数日前に読み終わった「梅棹忠夫 語る」の中の件をまた思い出している。
以下、記憶をたどって引用しているので本の記述そのままではない。
氏曰く「宮本武蔵になるな、技を極めることの価値はわかるがそれが人を殺す技というのは淋しい」
また、新渡戸稲造の「武士道」をまったく読んだこともなく全否定している。
個人的に、私も護身術としての武術はわかるが、求道的な武術や剣術などは理解できたことがない。ただ、理解できたことがないだけであって全否定するだけの自信はなかった。
また新渡戸稲造の「武士道」もこの年になるまで読んだことがない。岡倉天心も、鈴木大拙も読んだことがない。しかし読まずに全否定するだけの自信を持ったことはなかった。
同じではないと思うが、武術や武士道の精神性というものは無神論、有神論とどのように関わっているか、考えてみたい。
梅棹忠夫は無神論者と思われるけれども、本の中では「老荘の徒や」と語っている。
宮本武蔵は無神論者ではなかったようだし、新渡戸稲造はもちろんクリスチャンである。
ところで宮本武蔵は絵を描いたが、絵をどのように考えていたのだろう。絵について何か語っているのだろうか。国立博物館で見た事がある。絵を描いていなければ評価も違ったものになっていた、という事はなかっただろうか。
こういう問題に付いては常に疑問形でしか書くことができない。
月曜日, 11月 08, 2010
月曜日, 11月 01, 2010
少女の合唱と少年の合唱
合唱については結構いろいろと考える事がある。
例えば現在世界的に、ポピュラー音楽では合唱というのはあまり人気がないようにみえる。デュエットとかカルテットとかは結構あるが、多人数の合唱というのはあまりないのはなぜだろうか ― というようなこととか・・・これはやはり歌手の個性が出ないからだろう。
あるいは、合唱とピアノは必ずしも最適の組合せではないな、とか、
近頃は変わってきているかも知れないが、小学校から高校まで、音楽の授業と言えばピアノ伴奏の合唱ばかりだった。はっきり言って面白くなかったな、というようなこととか、
その他、全部言えばきりがないが、いろいろと考える。
最近思った事は、ヨーロッパには教会音楽の伝統もあり、ウィーン少年の合唱合団など少年合唱団が沢山ある。それに対して日本ではどちらかと言えば少女合唱団が活躍しているように見える。なぜなのかな、と思ってちょっと気になりだした。
たしかに少年と少女の合唱は一緒にするには馴染まないところがある。大人の男女のようにはっきりした音域と音色の違いがあるわけでもないので中途半端なところがあるのだろう・・・などと考えた。
実は下記を聞かせていただいた後このような事を考え出したのだけれども
http://www.youtube.com/watch?v=KJmU9Im-Evk&feature=youtu.be&a
後から調べて見ると、これを歌っているNHK東京児童合唱団のホームページを見ると男の子も何人か混じっている写真がある。ウェブで調べて見ると大抵の児童合唱団は少年少女合唱団となっていて、少なくとも名前には少女だけの合唱団はクラウン少女合唱団だけだった。
しかし放送で児童の合唱をきくとき、大抵は少女だけの合唱に聞こえるときが多いのである。先のNHK東京児童合唱団のホームページ写真を見ても少年の人数は非常に少ないし、少女だけしか映っていない写真もある。男の子の入団希望者が少ないことも原因のひとつだろうが、日本人には、というより日本の大人には少女合唱の音色が好まれるのではないだろうか。私自身、少女の合唱の声質は非常に気持ちが良くて好きである。
いっそのこと少女だけにしたらどうか。というより、少年の合唱と少女の合唱は分けた方がいいような気がする。
例えば現在世界的に、ポピュラー音楽では合唱というのはあまり人気がないようにみえる。デュエットとかカルテットとかは結構あるが、多人数の合唱というのはあまりないのはなぜだろうか ― というようなこととか・・・これはやはり歌手の個性が出ないからだろう。
あるいは、合唱とピアノは必ずしも最適の組合せではないな、とか、
近頃は変わってきているかも知れないが、小学校から高校まで、音楽の授業と言えばピアノ伴奏の合唱ばかりだった。はっきり言って面白くなかったな、というようなこととか、
その他、全部言えばきりがないが、いろいろと考える。
最近思った事は、ヨーロッパには教会音楽の伝統もあり、ウィーン少年の合唱合団など少年合唱団が沢山ある。それに対して日本ではどちらかと言えば少女合唱団が活躍しているように見える。なぜなのかな、と思ってちょっと気になりだした。
たしかに少年と少女の合唱は一緒にするには馴染まないところがある。大人の男女のようにはっきりした音域と音色の違いがあるわけでもないので中途半端なところがあるのだろう・・・などと考えた。
実は下記を聞かせていただいた後このような事を考え出したのだけれども
http://www.youtube.com/watch?v=KJmU9Im-Evk&feature=youtu.be&a
後から調べて見ると、これを歌っているNHK東京児童合唱団のホームページを見ると男の子も何人か混じっている写真がある。ウェブで調べて見ると大抵の児童合唱団は少年少女合唱団となっていて、少なくとも名前には少女だけの合唱団はクラウン少女合唱団だけだった。
しかし放送で児童の合唱をきくとき、大抵は少女だけの合唱に聞こえるときが多いのである。先のNHK東京児童合唱団のホームページ写真を見ても少年の人数は非常に少ないし、少女だけしか映っていない写真もある。男の子の入団希望者が少ないことも原因のひとつだろうが、日本人には、というより日本の大人には少女合唱の音色が好まれるのではないだろうか。私自身、少女の合唱の声質は非常に気持ちが良くて好きである。
いっそのこと少女だけにしたらどうか。というより、少年の合唱と少女の合唱は分けた方がいいような気がする。
日曜日, 10月 31, 2010
PCモニター下の小さな地球儀
本でも何でも他人の作品を読むときはその文面に集中しなければなりません。また前後の文脈にも眼を配らなければいけません。
しかし、文章を作るときはアイデアをどこからか見つけてこなければならない。そのときは書きかけの原稿に束縛されていては、よくありません。すでに頭の中に完成された内容があるのであればいいのですが、普通はそういう事はありません。
パソコンを使用しなかったとき、紙に向かってペンを動かしていたとき、原稿は机の上、眼の下の方にありました。ペンを止めたときはいったん眼を上げ原稿から離れるのが普通でしょう。正面に大きなディスプレーがあると、そういうわけには行かなくなってしまいます。このことに気付いてから、何とかこのことを解決する方法はないものかと思っていましたが、書店の地球儀コーナーに置いてあった小さな地球儀の事を思い出しました。それで昨日かの書店に行ってその1つを買い求めてきました。そして早速机の上の置こうと思っていた場所に置いてみました。この場所におさまるかな、とも思っていたのですが、予想よりも小さく、十分にその場所におさまりました。狭く小さな机なもので・・・。
置いてみて思った事は、球体というのは本当に存在感のあるものだな、という事です。その丸さ、丸みは板状や棒状の物ばかりが置いてある机の上では本当に強烈に存在を主張しているように思いました。いまは机の前に座っているときは、地球って本当に丸いなあ、という思いが離れません。
地球儀は子供の頃から欲しかったものの1つでしたが、どういう訳かこんな年になるまで、ついに手に入れることはありませんでした。いつも欲しいと思い続けながらも、いつまで経っても実際に買い求める機会がないようなものって結構あるのではないでしょうか。特別に高価な物ではなくても。
この地球儀は、手頃な価格で小さいながらも美しい色でデザインのバリエーションがかなりあり、どれを買おうかなと迷ったのですが、結局国別に色分けされ、海洋部が薄い水色のものになりました。海洋部が薄い褐色のアンティークタイプが落ち着いて美しく、好きなのですが、やはり海の部分は青系であって欲しかったものですから。これは非常に薄い水色ですが、箱にはホワイトと書いてあります。陳列してあるのを見てもちょっと見ると白に見えました。しかし、セロファンの窓つきの箱に入っているのは薄い水色に見えます。眼を近づけてみると確かに薄い水色に印刷されています。陳列してある物は隣のものや周囲との比較で真っ白に見えたのでしょう。色の選択っていうのは本当にむずかしいものです。小さくて手頃な価格のものだから、地形図タイプの物も加えて、複数あってもいいかもしれませんね。大きな物は高いし、多少大きくても所詮、地球儀では地図を見るという実用には無理でしょうから。場所があればもう少し大きくてもいいと思いますが。
銘柄はSTELLANOVAで、裏にはPrinted in Germany、Assembled in China、と書かれています。ネットで調べて見ると、やっぱり、すぐに日本語ページが沢山出てきました。ドイツの会社で、「世界各国の膨大な需要に対応するため生産工場を中国に移し、」とあります。ご多分にもれず、という感じですね。何故かアメリカではなくドイツの会社であることが嬉しい。「コンピューターを駆使したグラフィック印刷を地球儀に応用し、 球面にフィルムを一体成型するという製法を開発して、鮮明で歪みのない地図をつくりました。」とありますが、これだけではどんな印刷方法なのかはまったく想像できません。しかし、素人には、この印刷技術は素晴らしい技術に思えます。一体どういう技術なのだろうと思います。
地球儀で見ると、個人的には、日本は可成りの大国に見えます。緯度と経度が正確に出ているみたいですから、面積もそれなりに正確なのでしょう。― 日本はそんなに小さい国ではない ― 少なくとも個人的にはそう見えます。
土曜日, 1月 02, 2010
クラリネットはガラス工芸、ヴィオラは陶磁器
最近、名ビオラ奏者と言われるバシュメットという人の演奏するブラームスのヴィオラソナタ、つまりヴィオラとピアノによる二重奏ソナタ2曲とチェロが加わったビオラ三重奏曲の入った中古CDを買った。
ブラームスのこれらのソナタ集、すなわちクラリネット(ビオラ)とピアノによる二重奏ソナタ集の録音を買ったのは3度目になる。私は同じ曲のレコードを何枚も、何通りも購入するような音楽マニアでもなく、時間的にも経済的にも余裕のあるを送ってきたわけでもないが、なぜかこの曲に関しては、3回、時をおいて買っている。
最初はもうかなり以前というよりも昔、当時すでに過去の名盤の廉価版と言う形で、古いモノラル録音によるLPレコードで、演奏者はウラッハというクラリネット奏者と、ピアニストはもっと有名なイェールク・デムスだった。解説によるとウラッハはウィーンの伝統を体現した最高のクラリネット奏者であるとのことだった。
当時このレコードを何度か聞いてこの二曲が好きになった。しかし、古いモノラル録音のため、音の鮮度というものが物足りなく、特にクラリネットなど、音色に魅力がある楽器であるだけに、不満があった。それから幾年月かが過ぎ、今度はCDの時代になってからライスターというドイツの有名なクラリネット奏者の演奏で、これらブラームスのクラリネットソナタ集の録音を買った。
再生装置は少しも高級なものでは無かったが、やはり、新しいステレオ録音のCDは、以前のモノラル録音LPの音の不満を解消してくれた。演奏は、どちらが優れているかというような評価を下す能力は私には無いが、少なくとも演奏に不満を感じることも無かった。たとえばフランス人の名クラリネット奏者と言われるランスロの演奏するブラームスのクラリネット五重奏曲で感じたような演奏上の不満は無かった。
このCDであらためて感銘をうけたのは、クラリネット自体の音色の美しさもさることながら、クラリネットとピアノの組み合わせが持つ音色の豪華さであった。クラリネットとピアノの組み合わせはこの曲以外に聴いたことが無いが、この曲を聞いて実に豪華な音色がするものだと思った。豪華といっても極彩色という感じでもなく、黄金色に輝くような感じでもなく、なにに例えればよいかというと、無色で大粒のダイヤモンドのような豪華さなのだ。透明感とボリューム感とを備えた、やはりブリリアントという言葉がふさわしい豪華さである。
この二曲はどの解説でもブラームス晩年の枯淡な境地を表現したものだと解説されている。確かにメロディーは、そして個々の表現そのものはそういう枯淡なものかもしれない。しかし音色、楽器というよりも楽曲の音色は本当にブリリアントで豪華に感じられたのである。
このCDはある理由で過去に手放してしまい、今は無いので、またこの曲を聴きたいと思っても、古いLPは今聞ける状態で無く、今度上記のヴィオラ演奏による中古CDをネットで購入した次第。このCDが出たころ、何か新聞か、雑誌の立ち読みかで、賞賛記事を見た記憶があった。当時は即購入して再生装置で楽しむような状況ではなかったが、最近ヴィオラが流行というか復興しているとかいう機運もあるそうで、確かにヴィオラでこの曲を聴くのもよさそうだという思いもあって、ネットで中古を見つけて購入した。はっきり記憶しているわけではないが、ラジオでヴィオラによる演奏を一度聞いていたかもしれない。
このバシュメットの演奏を何度か聴いてまず思ったことは、クラリネットによるこれまで聴いていたこの枯淡といわれる曲の印象に比べて情熱的な面が表面に出てきているような気がした。演奏家の表現による部分もあるだろうが、やはり、楽器の特性にもよるのではないかと思う。ヴィオラの演奏は何か筋肉質とでも言った感じがする。考えてみれば、こういう弦楽器は全身の、特に腕と手の筋肉を使って演奏するものだ。それに対してクラリネットなどの管楽器は呼吸器という内蔵あるいは横隔膜を使って音を出す。そういう違いが音の表情にも表れてくるのかもしれない。
