の健康とPCディスプレイ ― その3 ― やはり視距離と面積の関係が最重要

このタイトルの前回記事まではディスプレイ表面の性質に関して目の疲労に及ぼす効果を考えたり、いろいろ試して見たりし、結局光沢塗装に落ち着いたわけで、それはそれで結構、効果があったように思いますが、それでもやはり効果は部分的で、せいぜい全体の10~20パーセント程度ではなかったかなと思います。それでついに、最初から気になってはいたものの、対策が面倒なために今まで放置していた問題に対処してみました。それはディスプレイと眼の距離の問題です。
 実は、現在のPCディスプレイは27インチなのですが、それ以前は19インチでした。普通PCディスプレイの距離は眼から40cm以上とされていたように記憶しています。ところが現在の机は奥行きが小さいため、PCディスプレイを眼から40cm以上に離すには机の端まで離す必要があり、実際にぎりぎりの端まで離してはいました。しかしそれが27インチになり面積が大幅に増加するとさすがに光の刺激が厳しくなり、圧迫感を感じましたが、何分場所も狭いし机も変えられないので板を使って多少ごまかす程度で今までしのいできたというわけです。しかし視力自体も低下する一方で、前回の表面塗装のような効果も試して多少の効果はあったものの、せいぜい冒頭のとおり、10~20パーセント程度でしょう。

そこでいよいよ思い立ってディスプレイをさらに離す工夫をしてみました。その方法は、私の場合、たまたまこれも部屋の狭さゆえのことですが、机の向こう側に本棚を配置して使用していたのです。その本棚の棚に合わせて板で橋を渡してその板橋の上にディスプレイを乗せることにしました。
これで結果的に視距離を70cmにすることができました。やはり効果は他の要因に比べて大きいですね。単に光の量だけではなく、視角や視差の要因大きいことは当然ですが。前回の表面塗装の効果が15パーセントくらいとすれば、40~50パーセント位の効果はあるように思います。
結論として、27インチのディスプレイでは少なくとも60cmは必要でしょう。私の場合は今の70cm程度が限度のようです。もちろん前回の表面効果も大きいし、その前のダイナミックレンジの効果も大きいでしょうね。ダイナミックレンジの効果は有機ELに期待したいところですが、ネット検索してみたところ、PCディスプレイではまだ発売されていないようで残念です。テレビよりもこちらの方を優先すべきだと思うんですがね。

月曜日, 3月 05, 2018

散歩またはウォーキングの効用 — 免疫力とストレス

散歩とウォーキングとはまた違うのでしょうが、どうもウォーキングという英語を使うのは気がすすみません。とはいえ医学的な効用などを云々する場合はウォーキングといった方が適切そうだし、ウォーキングシューズなどになると日本語は使えないというのももっともです。ここで、ついでに余計なことを言うと、「リスペクトする」というあまりにも耳障りな言い方だけは断固拒否したいですね。だいたい日本語でパ行の音はあまり良い意味の言葉には入らないと思うのですが。あ、散歩にはパ行が入っていましたか(笑)。
 
さて、最近ネット情報でウォーキングによる免疫力強化についての専門家サイトによる記事を見ました。それによるとウォーキングで免疫力が向上できるので毎日歩くことは非常に良いことだが、一定の限度を超えると逆に免疫力が低下するとのことでした。最初この記事を読んだときは少々反感を感じてしまいました。というのも当方、もともとスポーツには殆ど縁がないものの歩くことだけは好きで、買い物などの用であってもいったん外に歩きに出ると大抵は往復で2時間くらい、時には3時間くらいも歩くことが多く、1時間以内では物足らない場合が多いのです。そういうことで、この種の研究方法や統計手法などに文句をつけたいような気持もあったのですが、その数日後に多分、正味で3時間ぐらい歩いたと思われる日があったのですが、確かにそれ以前の記憶も含めて3時間程度も歩いた後の疲労感は必ずしも気持ちの良いものではなく、かなり不快な場合も多かったことに改めて気づきました。足腰の疲れはどうということもないのですが、身体の調子や気分的な疲労感、さらには目の疲れがかなり、時にはどっぷりと溜まっていることが多かったことに気づきました。特に寒いときには風邪の引き金になったり、お腹の調子が悪くなったりしていたようです。そういえば、もう十年以上も前の話ですが、顔面神経麻痺にかかった時も寒い中を長時間歩いたことがきっかけだったように思われます。

以下はネットの記事で読んだことではなく勝手な想像ですが、歩きすぎによる免疫力低下というのは精神的なストレスにも起因するのではないでしょうかね。というのも歩くということは一方で気晴らしになり、思索にインスピレーションを得るきっかけにもなるものですが、他方で精神的なストレスもそれだけ溜まるものです。特に東京のようなところではまず車に気をつけなければならないし、歩ける道も限られます。それにたいていの時間は自転車が無遠慮に歩道を走り回っています。人がすれ違うことがやっとという狭い歩道にでも平気で、時によっては二人が横並び運転しているのに遭遇することもしばしばです。加えて人同士のすれ違い方、場合によっては譲り合いどころか邪魔しあいになるときもありますね。これはまあ、お互い様なのでここではこれ以上は言わないことにしましょう。もう一つ、特に東京では道路が不規則で道を間違えやすいことも挙げられます。このリスクは東京の場合、京都や大阪に比べて格段に大きいですね。これは起伏と坂道が多いことにも関係しています。坂道自体には潤いがあって楽しいもので、特に見晴らしのよい広い坂道を下るときは例え都心の低い坂であっても何か下界に降りてゆくような、山を下山するような感動を覚えます。しかし巨大なビルが密集した見晴らしの悪い坂道は道を間違えるリスクも大きく、ストレスが加わるように思えます。