他にやはり、この曲は本来クラリネットのために書かれた曲だなと思わせるところが多くある。特に装飾的な箇所と弱音箇所がそうだ。クラリネットでは弱音の箇所では、空気に溶け込むような感じなのに対して、弦楽器のヴィオラでは弱音の箇所も輪郭がくっきりとしている。これは振動する共鳴体のもつ表情によるものだろうと思われる。ヴィオラでは強靭で細い絃が振動し、これもまた薄くて強靭な木の箱が共鳴する。それに対してクラリネットの場合は振動版と空気の柱とが共鳴するが、空気の柱には周囲の空気との、はっきりした境界がない。
そういう、周囲の空間に溶け込むような音色が、枯淡といわれるこの曲に向いているのかもしれないが、その一方、腕と指で正確に繊細な動きを細く強靭な弦に伝える弦楽器であるヴィオラの場合には別の意味で繊細、微妙な、しかもくっきりとした表情が付けられているようにも思われる。
以上のようなクラリネットとヴィオラの表情の特徴を簡潔な比ゆで表すとすれば、クラリネットはガラス工芸、ヴィオラは陶磁器といえばよいのではないかと思う。ただ、面白いことにこの比ゆは木管楽器全般と弦楽器、それも擦弦楽器全般に及ぼすことが必ずしも適当とはいえないと思われることだ。
ヴィオラが陶磁器であるとしても、ヴァイオリンとチェロも陶磁器的とは必ずしもいえない。同様に、フルートやオーボエ、ファゴットなどもガラス工芸的とは必ずしもいえない。チェロが人声に近いというのはよく言われることだが、これは同じ音声同士の比較だからあまり面白くない。いっそ、ヴィオラを磁器に、チェロを陶器に例えることはできるかもしれない。そうするとヴァイオリンは何になるだろう。ヴァイオリンになると、そういう工芸的なものというより、絵画になるとでもいえるかもしれない。
面白いもので、ヴァイオリン族の楽器は何れも独奏やピアノとの合奏、弦楽合奏、弦楽四重奏などの室内楽では随分と印象の異なった音になる。独奏も弦楽合奏も非常に派手で、華やかな音になるのに比べて弦楽四重奏では地味な音になるということは面白い現象だと、前から思っていた。編成によって全く異なった表情をもつようになるものなのだ。
こんなことを重要なことに思い、考え続けるのも、ひとつには昨年、カッシーラーの「シンボル形式の哲学」を読んだことの余韻がある。それによると、人間の感覚、感覚内容、今の言葉で言えばクオリアよりもさらに深い認識の根源に表情機能がある。この部分の考察に共感覚も絡んでいたような気がする。とにかく難解であり一度通して読んだきりで、理解できたと言えるわけも無いが、この根源的な表情機能とのかかわりで、視覚と聴覚などの異なった感覚に共通する共感覚にも関わってくるような、この楽音と工芸素材との比較、あるいは比喩、さらには単なる楽音を超えて音楽作品そのものと風景やドラマとの関わりといったものにおける共通する表情の問題という深みにはまって行きそうなのだ。
ところで、枯淡といわれるこの曲だが、枯淡という表現がぴったりという感じでもない。確かにメロディーは若々しいというわけではないが、結構激しい感情が感じられるところもある。ただ、確かにどこかほの暗い雰囲気の中の叙情という感じはする。とくに第二番の方は、ほの暗い遠景が感じられる。もっと具体的に言ってしまうと、やや広い盆地の一端のちょっとした高みから向こう側の遠い山々とふもとの町々を黄昏のほの暗い空気の中で眺めているような印象のメロディーに感じられる。これはやはりクラリネットの演奏で特に感じられることだ。ヴィオラでも、夕方か黄昏に近い感じはするが、ただ、ちょっとメロディーの線がくっきりと明るく明瞭に見えすぎるようだ。クラリネットは音色が透明なだけに、遠景のほの暗さがそのまま透けて見えるようだ。それでいてピアノとの組合せはダイヤモンドのようにブリリアントなのである。
日曜日, 11月 29, 2009
「坂の上の雲」について思うこと―前回に続けて
前回同様、この書物を過去に一度読んだままで、書棚にまだある本で目次だけでも確認したりすることもなく書いている。
記憶にある限り、この何分冊にも分かれた長編の可成りの部分、恐らく半分以上は日露戦争に関わる内容であったように記憶している。だから当然といってもいいが、この小説のテーマは日露戦争という相場になっているし、もちろんそれはそれでいいのだが、しかしこの作品から日露戦争に直接関わる時期の部分のみを取り出した場合、それはそれで興味深く読むことは可能だろうが、やはりそれでこの小説を読んだことにはならないだろう。すくなくとも私にはそういう読み方はできないだろう。
時間的には日露戦争に直接関わる時期よりも、小説の書き出しからその時期に至までの時間の方が当然、ずっと長い。そして私がこの小説から受けたインパクトの時間的な比率からいっても実際の現実の時間的比率に比例していると言える。要するに登場人物の年齢というか、登場人物達の過ごした時間に比例する割合に近い比率での印象、インパクトを受けていると言える。もう一度言い直せば、登場人物達の過ごした各時期の比重が実際の時間に比例しているとも言える。
確かにクライマックスは日露戦争の期間にある。しかし作品の中でそのクライマックスが半分以上を占めているというのは、クライマックスの概念には反するとまでは行かないが、例外的かも知れない。
そういう意味であくまでこの作品は個人、複数の、それぞれの個人を描いた小説であり、日本という国の明治の一時期、日露戦争の時期を含めた歴史はあくまで背景であり、各個人の外側にある環境としてして捉えられているように思われた。その環境自体は非常に重要であることは当然ながら。
すぐれた歴史小説はやはりそういうものでなければならないだろう。もちろんそこには多くの問題、矛盾が見いだされるであろうが。
今回のように映画やテレビドラマになる場合、したがって現実の時間に比例して描かれることが理想なのだと思われるが、しかし、それはまず無理だろう。しかし、そういう制作の仕方も考えられるのでは、と思う。具体的には、戦争に突入する段階でドラマを終える事である。あるいは戦争に突入する段階から後を省略し、最後に戦争の終結時点の描写を簡単に付け加えることである。今回のNHKドラマがどのようなものになるかはわからないが、そのような行き方もあるのではないか、と今になって思いついたので、めもしておいた次第だ。
日曜日, 11月 01, 2009
「坂の上の雲」と司馬作品について思うこと ― 一言で言えば栄養のある作品群だ
NHKの大型連続歴史ドラマとして公開される日が近づいたことで、書店の店頭には「坂の上の雲」に関わった幾つかの特集雑誌などがもう何ヶ月からもまえから次々と現れて絶えることがなく、定期の月刊誌や、その他マスコミ一般、またインターネットのブログでも取り上げられている頻度が高くなっているようだ。
確かに個人的にもこの作品の人気は理解出来るし、国民文学と呼ばれるに値すると思う。
私は過去に一度、この作品を読んだ。最近ではないが、新聞に連載された頃ではもちろんなく、また単行本が出版された頃でもなく、文庫本で、多くの部分は通勤電車の中で読んだように記憶している。もう一度読むのもいいが、ちょっと時間とゆとりがないのでちょっと無理だろう。他にも読みたいものは沢山あるので。
この作品を読むまで、司馬遼太郎の小説は殆ど読んでいなかったが、エッセーや対談等あるいはテレビ出演などは、読んだり、聞いたりしていて、著者の、いわゆる教養というか、見識とでもいうのか、そういうものには敬意をもっていたし、得るものがあると思っていたが、あまり小説作品は読もうと思わなかった。ひとつには歴史小説というジャンルがあまり好きではなかったこともある。純然たるフィクションでもなく、歴史記述でもないそういう中途半端なジャンルが好きではなかった。
しかし今思うことは、純然たる、純粋なフィクション、歴史背景の全くないフィクションなどもまたあり得ないということを思えば、そういう考えかたは偏狭でもあるのだろう。しかし、やはり歴史上の人物を実名で登場させながらフィクション性の強い歴史小説は今もあまり読みたいと思わない。
そういうところに、当時、「坂の上の雲」を読む気になった理由をはっきり記憶しているわけではないが、これがフィクション性を極力抑えた作品であるという事が、この作品を読み進めるためのひとつの力になったことは確実である。作品の最初の方で作者がそう書いているからだ。
この作品についての個人的な評価を一言で表せば、それは全体を通じて非常に多くの栄養分が含まれた作品だと言う事だ。歴史観、あるいは歴史的事実の正確さ、思想的な立場、視野の広さ、等々から色々批判している人も多いようだし、批判されるべき要素もあるかも知れない。ただ、実に豊かな栄養分を与えて、残してくれる作品であることは確かだと思う。具体的に言えば歴史的事実そのものを分かりやすく、興味深い文脈で修得出来ると言うことが最も大きい。もちろん歴史的事実だけではなく、背景や評価といったもっと踏み込んだ要素もあるし、さらにもっと踏み込んで時代の気分、各個人の気分や感慨といった伝記的な要素もある。そういう諸々はもちろん、間違っている場合は毒にもなる訳だが、毒よりも栄養になるような形で含まれているようには思えるのである。
栄養といってもいろいろある。アルコールのように、一時的に精神状態に、良くも悪くもある影響を及ぼすと同時に、熱となってすぐに消耗するものもあれば、脂肪や炭水化物のように持続的なエネルギー源になるものもあり、たんぱく質のように、アミノ酸に分解した後に、新たなたんぱく質に再構成されて身体を構成するような栄養分もある。そういう見方をすればたんぱく質が最も優れた栄養というわけになるわけだが、司馬作品はたしかにそういう優れた栄養分が多く含まれているといって良いのでは無いかと思う。
「坂の上の雲」を読んだ後もそれ以外の長編小説に相当する司馬作品はあまり読んでいないが、読んだものの中に「韃靼疾風録」と、「空海の風景」がある。(全く関係のない余談だが、この韃靼という漢字はATOKでは既定の変換では出てこなかったが、MSのほうではすぐに変換できたのは意外。)前者は完全なフィクションで、時代背景だけを歴史から借りたもののようであるのに対し、もう一方はフィクションよりは、むしろ伝記に近い。どちらかといえばフィクション性を抑えたものを読みたいと思っていたのだけれども、完全なフィクションである「韃靼疾風録」を読む気になったのは、歴史的に珍しい、というか、例えば三国志時代のようには、あまり知られていない時代背景に興味を持ったからだった。その意味でそれなりに得るものはあったと思うが、フィクションとしてそれほど面白いとも感動的であるとも思わなかった。読んで面白くなかったわけではないが。やはり、歴史に興味のある人が読む本であるには違いない。これはフィクションと歴史とがかなり明確に分離できる作品だと思われる。フィクションの歴史への嵌め込み方が巧みだとも言える。
一方の「空海の風景」は「坂の上の雲」に比べても、もっと後期の作品で、これは上巻の単行本が出た時点ですぐに購入して読んだが、下巻のほうはずっと後になって文庫本が出てから読んだ。フィクションではないので期待して読んだが、少し期待はずれだった。というのは時代背景や具体的な事実など、また著者の空海への傾倒ぶりなどはよく分かるのだが、肝心の空海の思想そのものについてはさっぱり近づくことができなかったということだ。もっともそれは実際に空海の著作を読んだり、仏教を勉強しなければわからないことなのだろうから仕方の無いことかも知れないが、しかしいまひとつ不満が残る作品であったことは確かだ。空海の思想そのものは最後まで完全なブラックボックスのままに残されていたような感じだった。ただし、その時代にとっての空海の位置というか、立場というものについては知識が得られるし、理解が深まるものであると思う。
まだ残されている著者の膨大な著作群のなかで、これから読みたいと思うものは、やはり、フィクション性の少ない小説ないしエッセーの類である。有名な「街道を行く」シリーズは、機会があれば全部でも読んで見たいが、既に読んだものは比較的後期のもので、とくに外国を扱った「オランダ紀行」とか「愛蘭土紀行」とかアメリカを扱ったものなどで、国内では「本郷界隈」など、いずれも明治時代と関わりの深い対象であったことに気づく。アイルランドはオランダ以上に、英独仏伊、スペイン、ギリシャのようには有名ではない国だったが、何年か前には日本でアイルランドブームといえる現象が起きた。いまでも続いているかもしれないが、当時アイルランド文化やケルト文化に関する本がかなりブームになったように記憶している。「愛蘭土紀行」が出版されたのはそれよりも少し前だったように記憶しているが、この本もアイルランドブームの到来に寄与していたのかもしれないと思われるし、そういう先見性というか、あるいはそれまで一般に関心がもたれていなかったものを掘り起こす眼力はさすがだと思う。著者が音楽に関する知識を欠いていたのは有名な話だが、今はアイルランドの伝統音楽やアイリッシュハープなども、小さなブームになっているようだ。そういうものの流行にも影響があったとすれば面白い話だと思う。
以上のような「栄養」としての価値の他にもちろん、歴史観とか、思想的な面での、あるいは美的、表現的な点での評価あるいは好悪という面では、また多少は別の印象がある。例えば人物の評価など、ちょっと一部の対象に対して厳しすぎると思うことや、偏りがあるのでは、と思われることもある。
例えば、最近読んでみたいと思っている作品に義経を扱った作品がある。この作品はまだ読んでいないが、エッセーやその他の機会に著者の義経に対する評価を読んだことがあるのだが、著者は義経を殆ど評価していないようである。この辺になんとなく、いわゆる勝者の論理とでも呼べるようなものを感じるのである。
というのは、あくまでも頼朝を中心にした見方でしか見ようとはしていないのではないかという印象がある。頼朝の部下として、頼朝の深謀遠慮とでもいうものを理解することができなかったし、仕えることができなかったという面だけで評価しているのではないかなという印象である。義経には義経の論理と構想があったのかもしれず、それが時代と環境にそぐわなかっただけ、という見方もできる筈だ。こういう問題を扱うことの難しさは、歴史物を扱う際には避けられないことかも知れないが。個人的に思うことだが、単に判官びいきという現象だけで後の義経人気を説明できないのではないかと思う。
余談になるが、一般的に頼朝の評価が高い理由のひとつに、あの有名な神護寺の肖像画の影響が無視できないのではないだろうか。あの有名な肖像画は実際には、どうやら頼朝ではないらしいが、いまだにこの肖像画が頼朝像として(たとえ信憑性について言及されることがあるにせよ)紹介されているのは、これを頼朝の肖像ではないとするにはあまりにも勿体ないと思う心理がはたらいているに違いない。(余談の、更に余談だが、「よりともの」と入力するとMSでは正しく返還できないのに対し、ATOKでは正しく「頼朝の」と返還される。先のダッタンの場合とは逆になった。MSでは「よりとも」で切らなければ正しく変換されない。まさしく一長一短だ。)
著者には他に膨大といってもいいほど作品があり、多くを読んでいないが、それでもやはり、最大傑作は「坂の上の雲」に間違いは無いだろうという確信が持てる。そう思わせるだけのものが、この作品にはあるように思われる。フィクションを極力押さえた小説形式という点で、画期的な作品でもあったといえるのではないだろうか。フィクションなしに小説を書くにはやはり、素材の選択とその組み合わせが重要だということになる。特定の個人に照準を合わせれば結局それは伝記ということになり、従来からあるジャンルで、歴史書の範疇に含まれるものかもしれない。しかし多くの個人の部分的な伝記を組み合わせ、一つの構想の下にまとめるのはやはり、小説というジャンルになるのだろうと思う。
著者の表題の巧みさには定評があるようだ。「坂の上の雲」というのは確かに詩的であり、含蓄のある美しいフレーズであると思う。ただ一般に言われているのとはちょっと異なった解釈を思いついたことがある。一般に「坂」といえばまず最初に坂道のことがイメージに浮かぶ。しかし坂といえば必ずしも坂道だけではなく、斜面一般をも意味している。当然、山や丘の斜面も坂である。あまり言われることが無いように思うのだが、「坂の上の雲」とは「丘の上の硝煙」という意味にもとれるのではないかと思ったことがある。もしかすると二重の意味が与えられているのかも知れないと思う。
最後に、文体に結構拒否反応を示す人がいるようだ。新聞記者のような文章だとか、鼻につくといった批評を見たことがある。たしかに癖のある文体で、必ずしも気持ちがよいとは言えないところがある。しかし、栄養があって美味しい食べ物は往々にして多少の臭みがあることも多い。文学に限らず、芸術一般に言えると思うが、優れている作品にも、もちろん優れていない作品にもありがちな臭みとか嫌味のようなものは我慢する他はない場合もあることは認めなければならないだろう。
金曜日, 3月 20, 2009
ミュージアムと中古CDショップ
今週の月曜、渋谷「bunkamuraザ・ミュージアム」でのピカソとクレー展を見に行った。
余計なことだが、ここの名前は、「bunkamura」がローマ字、「ザ・ミュージアム」がカタカナである。こういうのは書体と書式とを組み合わせてレイアウトを工夫すれば効果的かも知れないが、普通に文章の中に書き込むと、どうしても読みにくいし変だ。読みやすくするにはカッコでも付けるしかない。
時間帯が月曜日の午前だっとことも大いに関係しているとは思うが、観覧者はおそらく9割以上が女性だった。年齢はそれ程関係ない。年齢に関わらず女性ばかりだった。これは何なんだろうか。女性が特に絵画好きで、しかもピカソとクレーとが特に女性好みであるとはちょっと思えないからである。
そして一昨日、夕方だったが、お茶の水にあるクラシックの中古CD専門店に入ったところ、少なくとも10人は客がいたと思うが、ここは逆に中年以上の男ばかり。これは何なんだろうか。
血眼といえば言い過ぎだが、一心不乱に中古CDを引っ張り出しては戻しゴトゴト音を立てている。クラシックのCDだから殆ど英語であり、CDの背に書かれたタイトルはとても読めたものではないのである。こんな時はつくづくと日本語表記のメリットを思い知らされる。みんないい年だから眼が良い筈はないのである。クラシックでもコンサートの場合はこれほどではないのでは無いだろうか。私はめったにコンサートにはゆかないが、数少ない経験でも、テレビのコンサート中継などをみても、女性客は少なくないのでは無いかと思う。
もっとも、どちらも意外なことではない。昔からそういう傾向はあった。しかし、あまりにも極端だと思った。どちらもおそらく9割5分以上の差があったのでは無いだろうか。いろんな面で、とくに社会的な面で男女差が無くなってきつつある時代であるにも関わらず、あまりにも変わっていない。
ちょっと気になったので、これはどういうことなのかな、昨日、今日と、考えていたが、ひとつ気づいたことがある。ミュージアムもCDショップも、どちらも公共の場であって芸術鑑賞の機会を提供していることは違いないのだが、根本的な違いがひとつある。それはミュージアムの場合はその場所自体が鑑賞の場であるのに対し、CDの場合はそれを持ち帰って自宅で、しかも大抵はおそらく1人で鑑賞するであろうと思われることである。とすると、女性の場合は芸術鑑賞を目的に外出してきたのであるが、中年以上の男性の場合は芸術鑑賞を目的に自宅に帰るのである。
女性は年齢を問わず趣味の追求では外出志向であり、中年以上の男性は趣味の追求では自宅志向、言い換えれば孤独志向であるということは、少なくとも一面では言えるに違いない。このことでもっといろいろと議論ができそうだが、それはさておき、
クラシック音楽のプロではなく、愛好家にはやはり女性よりも男性のほうが多いこともやはり確かである。クラシック音楽の演奏家ではなく作曲家に女性が圧倒的に少ないことも、よく言われることだが、確かに関係があるように思われる。ただ、これはヨーロッパのクラシック音楽に限ってのことであって、音楽一般ということではもちろん無い。しかしある種の音楽では、やはり世界的に音楽は男の役割である。例えば、ひな人形の五人囃子が全員男であることのように。ただ鑑賞者、演奏家や研究者などのプロではなく、普通の鑑賞者に男の方が多いのはやはりクラシック音楽の特徴ではないかと思えるのだが、どうなんだろうか。
日曜日, 2月 08, 2009
ユーザーの正当なニーズ
最近立て続けに、安い物ばかりだがオーディオ製品を幾つか買った。CDプレーヤーとPC用のアクティブスピーカーとの2つがオンキョー製、それとUSBオーディオインターフェースがローランド製、あと1つがソニーのラジオつき携帯カセットプレーヤーで、これはウォークマンとは呼ばれていない。ウォークマンと呼ぶには少しかさばるし、実用本位というか、コスト本位のデザインで材質も高級感が全く無く、もしかすると部品の在庫処理の目的で作っているのではないかとも思える。
何れもカカクコムやアマゾンの口コミ情報を参考にして購入した。カカクコムの口コミ情報を読んでいると面白く、つい予定外に時間を費やしてしまう。アンプやスピーカーやCDプレーヤーなどのユーザーレビューや口コミ情報をみて気づくことはオンキョー製品の評判が高く、口コミ情報も活発であることに気づく。一方オーディオ誌やたとえば「レコード芸術」など雑誌は自分で買うことはまず無いものの、よく立ち読みや何かの機会で入手したりして見る機会があるが、オンキョー製品は無視されていたり、他社よりも軽く扱われていたりすることが多いことも気づいていた。
古い話になるが私が最初にオーディオ器機を買ったとき、アンプとチューナーはオンキヨー製で、スピーカーはデンオン製品だった。初めはその音に満足していたが、だんだんと音の癖が気になりだしてきた。低音に何かゴムまりが弾むような変な弾みがあり、中高音は黄色っぽい色がついているような感じだった。アンプとスピーカーのどちらに原因があるのかが分からないでいたが、その後数年経ってから、もう一組の小さなフルレンジのスピーカーセットをつないだ時になって初めてそれがスピーカーの癖であったことが分かった。どちらかというとアンプの方を疑っていたのだが間違っていた。デンオン製のそのスピーカーはオーディオ雑誌でクラシックの室内楽向きなどと書かれていたものだが、そういうのはあまり宛にならない物だと言うことがよく分かった。もう一つのスピーカーで聴く限り、そのアンプの音は癖がなく自然であった。ただボリュームなどが割とはやくから劣化したような気がしたが、その辺の劣化は次にかった別のメーカーのものも同じようなものだったのでそういった部分は何処でもそんなものかなと思っている。
最近のカカクコムの書き込みを見てもオンキョーのアンプやスピーカーはクセが無く自然でしまった音がするという意見が多い。それといわゆるコストパフォーマンスが高いということ。またオンキョーは広告費を使わないからオーディオ誌の評価が低いのだといった、本当かどうかは知らないが、その種の業界通のような書き込みも結構ある。たぶん本当にそういう事がありそうだと思わせる。逆に批判というより、けなすような書き込みもある。ただそちらの方はその表現から推量するに、意図的で作為的な悪意さえ感じられるようなものがある。そういう書き込み投稿者同士の口論のようなものを読むのも結構おもしろものだが、やはり作為的な書き込みは分かるものである。
最近はオンキョーはパソコン関連の音響機材や部品に力を入れてきており、パソコンメーカーのソーテックを子会社にしたことなどが話題になっている。ソーテックブランドで音楽向けの静音で低価格のパソコンを出したりしているがおおむねユーザーの評判はインターネットで見る限り好意的なものが多い。そういうパソコンのブランドをオンキョーにすれば良いのに、何故ソーテックという印象の悪いブランドを使うのか、といった意見が多い。その種のパソコンや機材、部品の評価も書き込みやユーザーのブログでは高いし、ユーザーでなくPC関係のニュースサイトの記事でも評価は高く、高級オーディオ誌やレコード誌が無視したり避けたりしているのとは対照的である。
正直言って私もオンキョーはユーザーの正当なニーズに対して誠実に対応して製品開発や経営をしていると思う。ユーザーのニーズにも必ず正当とは言えないもの、バブル的なもの、ユーザー自身にとって欺瞞的なニーズとか勝手すぎるようなニーズもあると思うのだが正当なニーズももちろんある。安くて品質の良いものが欲しいというのは勝手ではあるが、しかし正当な当然過ぎるほどのニーズである。とくに財政的に豊ではない大多数の人にとっては正当なニーズである。クセのない自然な音というのも多くの人にとって正当なニーズである。またパソコンで原理的に手軽に高音質の再生ができるのであれば何かと便利であり、正当なニーズになる筈のものである。こういうユーザーの正当で自然なニーズに真剣に応えてきたことが、オンキョーがオーディを不況の中でも敗退することなく、現在も業界内でユーザーから高い支持を得ている理由だろうと思う。もちろんそれだけではなくいわゆる経営戦略もあったのだろうが。
今は、企業間では何かというと生き残りのためにはトップに立たなければならないようなことが言われ、勝ち組か負け組かの2つに1つというようなことばかりが言われる。そのために何が何でも業界トップに立たなければならず、会社を大きくしてゆかなければ敗退するようなことも強迫観念のように言われることもある。しかしそんなことばかりを考えていればユーザーの正当なニーズに対応することが二の次になってしまうこともあるだろう。そして何処もが一位になろうとし、何処もが無理にでも大きくなろうとし、何処もが肥大化し、結局業界全体が過剰供給になってしまう。自動車業界など特にそのように見えてしまう。トヨタの場合、ユーザーの正当なニーズに真剣に応えてきたからこそトップになれたのかも知れない。しかしそれはそれだけにとどめておくことはできなかったのだろうか。そこからシェア争いで他社と闘い、勝つために規模を拡大し、肥大化する必要はなかったのではないだろうか。あるいは競争だから仕方が無かったのだろうか。
ソニーも最近大量リストラで話題になったが、ソニーがこのように巨大企業になったことも今から眺めてみるとバブル的な面があったような気がする。だいたいソニーの製品というのはもともと音響と映像器機に限られていた。あとになってからPCやゲーム機、またカメラなどに参入するようになったが、ついにモーターとか電球とか、多の総合電機メーカーのやっているようなことはやりそうにもない。今更そういう方面に参入しても仕方がないと思うが、しかし世界的に巨大な電機メーカーというのは大抵総合電機メーカーでモーターから、産業機械から、何でもやっている。フィリップスなどもそうだと思うが。べつにそのような総合電機メーカーになる必要もないが、そうであればそれなりの会社の適正な規模というものが有り、大きくなることをむしろ押さえながら成長してきても良かったのではないだろうかと思えてくる。大きくなり過ぎてからリストラするよりはよほどいい。
オンキヨーの場合、現在のようにオーディオ誌や評論家などから軽く扱われるような状況に甘んじているのはむしろ良いことで、もしかすると意図的であるのかも知れないとも思ったりする。大量の宣伝費をつぎ込んで業界トップを目指すというような過剰な努力をしなかったからこそオーディオの不況も乗り切ってこれたのかもしれないと思う。業種や会社の性格、あるいは時代の環境にもよるが、会社を大きくすることとか他社に勝つことを考えずにユーザーの正当なニーズに応えることと製品の品質向上を第一にかんがえるような気風が広がることが大切なことのように思える。
とはいえ現実はそうもゆかないだろうなと思う。
さて、最初に書いたようにオーディを製品は次の様なもので、その結果をまとめると次のようになる。