というわけで、ストレスの面から考えても散歩に時間をかけすぎるのは良くはなさそうです。とはいっても歩くことの効用は、健康面だけからいっても免疫力だけが目的でもないし、免疫力の強化方法はほかにもあり、入浴で体を温めるという方法ははまず間違いなく良い方法のようです。以前は無精であまり入浴しなかったのですが一昨年の暮れから健康法を意識し出して毎日欠かさず15分間以上の入浴を実行するようになってからは、現実に本格的な風邪を引かなくなったし、ほかの点でも健康増進につながっているように思います。歩きすぎた結果の免疫力低下もこれで何とか補えることでしょう。ありがたいことです。結局はなんでも程々に、というところでしょうか。

水曜日, 12月 06, 2017

眼の健康とPCディスプレイーその2

前回、このタイトルで記事を書きましたが、同じテーマで別のブログ(ブログ「発見の発見」)に新しい記事を書きましたので、こちらからもリンクしておきます。

当該記事の内容というのは、繰り返しになりますが、私が個人的に使っているPCディスプレイで実験的にやってみたことで、27インチ4Kの艶消しPCディスプレイに水溶性のつやだしニスを刷毛で塗ってみただけのことです。この種の塗装を行っている人はすでに沢山いるのではないかと思います。現にディスプレイ用の光沢シートはいろいろと販売されています。しかしスマホやタブレット用ならいいのですがサイズが大きくなると非常に選択肢が少ないばかりか非常に高額になり、また貼るのも難しくなってくるので、あまり普及はしていないように思います。またスマホやタブレット用はつや出しというよりも元々光沢のあるガラスの保護用と考えられていますからね。ということで、現在艶消しガラスのPCディスプレイをわざわざ光沢面にする需要は少ないのかもしれません。それは最初からわざわざ艶消しガラスを使用している製品がたくさんあり、艶消しガラスのメリットが信じられているからでしょう。とはいえ最初から艶消しを望む人だけが艶消しタイプを購入しているとは限りません。製品の色と同様、消費者が選択できない場合も多いのです。私の場合、昨年の初め頃に購入したのですが、最初から光沢ガラスタイプが欲しかったものの、当時は目的の性能と予算との関係で選んだ機種に艶消しタイプしかなかったのです。

というわけで、艶消しにはそれなりのメリットがあると考えられているのは確かですが、では実際に、想定されているほどのメリットがあるのか、またデメリットがどれ程のものなのかについて十分に研究され、最適化されているとは到底思えないのです。 そのような不満から、特に、現在PCディスプレイの艶消しガラスに使われている艶消し処理には大いに問題があるのではないかという疑問から、高価で使い方に難しいところもある光沢シート以外に艶消し方法はないものかいろいろ思案した上、ネットの通販サイトの宣伝や、とくにカスタマーレビューなどを参考にどのような選択肢があるものかを考えたうえで、近くのホームセンターで最も手頃、つまり安価で使いやすそうな塗料製品を見つけて試してみたという次第なのです。そしてその結果は、上記ブログで報告しているとおり上々で予想以上でした。

もう一つ繰り返し強調したいことは、現在の艶消しガラスはメリットよりもデメリットの方がずっと大きいのではないかということです。特に文字の場合に言えることですが、現在の艶消しガラス特有のノイズ感が眼の疲労に及ぼす影響が大きいのではないかということです。個人的にですが、最近に至って年齢のせいも加わり、PC作業による眼の疲労が耐えられないくらいに顕著になってきたため、仕事の将来について不安に思われるほどにさえなっていたところでした。遅寝遅起きという生活習慣の問題もあったようですが、その問題はさておき、眼の疲労が、特にPC画面を見始めて1時間ほど経過するだけで文字が二重に見え始める傾向が顕著になってきていました。眼が疲労するにしてもそのような不快な疲労の仕方に、この艶消しガラスの特殊な効果が関係しているのではないかという疑いを以前から持っていとところ、それに結構根拠があるのではないかという結論も今回の成果の一つです。というのは、上述のとおり、光沢ニスの塗装でディスプレイの使用感が改善した結果、眼の疲労自体が解消したわけではないにしても、今述べたような不快な眼の疲労感、二重に見えるような不快感はなくなっています。

眼の疲労に関してはこの種の問題以外に身体的な健康の問題が絡むことはもちろんです。特に睡眠時間とか遅寝遅起き、また食生活や栄養の面でも努力が必要なことは言うまでもありませんが、このようなディスプレイの問題が、単に明るさとかブルーライトといった問題以外に、潜んでいることは間違いないように思います。

メーカーの方にもこの面で研究と改善をお願いしたいものですが、ただしこの件では安価な塗料を自分自身で手塗りするだけで済むので、それで良いのかもしれませんね。上記のブログでも書いていますが、塗り方が下手でも汚くても効果に問題がありません。刷毛ムラや塗りムラもむしろ手作り感の温もりが加わって、少なくとも自分で塗ったのであれば愛着も出てくるというものです。光沢自体も透明ガラスのきつい光沢に比べて柔らかみがあり、塗装面独特の心地よさがあります。こういった点でも、実に興味深い多様な問題を含んでいるように思います。