PC用のアクティブスピーカーは、GX-D90という品番。初めてこれの音を出したとき、小さなスピーカーから大量の低温が出るのに驚いた。ピアノなど、この低音で結構リアルな響きが得られる。小音量で聞くとき、あるいは静かな低音の場合オーケストラ曲の低音も聞ける。しかしある程度音量を上げるとやはりこの低音は可成り不自然で無理なところがある。何しろすぐ目の前で両スピーカーの、1M以内の間に広がる低音だから、高音のソロ楽器とのバランスがどうにも不自然だ。この大きさと値段ではしかたのないことだろう。スーパーウーファーを使える仕様になっているのもそのためかも知れない。低音を両スピーカーの間から外の空間に出せば、多少音量を上げてもバランスが取れるのかも知れない。しかしピアノではこのままの低音でそんなに不自然でもない。このスピーカーは全体にピアノに向いているところがある。しかしオーケストラの低音でもシューベルトのロザムンデ間奏曲(第三)のように静かでふんわりとした低音の場合はそんなに不自然でもなく気持ちよく聞ける。いずれにしろ小音量向きであることは確かで在る。
ローランド製USBオーディオインターフェース、UA-1EX ももちろん安い製品で、他と比較していないからその点はよく分からないが、オンボードの時より音が良くなったことは間違いない。オンボードでもノイズが特に耳につくようなことはなかったが、何となく音が汚れて、濁っていたようなところがあった。それが可成り取れたようだ。PCはデルのビジネスモデルだが、音は可成り静かで、机の下に置いている。以前はソフマップ製の牛丼パソコンというのを使っていたが、ファンの音は安物の扇風機並みで、それはひどかった。
CDプレヤーは、これもオンキョーの低価格製品でC-705FX。これは、今はPCではなく以前のアンプとスピーカーで使っている。以前のCDプレーヤーが壊れてから久しくCDは聞いていなかったが、以前の音と比較できるくらいには音を覚えているCDはある。アンプは特に劣化しているが、それでも以前と比較して合唱曲など、以前のCDで聞き分けられなかったパートなども聞こえるようになったから、これもなかなか性能は良いのだろうと思う。とくに合唱曲の男声パートなど、よく聞こえるようになった。
ソニーのラジオカセットプレーヤーはWM-FX202という製品で、冒頭に書いたように、ウォークマンタイプだが、ウォークマンとしては売っていない。カセットデッキのパーツの在庫処理が目的ではないだろうかと思える。デッキの品質は、回転むらが全く感じられず、良いものだと思う。ラジオはコンクリート五階の室内では殆ど入らない。カセットデッキも従来のものが壊れて久しく聞いていなかったのだが、過去の録音をPCに保存しようと思ってこれを購入した。しかし、残念な事に、ドルビーシステムがついていない。過去の録音の多くはドルビーシステムを使っていただけに、これだけが残念だ。
比較に使ったCDの主なものは次のようなもの。
◆シューベルト、ロザムンデ全曲、クルト・マズア指揮、フィリップス。これはCD1枚すべてがロザムンデの音楽で、エリー・アメリングの歌や、混声合唱、男声合唱なども入り、未完成交響曲の最終楽章になる筈だったという説もある間奏曲なども入っている。大切にしているCDの1枚。
◆ブラームス、(無伴奏)合唱名曲選、「マリアの歌他」、ミシェル・コルボ指揮、エラート。
◆ブラームス、合唱曲集、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮、フィリップス。これは2台ピアノ伴奏の「愛の歌」とか、ハープとホルンの伴奏による4っつの女声合唱曲などが入っている。ハープとホルンの伴奏は本当に心にしみ通るような音で、この曲でしか聞けない組合せである。
日曜日, 11月 02, 2008
「風神雷神図」を見て――国立博物館 大琳派展にて
今特に琳派に興味をもっているとか、見たいとか思っていたわけではなかったが、宗達と琳派の「風神雷神図」が見られるというので見逃したくなくて見に行った。
光琳作の方は宗達の忠実な模写と言われているが、意識的に変えたと思われる部分も結構ある。特に色がそうだ。全体に宗達の原作の方で色のバランスが完成されているのに、光琳はわざと変えたように見える。
まず、雷神の上半身にまつわってはためいているリボンの色が、原作では風神の方と同じ濃い紺色であるのに対し、光琳は雷神のリボンだけを緑色にしている。こちらの方が鮮やかで目立つが、個人的には原作の色彩がバランスが取れていて美しいと思う。
すぐに気づくことだが、風神雷神の腰回りの衣服の裏側とか帯の赤色が、大きく違っている。宗達の方では雷神の方の赤色が可成り脱落したり、汚れていたりするようだが、残っている部分を見ても、もともと光琳と抱一ほどの強烈な赤は使っていないように見える。また、抱一では色の薄い部分はピンク色になっているが、こういう色は原作では使われていない。また抱一の風神のリボンの裏側はオレンジ色になっていて、意図的に何かを変えようとした形跡もみえる。
雷神の周囲に小さないくつもの太鼓を繋いでいる後光のようなリングがあって、このリングが原作では透明度の高い黄色で、地の金色に溶け込んでおり、神秘的で奥行きがある。また個々の太鼓の描き方も立体的で絵画的である。これに対して光琳の方はもっと白っぽい不透明な色で、しかも太く目立つように書かれており、太鼓も図案的で平面的。
雲はやはり原作の方が奥行きのある雲らしい。光琳の方では現在の漫画でよく使われている表現のように、抽象的な演出効果のように使われているようにも見える。
但し風神雷神の表情はそれ程変わっていない。もともと単純で複雑な表情ではないが、表情が変わっていないと言うことは、やはりこれは忠実な模写であって、本質的な、内容的な部分に変更を加えようとしたものでないことがわかる。
全体として、光琳以後の模写は原作の造形的な一面を強調したものになっているというところだろうか。総合的に絵としてやはり宗達の原作が、美しく完成されていて品格があり、内容的な深みもあり、雰囲気の描写も優れていることは間違いが無いように思う。
それにしても何故宗達はその時期にこのような題材でこの屏風を描いたのだろうか。注文主の意向もあるのだろうか。そういう事が気になって仕方が無い。そういう事は分かっていないのか、解説や、百科事典などで調べても書かれていない。というのはこの時期の屏風の題材としては珍しいからだ。風神雷神といえども神々であって、宗教的な意識と関係があるのだろうか。あるいはもとの図は北野天神絵巻から取られたと言うが、菅原道真と関係があるのだろうか、といった点だ。
あるいは、なぜ雷神が白く、風神は緑色をしているのだろうか。何故風神雷神はこのような素朴な表情をしているのだろうか。
雷神のほうは単純素朴に暴れたいから暴れているように見える。もっとも光琳などのほうを見ると多少は意地悪そうな表情にも見えるが。一方の風神はなお素朴で、単純に任務を果たそうと、それが自分の役目だから当然のこととして仕事をしているかのような表情に見える。
これらの神々の背後に、あるいは上に、より高い神が存在していて、風神雷神はともにその、絵には描かれていない神に動かされている存在に過ぎないのだというように、・・・思われてくる。そういう意味で、やはり神秘的な絵ではある。
光琳作の方は宗達の忠実な模写と言われているが、意識的に変えたと思われる部分も結構ある。特に色がそうだ。全体に宗達の原作の方で色のバランスが完成されているのに、光琳はわざと変えたように見える。
まず、雷神の上半身にまつわってはためいているリボンの色が、原作では風神の方と同じ濃い紺色であるのに対し、光琳は雷神のリボンだけを緑色にしている。こちらの方が鮮やかで目立つが、個人的には原作の色彩がバランスが取れていて美しいと思う。
すぐに気づくことだが、風神雷神の腰回りの衣服の裏側とか帯の赤色が、大きく違っている。宗達の方では雷神の方の赤色が可成り脱落したり、汚れていたりするようだが、残っている部分を見ても、もともと光琳と抱一ほどの強烈な赤は使っていないように見える。また、抱一では色の薄い部分はピンク色になっているが、こういう色は原作では使われていない。また抱一の風神のリボンの裏側はオレンジ色になっていて、意図的に何かを変えようとした形跡もみえる。
雷神の周囲に小さないくつもの太鼓を繋いでいる後光のようなリングがあって、このリングが原作では透明度の高い黄色で、地の金色に溶け込んでおり、神秘的で奥行きがある。また個々の太鼓の描き方も立体的で絵画的である。これに対して光琳の方はもっと白っぽい不透明な色で、しかも太く目立つように書かれており、太鼓も図案的で平面的。
雲はやはり原作の方が奥行きのある雲らしい。光琳の方では現在の漫画でよく使われている表現のように、抽象的な演出効果のように使われているようにも見える。
但し風神雷神の表情はそれ程変わっていない。もともと単純で複雑な表情ではないが、表情が変わっていないと言うことは、やはりこれは忠実な模写であって、本質的な、内容的な部分に変更を加えようとしたものでないことがわかる。
全体として、光琳以後の模写は原作の造形的な一面を強調したものになっているというところだろうか。総合的に絵としてやはり宗達の原作が、美しく完成されていて品格があり、内容的な深みもあり、雰囲気の描写も優れていることは間違いが無いように思う。
それにしても何故宗達はその時期にこのような題材でこの屏風を描いたのだろうか。注文主の意向もあるのだろうか。そういう事が気になって仕方が無い。そういう事は分かっていないのか、解説や、百科事典などで調べても書かれていない。というのはこの時期の屏風の題材としては珍しいからだ。風神雷神といえども神々であって、宗教的な意識と関係があるのだろうか。あるいはもとの図は北野天神絵巻から取られたと言うが、菅原道真と関係があるのだろうか、といった点だ。
あるいは、なぜ雷神が白く、風神は緑色をしているのだろうか。何故風神雷神はこのような素朴な表情をしているのだろうか。
雷神のほうは単純素朴に暴れたいから暴れているように見える。もっとも光琳などのほうを見ると多少は意地悪そうな表情にも見えるが。一方の風神はなお素朴で、単純に任務を果たそうと、それが自分の役目だから当然のこととして仕事をしているかのような表情に見える。
これらの神々の背後に、あるいは上に、より高い神が存在していて、風神雷神はともにその、絵には描かれていない神に動かされている存在に過ぎないのだというように、・・・思われてくる。そういう意味で、やはり神秘的な絵ではある。
土曜日, 7月 07, 2007
音楽と都市
もう土曜日になってしまったが・・・、先の日曜日、テレビでN響アワーを見たあと、テレビを消そうか、どうしようかなと思っていたらETV特集が始まり、思っても見なかったことに、音楽評論家の吉田秀和氏の業績を紹介する番組が始まった。私は特別なファンでもなかったが、以前はよくラジオの音楽番組や新聞雑誌の音楽評論などで馴染みのある方だったから見ないわけには行かずに見始め、多少は他のこともしながら、最後まで見終わった。
実は最近、吉田秀和氏のある文章を思い出すことが多かったのである。というのはこの5月の連休に六本木の方に出かけ、六本木ヒルズや今話題のミッドタウンを見にいったことと関係している。その思い出していた氏の文章というのは何年か前、まだ新聞を購読していた頃、音楽時評か何かのエッセーで東京の都市計画に着いて触れた文章であった。音楽のことには全く触れられていなかったから音楽時評といった見出しではなかったのかもしれない。しかし氏の音楽評論の中でも建築について触れた文章は多かったように記憶している。想いだしたその文章というのは、東京の町はいつまでたっても美しくならない。それは都市計画が無かったからである。それに対し、京都は唐から学んだ都市計画がもとになっているから今でも美しい町である、といった内容だったように記憶している。
東京の街並みに対するそういう思いは以前から私も同感だった。もちろん東京に美しい場所や建築は無いわけではない。桜の時期の、また桜が咲いていなくても千鳥が縁公園とか、そういった古典的な場所や東京駅のような明治の建築など、心を豊かにしてくれるような美しさを持つものがある。しかし現代的な都会的な街並みという点では満足感を与えてくれるような場所にはあまり遭遇したことが無い。
私は大阪府出身なので20台始め頃まで当時の大阪市内は結構見ていた。よく大阪の町はごみごみして猥雑だとか言われるけれども、たしかにそういうところは多いかもしれなかったが、結構美しい街並みも多かった。特に有名なのは御堂筋の一部分と堂島、中之島のあたりだが、当時、東京にはこういう場所がざらにあるのだろうと思っていた。しかし現実の印象ははっきり言って失望の連続だった。丸の内のビル街にしても銀座通りにしても、多くの店舗は楽しさに満ちているとも言えるかも知れないが、街並みとしては少しも美しくはなかった。個々の建築をとってみても、以前の丸ビルも今の建て替えられた丸ビルをみても、もちろん内部は立派なのだろうけれども、また外部も立派ではあるが、全く美しいとは思えなかった。
超高層建築にしても霞ヶ関ビルと新宿西口、都庁あたりの高層ビル群はかなり遠方から夜景などをながめると相関だが、建物としてはどれも味も素っ気もない。新宿の都庁近くの超高層ビルには東京に住むようになる以前をふくめ2度ほど行ったことがある。とにかく目的のビルまで歩いて行くのが退屈で疲れる。新宿駅の巨大さと複雑さとがあいまって、新宿には駅に行くだけで疲れてしまうという印象がこびりついてしまっている。
そんな中で六本木ヒルズの超高層ビルは確かに、最近の有名なビル群のなかでは出色のデザインだと思っていた。二駅ほど離れた場所からそこまで真直ぐな道路の終端にその超高層ビルを見ることがよくあるが、雲をつくその姿は確かに見ごたえがある。しかし特に用もないし、回転ドアによる不幸な事故の印象もあり、わざわざ出かけようと思うことはなかったが、この5月の連休にふらっと、そのあたりとミッドタウンに行ってみたのだった。
インターネットで調べてから行けばよいものを行けば分るだろうと思って適当な駅で降りたのが悪かった。とにかくあたりは地形が複雑で山あり谷ありである。そういうところに超高層ではないまでも、大きな高層ビル群が密集しているのだから、見通しは恐ろしく悪く、道路は複雑極まりない。とにかく一般住宅とオフィスビルなどが混在し、電線の地中化も一向に進んでいない雑然とした街区の向こうに六本木ヒルズの超高層ビルが現れた。
間近で見るとそれほど巨大には見えなかった。となりの豪華マンションといわれる建物も以外に豪華な感じはなく、横の巨大なビルとの対比のせいか、いやに天井の低い窮屈な建物に見えた。複雑な地形を利用してのことか、敷地の端が欄干になっており、その下方に前庭のようなところがあってロックコンサートをやっていた。スピーカーの歪んだ大音響が響いている。趣味の問題かもしれないが、こういう場所ではスピーカーを使わずにできるようなブラスバンドでもやった方がよいのでは、とも思う。日本にはブラスバンド人口も多いと聞いている。
後から思ったのだが、こういう複雑な起伏の大きい場所には超高層ビルは向かないのではないだろうか。超高層ビル群を建てるなら、足立区のように広く真平らな場所が向いているのではと思う。
話題のミッドタウンの方だけれども、超高層ビルは色彩にやや特徴があるけれども割と平凡な建物で、外からは特に見ごたえがあるようなものではなかった。そのビルを通り抜けると庭園になっている。庭園の中にあるデザインサイトの前に行ってみた。庭園の中で、外部は意図的に目立たないようにデザインされたのだろう。内部が面白いのかもしれないが中に入る予算もなく、庭園の中にある平坦な石の上に腰をかけてペットボトルのお茶を飲みながら、周囲を漫然と見ながらしばらく、断続的に、友人と元気のない、不景気な話を続けた。
座った場所の目の前はマンションらしき建物でその横に一応別の建物だが棟続きのように接触してサントリー美術館が建っている。美術館の両翼の建物は良くわからないが住宅マンションとしか思えない。住宅と美術館がくっついているというのはちょっと理解できない。興ざめである。友人も前の方が良かったと言っていた。
後ろを向くと庭園の向こうに普通の街区が見える。境界の外の道幅が狭いうえに垣根も生垣も作っていない。こちらも興ざめである。借景というにはつまらなすぎる眺めである。
この日の帰り道、例の吉田秀和氏の東京と都市計画についての文章を思い出し、その日以後も頭の中に出没していたのだった。
音楽評論家が美術や建築に関心を持つのは少しも不思議なことではない。むしろ当然すぎることだろう。それでも氏が音楽評論の文章の中でまで、あるいは音楽評論の記事を無にしてまで建築や、特に都市計画について書いていたのは何故だったのだろうと思うことがあった。
音楽は建築にたとえられることが多いが、都市とも関係が深い。思いつくのはハイドンやモーツアルトの交響曲に都市の名前がついているものが多いことである。もちろん作曲家が自身でつけた名前ではなく因縁のような関係でつけられたようだが、確かにハイドンやモーツァルトの交響曲には何となく都市のイメージが持つといってもいいような曲も多いような気がする。ベートーベンとロマン派以降の交響曲では都市を越えてイメージが広がっていったように言えるかもしれない。田園、森、風土、一国の国土、とイメージが広がっていったのかもしれない。中には地球、太陽系、あるいは銀河系のイメージに達したものもあるかもしれない。
実は最近、吉田秀和氏のある文章を思い出すことが多かったのである。というのはこの5月の連休に六本木の方に出かけ、六本木ヒルズや今話題のミッドタウンを見にいったことと関係している。その思い出していた氏の文章というのは何年か前、まだ新聞を購読していた頃、音楽時評か何かのエッセーで東京の都市計画に着いて触れた文章であった。音楽のことには全く触れられていなかったから音楽時評といった見出しではなかったのかもしれない。しかし氏の音楽評論の中でも建築について触れた文章は多かったように記憶している。想いだしたその文章というのは、東京の町はいつまでたっても美しくならない。それは都市計画が無かったからである。それに対し、京都は唐から学んだ都市計画がもとになっているから今でも美しい町である、といった内容だったように記憶している。
東京の街並みに対するそういう思いは以前から私も同感だった。もちろん東京に美しい場所や建築は無いわけではない。桜の時期の、また桜が咲いていなくても千鳥が縁公園とか、そういった古典的な場所や東京駅のような明治の建築など、心を豊かにしてくれるような美しさを持つものがある。しかし現代的な都会的な街並みという点では満足感を与えてくれるような場所にはあまり遭遇したことが無い。
私は大阪府出身なので20台始め頃まで当時の大阪市内は結構見ていた。よく大阪の町はごみごみして猥雑だとか言われるけれども、たしかにそういうところは多いかもしれなかったが、結構美しい街並みも多かった。特に有名なのは御堂筋の一部分と堂島、中之島のあたりだが、当時、東京にはこういう場所がざらにあるのだろうと思っていた。しかし現実の印象ははっきり言って失望の連続だった。丸の内のビル街にしても銀座通りにしても、多くの店舗は楽しさに満ちているとも言えるかも知れないが、街並みとしては少しも美しくはなかった。個々の建築をとってみても、以前の丸ビルも今の建て替えられた丸ビルをみても、もちろん内部は立派なのだろうけれども、また外部も立派ではあるが、全く美しいとは思えなかった。
超高層建築にしても霞ヶ関ビルと新宿西口、都庁あたりの高層ビル群はかなり遠方から夜景などをながめると相関だが、建物としてはどれも味も素っ気もない。新宿の都庁近くの超高層ビルには東京に住むようになる以前をふくめ2度ほど行ったことがある。とにかく目的のビルまで歩いて行くのが退屈で疲れる。新宿駅の巨大さと複雑さとがあいまって、新宿には駅に行くだけで疲れてしまうという印象がこびりついてしまっている。
そんな中で六本木ヒルズの超高層ビルは確かに、最近の有名なビル群のなかでは出色のデザインだと思っていた。二駅ほど離れた場所からそこまで真直ぐな道路の終端にその超高層ビルを見ることがよくあるが、雲をつくその姿は確かに見ごたえがある。しかし特に用もないし、回転ドアによる不幸な事故の印象もあり、わざわざ出かけようと思うことはなかったが、この5月の連休にふらっと、そのあたりとミッドタウンに行ってみたのだった。
インターネットで調べてから行けばよいものを行けば分るだろうと思って適当な駅で降りたのが悪かった。とにかくあたりは地形が複雑で山あり谷ありである。そういうところに超高層ではないまでも、大きな高層ビル群が密集しているのだから、見通しは恐ろしく悪く、道路は複雑極まりない。とにかく一般住宅とオフィスビルなどが混在し、電線の地中化も一向に進んでいない雑然とした街区の向こうに六本木ヒルズの超高層ビルが現れた。
間近で見るとそれほど巨大には見えなかった。となりの豪華マンションといわれる建物も以外に豪華な感じはなく、横の巨大なビルとの対比のせいか、いやに天井の低い窮屈な建物に見えた。複雑な地形を利用してのことか、敷地の端が欄干になっており、その下方に前庭のようなところがあってロックコンサートをやっていた。スピーカーの歪んだ大音響が響いている。趣味の問題かもしれないが、こういう場所ではスピーカーを使わずにできるようなブラスバンドでもやった方がよいのでは、とも思う。日本にはブラスバンド人口も多いと聞いている。
後から思ったのだが、こういう複雑な起伏の大きい場所には超高層ビルは向かないのではないだろうか。超高層ビル群を建てるなら、足立区のように広く真平らな場所が向いているのではと思う。
話題のミッドタウンの方だけれども、超高層ビルは色彩にやや特徴があるけれども割と平凡な建物で、外からは特に見ごたえがあるようなものではなかった。そのビルを通り抜けると庭園になっている。庭園の中にあるデザインサイトの前に行ってみた。庭園の中で、外部は意図的に目立たないようにデザインされたのだろう。内部が面白いのかもしれないが中に入る予算もなく、庭園の中にある平坦な石の上に腰をかけてペットボトルのお茶を飲みながら、周囲を漫然と見ながらしばらく、断続的に、友人と元気のない、不景気な話を続けた。
座った場所の目の前はマンションらしき建物でその横に一応別の建物だが棟続きのように接触してサントリー美術館が建っている。美術館の両翼の建物は良くわからないが住宅マンションとしか思えない。住宅と美術館がくっついているというのはちょっと理解できない。興ざめである。友人も前の方が良かったと言っていた。
後ろを向くと庭園の向こうに普通の街区が見える。境界の外の道幅が狭いうえに垣根も生垣も作っていない。こちらも興ざめである。借景というにはつまらなすぎる眺めである。
この日の帰り道、例の吉田秀和氏の東京と都市計画についての文章を思い出し、その日以後も頭の中に出没していたのだった。
音楽評論家が美術や建築に関心を持つのは少しも不思議なことではない。むしろ当然すぎることだろう。それでも氏が音楽評論の文章の中でまで、あるいは音楽評論の記事を無にしてまで建築や、特に都市計画について書いていたのは何故だったのだろうと思うことがあった。
音楽は建築にたとえられることが多いが、都市とも関係が深い。思いつくのはハイドンやモーツアルトの交響曲に都市の名前がついているものが多いことである。もちろん作曲家が自身でつけた名前ではなく因縁のような関係でつけられたようだが、確かにハイドンやモーツァルトの交響曲には何となく都市のイメージが持つといってもいいような曲も多いような気がする。ベートーベンとロマン派以降の交響曲では都市を越えてイメージが広がっていったように言えるかもしれない。田園、森、風土、一国の国土、とイメージが広がっていったのかもしれない。中には地球、太陽系、あるいは銀河系のイメージに達したものもあるかもしれない。
金曜日, 4月 27, 2007
ロシアの豪邸と唐破風
日本の伝統建築の様式というか、デザインに唐破風という破風の形がある。これの付いた様式を宮型とも言うらしいが、古い建築には神社仏閣、宮殿に限らず、 城の天守閣にも着いているし個人の邸宅にも着いている。現在では旅館や銭湯の正面玄関などに着いていて、また霊柩車についているのが有名だ。しかし個人の 住宅に使うとすれば、現在では時代錯誤の成金趣味と見られるのではないだろうか。
最近BBCニュースでモスクワ郊外でのロシアの富豪たちの生活を紹介している記事があった。その中に彼らの豪邸の一つの写真が掲載されていて、それを見るともちろんヨーロッパの宮殿のようなデザインなのだが、よく見ると唐破風と思える形の破風が着いている。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/from_our_own_correspondent/6577129.stm
記事にはこのあたりには実に色んなスタイルの建築が林立しているらしい。とにかくこういう破風の形はヨーロッパにあるとは思えず、日本の唐破風としか思えない。そうだとすれば多分姫路城などの天守閣のデザインからヒントを得たのではないかとも思ったが、しかし面白い。
この唐破風の形はどういう意味を持っているのだろうかという事を良く考える。井上章一の「霊柩車の誕生」には宮型霊柩車の誕生について詳しく考察 されていたが、この形の意味については取り立てて考察されていたわけではなかったと記憶しており、物足らなかったのを記憶している。
最近BBCニュースでモスクワ郊外でのロシアの富豪たちの生活を紹介している記事があった。その中に彼らの豪邸の一つの写真が掲載されていて、それを見るともちろんヨーロッパの宮殿のようなデザインなのだが、よく見ると唐破風と思える形の破風が着いている。
http://
記事にはこのあたりには実に色んなスタイルの建築が林立しているらしい。とにかくこういう破風の形はヨーロッパにあるとは思えず、日本の唐破風としか思えない。そうだとすれば多分姫路城などの天守閣のデザインからヒントを得たのではないかとも思ったが、しかし面白い。
この唐破風の形はどういう意味を持っているのだろうかという事を良く考える。井上章一の「霊柩車の誕生」には宮型霊柩車の誕生について詳しく考察 されていたが、この形の意味については取り立てて考察されていたわけではなかったと記憶しており、物足らなかったのを記憶している。
日曜日, 4月 22, 2007
アメリカ的メランコリー
金曜の夜、NHKテレビのニュースが終わったあと、カーペンターズの特集、記録番組が始まった。予期していなかった番組だったが、懐かしさもあり、かなりの長時間番組だったが最後まで見た。
カーペンターズの音楽は当時、特別に好きというわけでもなかったが、歌声の魅力や洗練されたサウンドには好感はあった。ただ何となく田舎風の音楽のようにも思え、同時に、当時からカレン・カーペンターの巧みな歌晶と声のなかに一種独特のメランコリーを感じていた。後に彼女が拒食症でなくなったことを知った時、何かそれと関係があったのではないかと思ったこともある。
番組の中で、当時、カーペンターズが業界の中で必ずしも最高に評価されたわけではなく、当時の前衛であった激しいロックミュージックとくらべて陳腐だと評されていたことを初めて知り、ああ、確かにそういう面があったな、と思った。これは歌声ではなく曲調のことだけれども、その陳腐さは私が感じていたメランコリーと結びついているように思えた。もちろん曲は単に陳腐なのではなく、美しいメロディーでサウンドも洗練されていて優しく穏やかで心地よいものではあったが。
この独特のメランコリーは以前からアメリカの音楽の一部に共通するもののように感じていた。