月曜日, 9月 18, 2017

目の健康とPCディスプレイ ― 個人的には有機ELに期待したいのだが

眼の健康と視力低下への対処の問題は現代社会が取り組むべき最重要な課題のひとつだと思う。もちろん、言わずと知れた人口高齢化の傾向ともかかわりが深い。端的に言って高齢化に伴う視力の劣化の問題は、がんなどの全身病や体力低下の問題にも増して重要だと思っている。何はともあれ視力さえ維持できれば仕事であれ楽しみであれ、個人を超えたもっと大きな目的であっても、何とかなることが多いのだから。それに、視力は聴力などに比べても比較的若いころから老化しやすいし、私もそうだが近視や乱視の人は多いから、老化による劣化は大幅に助長されることが多いということになる。

このような意味で視力自体や眼精疲労の医学はもちろんだが、環境的な問題、とくに視覚メディア、中でも文字を主体とする視覚メディア、端的に言ってPCディスプレイへの取り組みはその重要性から言って、日本のみならず世界的にも、他の分野に比べて大幅に遅れを取っているのではないかと思う。

私くらいの年になると、すでに若いころから、周辺には、歳をとって視力が落ちたために本を殆ど読まなくなったという人も多かった。今となっては私自身、もうその人たちの年齢を超えているから、当然その状況はよくわかる。今もPCを使って文字を読み書きする仕事をしているけれども、本当に日ごとに眼が疲れやすくなり、1日に作業に耐えられる時間も大幅に減っている。年齢の近い身内や友人知人たちも当然そのようになっている。特に、本はまだしもパソコンの画面はもう見なくなったという人は多い。もっとも、元来がパソコンを日常的に使っていたという人たちではないのだけれども。

本とパソコンを比べると、当然パソコンの方が格段に目が疲れるというのは常識というよりも、殆どの人にとって体験済みの事実で、直観的にも自明ともいえる。しかし小さなスマホや携帯電話や、逆に大画面のテレビなども、原理的にはパソコンの画面と同じ性質を持つものなのだが、目の疲れ具合や使用感は異なっている。例えば私とかなり年の離れた姉はもう80歳くらいだが携帯のメールは結構よく使っているみたいで、タブレットPCも時にはみているらしい。私は逆に使いかっての点でPCメールに慣れているから携帯メールは苦手で、使うときは苦労するし、多少長文になるとPCから転送して使うこともある。ただ、携帯やスマホの画面自体は文字でもPCで作業するときよりも目が楽である。大画面のテレビはそもそも文字を見ることは主目的ではないし、見る距離も離れている。

というわけで目の疲れと劣化に最も寄与しているのがパソコンディスプレイであることは確実といえるが、他方、紙の印刷物に比べて文字をいくらでも大きくできることや明るい画面で見られるということで、一面では目に優しい面もあるといえるのは皮肉ともいえる。いずれにしても文字の読み書きが主体になる作業では現在でも依然としてパソコン画面が最も大なる視力劣化の元凶であることに間違いがなく、それがために多くの人にとって年を重ねるにしたがってパソコンがもたらす恩恵から遠ざからざるを得ない状況が生じているのである。それにも関わらず、業界も政治家も本気でこの問題に取り組もうとしていないのではないかと思わざるを得ないのである。

最近、有名なオーディオ評論家がネット記事で有機ELのテレビを比較評価し、また有機ELの優位性を喧伝している記事を見て興味深かった。ある程度はすでに知られていることだったが、有機ELは基本的に明るさでは現状で液晶に比べて劣っているものの、ダイナミックレンジでは圧倒的に優れている、つまり黒が本当に真っ黒に表示できるという点で圧倒的に優れ、それがまた解像感や立体感、つまり奥行きの表現力にもつながっているということなのである。

このように明るさではそれほどでもないがダイナミックレンジで優れているという点は、本当のところテレビ以上に、PCディスプレイに望まれる特徴ではないのだろうか?

PCディスプレイで目が疲れるのはやはり、何といっても画面が明るすぎるからである。表面反射の問題もあるが、有機ELとの比較でいえば、端的に言ってダイナミックレンジが狭いからということになろう。つまり液晶では白い部分を暗くすると、文字の黒い部分とのコントラストが低下するから明るくせざるを得ないということになる。こうしてみると、有機ELの、明るさは十分ではなくとも黒が真っ黒に表示できる性質は、PCディスプレイに使うことによって、大幅に目の健康に寄与できると思うのである。これは大画面テレビの画質向上よりもはるかに有意義な使い方で、開発も優先すべきではないかと思うのである。

繰り返しになるが、PCディスプレイが目を疲れさせる原因の基本は白が明るすぎることに尽きるのではないか。数年前からブルーライトの弊害が喧伝され始めたが、結局ブルーライト対策などそれほど有効ではないか、そもそも有効になるほどだと画面の色調が変に変わってしまうので実用にならない。ブルーライトの有害性というのは確かにあると思う。例えば目に良いといわれる植物葉緑素の性質を調べてみると、確かに青色光線の吸収が大きいことに気づく。もう数年前になるが、それに気づいて急いで観葉植物を購入してPC周りに置いたりし始めたが、それでPC画面を見ずに済むわけではないのでほんの気休め、ブルーライト保護シートも同じようなものだろう。

ハードとソフトのメーカーも、これまでどこまで本腰を入れてこの問題に取り組んできたのだろうか?
かつてはホームページの背景なども目の保護を慮って色やテクスチャーをつけるのが一般的だったように思うが、今はポータルサイトや企業のホームページの殆どは背景が白になっている。個人設定で背景色を選択できる場合もあり、ファイアフォックスでも多少は設定できるが、個人的に使えるような色が少ないし、どのページでも有効に使えるわけでもない。ソフトウェアについてもそういう傾向があり、例えばこれまで普通の黒い文字が使われていたメニューや設定項目などに見づらい灰色の文字が使われていたりする。やたらに見栄えを目新しくしたいという意図だけを見るのは思い過ごしだろうか?

ウィンドウズのフォントについてもそういうことが言える。例えばMS明朝は白っぽくて大いに目の疲労に寄与している。だから用途によってMSゴシックを使用するが、ごつごつして流れが感じられず、美しくない。他のフォントも使えないこともないが、これらが標準として通用してしまっているからどうしても使わざるを得ない。

キーボードにもそういう傾向がある。最近はなぜか黒いものが主流になっているようだ。白いものもなくはないので白いのを選ぶと、文字が灰色になっていたりする。どうしてわざわざこんなところでデザインをいじるのだろうか?普通の本の文字を灰色にしたりするだろうか。そんなことをしたところで美しいデザインにはつながっていないように思う。


・・・・・・・・・・そんなわけで、当面、個人的には有機ELに大いに期待しています。その他、当然ですが眼の医学を含め、高齢者にも若い人にも関係なく眼に優しく、眼が疲れずに読み書きできる社会が到来してほしいものです。これも夢物語なのかな。

金曜日, 9月 16, 2016

不忍池とスマートフォン、そしてポケモンGO


不忍池とスマートフォン、全く異なるものだが、どちらも最近の私にとってちょっとした宝物といえるかもしれない。といっても唯一無二でも最上の宝物という程のものでもない。もちろん「お宝」などではない。もともと宝物というものはたいてい、人生にとって必ずしも不可欠といえるようなものではない。あるいは代替が効かないようなものでもない。文字どおりの宝物である宝石にしても多くの女性にとって、無くしたからといって、あるいは身につけられなくなったからといって、絶望するほどのものでも無いだろう。とはいっても人生の一時期には他に代え難い有り難みをもたらしてくれるものといえるかもしれない。



不忍池によく足を運ぶようになったのはこの2、3 年のことである。今の住居から 2キロぐらいしか離れていないから格好の散歩コースである。かつて仕事で御徒町の方によく通っていた頃は御徒町の方から上野公園に足をのばしたとき、たまに不忍池まで立ち寄ることがあった程度だったが、2年ほど前からそのようなコースよりも自宅からは随分と近道になる東大の裏門あたりの道、弥生町のあたり、竹久夢二美術館の前などを通る道や、近辺の複雑な小道、あるいはやや遠回りをして根津駅あたりの方を回ったり、いろいろなコースから歩いてゆくようになった。現在、一応は自宅で仕事をしているから、平日はどうしても、仕事が無くても5時か6時頃になるまでは外に出る気にはならない。仕事の連絡はすべてメールで来るからである。今年の初めにスマホを購入したきっかけの1つは、外でいつでもメールチェックをしたかったからだが、しかし冷静に考えてみればせいぜい3時間程度の外出で、メールチェックが絶対必要だというほどでもない。携帯電話があれば十分だろう。そんなわけでいったんはドコモのスマホ契約をしたが、あまりにも不経済な通信料とソフトの使用料に辟易して3ヶ月程で解約し、普通の携帯電話に戻してしまった。この間、かなり無駄な出費をしてしまう。ただスマホ自体は自宅で結構便利に使っている。やはり自宅でもパソコンだけでなくスマホがあると便利ではある。片手の手の中に収まるという点、確かに宝物という感触はある。外ではもっぱら散歩中に写真を撮ったり、不忍池のベンチで電子書籍の読書をしたりしていた。夕方暗くなってからでも読めるのでスマホの電子書籍はなかなか気に入っている。文字が多少小さくても書体はパソコンよりも読みやすい。もちろん紙の本も不忍池のベンチで読むのは快適である。以前から、外が明るいうちは、自宅の狭い空間ではあまり読書をする気にならないのである。読書をする場所として不忍池のベンチはまたとない場所になっていた。



この間、外出中にスマホでのデータ通信をあきらめたわけでもなく、いろいろ対応を考えてはいた。ワイマックスの古い契約が残っていて月390円で多少のデータ通信ができるはずだったのだが、実際にスマホで使用してみて通信量など、機能性の問題で使い物にならないことが判明。こちらも今更ながら解約し、現在最終的に、ワイヤ・アンド・ワイヤレスという公衆無線LANサービスに加入してみた。その結果、利用可能エリアは限られるが、一応使えることは確認できた。ただし、殆どの利用可能エリアはオプションエリアと呼ばれて追加料金が必要なエリアである。看板に偽りありの感が無くもない。日本の通信会社はすべてこんなものなのだろう。月に税込み390円だから、今のところもっとも安い選択肢ではあるようだ。しかし上野駅で一カ所、無料で無線LANを提供しているところもあるにはある。他にも探せばいろいろありそうだ。