特にそれを意識するようになったのは高校時代、音楽の教科書に載っていたマクダウエルという作曲家の「野ばらに寄す」という歌曲(教科書では合唱曲になっていた)を知った時だった。非常に美しいメロディーであることはすぐにわかった。しかし何かいいようのない憂鬱さ、陳腐さも混じったメランコリーを感じて、嫌うことはなかったが、好きにもなれなかった。後で知ったが、マクダウエルは後半生で精神障害になり、そのまま亡くなったということであり、その精神障害とも関係があるのかもしれないとも考えた。
後年、マクダウエル作曲のピアノ協奏曲が入ったLPレコードを買うことになった。アメリカの有名ピアニスト、クライバーンの演奏するプロコフィエフのピアノ協奏曲3番のレコードのB面にこの曲が入っていたのだった。プロコフィエフのほうはすぐに好きになり、何度も聞いたが、マクダウエルのほうは1回半ほど聞いて、それ以上聞くことはなかった。その曲から感じられた憂鬱さと陳腐さは「野ばら」よりも更に上を行くものだった。覚えていないが、メロディーも「野ばら」より美しいと思えるようなメロディーは出てこなかったように思う。出だしの憂鬱さは窒息するような感じであり、最後の楽章は快活な音楽ではあったがやはり窒息するようなその陳腐さだった。とにかく眼の覚めるようなプロコフィエフの協奏曲に比べては退屈すぎる音楽であった。
このメランコリーと陳腐さはアメリカの、特に白人系の音楽あるいは芸術の一部に共通して感じられるもののように思ってきた。やはりメランコリックな曲調で有名なチャイコフスキーの音楽や精神障害を起こした作曲家であるシューマンの音楽など、確かにメランコリックで悲愴感があり、聞いて必ずしも楽しくなるような芸術でもないけれども、またチャイコフスキーは陳腐だと評されることもあるようだけれども、マクダウエルの音楽のような退屈さ、窒息させられるような閉塞感はなく、聞き手を引きつけ魅了するものを持っている。
この違いは何なのか、以前からよく気になっていた。今おもうに、私が思うところのアメリカ的メランコリーは、本人が意識していないところのメランコリーではないかと思うようになった。作者、アーチストが意識していない部分でのメランコリーが、いいようのない閉塞感、窒息感、陳腐さ。本人は幸福だと思っているが心の内部に鬱積しているメランコリーである。
もちろん悲しみを湛えているような曲は作者が悲しみを意識していない筈はないし、憂鬱さも作者が意識して表現している部分がないわけもない。しかし作者が意識していない部分のメランコリーがアメリカ音楽と芸術一般の一部に底流のように流れているような感じがする。
カーペンターズの時代に先端的であったといわれるロック系の音楽はそういったものに気がついていたのかも知れないとも今になって思う。しかし個人的な問題だが、当時からそういう音楽にも親しめなかった。大体アメリカ文化全般が好きでなかったことがある。そういう中ではむしろカーペンターズの音楽は私にとっては親しめる方であったように思えるのはちょっと皮肉なことかも知れない。
当時のもっと先端的であったロック系の音楽にはおそらく短調の曲も多かったのかもしれない。カーペンターズの曲では、り多くを知ってはいないが、短調の曲は想いだすことができない。とにかく心地よく、サウンドは騒々しいことはなく洗練されていた。歌声の魅力は確かに抵抗できないものがあったのは確かで、今回の番組で改めて聞いてみて、確かに今後も忘れられることのない価値を持つ音楽の一つであるには違いないと思った。
カーペンターズの音楽は当時、特別に好きというわけでもなかったが、歌声の魅力や洗練されたサウンドには好感はあった。ただ何となく田舎風の音楽のようにも思え、同時に、当時からカレン・カーペンターの巧みな歌晶と声のなかに一種独特のメランコリーを感じていた。後に彼女が拒食症でなくなったことを知った時、何かそれと関係があったのではないかと思ったこともある。
番組の中で、当時、カーペンターズが業界の中で必ずしも最高に評価されたわけではなく、当時の前衛であった激しいロックミュージックとくらべて陳腐だと評されていたことを初めて知り、ああ、確かにそういう面があったな、と思った。これは歌声ではなく曲調のことだけれども、その陳腐さは私が感じていたメランコリーと結びついているように思えた。もちろん曲は単に陳腐なのではなく、美しいメロディーでサウンドも洗練されていて優しく穏やかで心地よいものではあったが。
この独特のメランコリーは以前からアメリカの音楽の一部に共通するもののように感じていた。
特にそれを意識するようになったのは高校時代、音楽の教科書に載っていたマクダウエルという作曲家の「野ばらに寄す」という歌曲(教科書では合唱曲になっていた)を知った時だった。非常に美しいメロディーであることはすぐにわかった。しかし何かいいようのない憂鬱さ、陳腐さも混じったメランコリーを感じて、嫌うことはなかったが、好きにもなれなかった。後で知ったが、マクダウエルは後半生で精神障害になり、そのまま亡くなったということであり、その精神障害とも関係があるのかもしれないとも考えた。
後年、マクダウエル作曲のピアノ協奏曲が入ったLPレコードを買うことになった。アメリカの有名ピアニスト、クライバーンの演奏するプロコフィエフのピアノ協奏曲3番のレコードのB面にこの曲が入っていたのだった。プロコフィエフのほうはすぐに好きになり、何度も聞いたが、マクダウエルのほうは1回半ほど聞いて、それ以上聞くことはなかった。その曲から感じられた憂鬱さと陳腐さは「野ばら」よりも更に上を行くものだった。覚えていないが、メロディーも「野ばら」より美しいと思えるようなメロディーは出てこなかったように思う。出だしの憂鬱さは窒息するような感じであり、最後の楽章は快活な音楽ではあったがやはり窒息するようなその陳腐さだった。とにかく眼の覚めるようなプロコフィエフの協奏曲に比べては退屈すぎる音楽であった。
このメランコリーと陳腐さはアメリカの、特に白人系の音楽あるいは芸術の一部に共通して感じられるもののように思ってきた。やはりメランコリックな曲調で有名なチャイコフスキーの音楽や精神障害を起こした作曲家であるシューマンの音楽など、確かにメランコリックで悲愴感があり、聞いて必ずしも楽しくなるような芸術でもないけれども、またチャイコフスキーは陳腐だと評されることもあるようだけれども、マクダウエルの音楽のような退屈さ、窒息させられるような閉塞感はなく、聞き手を引きつけ魅了するものを持っている。
この違いは何なのか、以前からよく気になっていた。今おもうに、私が思うところのアメリカ的メランコリーは、本人が意識していないところのメランコリーではないかと思うようになった。作者、アーチストが意識していない部分でのメランコリーが、いいようのない閉塞感、窒息感、陳腐さ。本人は幸福だと思っているが心の内部に鬱積しているメランコリーである。
もちろん悲しみを湛えているような曲は作者が悲しみを意識していない筈はないし、憂鬱さも作者が意識して表現している部分がないわけもない。しかし作者が意識していない部分のメランコリーがアメリカ音楽と芸術一般の一部に底流のように流れているような感じがする。
カーペンターズの時代に先端的であったといわれるロック系の音楽はそういったものに気がついていたのかも知れないとも今になって思う。しかし個人的な問題だが、当時からそういう音楽にも親しめなかった。大体アメリカ文化全般が好きでなかったことがある。そういう中ではむしろカーペンターズの音楽は私にとっては親しめる方であったように思えるのはちょっと皮肉なことかも知れない。
当時のもっと先端的であったロック系の音楽にはおそらく短調の曲も多かったのかもしれない。カーペンターズの曲では、り多くを知ってはいないが、短調の曲は想いだすことができない。とにかく心地よく、サウンドは騒々しいことはなく洗練されていた。歌声の魅力は確かに抵抗できないものがあったのは確かで、今回の番組で改めて聞いてみて、確かに今後も忘れられることのない価値を持つ音楽の一つであるには違いないと思った。
木曜日, 3月 08, 2007
「明るい」と「暗い」
先の日曜の夜、N響アワーで久しぶりにマーラーの交響曲4番を聞いた。冒頭、解説の池辺晋一郎さんが、この曲は天国の情景を描いたもので、マーラーの曲は多くが暗いのに対しこの曲は明るいのが特長だという解説をされていた。曲が終わった後、聞き手のアナウンサーがその解説を反復し、本当に明るく天国的な感じでしたね、といったような発言で締めくくっていたように記憶している。
私は急ぐ仕事があったのでとなりの部屋でパソコンをいじりながら余り大きくない音で聞いていた。それでもせっかくの機会だから最終楽章、ソプラノ独唱が始まると部屋に戻って近くで聞いた。とにかく全曲にわたってしっとりと美しく気持ちのよい音響と歌声を聞くことが出来た。
改めてこの曲を聴いて思ったのだけれども、確かにこの曲には天国的な美しさを持っているし、実際に終楽章では歌詞で天国を描写しているわけだけれども、天国は天国でも夜の天国のように思われてならない。歌詞では羊と子供が戯れる情景描写があり、羊は夜行性ではないのだから作曲者は夜の天国を表現したわけではないのだろうが、私にはどうしても夜の情景のように思われた。もちろん暗闇というわけではないのだが。
人や状況、芸術作品の気分や性格を「明るい」と「暗い」で表現するのは極めて普通のことであるけれども、最近特にこう表現することが多くなってきているのではないだろうか。悲しみや悲観的或いは絶望、陰鬱さといった気分を暗いと表現し、明朗で幸福感があり、希望に満ちた気分、性格を明るいと表現するのは昔からそうだったのだろうか。私の子供の頃を想いだしてみても、人の性格の場合に限って言えば「明るい」よりも「朗らか」といった表現の方が多かったような気がする。
芸術文化の場合、とくに音楽の場合は悲しみや苦悩、喜びや希望といった感情とは無関係な、音響あるいは音色自体に明るさ暗さで表現せざるを得ないようなものがあるような気がする。共感覚といって言葉や発音に色彩を感じるような現象があるようだけれども、色彩ではなく明るさや暗さを感じるようなことは無いのだろうか。共感覚というような明瞭なものではなくとも、もっと漠然とした感覚として音色や音響、調性やメロディーそのものなどに、純粋な明るさ、悲喜の感情の伴わない明るさ暗さといったものを感じるのは誰にでもあることではないかと思う。マーラーの交響曲のトーンは一貫して暗い。この交響曲4番のように悲しみとか悲劇性といった要素が全く感じられない明朗な音楽でもやはり音色と響は暗く、安らぎに満ちた天国の描写であっても夜の天国のように思われてならない。
ところで特に個人の性格に関しての場合が多いけれども、最近は一般に「明るい」「暗い」をやたらに使いすぎる傾向があるのではないだろうか。もちろん朗らかとか明朗、陽気、逆に陰気、陰鬱、メランコリック、といった色々な表現があるにも関わらず明るい暗いが頻繁に使われるのにはその表現が最も適しているからには違いがない。朗らかな人といえば結構良くしゃべり、多少うるさいような印象もあるのにたいし、明るいといえばそのような特長は必ずしも持たず、表現範囲が広いとはいえるように思う。そして「暗い」はまた必ずしも「明るい」の正反対とも言えない。明るい暗いが好まれるのにはそれなりの理由があるのであろう。
しかしそれにしても「明るい暗い」が使われすぎる傾向があるような気がする。
私は急ぐ仕事があったのでとなりの部屋でパソコンをいじりながら余り大きくない音で聞いていた。それでもせっかくの機会だから最終楽章、ソプラノ独唱が始まると部屋に戻って近くで聞いた。とにかく全曲にわたってしっとりと美しく気持ちのよい音響と歌声を聞くことが出来た。
改めてこの曲を聴いて思ったのだけれども、確かにこの曲には天国的な美しさを持っているし、実際に終楽章では歌詞で天国を描写しているわけだけれども、天国は天国でも夜の天国のように思われてならない。歌詞では羊と子供が戯れる情景描写があり、羊は夜行性ではないのだから作曲者は夜の天国を表現したわけではないのだろうが、私にはどうしても夜の情景のように思われた。もちろん暗闇というわけではないのだが。
人や状況、芸術作品の気分や性格を「明るい」と「暗い」で表現するのは極めて普通のことであるけれども、最近特にこう表現することが多くなってきているのではないだろうか。悲しみや悲観的或いは絶望、陰鬱さといった気分を暗いと表現し、明朗で幸福感があり、希望に満ちた気分、性格を明るいと表現するのは昔からそうだったのだろうか。私の子供の頃を想いだしてみても、人の性格の場合に限って言えば「明るい」よりも「朗らか」といった表現の方が多かったような気がする。
芸術文化の場合、とくに音楽の場合は悲しみや苦悩、喜びや希望といった感情とは無関係な、音響あるいは音色自体に明るさ暗さで表現せざるを得ないようなものがあるような気がする。共感覚といって言葉や発音に色彩を感じるような現象があるようだけれども、色彩ではなく明るさや暗さを感じるようなことは無いのだろうか。共感覚というような明瞭なものではなくとも、もっと漠然とした感覚として音色や音響、調性やメロディーそのものなどに、純粋な明るさ、悲喜の感情の伴わない明るさ暗さといったものを感じるのは誰にでもあることではないかと思う。マーラーの交響曲のトーンは一貫して暗い。この交響曲4番のように悲しみとか悲劇性といった要素が全く感じられない明朗な音楽でもやはり音色と響は暗く、安らぎに満ちた天国の描写であっても夜の天国のように思われてならない。
ところで特に個人の性格に関しての場合が多いけれども、最近は一般に「明るい」「暗い」をやたらに使いすぎる傾向があるのではないだろうか。もちろん朗らかとか明朗、陽気、逆に陰気、陰鬱、メランコリック、といった色々な表現があるにも関わらず明るい暗いが頻繁に使われるのにはその表現が最も適しているからには違いがない。朗らかな人といえば結構良くしゃべり、多少うるさいような印象もあるのにたいし、明るいといえばそのような特長は必ずしも持たず、表現範囲が広いとはいえるように思う。そして「暗い」はまた必ずしも「明るい」の正反対とも言えない。明るい暗いが好まれるのにはそれなりの理由があるのであろう。