道路の向こうは横山大観記念館




こんなわけで、 不忍池のベンチでスマホのデータ通信をするわけには行かないが、スマホは持ち歩いてはいる。ちょうどそんな時期にポケモンGOの騒ぎが始まり、急にこのエリアが騒々しくなったのであった。もともと不忍池のエリアではスマホを手にしながら歩いている人は多かった。カップルなどはスマホで写真を取り合っていたし、年寄りでもスマホで写真を撮り歩いている人は結構多かった。そんな次第でポケモンGO以前にこの場所がそれほど閑散としたいたわけでもない。桜の花見頃はもちろん、アジサイやハスの時期には花見の見物人も多く、外国人観光客も多かった。特に中国語は日本語と同じくらいの頻度で耳に飛び込んでくる。ただやはり暗くなる頃にはかなり閑散としていたが、それでもかなり遅くまで散策する人は結構いた。しかしポケモンGOが始まってからの騒々しさはレベルが異なる。まあ夕方の5時頃まではそれほどでもないが、5時半頃を過ぎると、二つの池の間の遊歩道で波のように通勤ラッシュさながらの混雑が 現出する。池に面したベンチに座っていると後ろの方で急に聞こえだした足音はまるで歩兵の進軍ではないかと思われるほどざわざわ慌ただしい。そろそろ帰ろうかと思って歩き出したが、彼らと反対方向に歩くのが困難なほどだった。その後も何度か同じ頃、同じ場所に行っているが、だいたい同じような状態が続いている。あるとき、当方もベンチに座りながらスマホを持って電子書籍を見たり、写真を撮ったりしていると、ポケモン仲間と思われるらしく、その場所でポケモンが獲れると思ったのか、すぐ隣まで来てポケモンをする若い人たちもいる。そして実際にポケモンが獲れたらしい会話が聞こえる。






このような、多くは少年とはいえ、大人も少なくない、あたかも歩兵の進軍のような慌ただしい群衆の動きを見ていると、どうしても何者かに動かされているか操られているような、不気味な印象を免れ得ない。実際にゲーム会社に動かされている訳だが、こんなゲームを通常のプライドを持つはずの大人が嬉々として遊んでいるというのは本当に信じがたい気がする。童心に帰るのもいいが、時と場所とする事を選んだ上で童心に帰ってもらいたいものだ。流行とはこのようなものかもしれないが。
いずれにしても、このようなゲームは例えばディズニーランドなど、特定の場所を限定した上で実施すべきものである。


 ポケモンGOの流行で、厭なというか、不安に思われることの一つに、このゲームを批判する意見が不当に無視されているのではないかという印象である。第一、政府もマスコミもこのゲームをバックアップしているのではないかとさえ思われる。こんな、道路や公共の場所にバーチャルとはいえエサ、ではないが、獲物のようなものを勝手にばらまき、人々を招き寄せるようなゲームが何の障害もなく通用する事態そのものが異常ではないのだろうか。ゲームのようなバーチャルな環境を公共の場に持ち込むことは関係のない人を巻き込むことになる。事実、死亡事故まで起きているというのに。




このゲームにも当然、賛否両論があり、マスコミでも両方が取り上げられてはいるが、どちらかと言えば否定派の意見が片隅に追いやられている傾向がある。特に肯定派の意見に特徴的なこととして単にこのゲームのメリットを主張すると言うよりも否定派の批判や否定派の人物を批判するような傾向が見られるのは特に厭な感じがする。たとえば次のような内容の記事があったのには驚いたのである。

このゲームが一つの原因で死亡事故があったことについて、その論者が言うには、すでに歩きスマホが原因で起きた交通事故は沢山ある。それらは沢山あるので報道されていないだけである。たまたまポケモンGOが流行し始めたので改めて事故が取り上げられたに過ぎない。だから特に問題にするほどのことでもない、ということらしい。こういう考え方を倒錯した論理というのだろう。すでに歩きスマホが原因の事故が多発しているのなら、新たに歩きスマホが前提となるようなゲームの導入にはことさら慎重になるべきではないのか。実際に死亡事故が起きたのは歩きスマホどころか、自動車の運転をしながらのポケモンGOだったはずである。そんなことを知ってか知らずかその論者は道路でこのゲームで遊ぶことを批判するのは自動車側の横暴だなどと書いていたように記憶している。このような見当外れで無神経な論理がまかり通るというのはまさに異常事態のように思われ、不気味でさえある。

今日の夕方にまた散歩でいつもの場所に立ち寄ってみた。日が暮れ、暗くなると、最近には珍しく、人が少なくなっていった。6時を過ぎてもいつものようにゾロゾロと大挙して慌ただしく群れてくるようなことはない。この場所にポケモンが出現しなくなったのか、あるいはこのゲーム自体が下火になったのか?しかし弁天堂の前は相変わらずごった返している。まあ波があることだし、実際にこのゲームも下火になってきたのかもしれない。このゲームもすぐに流行らなくなるさ、という人も多いが、確かにそうなるだろうとは思う。しかしゲーム会社や利権側も新たな手を打ってくるだろうし、同じように公共の場にバーチャル環境を持ち込むようなものがゲームに現出する可能性がある。何よりも心配なのは政府も産業界もマスコミも挙ってこのようなゲームを後押しし、社会全体としても抵抗もなくすぐに受け入れるような風潮なのである。

  それにしても携帯電話会社のパケット定額制や「かけ放題」 の強制には困ったものだ。せっかくのスマホのメリットを大きく損ねている。変なゲームを後押ししたりするのではなく、こういう問題を改善することこそが、真にスマホを多くの人々にとっての宝物に変えるのだと思うのですがね。


 


 