しかしそれにしても「明るい暗い」が使われすぎる傾向があるような気がする。
土曜日, 2月 17, 2007
マスコミ文化人の、言葉に対する態度に思う
今だに柳沢発言に対するマスコミ文化人の付和雷同振りに対して持ったいやな思いが消えない。インターネットで見る限りでは多くの意見がマスコミに対して、より批判的だったのが救いだった。
筑紫哲也氏はニュース23で(柳沢大臣等や政治家をふくめて)「言葉に対して鈍感になっている。」と言っていたが、逆にマスコミ文化人達が言葉に対して過敏になっているようも思える。
立花隆氏はニッケイBPのコラムで、安倍総理や彼の大臣に対して「言語能力が不足している」と言う意味の批判をしていた。安倍総理の「美しい国」と云うキャッチフレーズへの批判はわかるが、それを「言語能力の問題である」と捉えるのはちょっと解らない。
いずれにしても彼の大臣の発言を「『女性は子供を産む機械』発言」という短いフレーズで片付けてしまうことはフェアでないし、それこそ言葉に対して鈍感であるとも、不誠実であるとも言える。
村上龍氏のメールマガジンJMMでの発言が一番まともに思われる。比喩と現実とを区別出来ない「既成メディア」を大臣と同罪としていた。個人的にはマスコミのこの体質のほうがより問題だと思う。
この問題で地方選挙などで自民党が不利になったと言われているけれども、野党もこの様な問題にしがみついているのでなければもっと野党に有利になったかもしれないと云う可能性を考えてみる余裕もないのだろうか。
筑紫哲也氏はニュース23で(柳沢大臣等や政治家をふくめて)「言葉に対して鈍感になっている。」と言っていたが、逆にマスコミ文化人達が言葉に対して過敏になっているようも思える。
立花隆氏はニッケイBPのコラムで、安倍総理や彼の大臣に対して「言語能力が不足している」と言う意味の批判をしていた。安倍総理の「美しい国」と云うキャッチフレーズへの批判はわかるが、それを「言語能力の問題である」と捉えるのはちょっと解らない。
いずれにしても彼の大臣の発言を「『女性は子供を産む機械』発言」という短いフレーズで片付けてしまうことはフェアでないし、それこそ言葉に対して鈍感であるとも、不誠実であるとも言える。
村上龍氏のメールマガジンJMMでの発言が一番まともに思われる。比喩と現実とを区別出来ない「既成メディア」を大臣と同罪としていた。個人的にはマスコミのこの体質のほうがより問題だと思う。
この問題で地方選挙などで自民党が不利になったと言われているけれども、野党もこの様な問題にしがみついているのでなければもっと野党に有利になったかもしれないと云う可能性を考えてみる余裕もないのだろうか。
土曜日, 2月 03, 2007
「喩えること」、「見なすこと」、そして「思うこと」と「扱うこと」
柳沢大臣が女性を子供を産む機械に喩えたことで連日 、政治の場とマスコミが大騒ぎである。当然というか、予想通りというか、大多数は柳沢大臣を非難する声である。私は柳沢大臣の発言の問題の個所をニュースで一度聞いたが、それを聞いて、大臣が「女性は子供を産む機械である」と発言したとは受取れなかった。公平に判断すれば、大臣は女性を、子供を産む「機械」に「喩え」たのである。「喩えた」というのは比喩を使ったということであって、比喩というものは元来とんでもない表現になりうるものなのである。人を喩える場合に限っても、物知りをウォーキングディクショナリーといったりするように、物に喩えることは日常茶飯事である。辞書は命のない物であるけれども「歩く辞書だ」といわれると、多くの人は喜ぶであろう。良く引越しをする人は引っ越し魔、良くメモを取る人はメモ魔などと魔物に喩えられる場合もある。
人が機械や道具に喩えられるのは良くあることである。特に労働者を機械に喩えることは、女性を子供を生む機械に喩えることと近いものがあるかもしれない。資本主義と資本家を非難する立場の人が良く使う喩えで、資本家は労働者を機械と見なしている、道具扱いしている、といった表現はなじみのものである。しかしこの場合「喩え」を行っているのは資本家の方ではなく、避難する立場の人、つまり言葉で表現している側の人である。非難されている資本家の方はそのような表現、発言は何もしていないかもしれない。現実にある資本家が労働者を人間扱いしていないこともあるかもしれないし、道具としてしかみていないかもしれない。けれどもこういった表現自体、すべて比喩である。喩えている主体は発言者であって、非難されている側ではない。
「喩えること」と「見なすこと」との差異をはっきりさせることは難しい。しかし「喩えること」と「思うこと」、「扱うこと」との違いははっきりしている。労働者を機械に「喩える」ことと、機械だと「思うこと」あるいは機械のように「扱う」こととは全く別のことなのである。文字通り大臣が「女性を機械だ」と言ったとすれば大臣はそう思っていたと言わざるを得ない。しかし大臣は「女性を機械だ」と言ってはいなかったと思う。柳沢大臣は女性を機械に「喩えた」だけなのである。
実際に大臣が女性をどのように見てきたか、見なしてきたか、思ってきたか、接してきたか、それはまた別の問題である。それを論じるなら、発言の内容そのものをもっと取上げ、議論すべきだろう。その時の発言の中身、真の内容についてはマスコミでも政治の場でも殆ど取り上げられていないように見える。
人が機械や道具に喩えられるのは良くあることである。特に労働者を機械に喩えることは、女性を子供を生む機械に喩えることと近いものがあるかもしれない。資本主義と資本家を非難する立場の人が良く使う喩えで、資本家は労働者を機械と見なしている、道具扱いしている、といった表現はなじみのものである。しかしこの場合「喩え」を行っているのは資本家の方ではなく、避難する立場の人、つまり言葉で表現している側の人である。非難されている資本家の方はそのような表現、発言は何もしていないかもしれない。現実にある資本家が労働者を人間扱いしていないこともあるかもしれないし、道具としてしかみていないかもしれない。けれどもこういった表現自体、すべて比喩である。喩えている主体は発言者であって、非難されている側ではない。
「喩えること」と「見なすこと」との差異をはっきりさせることは難しい。しかし「喩えること」と「思うこと」、「扱うこと」との違いははっきりしている。労働者を機械に「喩える」ことと、機械だと「思うこと」あるいは機械のように「扱う」こととは全く別のことなのである。文字通り大臣が「女性を機械だ」と言ったとすれば大臣はそう思っていたと言わざるを得ない。しかし大臣は「女性を機械だ」と言ってはいなかったと思う。柳沢大臣は女性を機械に「喩えた」だけなのである。
実際に大臣が女性をどのように見てきたか、見なしてきたか、思ってきたか、接してきたか、それはまた別の問題である。それを論じるなら、発言の内容そのものをもっと取上げ、議論すべきだろう。その時の発言の中身、真の内容についてはマスコミでも政治の場でも殆ど取り上げられていないように見える。
日曜日, 1月 14, 2007
「似非科学」について
似非科学についての議論が各所で頻出している。
似非科学という言葉は、おそらくある種の科学的と称する主張を科学的ではないと、一部の科学者が非難する言葉として使われ始めたのだろう。そういう科学者たちがその種の主張を「似非科学」という命名のもとに非難するのはそれらが真正の科学を装うが、実のところはそうではない贋者だということ、つまり、自分たちの領分である「科学」の名を偽って騙るものとして、贋の宝石、贋の芸術品を告発するのと同種の意味がこめられている。似非という言葉を字義どおりに解釈すればこうである。こういった批判、非難を行う科学者たちの議論が感情的になり勝ちなのはそのためといっていいだろうと思う。注意しなければならないのは、この議論はそれ自体で真実性、真理であるかどうかとは本来異なった議論であるということである。ただ、非難する側の科学者たちが、科学イコール真理と考えているならば、同時にその似非科学は欺瞞であると非難することになる。
要するに、それらを似非科学という名のもとに非難することと、それらが欺瞞である、虚偽であるといって非難することとは別のことであると考えるべきである。私は科学者たちが似非科学なるものを非難する場合、似非科学である所以を説明することと、それらが真実性を持たないであろうと考える根拠を示すこととをひとまず分けて議論すべきだと思うし、そうして欲しいものだと思う。
では、科学者が「似非科学」を贋物だとみなす根拠はどういうところにあるかが当面問題となる。私はその論点は主として用語の意味、定義の中にあると思う。
科学には多様な専門分野があり、それらの専門用語にはそもそもの最初から専門用語として作られた用語と、一般に用いられていた用語を特に専門用語として限定した意味で使われている場合とがある。前者をオリジナルの専門用語というなら、オリジナル専門用語を本来の定義から大きく外れた意味で、また本来の意味を大きく外れて誤解された上で使用された場合、これは明らかに似非科学に値するだろう。一方、日用語を特殊な限定された意味で自然科学用語として用いられるようになった用語も沢山ある。とくに物理・化学の最も基本的な用語がその種の言葉である事は、特に注目すべきことであると思う。例えば、力、仕事、熱、波、波動、振動、これらは全て物理学の最も基本的な用語であると同時に、日常語としても最も基本的な、頻繁に用いられる言葉であることだ。エネルギーに関してはちょっと微妙なところがある。この語は日本語には最初から物理用語として入ってきたのかもしれない。しかし、西欧語としては物理用語となる以前から存在し、使用されていた言葉だろう。そして日本語でも広く日常語としても使用される言葉である。
また、「似非科学」とされる諸々の主張に波動、振動に関わるものが多いことには注意を払うべきだろうと考えている。
とにかく、似非科学なるものについて考える場合、言葉の問題、用語の意味について、よくよく考えてみるべきだと思う。特に科学用語が近代科学で用いられている概念と違った用いられ方がされている場合、それを近代科学で証明されていることではないということはできるだろうが、それだけで一概に切り捨てるべき問題かどうか、それは科学そのものへの考え方に掛かっているともいえる。
似非科学という言葉は、おそらくある種の科学的と称する主張を科学的ではないと、一部の科学者が非難する言葉として使われ始めたのだろう。そういう科学者たちがその種の主張を「似非科学」という命名のもとに非難するのはそれらが真正の科学を装うが、実のところはそうではない贋者だということ、つまり、自分たちの領分である「科学」の名を偽って騙るものとして、贋の宝石、贋の芸術品を告発するのと同種の意味がこめられている。似非という言葉を字義どおりに解釈すればこうである。こういった批判、非難を行う科学者たちの議論が感情的になり勝ちなのはそのためといっていいだろうと思う。注意しなければならないのは、この議論はそれ自体で真実性、真理であるかどうかとは本来異なった議論であるということである。ただ、非難する側の科学者たちが、科学イコール真理と考えているならば、同時にその似非科学は欺瞞であると非難することになる。
要するに、それらを似非科学という名のもとに非難することと、それらが欺瞞である、虚偽であるといって非難することとは別のことであると考えるべきである。私は科学者たちが似非科学なるものを非難する場合、似非科学である所以を説明することと、それらが真実性を持たないであろうと考える根拠を示すこととをひとまず分けて議論すべきだと思うし、そうして欲しいものだと思う。
では、科学者が「似非科学」を贋物だとみなす根拠はどういうところにあるかが当面問題となる。私はその論点は主として用語の意味、定義の中にあると思う。
科学には多様な専門分野があり、それらの専門用語にはそもそもの最初から専門用語として作られた用語と、一般に用いられていた用語を特に専門用語として限定した意味で使われている場合とがある。前者をオリジナルの専門用語というなら、オリジナル専門用語を本来の定義から大きく外れた意味で、また本来の意味を大きく外れて誤解された上で使用された場合、これは明らかに似非科学に値するだろう。一方、日用語を特殊な限定された意味で自然科学用語として用いられるようになった用語も沢山ある。とくに物理・化学の最も基本的な用語がその種の言葉である事は、特に注目すべきことであると思う。例えば、力、仕事、熱、波、波動、振動、これらは全て物理学の最も基本的な用語であると同時に、日常語としても最も基本的な、頻繁に用いられる言葉であることだ。エネルギーに関してはちょっと微妙なところがある。この語は日本語には最初から物理用語として入ってきたのかもしれない。しかし、西欧語としては物理用語となる以前から存在し、使用されていた言葉だろう。そして日本語でも広く日常語としても使用される言葉である。
また、「似非科学」とされる諸々の主張に波動、振動に関わるものが多いことには注意を払うべきだろうと考えている。
とにかく、似非科学なるものについて考える場合、言葉の問題、用語の意味について、よくよく考えてみるべきだと思う。特に科学用語が近代科学で用いられている概念と違った用いられ方がされている場合、それを近代科学で証明されていることではないということはできるだろうが、それだけで一概に切り捨てるべき問題かどうか、それは科学そのものへの考え方に掛かっているともいえる。
月曜日, 1月 01, 2007
NHK、番組作りの変化
最近、NHKの番組作りで変化したと思える傾向がある。色んな面で変化しているのかも知れないが、少なくとも私の気になる、感じのよくない変化の傾向が一つある。さしあたりそれは次の三つの番組で気づかれる傾向である。その三つの番組は「その時歴史は動いた」、「美のつぼ」、そして「N響アワー」である。