火曜日, 2月 11, 2014

政治的争点としての脱原発問題

端的に言って、投票率を含めた今回の都知事選の結果がこうなった原因は、個人的にはどう考えても一方の方から、争点が脱原発問題になってしまったと言うか、されてしまったことにあると思う。

震災直後ならこういう争点になる必然性は十分あっただろうと思う。しかし、現在に至って国民も都民も多くの事実、それも真実、虚偽、欺瞞 、謎、等々を含めた様々な事実を知ってしまった。たとえ今でも即時の脱原発論が正当であるとしても、現在の状況下における都知事選の第一の争点になる必然性はなかったと思う。選挙まえに一度だけツイッターでその疑問をつぶやいた。

繰り返しになるが、福島原発事故以降、確かな事実、不確かな事実、真実、虚偽、欺瞞、誇張、あらゆる態様というか、可能性というか、適切な言葉がみつからないが、そういう状態を含めて多くの事実が明らかになった。今では平均人の体内に常時数千ベクトルの放射線を維持し続けていることや、現在の東京よりも何倍ものの自然放射線の地域がざらにあることなど、常識の域に近づいていると言えるし、ある程度の放射線に健康増進効果があるという学説や研究も多々あることなども知られるようになった。この期に及んでまだ放射線の健康への脅威を過剰に強調するのはまさに、過ぎたるは及ばざるがごとし以外の何物でもないと思う。

たとえ即時脱原発主義が正当であるとしても 、根拠に多少とも見え透いた欺瞞が含まれ、過剰に強調されていたとすれば当事者自身の信用を失うし、不勉強、不見識を疑われることになるだろう。

 ウソも方便ということもあるかもしれないが、それは本当の大人と本当の子供との関係において通用することである。現在の政治家や政治運動家や活動家、あるいは評論家やジャーナリストと一般人との関係が、あらゆる点で大人と子供との関係にあるなどと考える人は今やいないだろうと思うが、もしそう思っている活動家がいるとすれば思い上がりも甚だしいと言うべきでだろう。

木曜日, 10月 24, 2013

ノートパソコンの解像度または精細度は早急に改善すべきで最近始まった高解像度化は促進すべき

以前にこのブログで報告したとおり、姿勢などの関係からノートパソコンの方がデスクトップより良いのではないかと思い、また別の理由もあって、昨年の夏ごろから従来のデスクトップに加えてノートパソコンを導入し、メインで使用するようになっていた。従来のデスクトップはマルチスクリーンでそのままにして併用し、主としてノートパソコンで入力作業をするようになり、さらにはスマートブリッジという、一つのマウスとキーボードで両方のPCを使えるデバイスも使ってそれなりに便利に使っていたのだが、一つ、大きく目論見とは異なる不都合が次第に顕著になってきた。一言で言ってそれは標準的なノートパソコンの、解像度というか、DPIが、ノートパソコンの使用条件に適応できていないということである。これが眼の疲労に著しく影響することが分かったのである。ノートパソコンを追加してさらにメインに使用するようになって便利にはなったのだが、眼の疲労はそれ以前にも増してひどくなったのである。これはひとえに解像度(DPI)とそれに対応した文字の表示とフォントデザインが不適切であるからと言えるだろう。

そんなわけでつい最近になって21インチのディスプレイを追加してノートパソコンをマルチスクリーンで使用するようになった。古いデスクトップの方は事実上、一つ のディスプレイだけを使用し、一方は机の下につないでいる。外してしまうとまた変なことが起きそうでこわい。マルチスクリーンも何度も設定を変えたり、つなぐデバイスが故障して取り換えたりしているうちにいろいろ不都合が生じてくる。

とにもかくにも、ノートパソコンに大きめのデスクトップ型ディスプレイを追加したことで、かなり目が楽になった。やはり、現在主流の解像度はデスクトップ型の設置距離に適しているのである。ノートパソコンでの使用条件では少なくとも現在主流のタブレット程度の解像度は、眼のためには最低限必要だろう。そこで昨日、ネットで調べてみたが、例のIGZOパネルなどを使用した高精細度のPCがすでに出回り始めていることが分かった。当方は今買い替えるわけにはゆかないが、これは歓迎すべきことで、促進すべきことだと思う。

残念に思うのはなぜこの流れがもっと早く進まかったのかということだ。もちろん技術とコストの問題があったのだろうが、とにかく企業の商品開発がスマートフォンと大型テレビに集中していたことが原因だろうと思う。個人的にはスマートフォンなどの新商品の開発よりも、従来製品の改善の方を優先すべきと思うのだが。特に眼の疲労や読みやすさ、眼に優しくすることは、この世界的な高齢化社会への対応ということで、最重要課題の一つだと思うのである。

木曜日, 10月 17, 2013

椅子と机と正座

先日、経済ニュース番組で、アメリカ発の事務用椅子の新製品を紹介していた。自由な姿勢、特にPCやタブレット使用に対応したという斬新な構造と機能性を持たせたということだったが、気になったことは、依然としてキャスター付き五本足の回転椅子であるということで残念に思った。個人的に、当人も五本足のキャスター付き回転椅子を毎日使用しているが、実のところもうこの種の椅子が嫌になっている。

特にぐらつくというわけでもないが、どうしても古くからある回転しない椅子の安定した感触は得られないし、何よりも五本足の位置が定まらず、じゃまになる。本来どのような作業であってもこういう回転椅子は適切ではないと思うがどうなのだろうか。ピアニストは絶対にこんな椅子を使わないし、他の楽器でもそうだろう。事務や手作業でも同じだと思う。