「その時歴史は動いた」は、もう何年も前から同じ調子で続いているので、この中では最も早くその変化が現れた番組といえるかもしれない。その前身ともいえる一連の歴史番組に比べて変わった点といえるのは、以前の番組ではゲストの歴史家や作家が自身の言葉で話す時間が多く、アナウンサーは殆ど聞き手に終始していたのに対し、「その時歴史は動いた」ではゲストの出番が少なく,殆どがアナウンサーの独壇場とでもいえる構成になっていることである。
この番組作りは最近始まった番組である「美のつぼ」にも共通しているように思える。この番組では専門家は全く姿も名前も現さず、姿は表さないが多少押し付けがましく聞こえる声のアナウンサーが出演者の谷啓氏に「美のつぼ」を教えるという構成になっている。そのアナウンサーのセリフと話し方にはどうも抵抗を感じさせるものがある。内容自体は面白いのであるけれども、こういう構成のために、少なくとも私にとって、楽しみは半減している。
「N響アワー」は何十年も続いている長い番組だが、今年度からは池辺晋一郎氏が出演していることは前年度と変わらないものの、前回まで登場していなかったNHKのアナウンサが登場し、番組を進行させるようになった。前回までは作曲家の池辺晋一郎氏が毎年入れ替わるアシスタントの女優さんなどを相手に、少なくとも見かけ上は自由に音楽について語るような構成になっていたのだけれども、今回もそういう部分は多少残されているのであるけれども、アナウンサーが進行の主導権をもつような形になり、やはり面白さが半減してしまった。
一方、好ましい方向に変わったと思える番組もある。脳科学者とアナウンサーではないと思える女性の二人が司会をする「仕事の流儀」という番組は、以前の「プロジェクトX」を引き継ぐような面があると思えるのだが、もしそうだとすれば良い方向に変わったように思われる。「プロジェクトX」は始まった頃は何度か見たが、数回でいやになり、内容には興味があるような場合でも見ないようにしていた。技術に関わる番組なのだからもっと技術に焦点をあてれば良かったと思っている。「地上の星」という、中嶋みゆきのテーマソングは人気があったが、どうも歌い方が荒っぽく、曲自体も良くは出来ていたと思えるが、真実味がない。これに対して「仕事の流儀」では司会者とのかなり本音での対話が中心となっているので、司会者と同感するかどうかは別として、興味を持てる内容になっており、十分に楽しめる番組になっている。
「その時歴史は動いた」は、もう何年も前から同じ調子で続いているので、この中では最も早くその変化が現れた番組といえるかもしれない。その前身ともいえる一連の歴史番組に比べて変わった点といえるのは、以前の番組ではゲストの歴史家や作家が自身の言葉で話す時間が多く、アナウンサーは殆ど聞き手に終始していたのに対し、「その時歴史は動いた」ではゲストの出番が少なく,殆どがアナウンサーの独壇場とでもいえる構成になっていることである。
この番組作りは最近始まった番組である「美のつぼ」にも共通しているように思える。この番組では専門家は全く姿も名前も現さず、姿は表さないが多少押し付けがましく聞こえる声のアナウンサーが出演者の谷啓氏に「美のつぼ」を教えるという構成になっている。そのアナウンサーのセリフと話し方にはどうも抵抗を感じさせるものがある。内容自体は面白いのであるけれども、こういう構成のために、少なくとも私にとって、楽しみは半減している。
「N響アワー」は何十年も続いている長い番組だが、今年度からは池辺晋一郎氏が出演していることは前年度と変わらないものの、前回まで登場していなかったNHKのアナウンサが登場し、番組を進行させるようになった。前回までは作曲家の池辺晋一郎氏が毎年入れ替わるアシスタントの女優さんなどを相手に、少なくとも見かけ上は自由に音楽について語るような構成になっていたのだけれども、今回もそういう部分は多少残されているのであるけれども、アナウンサーが進行の主導権をもつような形になり、やはり面白さが半減してしまった。
一方、好ましい方向に変わったと思える番組もある。脳科学者とアナウンサーではないと思える女性の二人が司会をする「仕事の流儀」という番組は、以前の「プロジェクトX」を引き継ぐような面があると思えるのだが、もしそうだとすれば良い方向に変わったように思われる。「プロジェクトX」は始まった頃は何度か見たが、数回でいやになり、内容には興味があるような場合でも見ないようにしていた。技術に関わる番組なのだからもっと技術に焦点をあてれば良かったと思っている。「地上の星」という、中嶋みゆきのテーマソングは人気があったが、どうも歌い方が荒っぽく、曲自体も良くは出来ていたと思えるが、真実味がない。これに対して「仕事の流儀」では司会者とのかなり本音での対話が中心となっているので、司会者と同感するかどうかは別として、興味を持てる内容になっており、十分に楽しめる番組になっている。
日曜日, 11月 26, 2006
いじめの原因撲滅がまず不可能なのだから。
昨日の続きとして。
性格要因、人格要因、そういったものに加えて様々な症候群や発達障害といった良くも悪くも多様な個性をもつ人間、不完全で宗教的に見れば罪深くもあり、ある宗教から見ればカルマを背負うものと見られ、医学的に見れば身体的にも誰もが不健康であったり、病気を持って生まれてきたり、病気になることも殆ど避けることができない人間一般、種としても進化を続けている動物の一種でもある人類というものを考えると、たとえ学校という限られた領域内でもいじめの原因を取除くことは不可能と考えるべきだという意見には同調せざるを得なくなる。
昨夜のNHKニュースでイギリスでの取り組みが紹介されていたが、いじめの原因はなくならないという前提で対策を講じるという考え方は正しいし、見習うべきだと思う。また、同じ生徒のメンバーにいじめの相談にあたらせるという、解決策も見習ってよいものだと思う。これに関連して、先日他のところに書いた記事を再録したいと思う。要は、いじめの相談だけに関わらず、少なくとも教育一般の一部において上級生が下級生を指導するようなシステムが学校教育の一部に取り入れられて良いのではないかということである。
2006年11月21日 教育問題で今日、ふと思ったこと
いじめ、自殺、必須科目未履修・・・と問題が噴出している教育問題で今日、二つのテレビ番組で似たような意見と試みが話されていた。どちらも年長の、実社会経験のある先生が小中学生を教えるのが良いという、意見と試みである(「たけしのTVタックル」と「ニュース23」)。これはこれで良いところがあると思うが、このとき、題名は忘れたが以前、司馬遼太郎のエッセーで全く異なった意見を読んで目を開かれた思いをしたことを思い出した。
それは教育者としての吉田松陰について触れた文章で、その趣旨は、教育というものは生徒より少し年長のお兄さん、お姉さんが指導するのが最も効果的だ、という趣旨であったと思う。ほかにもそういう考えを述べた人がいるかもしれないが、その時、確かにそれは卓見だと思った記憶がある。
上級生が下級生を指導するということはクラブ活動などでは行われている事だともいえるが、そういうものではなく教育の本体で、漏れなくそういうことがシステムとしてできれば色々メリットがあるのではないだろうか。いじめの発見、防止、解決にも良い効果をもたらすし、教える側にとっても知識がさらに身に付くようになるというメリットもあるように思う。
性格要因、人格要因、そういったものに加えて様々な症候群や発達障害といった良くも悪くも多様な個性をもつ人間、不完全で宗教的に見れば罪深くもあり、ある宗教から見ればカルマを背負うものと見られ、医学的に見れば身体的にも誰もが不健康であったり、病気を持って生まれてきたり、病気になることも殆ど避けることができない人間一般、種としても進化を続けている動物の一種でもある人類というものを考えると、たとえ学校という限られた領域内でもいじめの原因を取除くことは不可能と考えるべきだという意見には同調せざるを得なくなる。
昨夜のNHKニュースでイギリスでの取り組みが紹介されていたが、いじめの原因はなくならないという前提で対策を講じるという考え方は正しいし、見習うべきだと思う。また、同じ生徒のメンバーにいじめの相談にあたらせるという、解決策も見習ってよいものだと思う。これに関連して、先日他のところに書いた記事を再録したいと思う。要は、いじめの相談だけに関わらず、少なくとも教育一般の一部において上級生が下級生を指導するようなシステムが学校教育の一部に取り入れられて良いのではないかということである。
2006年11月21日 教育問題で今日、ふと思ったこと
いじめ、自殺、必須科目未履修・・・と問題が噴出している教育問題で今日、二つのテレビ番組で似たような意見と試みが話されていた。どちらも年長の、実社会経験のある先生が小中学生を教えるのが良いという、意見と試みである(「たけしのTVタックル」と「ニュース23」)。これはこれで良いところがあると思うが、このとき、題名は忘れたが以前、司馬遼太郎のエッセーで全く異なった意見を読んで目を開かれた思いをしたことを思い出した。
それは教育者としての吉田松陰について触れた文章で、その趣旨は、教育というものは生徒より少し年長のお兄さん、お姉さんが指導するのが最も効果的だ、という趣旨であったと思う。ほかにもそういう考えを述べた人がいるかもしれないが、その時、確かにそれは卓見だと思った記憶がある。
上級生が下級生を指導するということはクラブ活動などでは行われている事だともいえるが、そういうものではなく教育の本体で、漏れなくそういうことがシステムとしてできれば色々メリットがあるのではないだろうか。いじめの発見、防止、解決にも良い効果をもたらすし、教える側にとっても知識がさらに身に付くようになるというメリットもあるように思う。
土曜日, 11月 25, 2006
性格と症候群-いじめ問題において-
いじめの問題は直接本人や家族に関わりがあるなしに関わらず人間存在、誰にとっても根本的な、避けて通れない、いや、避けて通ることが出来ても関わりを否定することを出来ない切実な問題である。
いじめを受ける側にも問題があるという議論はいじめられる側の性格を問題とする議論であるといえる。性格という言い方の他に人間性という言い方もある。人間性という言い方になると多分に価値的な見方になる。高貴さ、低劣さといった人格上の判断になってくる。いずれにせよこの様な問題の捉え方は一方では批判され、いじめの問題はあくまでいじめる側の問題と捉えるのが正義であるというのがマスコミの論調の主流であったように思う。少なくともいじめが暴力問題や恐喝などにまで至ればそれはもう犯罪になるのだから、そこに至ればいじめる側の問題となるのは当然である。
最近言われだしたのは各種の症候群、精神面での症候群である。もちろん精神医学の進展と関係がある。こういう諸々の症候群による説明とそれに基づく対応がされるようになると、性格、人格といった捉え方は忘れられがちになる。精神医学や心理学が全体として発達、進展しても個人の思考能力は平均してそんなに発達も成長もするわけではない訳だから、性格論と症候群といった、平たく言って病気と見るみかたとの両者を併せて議論を進めてゆくのは至難の技であろう。
ただ、性格論と病因論には重要な違いがある。
性格論の場合は本人の責任が問われる傾向があるのに対し、病因論では本人の責任が問われない傾向になるという点だ。
別の重要な視点がある。
それはいじめられる側は個人であるのに対し、いじめる側は一つの社会と見ることができる場合が多いということだ。
いじめられる側に問題があるなしに関わらず、いじめる側に問題があることを否定することは馬鹿げている。とすれば、いじめられる側の問題は個人の問題であり、いじめる側の問題は社会の問題であると捉えることができる。
もう一つの視点は弱者と強者という視点である。
いじめられる側の問題は弱者の問題であり、いじめる側の問題は強者の問題であるということである。
いじめを受ける側にも問題があるという議論はいじめられる側の性格を問題とする議論であるといえる。性格という言い方の他に人間性という言い方もある。人間性という言い方になると多分に価値的な見方になる。高貴さ、低劣さといった人格上の判断になってくる。いずれにせよこの様な問題の捉え方は一方では批判され、いじめの問題はあくまでいじめる側の問題と捉えるのが正義であるというのがマスコミの論調の主流であったように思う。少なくともいじめが暴力問題や恐喝などにまで至ればそれはもう犯罪になるのだから、そこに至ればいじめる側の問題となるのは当然である。
最近言われだしたのは各種の症候群、精神面での症候群である。もちろん精神医学の進展と関係がある。こういう諸々の症候群による説明とそれに基づく対応がされるようになると、性格、人格といった捉え方は忘れられがちになる。精神医学や心理学が全体として発達、進展しても個人の思考能力は平均してそんなに発達も成長もするわけではない訳だから、性格論と症候群といった、平たく言って病気と見るみかたとの両者を併せて議論を進めてゆくのは至難の技であろう。
ただ、性格論と病因論には重要な違いがある。
性格論の場合は本人の責任が問われる傾向があるのに対し、病因論では本人の責任が問われない傾向になるという点だ。
別の重要な視点がある。
それはいじめられる側は個人であるのに対し、いじめる側は一つの社会と見ることができる場合が多いということだ。
いじめられる側に問題があるなしに関わらず、いじめる側に問題があることを否定することは馬鹿げている。とすれば、いじめられる側の問題は個人の問題であり、いじめる側の問題は社会の問題であると捉えることができる。
もう一つの視点は弱者と強者という視点である。
いじめられる側の問題は弱者の問題であり、いじめる側の問題は強者の問題であるということである。
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