近頃、近くの図書館に通って借りることをせずにそこで一時間程読むことが多くなったが、図書館の椅子は古くからある頑丈な木製の椅子でかなり重い。高さや構造が最適であるとは限らないが、本を読むにはやはりこの種の椅子の安定感は必要と、最近は感じるようになった。 この種の椅子で問題なのはやはり使うときには椅子を引いたり収めたりすることの煩わしさにある。音も立てる。もちろん使いながら動かせるという機能がない。そのために事務所では現在殆ど使われなくなってしまったようだ。しかし、この問題は改めて見直す必要があるのではないかと思う。高さの調節も含めて改善できないほどのものでもないと思われる。

件のテレビで見たアメリカ製の最新型はたしかに自由な姿勢に対応している面もあるが、一方でやはり五本足の安定しない位置のため足の置き場が不自由に見えた。そういう欠点が残されている以上、またキャスター付き回転椅子である以上、もはや見た感じではそれほど欲しいと思うような優れものに見えなかった。

回転式の事務用椅子は見直す時期に来ているのではないだろうか。こういう机だからこそ逆にいろいろと姿勢を崩したくなってくる面もあるような気もする。


同じ日の夜、NHKオンデマンドで見た『美の壺』で、文豪の使った文机というのを見た。 漱石をはじめとする明治から昭和にかけて日本の作家たちが作品を書くのに使った机が紹介されていた。漱石が唐物と呼ばれる中国伝来の文机を使っていたのは西洋文明からの一種の決別の気持ちを込めて意識的にそういう机を選んだのだと、ナレーションで言っていたが、成程そうかと思う。 とは言っても、もちろん全面的な決別ではないのだろうが。

他に紹介されていた作家たちの中で、例えばただ一人洋風の机を使っていた萩原朔太郎のことなど、興味深かった。

それにしてもこういう作家たちは一日中正座していたわけでもないだろうが、事実上、正座をしていた時間は相当に長かったに違いない。ちょうど最近、個人的に、正座のことを考える機会が多くなってきている。当人は仕事など、パソコンを使うときはもちろんだが、先に書いた通り事務用の回転椅子を使って過ごしているが、それ以外は普通は畳の上である。だいたいはくつろぐ時だから、どうしてもあぐらをかいたり、よこに寝そべったりしてしまうが、最近はできるだけ、というか、少しは正座をするように心がけるようになった。少しずつではあるが、しびれは切れにくくなってきたように思う。

正座は身体と健康にとって、また子供の成長にとってどうなのかといった本格的な研究があっても良いのではないだろうか。また精神生活全般と正座や畳式生活と椅子式生活との関係など、もっと多方面の研究がなされてしかるべきではないかという気がする。

月曜日, 3月 18, 2013

ウクライナからのアクセス

最初、「はてなダイアリー」でブログを始めてから成り行きでブログの数が増えてしまい、現在それ以外に「ブロッガー」で三つと「FCブログ」で一つ、合計五つのブログを公開するという始末になってしまいました。いずれのブログにもアクセス解析を設置していますが、これも成り行きで二通りのアクセス解析が設置されています。はてなダイアリーには「はてなカウンター」を設置した後、あとからブロッガーの三つのブログとともに非常に高機能のグーグルのアナリティクスを設置しました。しかし、かなり後になってから、ブロッガーには最初からアクセス解析が組み込まれていることが分かり、これらも二通りのアクセス解析が設置されている状態になっています。もう一つのFCブログの方は、かなり後から始めたブログですが、これは最初からアナリティクスを設置しただけだったのですが、次に述べるようにアナリティクスのデータに問題があるように思われたので、最近になって、はてなカウンターを設置し、比較するようにしてみました。ブロッガーには、アナリティクス以外のカウンターを任意で設置できないみたいで、はてなカウンターを設置してみましたが、機能しませんでした。


という次第で、かなり最近になるまでグーグルのアナリティクスのみを参照していたのですが、ブロッガー組み込みのアクセス解析が見られることに気づいてから、こちらはアナリティクス程の高機能ではありませんが、見やすいので、こちらも見るようになり、その結果、アナリティクスの結果とかなり差があることに気づいたのです。


ブロッガーで公開しているブログのひとつで「意味の周辺」というブログの解析を見ていたのですが、アナリティクスでは表示されたことのないウクライナという意外な地域からのアクセスが相当にあったのです。さらに見て行くにつれ、アメリカも含め、外国からのアクセス全体が予想を超えて多くあり、また日本を含めたアクセス数全体もアナリティクスのデータよりも多い場合が多いのです。


最初はウクライナ、スペイン、トルコ、アフリカ諸国といった特定の国々からのアクセスが検出されないのかなとも思ったのですが、よく見て行くとアメリカからのアクセスも大幅に異なるようです。同じ「意味の周辺」のデータですが、全期間中のアメリカからのページビューが、ブロッガー組み込みの解析では300程であるのに対して、アナリティクスのデータでは訪問数で15しかありません。


さらに詳しく言えば、スペインやドイツなど、数的には少なめですが、アナリティクスでもある程度は検出されているのに対し、少なくともウクライナとロシアはまったく検出されていないという傾向があります。数量的にはウクライナがアメリカに次いで突出しているのですが。


グーグルに問い合わせたところ、国を識別するのはどのツールでも難しく、どのツールのデータが正しく、どちらが間違っているともいえないということでした。ネット検索でその方面の解説記事を当ってみたところ、確かに地域を正確に特定するのは困難なようです。ただ、今回の当方のケースでは、地域を間違えているというよりも、検出漏れという方が当たっているように思われます。アナリティクスでは外国からのアクセス数全体が極端に少なくなっているからです。日本全体のアクセス数はだいたい一致している場合が多いようですから、これは外国から、特にロシアやウクライナからのアクセスが検出漏れになっている可能性が高いように思います。


そんなことを考えていたところ、昨夜NHKテレビの特集でチェルノブイリ関連の放射能汚染問題の現状を報告する番組を見て、ハタと気づきました。これは主としてウクライナとベラルーシからの報告だったからです。上記の問題は「意味の周辺」というブログで確認したことだったのですが、おなじブロッガーで作成しているこちらのブログで、福島の原発事故後の数か月の間に、放射線リスクの問題を扱った記事を何度か書いていましたが、ウクライナからのアクセスはその記事へのアクセスがきっかけだったのではないか、ということに思い至ったわけです。調べてみた結果、確かにこちらのブログでも、全期間でウクライナからのアクセスがかなりの割合でありました。ただ、ブロッガーの解析ではアナリティクスのような詳細な解析はできないので、ウクライナからのアクセスが多かったのはいつごろだったのかということまでは判りませんでした。それにしても、ああいった記事をウクライナからアクセスして見てくださっていたということが分かり、少々感動した次第です。多くは現地在住の日本人の方だと思いますが、それにしては、私のブログにしては多めの、外国からのアクセスです。


そういった方々が、そのブログのその種の記事にアクセスした後にそのページにリンクされた私の別のブログにも興味を示してくださった結果、「意味の周辺」その他のブログにもウクライナからのアクセスが多くなったということではないかと思われた次第です。


私はもちろん、放射線医学の専門家でもジャーナリストでも、活動家でもなんでもなく、放射線問題について調べたのも当時の一時期だけで、ソースもインターネットだけでした。ただ、当時は結構ていねいに調べたり検討したもので、その結果放射線リスクに閾値があり、その閾値も結構高い値で、年間100ミリシーベルトの基準では十分に閾値内に入っているということの確信が得られた時点で、それ以上はこの問題について調べるのはやめ、ブログでもその種の記事もあまり書いていません。もともと数字が苦手なので、今ではベクレルの数値を見てもあまりピンときません。また原発問題やエネルギー問題についてもあまり考えたりすることも、独自に知識を仕入れようとしたりすることもなくなりました。


ただ、「発見の発見」というブログでは、科学上の問題として最初のころからCO2温暖化論を取り上げて記事にしてきましたが、これも今はCO2温暖化説が間違いであることの認識がかなり広まってきたようで、殆ど科学の問題というよりも政治問題に絞られてきた感があり、あまりブログの記事にする機会もなくなってきたようです。


もちろん、原子炉内が現在どのような状態になっているかがまったくわからないという現状で、放射線リスク問題にもエネルギー問題にも全く関心を失ってしまうことは許されないことですが、時々入ってくる情報から、少なくとも原発事故現場に近い一定地域以外ではまったく放射線リスクについて心配する必要はないと思っています。この認識はすでに多くの分別ある一般人にほぼ共通していることではないでしょうか。脱原発に向けて活動されている多くの活動家やジャーナリストの方々を尊敬していますが、そういった方々の中にも、いまだに閾値説を全面否定し、過剰にリスクを強調する人たちがおられるのは本当に残念な気がします。先般、このブログの記事にも書きましたが、「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」です。


昨夜のテレビ番組、ウクライナとベラルーシからのレポートでもやはり、閾値以下の放射線を危険だとする立場と安全とする立場との葛藤が中心テーマであったようです。ただやはりこの種のテレビドキュメンタリー番組の常で、きちんとしたデータの調査よりもイメージ的な訴えや、相互の単なる断定や主張の繰り返しで終始していたように思います。相も変わらず、誰かもわからない女性患者が治療を受けているシーンを流したりしたり、現場とは何の関係もない気の滅入るような音楽を付けたり。もうそろそろこのようなドキュメンタリー番組の手法は時代遅れと思われるようになって欲しいものです。


全く関係のない二つのテーマでこの記事を書くことになってしまいました。ここで最初のテーマに戻ります。


FCブログの方も、アナリティクスの解析を見てきましたが、以上のような次第で、改めて新たに「はてなカウンター」を設置してみました。こちらも外国のアクセスについてアナリティクスとの差において、ブロッガーの解析と同様の傾向を示していると言えます。今のところ外国と言えばアメリカだけですが、明らかにアナリティクスでは検出していない数のアメリカからのアクセスを検出しています。このことからも、やはりグーグルのアナリティクスでは全体のアクセス数、特に外国からのアクセス数の数え落しが大きいという蓋然性が高いように思われます。


素人考えですが、アナリティクスの場合あまりにも多くの詳細項目を解析しているために検出確率が犠牲になっているのではないでしょうか。場合によっては詳細な解析ができないようなアクセスを数え落としているのではないかとも思えるのですが、もちろん専門的に理解しての推測ではありません。


いずれにしてもアナリティクスの詳細な分析機能は商用目的には非常に有効で有用なツールになると思います。ただ、日本国内で外国からのアクセスを地域的に、正確に捉えるには適さないということになるでしょうか。